成り代わる
一話 0号室の彼女
のたのたと、病院の廊下を歩く。それがここ数日の、彼女の日課だった。
白い廊下をあてもなく歩く。ただ、ひたすら機械的にそれを繰り返す。
表情にはなんの変化もない。
ただぼんやりとしており、まるで寝起きのようにも見える。心がここにないようにも見える。繰り返す行動を楽しんでいる様子もない。
――本人がどう感じているかすら、その茫洋とした表情からは読み取れない。自分自身ですら、分からない。
ただ、彼女は病院で目を覚まし、自分のことをなにも覚えておらず、身分を証明できるものも、家族や友人に連絡を取れそうなものも、なにも持っていなかった。
身ひとつで川に浮かんでいたところを、救助された。
彼女が知っている自分自身の情報は、それだけだった。
もっともその情報だって、他人……医者からの聞いたもの。
だから、彼女が知っている自分のことなんてなにもない。
自分のことが分からないというのに、それすらもどこか遠くの出来事のようで、彼女はぼーっとしていた。
他にすることもない彼女は、医者のすすめに従って体を動かすことにした。それが、廊下を歩くこと。
白い廊下。
真っ白――それはまるで自分の中身のようだと彼女は思った。
白一色で塗りつぶされたせいで、なにも分かりはしない内面、あるいは記憶のようだなと。
「0号室の患者さんって、お嬢ちゃんだよね」
ふと白い景色に色が飛び込んできた。
柔らかそうな金茶色の髪に、蜂蜜を溶かしたような色の瞳。
突然視界を彩った明るい色に、彼女は面食らったかのように立ち止まりパチパチと瞬きをした。
――それは、たった今、夢からさめたかのような仕草だったが、それに気付けたのは彼女に声をかけた明るい色……彼女の行く手を遮るように現れた、男だけだった。
彼女はもう一度、明るい色を持つ男を見つめる。
ジャケットを着た甘い顔立ちの男だ。年は二十代半ばだろうか。
なんだか不思議なものを見たような気分でいた彼女は、そういえば男がなにか言っていたと思いだし……けれども、少し前のやり取りは頭にモヤがかかっていたかのように思い出せないので、首をかしげた。
「…………え?」
「ん? だから、0号室の患者さん」
甘い顔立ちだが、派手な外見。だが威圧感はない。柔和な雰囲気を漂わせた男は、彼女にあわせるかのようにコテンと首をかしげると再度口を開いた。
「0号室……」
「そ」
「……あ……はい、わたし、です」
声に出すと、だんだんと思考がはっきりしてくる。
モヤモヤと頭の中に漂っていた霧が晴れていくような――むしろ、どうして今までぼーっとしていられたのか。
ハッとした彼女は、まず自分の現状を思い出した。
それから、ニコニコと人好きのする笑みを浮かべている男を見上げ……おずおずと尋ねた。
「――あの……」
「ん? なに?」
「警察のかた、ですか?」
「んん~、なんで?」
問い返されるとは思わず、なんでって……と彼女は言葉に詰まる。
それから、目を覚ましてから聞いた情報を整理するかのようにゆっくりと口にした。
「わたしが、その……川に流されてたから……話を聞きに来たのかなって、思って……」
「ふむ。オーケイ、思考はだいぶハッキリしてきたみたいだね」
「え?」
「詳しいことは、病室で話そう。――0号室の患者さん」
言われて、彼女は違和感を覚えた。
(だって、変じゃない。0号室なんて……そんなの普通病院に――)
くらり。
視界が揺れる。
「おっと危ない」
「……すみません」
「大丈夫?」
「は、い……――ええと……?」
彼女を支えた男は、近い距離でニコッと笑って見せた。
「あぁ、まだ名乗ってなかったね。初めまして、
「え? え?」
まだ若そうに見えるのに、おじさんを自称する男――祭は、怪しまれそうな言葉を並べて彼女を病室へ連れて行こうとする。
「あの、近い、離れて――っていうか、今政府って……」
「まぁまぁ、詳しい話は病室で~」
「ちょっと、肩を抱かないで……!」
祭のペースに乗せられる形で、彼女は今まで歩いてきた距離を回れ右して戻ることになった。だが、近い距離は落ち着かない。
彼女が助けを求めようと周囲を見渡すが、こんな時に限って看護士がいない。
(違う、看護士さんだけじゃなくて……他の患者さんとかお見舞いの人とか……誰もいない。え? なにこれ? わたし、なんで今まで疑問に思わなかったの?)
しぃんと静まりかえった廊下に、彼女はいま気がついた。
「今は人払いしてもらってるからね~。まぁ、0階利用の患者さんはお嬢さんしかいないから、元々スタッフの人数は少ないんだけどさ」
「は、ぇ……? な、なに? 0階とか……0号室もそう、変、変だよ。そんなの普通じゃ」
「おっ、やっと完全に目が覚めた?」
祭はうろたえる彼女の様子を目にすると「いやぁ、よかった」と朗らかに笑った。
「なに? なんなの、どういうこと? あなた一体……」
「まぁまぁ落ち着いて。だからさ、一回病室もどって、ゆーっくり話そう? ね?」
「い、嫌……!」
急に怖くなって、彼女は祭を突き飛ばした。あっさりと離れたことに拍子抜けしたもののすぐに距離をとる。
「誰か……!」
「ん~? 誰もいないよ。おじさんと、お嬢ちゃんだーけ。さっき、教えたよね~?」
甘やかすような柔らかい声が逆に怖い。
よく分からない現状に、よく分からないことを言う男。彼女は思考を働かせるが「どうしよう」と焦燥が強くなるだけでなにも浮かばない。
こうなったらと、エレベーターに逃げ込もうとしてハッとする。
「え……? なんで……!」
「あ、それボタンないよ~? 万が一でも未接触の対象に脱走されると困るからさ~」
「だ、脱走……」
「ね? 他に行くところなんてないんだから、一緒に病室へ戻ろう?」
分からない。なにが分からないかも分からない。
だからこそ怖い。
部分的に理解出来る言葉が混じるから、余計に怖い。
脱走なんて、まるでここに閉じ込めている見たいじゃないかと――。
「い、嫌だ、来ないで」
「はいはい、怖くないからね~」
この状況で、笑顔で距離を縮めてくる男が恐ろしく感じた。
自分はここで殺されてしまうのではないか――彼女がそんな危機感を覚えた時だった。
「おい。そいつ、ガチで怯えてんじゃねぇか。なにしてんだよ、おっさん」
不機嫌さが混じった、苛立たしげな声がした。
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