二話 それから、それで?
彼女がハッと声のしたほうを見れば、自分がいた病室のほうから歩いてきたのだろう少年がいた。
たった今発した声同様、その少し幼さが残る顔も機嫌が悪そうに歪んでいる。
祭は少年を見ると、困った様子で苦笑いを浮かべた。
「あらら~、なごちゃん来ちゃったかぁ~」
「来ちゃったか、じゃねーんだよ。待たせすぎなんだよ」
雰囲気が緩んだことで緊張の糸が切れたのか、彼女は思わずその場に座り込んだ。
「おっと、待ってなさいって言ったのに、待ちきれなかったかぁ、そうかそうか。まったく、なごちゃんは待てができないなぁ~」
「人を待たせておいて寝ぼけたこと言うな。いい加減はっ倒すぞ、おっさん。……ったく、悪かったな。このおっさんの悪ふざけで、不愉快な思いをしたんだろ」
どけ、と祭を押しのけると少年は彼女の前までやってきて、声をかける。
近づかれた時は思わず身構えたが、それは祭に向けた刺々しい声より幾分が穏やかなものだった。
「い、え、あの……」
「不愉快なら、そう言え。じゃないと、いいように遊ばれる。それから、いつまで床に座ってんだ。冷たいだろ。――ん」
目の前に手を差し出され彼女は戸惑った。
「あ、あの」
「つかまれよ。立てないんだろ」
その通りだった。
「……あ、ありがとう」
彼女は羞恥心から赤面しつつ、少年の手を借りて立ち上がる。
すると少年は不機嫌な表情を驚きに変えた。
「……なんだ。思ってたより、まともそうだな。視線もしっかり合うし、会話も噛み合う……」
「え?」
マジマジと見つめられた彼女が戸惑うと、横から祭が口を挟んだ。
「どうやら喜怒哀楽、感情は大丈夫みたいだねぇ。いやぁ~、ぼかぁ心配してたんだよ。お医者さんの問いかけにも反応が鈍いって聞いてたからねぇ。よかったよかった」
だとしたら、先ほどまでのアレは……。
「……あの、わたしの反応を見るために、わざと?」
「もちろ――」
「このおっさんは、人の反応見て遊ぶのが大好きな悪趣味じじいだ。ほっとけ」
「なごちゃん。おじさん、おっさんって呼ぶのは許すけど、じじい呼びは許さないよ?」
「どうでもいい。……それより、お前」
少年が彼女の目を見つめて問いかけた。
「自分の名前、言えるか?」
「……ぁ、ごめんなさい……わたし、記憶喪失だって……」
「知ってる。なにを聞いてもぼーっとして分からないしか答えなかったって。それは、今もか?」
彼女は瞬いた。
どうだろう。そういえば、今は頭の中のモヤモヤも晴れてスッキリしている。
だから、今一度考えた。
(わたしの、名前は――)
ちょ う だ い
「ひっ……!」
どこかで聞いた声が蘇り、彼女は思わず悲鳴をこぼした。
「大丈夫だ」
「ぁ……ぅ……ぁぁ」
伸びてきた手が、彼女の両肩におかれる。
押さえつけるでもなく、ただ支えるようにそっと。
「ここは、大丈夫。もう、なにも奪わせない」
少年と彼女の目があった。
澄んだ、綺麗な目だと場違いにも彼女は思った。
(そう、あの時水の中から見上げた景色もこんな風だった。星が水に溶け込んできらきらゆらゆらって――)
水越しに見た、夜空。
そこまで思い出して「あっ」と小さな声をあげる。
「そう、だ。わたし、あの時、川に落ちて……――」
落ちた?
では、どうして自分は夜に川になんて近づいたのか。
「頼まれたから――」
誰に?
じわじわと自分の中で湧き上がる疑問。
その答えを導き出すように、あの夜の記憶がポツポツと思い出される。
――職場の飲食店で急に遅番が来られなくなったため、急遽残業して遅くなった帰り道だった。
遅い時刻だというのに人気がないその道を通ったのは、疲れていたからだ。
車の行き交う音も人の気配も明るい街も、なんだか見たくなくて。ほんの少しだけ、ひとりになりたくて――普段とは違う道を通って、誰かになにかを頼まれた。
それから、そう。
落ちた。
川の近くに呼ばれ、水面をのぞきこみ、ばしゃんと。
視界がぐるりと一転して、水面越しに星が見えて――それで……それで?
(それで、わたし、ここにいるんだ……)
あの夜の記憶がだんだんと蘇り、彼女はわなわな震えた。
もう一度、少年がうながす。
「名前、言えるな?」
コクリと頷いて、名無しだった彼女は口を開いた。
「わたしの名前は――月乃、
「上等」
ニヤリと少年が笑う。
そして、祭を見やる。
すると黙っていた祭は、同意するように頷いた。
「ん。これだけはっきり音にできるなら、まだ間に合うねぇ」
「間に合うって……?」
「お嬢ちゃん……じゃなくて、月乃ちゃん。それを今から説明しよう~。だから、病室に戻ろっか? おじさん、立ちっぱでそろそろ疲れちゃったからさぁ」
眉を八の字にしてへにゃっと笑った祭は、先ほどと違いそれはそれは情けなく――最初に抱いた印象通りの親しみやすく見えた。
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