ヤガミさんと妙齢の美女


「ただいまー。ごめんね、遅くなっちゃった」


 暗くなるのが早くなった。

 私は慌てて電気をつけて彼の様子を確認する。


 ああまた痩せたなと思う。でもそれを顔に出すことなく私はにっこりと笑う。

 彼も、にっこりと笑う。


「いやいや。僕のほうこそわがまま言ったかな」


 今日目が覚めて開口一番「モモ缶が食べたい」なんていいだした彼の要望にこたえて、私はモモ缶を求めてスーパーへ行っていた。


 モモ缶を買ってくるのはそれほど時間のかかることではなかった。 


「ううん。モモ缶はすぐに手に入ったの。そうじゃなくて戻ってくる途中にヤガミさんがうろうろしている姿を見かけたものだから、強制連行してきた」


 ヤガミさんは私に手足をごしごしと拭かれて、とても不機嫌そうな顔をしていた。


 ヤガミさんは私が外出するときに一緒に外へ出かける。


 そのままパトロールをし、私が帰ってくるのを見計らって帰ってくるのが常だが、ここ数日、遅い時間に戻ってくるようになっていた。


 夜は皆で夕食の席につくのがこの家の決まりのようになっていたので、私は少々むっとしていたのだ。


 今日こそは絶対につれて帰る! 


 そう決心してスーパーから戻ってくるなりヤガミさん捜索に全力であたっていた、というわけだ。


 ヤガミさんは日本猫と洋猫のミックスのようで、実に不思議な雰囲気をかもし出している。

 アリスのチェシャ猫が不機嫌そうにしていたら、こんな感じなんじゃないかと思わせる風貌。


 そんなヤガミさんと会ったのは、彼の自宅にはじめて招かれたときだった。


 ソファにゆったりと身体を横たえて私を迎える様は、まるで私のことを品定めしているようだった。


 実際品定めしていたのではないかなぁと思う。


 ヤガミさんは彼にとって唯一の『家族』だったのだから、彼の伴侶となる私をチェックするのは至極当然のことだ。


 初めて挨拶をしたときも正直ネコ相手、という意識はなかった。彼の家族にはじめて会う。その緊張感でいっぱいだった。


 ヤガミさんは直立不動の私の上から下までじっくりと見つめ、それからソファの端に移動した。


 それの意味するところがわからずに戸惑っていると、彼は笑いながら私に『隣に座れってさ。上出来だね』と嬉しそうな顔をした。


 彼の話だと、ヤガミさんがこうしてソファを譲ることはほとんどないという。

 まず玄関で追い返されるのがオチ。よしんばは入れたとしても、ソファを譲ることなどほとんどないらしい。

 

 ヤガミさんは彼の実家の両親が飼っていたネコだった。


 彼が大学生のときに両親は事故で亡くなり、彼に残された家族はヤガミさんだけになってしまったことは、彼から聞いていた。


 だからこそ、ヤガミさんは彼にとって唯一の家族であり、その家族に好かれるかどうかということは、私にとっては至極真剣な問題だったのだ。


 そして何とかヤガミさんが受け入れてくれたと確信したときには心底ほっとしたものだ。


 そんな昔のことを思い出しつつヤガミさんを身奇麗にしていると、あとは自分できれいにするからといわんばかりに身体をひねり、そのまままっすぐ彼のベッドの上に乗り、丸くなってしまった。


 まったくもう。


 私はその様子を確認して、いそいそとモモ缶をあけ、彼には甘いシロップの海に浮かんでいるモモを、自分にはちょっと高級なご褒美アイスを、ヤガミさんには老舗和菓子店のあんこを差し出した。


 彼は嬉しそうにモモ缶を受け取り、小さく刻まれたそれをゆっくりと口に含んだ。


 その幸せそうな顔を見て、私も表情が緩む。


「目を覚ましたと思ったらモモ缶なんてねぇ」


 彼はここ数日痛みがなかなか引かず、やむなく強めの鎮静剤を打ってもらった。

 それが利きすぎたのかそれとも体力をかなり消耗していたのか、そのあと昏々と眠り続け、このまま目を覚まさないんじゃないかと心配し始めたころ、ようやく目を覚ました。


 そして開口一番『モモ缶が食べたい』ときた。


 私は思わずそのときの様子を思い出して笑う。


「風邪のときにモモ缶ってちょっと時代を感じるなぁ」

「本当に食べたいんだから仕方がない。それに病気のときに食べるもんっていったら、モモ缶だろ?」

「私だったらアイスかなぁ」

「そんな高級そうなアイス、僕の子どものころにはなかったよ。あったとしても一人じゃ食べきれないような大きなサイズだったし、そもそもそんなの買ってくれるはずもない」


 多分、本当は食べることも辛いはずだ。口の中は口内炎だらけで水を含むときでさえ眉を寄せるくらいだもの。

 それでも彼が食べたいというならばと私はお財布片手に一目散にスーパーに出かけた。


 彼と結婚して三年。

 彼は私と親子ほどの年の差があり、そりゃ私より先に逝ってしまう確率はとても高かっただろうけど、こんなに早くその日が来るなんて思いもよらなかった。


 彼のすい臓に悪性の腫瘍が見つかったときには、もう手術もできないほどに手遅れだった。


 完全に、手遅れだった。


 打てる手はすべて打って、あとは痛みを和らげることしかできないとなったとき、彼は自宅に戻ることを選択した。


 あと残りわずかな時間は家族で共有したいと彼は希望した。


 ヤガミさんと私と三人で、できるだけ笑って過ごしたいと。


 だから私たちはいつも穏やかに、幸せに笑った。


 モモ缶で彼の笑顔が見られるならば夜中だろうと嵐だろうと私は買い求めるだろう。


「で。ヤガミさんはどこにいたの?」


 ああ。そうそう。それも結構びっくりしたんだったわ。


「男の子といた」


「え?」


 私の答えが意外だったのか、彼はきょとんとした顔をして再度聞き返してきた。


 それも無理ない。ヤガミさんが自ら人に近づくなんてそうあることではない。


「男の子と仲よさそうに遊んでいた」


 私の念押しに、ヤガミさんは抗議するかのようにしっぽをぱたぱたと激しく振った。


 何よぅ。否定するわけ?


「違うらしいよ」

「仲よさそうだったけどなぁ」

「──だってさ。どうなの、ヤガミさん」


 彼はヤガミさんの顔を覗き込む。

 ヤガミさんはじっと彼を見つめる。

 彼もヤガミさんをじっと見つめる。


 こういうとき、私はとても羨ましくなる。私には立ち入ることのできない絆が二人はある。


 暫くそうして黙り込んだあと、彼は優しくつぶやいた。


「もしかして、彼かな」


 彼?


 私は首をかしげて、何をさしているのか考える。


 ヤガミさんとじゃれていた男の子は小学生高学年くらいの子だった。


 目力の強い少年だった。大学で助手なんてやっている関係上──それも今は休職中だが──そんな年齢の子と話す機会なんてそんなになかったものだからとても新鮮だった。


「もしかしたら、知り合いなの?」


 私の問いに彼はヤガミさんと顔を見合わせ、それから私を見て、笑った。


「いや。そうじゃないけど」


 そしてまた思わせぶりにヤガミさんと目を合わせる。


 えーっと。


「なーにー? 私だけ仲間はずれ?」


 軽く嫉妬を含んで二人に詰め寄ると、二人はますます笑う。


「ちょっとぉ! 白状しなさいっ」


私たち三人はじゃれあうように軽くもつれあう。


「ダメダメ。これはヤガミさんと僕との秘密だから」


 そのうち和葉にもわかるから。


 そういって結局教えてくれなかったけれど。

 でも、彼が笑って、青山さんがそばにてくれれば。

 それが私の幸せだった。

 私は幸せだった。

 たとえ彼とすごす時間が残り少なくとも。



               ◆◆◆



 そんな彼が亡くなってもう半年が経つ。


 私は仕事に復帰した。


 彼がいなくなってしまったら、私は何もする気も起きず、生きていく気も起きず、そのまま深い眠りについてしまうんじゃないかと思っていたけれど、人は結構強くできているらしい。


 私が生きていく気力をなくしても、ヤガミさんはそうは行かない。

 私が缶詰をあけなければ、ヤガミさんは食事にありつけない。

 それが私の生きるわずかな原動力となっていた。


 そして。


 毎日のようにマンション裏手で会う少年の手が、まなざしが、私を死なせてはくれなかった。


 私と彼とヤガミさんに、まぶしいくらいきらきらした、楽しい話題を提供してくれていた少年が、私を死なせてはくれなかった。


 自分のことを何でも話してくれる少年とは打って変わって、私は肝心なことは何一つ口にしなかった。彼のことは一切語らなかった。


 それでも少年は私の変化に気がついたのか。

 いつも矢継ぎ早に話をする少年が、彼が亡くなってからは黙って私の隣に座っていた。


 手を握り、さすり、暖かく見つめてくれた。


 その手の握り方が、彼の握り方ととても酷似していたから、なおさら私は死を選ぶことなんてできなかった。


 そうして手を握られると、思い出すのだ。


 彼の最後の言葉を。


 最後の、昏睡状態の中、彼はたった一度だけ目を覚ました。


 そして声を絞り出しながら私に告げた。


 必ず、君を支えてくれる人が現れる。

 君を僕にひきあわせてくれたように、君にも、僕にとっての君のような支えを、ヤガミさんが連れてきてくれる。たとえどんなところからでも。必ず。


 だから追ってきてはいけないよ。


 そうつぶやいた彼の言葉が甦る。


 少年の手の感触を得るたびに、彼が耳元でそう囁いているように思えてならなかった。

 私は少年と手を重ねるたびに、現実に引き戻された。


 生きていかなければと思う。


 少しずつ、顔を上げて、立ち上がり、まっすぐ前を向く。


 そんな私の様子を見計らったかのように、私の仕事復帰と同時、少年はこの地を離れた。


 少年は、私にきっかけを与えてくれた。


 だからがんばらなきゃ。


 多分、少年も新しい地でがんばっているのだろう。


 あれほど必ず連絡をするからといっていた少年からは、一度も連絡はない。

 それだけ新しい土地でがんばっているということと私は勝手に思っている。


 だから私もがんばらなきゃ。


 そう自分に言い聞かせて私は何とか笑顔を作る。


 それでも、こうして仕事から戻り、しんとした部屋に足を踏み入れると、独りだと実感して涙が出そうになることもある。


 そんな日は、ヤガミさんとじゃれあうに限る。


 私は時計を見て、小さく溜息をついた。

 そろそろパトロールから戻ってくる時間ではある。


 いつもなら、部屋を暖かくして帰ってくるのを待つところだけど、なんとなく、今日はヤガミさんを捜しに行こうと思った。


 早く、ぎゅっとしたかった。


 私は荷物をマンションに置き、ヤガミさんを探しにいく。


「ヤガミさーん」


 その声に一度で反応し、マンション裏手から優雅に歩いてくるのはヤガミさんだ。


 ああよかった。


 こんな鮮やかな夕暮れの日は、なぜだかとても不安になる。


 今、ヤガミさんにもいなくなられたら、私はどうしていいのかわからない。


 するりと飛び込んできたヤガミさんの体温を確認して、私はようやく安堵した。


 腕の中でヤガミさんの流す視線に誘われるように、私は視線をそちらにゆっくりと移す。


 ヤガミさんの後ろからついてきたといった風のスーツ姿の男性をまじまじと見つめる。


 人の好き嫌いがはっきりしているヤガミさんの柔らかな態度に、もしかしたらヤガミさんの友人かなと思い、私は笑顔で軽く会釈をした。


「ヤガミさんの友人、かしら?」


 そう言ってから、ああ前にもこんなふうに訪ねたことがあると思い立つ。


 私の手を握り締めてくれた、まぶしいくらいのまっすぐな少年に語りかけたときと同じ言葉。


 そういえば、なんとなくこの男性はあの少年に似ている。

 特に、このまっすぐな目が。


 思わず懐かしい目をしてしまった私に、その男性はわずかに戸惑い、それから静かに笑った。


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ヤガミさん 古邑岡早紀 @kohrindoh

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