ヤガミさん

古邑岡早紀

ヤガミさんと少年



暇そうだな



 望めばすべて夢が叶うわけじゃないということを知り始めた小学6年の秋。

 友人とのサッカーのレベルの差を感じ、塾での成績も思うように伸びず、なんだかどれもこれもうまくいかなくて、マンション裏手の野原でふてくされて寝転がっていた。


 そんな僕の耳元に突然飛び込んできた声に、反射的に身体を起こした。


 あたりに人影はなし。


 いたのはお世辞にもかわいらしいとは言えない一匹のネコ。


 日本ネコとチンチラのかけあわせのような、そのアンバランスさがブサイク度に拍車をかけている。

 黒地にところどころ白のブチが入っているさまは、なんというか、……牛?


「お前、すんげぇぶっさいく……って、おい!」


 僕の言葉に反応するかのごとく、どしっとブチ柄の肉球足が人の股間に乗ってきた。なんつーか、こう、あまりいい気分はしない。

 僕とそいつはたっぷりとにらみ合い、まさに一触即発の様相を見せたときだった。


「ヤガミさーん」


 美しい声に反応し『お前、その声に助けられたんだぜー』みたいな顔をして鼻で笑って、声の主の下へと去っていく。


 ちょっとまて。


 あのネコ、しゃべったよな? 笑ったよな? 間違いないぞ。僕の見間違いじゃないぞっ。


 そのまま身体を起こして誘われるようにそいつの姿を目で追うと、そいつは女性の腕の中にまんまと納まった。


「探したんだよー。まったく……。ヤガミさんってばどうしてすぐいなくなっちゃうわけ?」


 その声はとても耳に心地よかった。

 自分を叱る母親の金切り声とは違う、軽やかな音。


 僕の視線に気がついたのか、その人はゆっくりとこちらへと視線を向け、腕の中のネコと僕を交互に見つめる。

 それからとても柔らかく、僕に笑いかけた。


「あれ? ヤガミさんのお友達?」


 それがヤガミさんと和葉さんとの始めての出会いだった。


 



                          


 その日をきっかけにヤガミさんはうちのマンションによく出没するようになった。


「玄関前にとぉってもかわいらしいネコが待っているのよー」


 なあんて嬉々として言う母と妹。


 かわいい? あれのどこが?


 うちのマンションはこのあたりでは珍しくペット可の賃貸マンションだったので、二人とも公然と招き入れ、それはそれはご丁寧にもてなしていた。。

 終いには『このままうちのネコさんになるー?』なんていいだすものだから、そのネコが飼い猫であること、名前が『ヤガミさん』であることを伝えた。


 なんというか、ヤガミさんはすんげぇブサイクのくせに、やたらと女にもてる、実においしいヤツだった。


 ヤツの訪問は一回にとどまらなかった。


 いつの間に入り込んだのか知らないが、突然クローゼットのほうから出てきたり、リビング奥の和室から出てきたり。かと思えば施錠はばっちりなのにいつのまにやらいなくなっている。


 まさに神出鬼没だった。


 その話を和葉さんにすると、和葉さんはそのままヤガミさんを抱え上げ、自分の視線の高さに合わせて懇々とお説教を始めた。

「もー。ヤガミさんってば、どうしてそうなのっ? 人様んちに勝手気ままにあがっちゃいけませんっ。そんなことするなら外出禁止にするよ?」

 しかし和葉さんのそんなお説教も、そっぽ向いて適当に聞き流しているように見える。

 そしてその姿は本当に人間くさい。


 和葉さんはヤガミさんの飼い主、和葉さん流に言うと同居人だそうだ。


 その言葉からもわかるように、和葉さんは常にヤガミさんを同等の存在として扱っている節があった。


 実際、僕の莫迦丸出しの『人の言葉をしゃべる』発言にも和葉さんはきちんと応えてくれていた。


「そうねぇ。私の前で人語を話したことはないけれど、ヤガミさんなら十分ありえるかも。ねぇヤガミさん。慎くんの前では話しているってことは慎くんには気を許しているってこと? それってちょっと嫉妬してしまうわ」


 それがきっかけで、和葉さんとマンション裏手で話をするようになった。


 ヤガミさんのことから始まり、サッカーのこと、勉強のこと。妹がついて回って困る、仲のいい友人がいるけれど、一方で嫉妬している自分がいること。いろいろな話をした。


 その過程で僕も和葉さんについて少しずつ知っていった。


 大学で助手をしていること。今は休職中であること。近々復帰する予定であること。


 和葉さんと話をすることはとても楽しかった。それは和葉さんが同じ目線で対応してくれたからだと思う。僕の話を黙って聞き、意見を言うわけでもなく、説教をするわけでもなく、ただ笑って真剣に聞いてくれる。その笑顔が、僕の救いだった。


 多分、僕は和葉さんに甘えていた。


 やっぱり和葉さんは大人で、僕は子どもだったのだ。


 そのことを解らせてくれたのはヤガミさんだった。


 その日、ヤガミさんは僕の家の玄関にちょこんと座って待っていた。


 なんとなく、いつもと違う様子を感じ取って僕はヤガミさんについていった。ヤガミさんは五メートル進んではついてきているのかを確認し、僕はその後ろをただひたすらについていった。


 その日は今にも雨が降りそうな日で、日暮れには早いというのにあたりには早くも闇が降りようとしていた。


 それと同じくして広がる静寂。


 それらがひどく重くのしかかっていた。


 目の前を歩くヤガミさんの姿も、闇に溶けていくようだった。


 ヤガミさんはマンション裏手の野原からその奥へと分け入り、道が開けたところでぴたりと足を止めた。そのままゆっくりと僕を見てから視線を流していく。


 視線の先には和葉さんがいた。

 道の向こう、バス停に置かれている申し訳程度のベンチにたった一人腰を下ろしていた。

 でもそこにいた和葉さんは僕が知っている和葉さんではなかった。


 雨空に負けないくらいの暗い雰囲気をまとって一点を見つめている。


 僕には和葉さんが抱えているものが何なのかわからなかった。多分説明されても僕には理解不能だっただろう。


 僕に出来ることはたった一つ。和葉さんの隣に座り、手を握り締めていることだけ。


 和葉さんはいきなりのことに一瞬だけ肩を震わせたけれど、あとはそのままだった。


 僕は無力だと思い知らされた。

 気の利いた言葉をかけることも出来ない。支えてあげることも出来ない。

 僕は無力な子どもだった。


 それからも僕はたびたび和葉さんと会って話をした。


 少しずつでいい。


 僕がいつか和葉さんを支えられるようになるまで。


 そう思っていた矢先のことだった。


「慎。お父さんの転勤が決まったの」


 母さんのその言葉は僕に大きな焦りを与えた。

 一番に思ったことは新しい土地への不安でも、友人たちと別れる寂しさでもない。


 和葉さんと会えなくなる。


 僕はここからいなくなることをどう伝えていいのかわからず、そうしてどんどんその日は近づいてくる。

 僕の様子がおかしいとどうやら気がついていたようだが、和葉さんは何も言わなかった。


 そしてヤガミさんも。


 言わなかったけれど、ヤガミさんはなんだか責めるような視線で僕を見つめていたから、僕がこの地を離れることを知っていたんだと思う。


 僕がようやく引っ越すことを告げたのは、和葉さんが仕事に復帰をすると聞いた

日、引越しの前日のことだった。


「明日からお仕事に復帰するの」

「明日には引越ししちゃうんだ」


 僕たちの声は重なり、顔を見合わせ、そしてどちらからともなく寂しく笑った。


「じゃあ、今日で最後ね」


 最後か。ああ確かにそうだろう。

 それでも僕たちはいつものとおりに話をした。なんということはない、ごく普通の日常会話を。


 僕と和葉さんとヤガミさんが過ごした日々は、本当に僕の宝物だった。


 荷物を運び出した最後の日。

 僕が感傷に浸ったのは何もなくなった自分の部屋ではなく、青山さんと会ったあのマンションの裏手だった。


 窓からも見えるそこは、本当になんでもない、普通の野原だった。


 そこに和葉さんはいない。


「しーんー! もう出るわよー」


 玄関先から母さんのせかす声が聞こえてきて、僕は慌てて窓を閉め、自分の部屋をあとにしようとした。



お前の帰りを待っている



 僕は反射的に振り返った。


 初めてヤガミさんと会ったときと同じ声が、僕をとどめる。


 目の前の、出窓の縁にはヤガミさんがちょこんと姿勢正しく座っていた。


「なっんだよ。お前、やっぱり話せるんじゃん……」


 とっさのことで口に出たのはそんな皮肉れた言葉。


 しかしヤガミさんは僕のそんな言葉に答えることもなく、ただ目を細めてにんまりと笑った。


 「慎! あんた何してるのっ!」


 母さんのかなり苛立った声に反応して、一瞬出入り口のほうへと顔を向けた。


「今行く!」


 そうして再び顔を戻したとき、そこにはヤガミさんはすでにいなかった。


 だが間違いなく一瞬前にそこにいた気配と、あの声の響きを残して、ヤガミさんは立ち去っていた。


               ◆◆◆



 あれからもう二〇年にもなる。


 結局俺は限りなく九州に近い本州で進学し、就職も関西系の企業にした。


 関東圏とはまったく無縁な生活を送った。

 楽しかった思い出も、あのとき宝物だと思っていた和葉さんとヤガミさんとの日々も、記憶の奥に埋もれていた。

 多分、こちらに戻ってくることがなければ一生忘れていただろう。


「宮沢ー。お前こっちにいたことあったんだろ」


 隣で運転していた同僚の高瀬がのんびりとそう聞いてきた。


「ああ。小学生のころな」

「懐かしいんじゃねーの」


 二〇年前の父親と同じく、俺は転勤でこちらへと戻ってきた。

 さすがに二〇年も経つと中心地はそれなりに変貌していたが、一歩離れればのんびりとした雰囲気が漂い、その辺りは昔と変わらない。


 だが、完全に変わらないものなんてそうあるものではない。


 そのことはあの幼い日、引っ越した後でまざまざと感じたことだった。


 友人とはすぐに疎遠になった。俺自身が新しい土地になじむのに精一杯だったせいもある。


 だがそれよりも、和葉さんと一切連絡が取れなくなったことに俺は少なからずショックを受けていた。


 教えてもらった電話番号は何度かけてもつながらなかった。


 和葉さんには俺なんてたいした存在ではなかったんだろう。


 そんなふうに思わせた。


 それからだろうか。妙に覚めた目で人生を見つめるようになったのは。

 流されることに大して抵抗を感じなくなったのは。


「別にー。こっちの知り合いとも連絡とってねーし」


 そんな気のない俺の返答に高瀬が苦笑したときだった。


「……高瀬、携帯なってる」

「あー。うん」


 そのまま車を路肩に寄せて高瀬は携帯に応答する。


「はい。? 今ですか? 次はAシステムの入っているU大学に行って、宮沢を紹介してくるつもりですけど……。─え。えーっと。だめっすよー。あそこの事務長と教授がそろっているなんて滅多にないんですよ? 今きちんと紹介しておかないと後々面倒ですって。……だって桐原いるでしょ? ……は? 桐原もはまってるんすか?」


 どうやら話は長くなりそうだった。


 俺は煙草を取り出して、『外で吸ってきていい?』と目で合図すると高瀬はこくこくと頷いた。


 夕焼けがやたらときれいだった。


 どこかでこんな夕焼けを見たことがあるような気がする。


 どこで?


 夕焼けなんてたくさん見ているはずなのに。


 どこかで。


 煙草を口元に加え、何とか火をつけようとしていたそのときだった。



待っていたぞ 



 突然の声に俺は思わず煙草を口元から落としていた。


 それはゆっくりと地面へとたどり着き、はねて、転がる。


 あれから二〇年も経っているというのに記憶は鮮やかによみがえる。そして俺を『僕』へと戻していく。


 落ちた煙草を踏みつける小さな手。


 ぶちのついた足は二〇年前の記憶を蘇らせる。


「お前」


 俺の声に反応するかのように上げた顔は怒っているようで、それでいて、笑っていた。


 なんとなく俺とそいつは距離を保ったまま、見詰め合っていた。


 というより、にらみ合っていた。


 これは、『今』か? それとも『過去』か?


 混乱し、身動きできずにそのままにらみ合っていたところにあの時と同じ声が響いてくる。


「ヤガミさーん」


 その美しく響く声に、俺はゆっくりと声の方向へと視線を向けた。


 走り去るネコ。それを抱き上げる女性の姿。


 夕日を背にしたその姿をはっきりと見ることは出来ない。


 でもその声は、その情景はかつて見た、そのままの情景。


 俺はそちらに向かって足を踏み出した。

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