第3話

 屋上に着いてから十分は経った。やはり取り越し苦労のようだった。よかったと思った瞬間、エレベーターから繋がる自動ドアが開く音がした。建物の影から見ると、車椅子に座った万城目さんだった。

 

 横顔しか見えないが、先ほどより幾分か表情が和らいでいる。小さなおでこから細い鼻梁に続く輪郭の曲線が美しすぎて、思わず見とれてしまう。


 万城目さんは夏空を眺めながらゆっくりと車椅子を進めて行く。しかしフェンスのところまで来ると優雅さは保ったまま、点滴を外し車椅子に立ちバレリーナのように半回転して、瞬く間にフェンスの向こう側に降り立ってしまった。それは一瞬で、まるで白鳥が飛び立つようだった。


 フェンスにもたれかかり、もはや何も遮るものがない景色を眺めている。ここまで来たのに、一体自分は何をしているのか。思い出した……父が自殺したのは去年の八月の終わり。


 その日は大学受験塾哲力会テツリョクカイの、クラス分けテストの日だった。本当は行かないほうがいい予感がしていた。でもクラス分けテストを受けないと、レギュラークラスから外れることがわかっていた。それでそのまま塾に行ってしまった。


 そして塾から帰って来てからも家でずっと勉強していたのだけど、あまりに父の帰りが遅いので副院長の叔父に連絡すると、しばらくして「院長室でお亡くなりになっているのが見つかりました」と伝えられたのだった。自分はまた、あの後悔を繰り返すのか。


「こんにちは。今日も暑いですね」


 こういう時、人はなんと言えば良いのだろう?とにかく挨拶をしてみた。挨拶は大切だと、亡き父も言っていた。びっくりしたように振り向く万城目さん。しまった! びっくりした拍子に落ちるかもしれない。


 とにかく話そう。まずは落ち着かせてから解決の糸口を探ろう。僕はいつものポーカーフェイスを取り戻した。


「火曜日のホイコーローも美味しいのでおススメですよ」


 ……万城目さんの顔が無になった。感情は読み取れない。続けよう。


「月曜日のスタミナ炒め定食も水曜日の豚肉焼肉定食も木曜日の海老卵丼も土曜日のスペシャル豚肉焼肉定食も日曜日の超スペシャル海老玉子丼トマト風味も全部、全部美味しいです」


 何言ってんだ、自分。


 これじゃほとんど毎日つけ麺帝王にいるヘンなヤツだよな……ひいてる……絶対ひいてる……引きすぎると多分落っこちる……でも金曜日以外にもつけ麺帝王に行ってみたくなったかも。これで一週間は自殺する気が失せたのではないか。


「そう言えばニラレバ定食と言えば、正式名称がニラレバなのかレバニラなのかわからなくなりませんか? 日本における一般的な呼称は『レバニラ炒め』ですが、発祥の地中国での表記は『ニラレバ炒め』らしいです」


 ニラレバと聞いて顔つきが変わってきた……か?


「日本で『レバニラ炒め』が一般的な呼称になったのは天才バカボンの影響によるもので、バカボンのパパが『レバニラ炒め』が大好物なのだ!と連呼したためです。しかし順番の違いで、作り方や材料が変わるわけではありません。グルグルで検索すると、レバニラが76万件、ニラレバが23万件で……」


 どれも響いてないみたいだ。わかってはいたけど僕、勉強以外こそ勉強しなければならないみたい……ダメだ仕切り直しだ。


「レバーと言えばホルモン、ホルモンと言えばはらわた、はらわたといえば最近ゾンビ映画にハマっていて……」


 もう破れかぶれだ。なんでもいい。必死で会話の糸口を探る。

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