落とされたもの/落としたもの 作:春ノ雨
落とされたもの
あの人に恋をしている。
いくつか同じ講義をとっているようで、よく見かけるうちに気になるようになって。この講義もとっているのか、今日は来ているな、いつも後ろの方に座っているなと気づけば目で追っていて。利き手や寝ぐせなんかの細かいことまで気づくようになってしまって。
いつのまにか恋に落ちていた。好きになってしまっていた。
一度自覚してしまうともう駄目で、自分も同じく後ろの方に座るようになって。集中しなければいけないのに、毎回講義なんかそっちのけであの人を見つめてしまう。真後ろはなかなか座れないけれど(さすがに近くて恥ずかしいし、あの人の友人が座っていることも多い)、斜め後ろはわりと座れて。後ろ姿と、横顔と、両方が見えるそこに座れた日は、それだけで特別な一日になった。
友人たちと楽しげに話す姿をこっそりと見つめる。ゼミ発表の準備の愚痴、サークル内の飲み会、好きな食べ物や趣味の話。いけないことは分かっているのに、理性が警告しているのに、耳が勝手に拾ってしまう、頭は喜々として覚えてしまう。ああ、そんなに大きな声で喋らないで、ううん、本当はもっと喋って。こうでもないと知れないから。
冷静に考えれば気持ち悪いことをしているのは分かっている。でも、どうしても気になってしまって、できるだけ姿を視界に入れていたくて。見ているだけでいいから、それだけで我慢してみせるから、どうか許してくれないだろうか。押し殺してしまうには、この恋はもう育ちすぎてしまったから。
こんな想いを向けられていることを、そんな目で見られていることを、きっとあの人は知らない。視線に温度がないことに心の底から感謝した。見ているだけ、それだけだから自分の恋は気づかれない。気づかれないままでいいから、そのはずだから、もっともっとと先を望む強欲な心に蓋をする。あんなに素敵なあの人が、こんなに凡庸な自分に振り向いてくれるはずもないのに。
それでも心は儘ならない。必死に押さえつけて閉じ込めてもいつのまにか根を張って、頭の中から足の先まで自分のすべてを侵食する。恋心に染められる。
あの人の周りに人が、特に異性がいると、もやもやしたものが胸を苦しくさせるようになった。同じゼミの人やサークル仲間、別に恋愛的な関係ではないのだろうけど、どうしても嫉妬してしまう。あの人の良さに気づきませんように、あの人がそちらを向きませんように。あの人の笑った顔が好きで、友人たちに向けられるそれを横から眺めて満足していたのに、いつの間にかそれだけじゃあ物足りなくなってしまった。横からじゃなくて正面から見たい。他人だけじゃなくて自分にも向けてほしい、ううん、自分にだけ向けてほしい。みんなの輪の中で楽しそうに笑うあの人が好きなのに、あの人には幸せでいてほしいのに、それは絶対に嘘なんかじゃないのに、自分だけのものにしたくなる。ひとり占めしてしまいたくなる。あなたが会話をするのも、笑顔を向けるのも、視界に入れるのも、全部自分だけであってほしい。黒い、どろどろした欲が胸のうちで渦巻いて、そしてふっと消えた。付き合ってもいないのに何を考えているのだろう。独り占めどころか、あの人を正面から見つめることさえできないでいるのに。
いっそ告白してしまおうか。不意にそんな考えが頭に浮かぶ。育ちすぎた恋心は、隠すどころか抱えているだけでもしんどくなってきて、いっそ粉々に砕いてもらえたらとそう思うことさえある。けれど、やっぱりあの人を見つめていたくて、せめて避けられることもない今の距離感は保ちたくて、端的にいうと怖気づいて行動できないままでいる。見ているだけで幸せだと、酔って友人にこぼした台詞は本当だけど、それはあくまでも最低ラインであって。もっと近づきたい気持ちは常にあるけれど、でも、そうして行動した結果として、より遠ざかる可能性が怖い。振った相手と同じ講義とか嫌だろうし、絶対に近くには座れないから、もうあの人を見つめる幸せな時間はなくなってしまう。それ以前に自分が講義に行けるかさえ分からない。辛すぎて講義室に入る前でUターンしてしまいそうだ。臆病者の自分には、今くらいの遠さがお似合いだろう。
諦め半分、未練半分で今日もあの人の後方に陣取る。左側に見えるすっと伸びた背筋が美しかった。あの人の自信に満ち溢れた行動はいつも端々に見つけられる。伸びた背筋の他にも、明るく上がった視線、細部までこだわられた服装、初対面でも人懐こく話しかけるところなんかに。いつだったかのグループワークで話しかけられたときは、緊張しすぎてろくにしゃべれなかった。つまらないやつだと思われただろう、いっそ忘れてほしい。今日もあの人のことを考えているうちに講義が終わり、斜め前の背中は帰り支度を始める。リュックサックで視線をさえぎられてしぶしぶ視線を前方におろすと、机の間に消しゴムがひとつ落ちているのに気がついた。
どくん、と胸が音をたてた気がした。
転がった位置から考えると、この消しゴムはあの人のものではないだろうか。今日は少し人がまばらで、このあたりに座っていた人は多くない。そっと近づき、やたらと慎重に拾い上げる。出口に目をやると、あの人はちょうど講義室から出ようとしているところだった。
あ、待って。
あの人の背中につられたように足が自然と前に出て、速度を徐々に上げながら去っていく背中を追いかける。なんでこんなに急いでいるのか。普段なら他人の落とし物を拾うことなんかない。消しゴムのひとつやふたつ、失くしたところでそう困りはしないだろうと通り過ぎる。だのに今はこれをあの人のもとに届けなければと強く思った。あの人は失くしたと気づいていないだろうし、そもそも本当にあの人のものであるかも分からないのに。これにかこつけて会話でもしたいのかと、冷静な頭が自分の浅はかさを嗤う。そうかもしれない、自分本位な理由かもしれないけれど、それでも届けたかった。たったそれだけ、それだけだけど、恋する自分の原動力には十分だった。
廊下でやっとあの人の背中に追いついた。はずむ息を押さえつけて、懸命に平静を装う。こんなに必死になっていることを知られたくなかった。口を何度か開閉して、懸命に頭を回す。なんて言おう、早くしないと、せっかく追いついたのにまたあの人が行ってしまう。焦った頭がはじき出したのは何の変哲もない台詞だった。
「あ、あの、これ……!」
落としたもの
あの人の恋に気づいていた。
よく同じ講義を取っている人。その影響でよく見かける人。いつも前の方に座っていて、熱心に講義を受けるその後ろ頭に、よくやるなあ、と呆れ混じりに感心していた。教授の説明を頷きながら聞いて、問われる疑問に首を傾げて。場がしらけるような教授のくだらない洒落にも口元をおさえて肩を震わせる様子に、真面目で素直な人なのだろうと思っていた。なんだか見ていると面白くて、講義中の眠気覚ましにちょくちょく眺めていたけれど、ある時からそれができなくなった。あんなに真面目に講義を受けるくせに、自分と同じように後ろの方に座るようになったから。振り向いてまで見るほど関心があったわけじゃない。あの人もさすがに飽きたのかな、眠気覚ましがなくなったなあとその程度のものだった。だったのだけれど。
友人が多くて、目立つ立場になることも多くて、いつの間にか人からの視線に敏感になっていたから気づいてしまった。自分に向けられるあの人の視線。温度があったならとうに燃やし尽くされているだろうと思わせる、熱い視線。最初は戸惑ったけれど嫌な気もちはなくて、今ではすっかり慣れてしまった。静謐な雰囲気を持つ、凛とした人。自分と違って誰かと話していることもそう多くない、ひとりの楽しみを知っている人。けれど少数の親友はいて、その人たちといるときはいつもの研ぎ澄まされた空気が緩んで、花がほころぶように笑うのだ。
あれはずるい。
初めてそれを見てしまったとき、頬の熱がなかなか冷めなくて一緒にいた友人にいぶかしがられてしまった。何とか誤魔化したけれど、でも、だって、あれはない。あんな表情を見せられたら、見てしまったら、ひどいギャップに惹かれてしまうのも仕方ないだろう。我ながら単純だと思うけれど、その日から他人事のようだったあの人の恋が、実る日を心待ちにするような現実になってほしいものに変わってしまった。
自分が抱く感情が変わると、あの人を見る目も変わってしまった。正確には、あの人の周囲の人に向ける目が。今までは何とも思っていなかったのに、近づくすべてに嫉妬してしまう。用事を掲げて近づく異性はもちろんのこと、あの人は同性に対する距離が近いから、次第にそちらにまで及ぶようになって。あの時の笑顔を引き出したあの人の親友にまでほの暗い気持ちを抱いた時、自分はもう駄目だと自覚した。
あの人への恋心に気づいたそのときから、坂道を転げ落ちるようにあの人にはまっていってしまった。もうすでに熱量が逆転してしまっているかもしれない。いつか感じていた熱い視線と同等以上のものを、今度は自分が向けている。自分のたくさんの友人の中から、あの人と繋がりがある人を探し出して、いっそ愚かとも思えるほどに気のいいその人からあの人の情報を聞き出した。多量の個人情報を含むそれにそろそろやばいなという自覚はあれども、それがブレーキにはなってくれなかった。
いっそのこと、行動にうつしてしまおうか。
そう思ったのは自覚して少し経った頃。あの人の笑顔を眺めるだけじゃなくて自分に向けてほしくなって、でもあの人に動く気がないこともなんとなく分かっていたから、それなら自分からいけばいいと思った。勝率は正直なところよく分からない。あの人が自分を好いていることは確かだけれど、それは恋人になりたいという欲にはつながっていないようだったから。たぶん、あの人は自己肯定感がそんなに高くない。丸まった背や長い前髪、存在を隠すように足音をひそめて歩くところやうつむきがちの視線なんかから勝手にそう思った。講義がよくかぶっている関係でグループワークを一緒にやることもあったけれど、そのときもそう積極的には話しかけてこなかった。ただこちらを見ているだけ。自分が笑えば、つられたように少し口元をほころばせるだけ。それはそれでとても魅力的だから、あの人と会話する機会があったときにはいつもよりハイテンションにお道化てしまうのだけれど。きっとあの人はそんなことに気づいていない。ニュートラルがそれだと思われている、はず。だからそのことで都合よく勘違いしてくれたりはしないのだ。その他大勢の中の一人、名前もあやふやな通行人程度の認識だと、きっとそう思っている。そんなことはないのに。別段目立つ格好をしているわけでもないのに、あの広い講義室でわざわざ近くに座ってしまえるくらい、休み時間の人混みの中でもすぐに見つけてしまえるくらいには、あなたを特別に想っているのに。
まだ面と向かっては言えない言葉を言えるようになるために、それが許されるくらいの仲になるために、こっそりと罠を考えた。今のままでは知り合いその十くらいで終わってしまう。あの人はそれで良いというか、もとよりそのつもりかもしれないけれど、自分がそれでは満足できない。だって仕方ないじゃないか、自分は我が儘なのだからと開き直る。お猫様やら悪魔やら、地主なんてものまであったっけ。今までつけられてきた数々の綽名がそれを裏付けている。でもあの人にはそんなこと思われたくないな。性格が悪いことに気づかれたくない、いい人だと勘違いしたままでいてほしい。
生来の強気と初めての弱気が入り混じった結果、最初の一手は消しゴムを落とすという不確実にもほどがあるものとなった。そもそも気づかれるか分からないし、気づいたとて拾って届けてくれるかはもっと分からない。普通にスルーされたり、教卓の近くに移動させるだけだったり、自分のものだと思わないかもしれないし。ただ、これがもし上手くいけば、この恋路はこの先も上手くいくのではないだろうか? 我ながらツッコミどころ満載の思考の下、とん、震える手で消しゴムを床に追いやった。あの人が座っているのは右斜め後ろ、ちょうど視界に入る位置にそれはおちついた。リュックサックを背負って席を離れる。できるだけゆっくり、願いをこめて歩みを進める。どうか気づいて、追ってきて。あなたが信じている人懐こさで大げさに喜んで、お礼を口実にあなたの連絡先がほしいんだ。この笑顔が好きなんでしょ? 特等席でいくらでも見せてあげる。だからあなたの笑顔も見せて、そのためのきっかけだけ今くれたら、あとは全力で落としてみせるから。後ろからぱたぱたと足音が聞こえてきた。さあ、賭けには勝ったのだろうか、この恋路の一歩目は無事に踏み出せるのだろうか。
「あ、あの、これ……!」
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