第2話

 愛里さんと別れトイレに寄って帰ろうとすると、先程人が群がっていたもう一つの病室前も静けさを取り戻していた。


 表札を何気なく見てみると万城目爽夏マンジョウメサナとある。あれ? うちの中学の生徒じゃないだろうか?


 万城目という苗字は珍しいし、「爽」という字は漢字オタクの僕にとって、非常に気になる漢字だった。


 僕の大好きなアイスの商品名に使われてる字だし、爽やかなイメージの漢字。でも結構恐ろしい意味を持つからだ。


 大の字に横たわっているのは女性の死体。四つのバツ印はその死体に彫られた刺青イレズミ。この字が中国で生まれた頃は、死者の魂を清らかな状態で保っておけばいつかは復活できると信じられていた……。


「お友達ですか?」

 背後から看護士さんにいきなり声をかけられて、思わず「はい」と答えてしまった。まあ同じ学校だしウソではないよな、話したことないけど。


「どうぞ。まだご家族と連絡が取れなくて困っていたんです。そろそろ目が覚めてもおかしくないんですけど」


 成り行きで女の子が一人寝ている病室で、女の子を見守ることになってしまった。


 万城目爽夏。肌が白ユリのように白くて、茶色い大きな目と肩にかかる栗色の髪が印象的な女の子。


 電車の中でおばあちゃんに席を譲っている所を見たことがあるが、一度聴いたら忘れられない美しい声だった。


 情報に疎い僕の耳にも、男子のファンは多いと聞いていた。成績は一年の頃は全科目で学年トップだったこともあるのに最近はあまり良くないみたいで、それも気になっていた。


 そして彼女には謎があった。夏休みに入ってからというもの、なぜか必ず金曜日の12時ごろになると駅前のつけ麺帝王にやってくるのである。


 油の匂いに満ちたお世辞にもキレイだとは言い難いその店で、優雅さのお手本みたいな彼女は異質の存在だった。ニラレバが好きなのか、金曜限定のニラレバ定食以外食べているところを見たことがなかった。


 万城目さんがうなされている。怖い夢でも見ているのだろうか? ナースコールを押そうと枕元のボタンに手を伸ばすと、万城目さんの大きな目が開いた。少し涙が出たのか熱っぽく潤んでいる。


 その後バタバタと看護師や医者が入って来たので、僕はそのまま帰ることにした。もうすぐ事情聴取も始まるらしい。


 身体の傷も心の傷もまだ全然癒えてはいないだろうに、警察も酷なことをするなと思う。事件の早期解決のためには仕方がないのだろうけど。


 翌朝、叔母の作ってくれたお味噌汁を飲みながら情報番組を見ていると、昨日見た場所が何度も放映されている。一つは事件現場の家。一つは万城目さんのいる病院。


「練炭屋さんの怪! 猟奇殺人現場で生き残った美少女Aは何を見たのか⁈」


「なぜいま若者は集団自殺を選ぶのか? 犠牲者全員実名報道!!」


 心無い番組特集名。ネットでも新聞でも昨夜の事件で持ち切りだった。未成年が犯罪者の場合、名前は伏せられるのに、被害者の場合は本名が写真とともに全国放送で晒されてしまうことが多い。


 ヤマダ、華ちゃん、誠君のフルネームが、明朝体でニュースに映し出されている。そして美少女Aとは万城目さんだった。


 なんだか嫌な予感がした。僕なんかが行ってなんになると思いながらも、病院に行くことにした。


 万城目さんの病室に近づくと、彼女の笑い声が聞こえてくる。来る必要なかったかな、と思いながらもなぜかまだ胸騒ぎがおさまらない。


 何かこれと同じようなことが以前あったような……万城目さんの病室から女の子が出てきたので、慌てて柱の陰に隠れた。しかし何をやってるんだ、自分。まるで不審者だ。


 帰ろうかなと思った時、水色のパジャマ姿の万城目さんが車椅子で出てきた。もう一人で動けるのか。


 さきほどの明るい声とは裏腹に、不気味なほどに表情がない。車椅子に据え付けてある点滴を揺らしながら進んでいく。人生初めての尾行。トイレか売店に行くのなら帰ろうと思った。でも。


 万城目さんがエレベーターの「上」のボタンを押した。上の階は全て病室で、他には屋上があるだけだ。屋上で外の空気でも吸うつもりかな。


 でもこの胸騒ぎは確実に過去、経験がある。いつだっただろう。とにかく迷っている暇はない。非常階段で屋上まで行ってみることにした。万城目さんが屋上でなく上の階の病室か医者に会いに行くならば、杞憂ですむ。


 大急ぎで階段を駆け上り屋上に繋がるドアを開けると、夏の熱気が僕を包んだ。青い空と入道雲。どこかで蝉が鳴いている他は誰もいない。


 屋上はきれいに整備され、1.5メートル位のフェンスで四方が囲まれていた。これなら身体に傷がある小柄な人間がフェンスを超えることは難しいだろう。


 でも一応、三十分だけ雲でも眺めていよう。エレベーターを設置するためだけに作られたと思われる建物の壁に、僕はもたれかかって座り込んだ。汗が体中から噴き出してくる。

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