第9話
倒れた丸テーブル。
お茶はこぼれお気に入りのウェッジウッドのティーカップやお皿の破片が、床に散らばっている。
ところどころ破れた白いレースのカーテンが、初夏の風でかすかに揺れる。
女の着ているオフホワイトの部屋着には、すでにあちこちから妙に鮮やかな血が滲んでいる。
首筋や腕や足など無数にできた紅いコブを、ひっきりなしに掻きむしっているからだ。
彼女は血走った目をこちらに向けた。
私が動けないでいると、病的な笑い声を上げ始めた。それはどんどん大きくなり何かに取り憑かれたかのようになっていく。
そして耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫び声をあげると、狂女は床にバタッと倒れて動かなくなった……。
規則的な電子音。
消毒の匂い。
全身寝汗でぐっしょりと濡れている。
またあの夢を見ていたらしい。
目を開けてみると、なぜか男の子の顔があった。
頭がぼーっとしているせいか、あの恐ろしい夢を見た反動か、不思議と怖くない。
「目が覚めたようですね」
男の子が黒目がちな大きな瞳で、私の顔を覗き込んできた。
一体誰なんだろう……服装からして看護師さんじゃなさそうだし……突然、豪快に中華鍋が揺さぶられる音を思い出した。
油の匂い。
時折飛び交う中国語混じりの日本語。
雑多なお店の雰囲気とは真逆の、清潔感に溢れた白シャツと黒い長ズボン。
いつも12時5分前になると突如として現れ、主に一番奥のカウンターに座って日替わり定食食べてる……。
「帝王?」
「万城目さんも金曜日のニラレバの日によくいらっしゃいますよね」
「なんで私の名前知ってるの? あなた誰? なんでここいるの?」
「やはり僕の名前も存在もご存知ない……」
「あなたのことはつけ麺帝王に11時55分にくることしか知らない」
「クラスが一緒になったことはないですけど、一応同じ中学で同じ学年なんですけど」
そこに看護師が入ってきた。
思い出したように傷口が痛みだす。見れば背中やお腹に包帯がぐるぐると巻かれている。
「できるだけ傷跡は残らないように処置して下さったそうです。本当に大変でしたね」
「だからあなた誰?」
帝王……ではなく
消しゴムはんこ部で仲良しの細川玉美が教えてくれた。瀬戸くんは顔はかわいいけど地味なせいか、今まであまり意識してこなかった存在だった。でもなぜこの病院に?
「諸事情があって」
それしか答えなかった。なんだかおかしなヤツ。
私はこの夏、暇を持て余していた。パパは講演会に行ったきり連絡が取れないし、兄は予備校通い。
私は週一回の消しゴムはんこ部の集まりで学校に行くか玉美と遊ぶ以外は、ほとんど毎日近所の図書館で宿題をしていた。でも量が多いしやる気も出ないしで、全然進んでいなかった。
つけ麺帝王は、図書館から少し歩いた駅前にある。私たちが通う中学の駅を挟んで反対側。つけ麺と店名にあるがつけ麺を頼む人はほとんどいない。
でもここの金曜特別定食の、レバニラというかニラレバが絶品だった。経営者や医者の親が多い進学校で、つけ麺帝王にくるような子はいない。玉美は茶道の有名な家元のお嬢様だし、とても誘えなかった。
診察が終わった後、無事逃亡していた兄が、着替えとピーナツバターの小瓶を持ってきてくれた。中身は人脳で、ちょっぴりマヌカハニーを加えたやつ。和三盆やチョコレートソースを加えることもある。
幼い頃は薬だと思っていやいや水で飲み込んでいたけど、脳を食べることは普通じゃないんだとわかってからは、少しでもおいしく食べられるよう工夫した。
周恩来をはじめ昔の中国共産党員は人脳を好んだらしく、よくスープにしたらしい。ポル・ポト時代のカンボジアでも健康補助食品とされていた。
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