妹なんか、捨ててきて!

高瀬ユキカズ

妹なんか、捨ててきて!

「みーちゃん、痛い。髪、ひっぱらないで」

 早紀は泣き叫んで訴える。

 姉である早紀は六歳、一方で髪を引っ張っている美優はまだ三歳だ。

 幼いからこそ、加減を知らない美優は全力で引っ張っている。大量の髪の毛を掴んで顔を歪ませながら力を込めている。早紀が泣き叫ぶのも当然だ。

 私が美優の指を開こうとするが、固く握られていて開けない。

「ほら、みーちゃん。お姉ちゃんが痛がっているから、手を離しなさい」

 この姉妹はいつも喧嘩ばかり。本当に何度目だろう。

 私はため息をつく。

 美優はまだ三歳だからしかたがないが、早紀は来年小学校に上がるのだ。しっかりしてほしいのに、ますます手がかかるようになっていく。

 掃除もしなければならないし、もうすぐ夕食の買い物にも行かなければならない。洗濯だってまだだ。やることが山積みだった。疲労感が積もりに積もり、すべてを投げ出してしまいたくなる。

 強く髪を引っ張られて早紀が金切り声を上げた。

「痛いー」

「早紀もお姉ちゃんなんだから、そんな人形渡しちゃいなさい」

 美優は早紀が持つ人形をほしがっているのだ。

 それでも姉は意地になって人形を離さない。自分のものだからと、妹に渡そうとしなかった。今回だけではない。六歳になった今でも簡単に自分のものを貸したりはしない。

 美優は早紀の髪を引っぱり続ける。もう人形には目もくれず、欲しかったものを渡してくれなかった姉に対しての復讐心だけで動いているようだ。姉がなかなか人形やおもちゃを貸してくれないものだから、美優はいつも癇癪を起こしていた。

 ようやく美優の手を開かせて早紀の髪の毛を解放したが、美優の気持ちは収まっていない。なおも姉の髪を摑もうと手を伸ばすので、その手を押さえつけた。

 一方で姉は頭を押さえてわんわんと泣き喚いていた。

「痛い。あたまが痛い! もうみーちゃんなんか、いやだ。ほんとに、やだ!」

 早紀は泣きながら立ち上がり、美優のことを叩こうと手を上げた。

 だが、妹のことを叩こうとするたびに私は強く叱っている。だから学習しているのだろう。早紀はその手を振り下ろそうとはしない。いつも言われている「お姉ちゃんなんだから」、その言葉が早紀の手を止めているのだ。叩きたいのだけれど、叩けない。仕返しができない。不満を感じても早紀ができる反抗といえば口で言い返すことだけだった。

「なんでみーちゃんなんて産んだの! 妹なんていらなかったのに! みーちゃんなんかいらない! 捨ててきて!」

 手が出せないからだろう。時々こうしてひどい言葉を投げつけることがある。

 一方で妹はいつも姉の髪を引っ張ったり、叩いたりしている。まだ美優は小さい。言ってもわからないのだから、こちらには軽く叱ることしかできない。

 姉の髪を摑もうとしつこく手を伸ばす美優を制しながら二度目のため息をつく。もう疲れた。いっそのことほんとに捨てることができたら。そんなことが頭をよぎるが、まさか自分の娘を捨てる親などいない。疲労感がどっと押し寄せてきた。早く買い物に行かなければならない。本当に手のかかる子たちだ。少しは休ませて欲しい。

「ほんとに、みーちゃんを捨ててきていいの?」

「うん、いいよ。捨てて」

 早紀は涙で顔をくしゃくしゃにしながら訴える。

 私が美優の顔を覗き込むと、言われた意味をわかっているのかいないのか、口をへの字に曲げて顔を歪めている。

 私は美優を抱き上げた。

「じゃあ、美優を捨ててくるからね。本当にいいね」

「いいよ。ぜったいに、いいよ」

 美優を抱き上げたまま廊下に出ようとすると、美優がぎゅっとしがみついてきた。それを下から見上げた早紀は甘えた声を出す。

「みーちゃんばっかり、抱っこずるい。早紀もだっこ」

 いったい何を言っているのだ、この子は。さっき妹を捨ててきてと言っておいて、自分も抱っこして欲しいとは。

「だって、美優を捨てるんでしょ。だから早紀はおうちで待ってて」

 そう言って私は早紀をリビングに残し、美優を抱いて玄関へと向かう。

 靴を履くためにいったん美優を下ろした。本当に捨てるわけではない。捨てるふりをしようとしただけだ。それで早紀が「やっぱり捨てないで」と謝ってこないかと期待した。


 靴を取ろうとして屈んだ瞬間、目の前の世界が薄い紫色に変わった。

 疲れているのだろうか?

 めまいがしたのかと思った。でもそうではないようだ。ただ、視界に紫色の膜がかかって色がおかしくなっている。目がおかしくなってしまったのか。

 その時、玄関のドアから廊下に向かってさっと風が吹いたように感じた。

 後ろを振り向くと美優の姿がなかった。


   *


「だめ、かさない」

 みーちゃんはわたしから人形を奪おうとしてくる。

 わたしは人形を背中の後ろに隠す。

 みーちゃんはわたしの髪の毛を引っ張ってきた。

「みーちゃん、痛い。髪、ひっぱらないで」

 おもちゃを貸さないとみーちゃんはすぐに髪を引っ張る。

 ママに言いつけてやる。

「ママ、ママ、みーちゃんが髪を引っ張る!」

 わたしの叫びが届き、わたしのママがやってくる。

 早く助けて、ママ。

「ほら、みーちゃん。お姉ちゃんが痛がっているから、手を離しなさい」

 ママはわたしのママだ。

 みーちゃんのママじゃない。わたしのママだ。

 みーちゃんなんか叩いちゃって。

 あと、叱って。「妹なんだからがまんしなさい」って言って。

 でも、ママはみーちゃんを抱きかかえて、わたしの髪を摑むみーちゃんの手を押さえるだけだ。

「早紀もお姉ちゃんなんだから、そんな人形渡しちゃいなさい」

 ママはわたしにきつい口調で言う。

 なんで? なんでわたし?

 悪いのはみーちゃんなのに。わたしは悪くないのに。

 このお人形はわたしのなの。

 涙がぼろぼろ出る。

 髪を引っ張られて頭が痛い。

 みーちゃんが悪いのに。

 涙が止まらない。

 みーちゃん、やだ。

 ほんとに、いやだ。

 みーちゃんなんていらないと思った。

 捨てちゃえばいいと思った。

 なんで、みーちゃんなんか産んだの。

 みーちゃんなんて叩いてやる。

 わたしは手を振り上げた。

 でも叩けない。

 叩けばきっとまたママに怒られる。

 涙がぼろぼろ出る。

 ひっくひっくとしてしまう。

「なんでみーちゃんなんて……産んだの……。妹なんて……いらなかったのに。みーちゃんなんか……いらない。捨ててきて!」

 ひゃっくりがでるから、うまくしゃべれない。

 ママがみーちゃんを捨ててくると言って、みーちゃんを抱き上げた。

 みーちゃんがママにしがみつく。

 ずるい。みーちゃんばかり抱っこして。

 わたしも抱っこ……。

 ママは何かを言ってそのまま玄関へ向かった。

 わたしはソファの上に立った。

 腰に手を当てて玄関の方に消えたみーちゃんを睨みつける。

 みーちゃんなんかいなくていい。

 もう捨てられちゃえ!

 でも、みーちゃんだけが戻ってきた。

 ママが捨てに行ったはずなのに。

 みーちゃんがわたしのほうへと近づいてくる。

 何でこっち来るの。

 いまならママがいない。

 みーちゃんのことを叩いてやろう。

 わたしは手を上げた。奥歯を噛みしめる。

 叩いてやる。

 絶対、叩いてやる。

 みーちゃんなんて。

 でも叩けなかった。

 くやしい。

 涙で視界が滲んだ。


 廊下から、風が吹いてきた。

 涙で見えにくかったから、目をごしごしとこする。

 いつのまにかみーちゃんの姿が消えていた。

 どこにもいない。

 それに、部屋の中の色がおかしい。

 目から血が出ちゃったの?

 見える色がおかしい。

 赤と青の両方をまぜたような色。

 部屋の中がそんな色。

 むらさきって言うんだっけ、これ?

 うすいむらさき色。


   ***


 私はいったいどうしたのだろう。美優を玄関まで連れてきたのだが、突然視界が薄い紫色に染まった。

 美優は早紀のところへ行ったのだろうか。

 私は玄関からリビングへと戻った。

 早紀がソファに座っていた。

「早紀、みーちゃん来なかった?」

「みーちゃん?」

 早紀が疑問形で聞き返してくる。

「お母さんが靴を履こうとしたらいなくなっちゃったの」

「いなくなったって、誰が?」

 早紀との会話が成り立たない。子供との会話ではたまにあることで、あまり気にしなかった。

「美優がこっちに来なかった?」

「美優って誰?」

 ふざけているのだろうか。私は美優を探してリビングを出る。だが、他の部屋にもトイレにも台所にもいなかった。念のため玄関を見たが、ドアには鍵がかかったままだ。外に出たとは思えない。

 美優を探しているうちに、ふと違和感を抱いた。なんだか部屋がすっきりとしすぎている気がする。この家はもっと物で溢れていたはずだ。

 ふたたびリビングへ戻り、早紀に声をかける。

「どこにも美優がいないの。本当にみーちゃんのこと見なかった?」

 私は早紀の目を見ながら真剣に訊ねた。たとえ六歳であっても、真剣に訊ねるとその空気を察してくれる。早紀もそのくらいには成長していた。

「だから、みーちゃんとか美優とかって誰のこと? 幼稚園のお友達にもそんな名前の子はいないし」

 早紀は憮然とする。冗談を言っているようには思えない。どういうこと? だってさっき喧嘩をしていて、美優を捨ててきてって確かに言ったのだし。

 いったい美優はどこに行ったのだろう。

 私はリビングを見回す。いつもの家ではないような違和感。その正体が気になった。

 そしてその違和感に気がついた。

「美優のおもちゃは?」

 この部屋には早紀の物しか見当たらない。美優の絵本なども本棚から消えている。

「美優のおもちゃって何? わけわからない」

 本当にわからないかのように早紀は話す。

「妹のことをわからないってどういうこと」

 私は訊ねたのだが、「妹って何?」と早紀から返ってくる。

「妹は妹でしょ。お姉ちゃんなんだから」

 私はリビングを出る。仕方ない、洗濯をしてから美優を探そうと洗濯機に向かった。だがそこには早紀の洗濯物しかなかった。

「あれ?」

 思わず呟いた。おもちゃや絵本だけではない。美優の服までがない。まさか。

 私は子供たちの服をしまってある部屋に向かい、タンスを開けた。

「ない……」

 美優の服だけがなかった。

「どういうこと?」

 軽いパニックに陥る。美優の物が全部ない? まさか。なんで?

 私は部屋中を駆け回る。美優の物を探すが、何一つ見つからない。探しながら、電話の脇においてあった写真立てが目に入った。家族で撮った写真だ。

 私と旦那と早紀と美優と四人で写っている。そう、写っているはずだった。

「美優だけ……いない……」

 そこには美優以外の三人の姿しかなかった。 

 私はガラスの扉がある棚を開ける。その最上段、大人がやっと手が届く高さに目をやる。

 ある。確かにある。

 そこには産着があった。長女になるはずの、娘として生まれてくるはずだった葵のために買った産着。早紀が生まれる二年前に妊娠し、死産になってしまった娘のためにここに産着といくつかの女の子用のおもちゃを置いてある。

 私の視界はまだ薄い紫色のベールが覆っていた。産着の色とほぼ同じだから同調して色はよくわからないが、それでも確かにここに薄紫色の産着があり、おもちゃがあるってことは葵が生まれることができずに死んでしまったという事実は残っている。

 一番下の美優が生まれた証だけが消えてしまったということだろうか。


   *


 見えるものが全部むらさき色。

 目が変になったかも。

 みーちゃんがいない。さっきこっちに来たのに。

 ママがリビングに戻ってきた。

「もうみーちゃんを捨ててきたの?」

 わたしはママに訊ねた。でもママは首を傾げる。

「みーちゃん? 何のこと?」

 ママはとぼけている。

 本当にみーちゃんのこと捨てちゃったの。

 捨てるの早い。

「別に、みーちゃんなんていなくてもいいもんねーだ」

「みーちゃんて誰かな? 幼稚園のお友達?」

 もういい。ママの言うことはわけわかんない。

「みーちゃんいないから、みーちゃんのおもちゃは早紀のものね」

 みーちゃんのおもちゃも、みーちゃんの絵本も早紀がもらっちゃおう。

 でも、みーちゃんの服は小さいからいらない。

 わたしはみーちゃんのおもちゃがまとめてある箱を探した。みーちゃんのおもちゃは赤い箱、わたしのおもちゃはピンクの箱と決まっている。

 だけど、赤い箱がどこにもない。

「ママ、赤い箱がないよ」

「ん? 赤い箱って?」

「みーちゃんのおもちゃ箱」

「みーちゃんの?」

 ママは首を傾げる。なんか話が噛み合わない。ママの言っていることはよくわかんないし、これまでもよくわかんないことがあった。

「もういい」

 わたしはみーちゃんの絵本をもらうことにした。本棚へ向かう。

「みーちゃんの絵本もない……」

 みーちゃんの絵本といっても、わたしが小さい頃に使っててみーちゃんにあげた絵本もある。それはあるけど、最近買ったみーちゃんの絵本だけがなかった。

 わけわかんない。

 ママがみーちゃんを捨ててくるのに、みーちゃんのおもちゃとか絵本も持っていっちゃったんだ。おもちゃと絵本は置いておいてよかったのに。

 そうだ、みーちゃんの写真を消してやろう。

 わたしは写真の消し方を知っている。もう捨てちゃったんだから、写真もいらないはずだ。デジカメを引っ張り出して電源を入れる。

 再生ボタンを押して写真を表示する。

 でも、みーちゃんの写真がない。ママが消した?

 家族で温泉に行った写真にもみーちゃんだけが写っていない。

 これ、みーちゃんだけ消せるんだ。

「ママ、みーちゃんどこに捨ててきたの?」

「捨てた? さっきから何のことを言っているの?」

「みーちゃん。妹の美優。さっきわたしの髪を引っ張った美優」

「妹? 早紀には妹なんかいないじゃない」

 ママは不思議そうな顔をしていた。


   ***


「ちょっと待って、状況を整理しなきゃ」

 私は確かに美優のことを覚えている。お腹を痛めて産んだ子だ。忘れるなんてありえない。

 でも早紀の記憶からは美優のことが消えている。

 家の中からは美優がいた痕跡がなくなっている。

 私は旦那にLINEでメッセージを送った。

《至急連絡をちょうだい。美優が家の中からいなくなったの。まるで、神隠しにでもあったみたいに。》

 早く、早く返信して。仕事中かもしれないけど、旦那に電話したほうがいいのか。でもその前に母に相談しようと思った。

 母はここから三駅離れたところに住んでいる。時々、早紀と美優の面倒も見てもらったりしていた。母に電話をかけた。

『あ、お母さん。ちょっと美優がいなくなって大変なの。あのね……』

 ところが私の話をさえぎるように『美優? 美優って誰のことよ』とスマホから母の声が聴こえる。わたしの頭は真っ白になっていた。しばらく母と会話をしたが、母の頭からも美優のことは消えているようだった。

 母との電話を切ったあと、ほどなくして旦那からLINEの返事が届く。

《美優って誰だよ。早紀と間違ってんのか? 意味わかんないぞ。わかるように書いてくれよ。》

 まるで美優が最初から生まれてこなかったかのようだ。そんなはずはない、そんなはずは。

 どうしよう。私が美優を捨てようとしたから?

 私は最後の行動を辿ってみた。美優を抱き、リビングから玄関へ。そこで靴を履こうとした。

 ドアの鍵はあけていなかった。

 そのはずなのに、玄関へ行くとドアは僅かな隙間をあけて開いていた。

「さっき、鍵はしまっていたはず。気のせい? それとも美優が一人で外に行ったの?」

 私はドアを開けて外に出た。早紀を家に残すことになるが、来年は小学生だ。一人でも大丈夫だろう。今は美優を探さなければ。私は探す宛もないまま、家を後にした。


 本当に世界から美優が消えてしまったのだろうか。まさか、そんなはずはない。

 どこに行ったの、美優……。

 出会う人ごとに三歳くらいの女の子を見なかったか訊いて回った。だけど、誰も見ていないと言う。

 一人目の葵を妊娠していた時によく来ていた公園へやってきた。小学生くらいの女の子がブランコに乗っていた。立ち漕ぎをしてゆらゆらとブランコを揺らしている。早紀より二、三歳ほど上だろうか。その子と目があったので、近づいて訊ねた。

「あの、三歳くらいの女の子を見なかった?」

 その女の子は私の目を見つめ、にこっと笑って答えた。

「二人ならだいじょうぶかな、って思ったんだ」

 二人なら……何のことだろう。

「あの……」

 私は続く言葉が出なかった。

 女の子はブランコを止め、そこに座った。女の子が私に隣のブランコに座るように指で示してきた。私はそれに従って座った。

「もう少ししたら、早紀ちゃんもお手伝いできるようになるから、そうしたらだいじょうぶだよ」

 女の子から早紀の名前が飛び出した。

「早紀のことを知っているの? もしかして早紀のお友達?」

 女の子は首を傾けた。

「三人だったらもっと大変だったね。ぱんくしちゃうよ」

「ぱんく? 何のこと?」

 話が噛み合わない。きっと、美優のことは見ていないのだろう。私は早く美優を探さなければならない。

「ごめんね。娘を探しているの。行かなきゃ」

 私はブランコから腰を上げた。すると女の子は空を指さした。私は、空を見上げた。視界が薄紫色だったので、空も薄紫色だった。

 雲が静かに流れ、風が頬をくすぐる。夏も終わり、秋の虫たちが鳴き始めていた。夕暮れが近づく。いつのまにか美優のことも早紀のことも忘れ、穏やかな気持ちになっていた。

 こんなふうにゆっくり空を見ることもなかった。いつから空は薄紫色だったのだろう。私が忙しすぎて、疲れすぎて、空の色も変わってしまったのだろうか。

「疲れちゃった……」

 思わず口から漏れていた。

「だいじょうぶだよ。たぶん、だいじょうぶ」

 女の子が呟いた。そのままいっしょに空を見ていたら、空が徐々に薄紫から薄い青に変わっていった。


   *


 おもちゃも絵本もなくなって、写真もなくなった。

 捨てられると全部なくなっちゃうんだ。

 ママの頭の中からもいなくなっちゃうんだ。

 みーちゃんのすべてが消えちゃおうとしている。


 わたしもお姉ちゃんじゃなくなっちゃうのかな。

 でも、わたしはまだ覚えてる。

 わたしの頭の中にいるみーちゃんはまだ消えてない。

 遊んだことも覚えてるし、お菓子を分けてあげたことも覚えてる。

 ママが捨てようとして抱き上げたみーちゃん。ママにぎゅっとしがみついていた。

 ママの胸に顔を埋めて、いやいやするように顔を振っていた。

 ママに甘えているのかと思って、わたしも抱っこしてほしいとか言った。

 捨てられちゃって、消えちゃうのをわかっていたの?

 わたしが忘れたらほんとにみーちゃんは全部消えちゃう。

 忘れたらみーちゃんが消えちゃうんだ。

 でも、わたしが覚えてるから、みーちゃんはまだわたしの妹。

 わたしはまだお姉ちゃんだ。

 だってまだ覚えてるもん。

 ママが台所へ行った。

 わたしは家を抜け出した。玄関のドアを開けて外に出る。

 探さなきゃ。

 みーちゃん、どこにいるの?

 ママに抱っこしてもらってもいいから。

 お人形貸してあげるから。

 風が吹いてきた。

 こっちにおいでと言っているようだった。

 風に誘われて歩くと、公園があった。

 わたしよりも背が高いお姉ちゃんがブランコに乗っていた。みーちゃんのことを見たか訊いてみよう。

「あの、みーちゃんを見なかった? 背はこのくらい。わたしの妹」

 わたしは自分の胸のあたりを手で示した。たぶん、みーちゃんの背はこのくらいのはずだ。

「早紀ちゃん、こんにちは」

「こんにちは」

 お姉ちゃんが挨拶してきたので、わたしも挨拶した。でも、わたしが訊きたいのはみーちゃんのことを見たのかどうかだ。

「みーちゃんのこと見なかった?」

「いつも、見てるよ」

 お姉ちゃんは答えた。

「いつも?」

「うん」

 お姉ちゃんはにこりと笑った。

「お姉ちゃんは……」

 わたしは何を言ったらいいのかわからなくて言葉が出なかった。お姉ちゃんを見つめた。そうしたら「早紀ちゃんもお姉さんじゃん」と、お姉ちゃんが笑った。けたけたと笑った。

「うん、お姉さんになった。美優が生まれて」

 わたしは答えた。

「お姉さんになるってことは、お母さんが二人のお母さんになるってことなんだよ。早紀ちゃんだけのお母さんじゃなくなっちゃうの。わかる?」

「わかる」

 そう、わかる。わかってるけど。

「だから、お母さんは早紀ちゃんのお母さんだし、美優ちゃんのお母さんでもある。美優ちゃんが生まれる前は早紀ちゃんだけのお母さんだったからね。でも今は二人のお母さん」

「うん」

「今はちょっとヤキモチ焼いちゃうんだよきっと。でも来年は小学生だしさ。もっと大きくなったらきっとだいじょうぶだよ」

「うん」

「早紀ちゃん」

「うん」

「美優のこと好き?」

「好き」

「ほんとに?」

 お姉ちゃんは疑いの目を向けたような気がした。だから、わたしはムキになって言った。

「好きだもん」

 お姉ちゃんはまたけたけたと笑った。笑い方がママに似ている。

「じゃあ、だいじょうぶだね」

「うん」

「お姉ちゃんはもう行くね」

「うん、あ――」

 わたしはお姉ちゃんの顔を見つめた。

「お姉ちゃんのお名前は?」

 お姉ちゃんは微笑んでから答えた。

「あおい、だよ」

「あおい? あおいは色の名前だよ。変なの」

 お姉ちゃんは空を見上げた。わたしもつられて空を見上げた。

 空はむらさきだった。うすいむらさきだった。

 でも、見てるとだんだん青っぽくなった。

 お空が青くなった。


   ***


 薄紫色だった世界はもとの色に戻っていた。

 空を見上げていた顔を戻すと、公園に早紀がいた。

「早紀――」

「ママ――」

 私と早紀は見つめ合った。公園には二人きりだった。

「早紀、どうしてここにいるの?」

「ママこそどうして?」

「美優を探しに来たの」

「ママ、みーちゃんのこと、思い出したの?」

「え? 早紀こそ、みーちゃんのこと、思い出したの?」

「最初から忘れてないよ。忘れてたの、ママでしょ?」

「ママは忘れてないよ。忘れてたの、早紀でしょ。もしかしてみーちゃんのこと覚えてない振りしたの?」

「そんなことしてないよ」

 早紀は口を尖らせる。

 よくわからないけど、視界の色が戻ったことで早紀の記憶も戻ったのだろうか。

「美優を探さなきゃ」

「みーちゃんを探そ」

 私は早紀の手を取った。早紀も握り返してくる。

「そうだ、早紀の記憶が戻ったってことは家も元に戻ったのかも」

 私は早紀の手を引いて家に帰った。

 乱雑なリビング。おもちゃが散乱している。本棚には溢れんばかりの絵本。

 洗濯かごには早紀の服と美優の服とタオルだったり旦那の下着だったりが詰まっている。写真にもちゃんと美優が写っていた。

「よかった、家は戻ってる。でも美優がどこにもいない……」

 ――ピーンポーン。

 家のチャイムが鳴った。ドアホンのモニター越しに外を見ると母の姿だった。美優を抱いていた。

「あ、ばあばとみーちゃんだー」

 早紀が玄関へと駆け出す。私も玄関へ向かった。

 ドアを開けると、抱っこしていた美優を母が下ろすところだった。

「どうしてお母さんと美優がいっしょに?」

 私の問いかけに、母は首をひねる。

「あなたが預かってって言ったんじゃない。たまには羽根を伸ばしたいからって」

 私はもう何がなんだかわからなかった。早紀は美優の手を取り、いっしょに家に上がると廊下をリビングへ向かって走り出す。喧嘩していたのに、そのことはすっかり忘れているようだった。

「元気良すぎて、大変ね」

「うん」

 私は母とリビングに向かった。走り回る娘達を眺める。

「もう少し大きくなったらあなたも楽になるんじゃないかな」

 リビングの隅にはガラス扉の棚がある。母は棚に目をやった。その最上段、大人がやっと手の届く高さ。

 ガラスの扉を開けて産着を手に取る。

「あら、これってこんな色だったかしら?」

 母が手に取った産着は薄い青色をしていた。買った時は薄紫色をしていたのに、薄い青に変わっている。たぶん日に焼けて色が落ちたのだろう。

 早紀が母の持つ産着に目を向けた。

「その赤ちゃんの服、青いね。お空の色みたい」

 おどけるように言ってから、真面目な顔で続ける。

「また妹が生まれたら、あおいって名前がいいんじゃない? そしたら、わたし、もっとお姉さんになるよ。もっと、もっと、ね」

 語彙は貧弱だったが、口調は大人びていた。

 私と母は顔を見合わせる。思わず苦笑してしまった。葵のことはまだ早紀には話していない。もう少し大きくなったら話してあげよう。

 早紀は美優をぎゅっと抱きしめた。美優は苦しそうにしながらもそれを受け入れていた。それからいっしょに人形で遊びだした。喧嘩してもすぐに仲なおりしてしまうのも子供というものなんだ。

 子育てが楽になるのはまだ先のことだろう。

 でも、もう少しだけ。

 もう少しだけ、なんとかやれそうな気がしていた。


(了)

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