生き神おとない・四 作:奴

  降りそうな雲とその寒空に身をさらす建造物の並びを、高速で走る電車から眺めた。動いているのは自分か、町並みか。そういう無意味な空想をもてあそんだ。町を歩いたときに湿った空気を感じた、と思い返した。

 定期券の区間外へ何駅か言ってみようと自宅の最寄り駅を過ぎて、丘を削り地をならした野原を突き進んだ。久しぶりに切符を買った。これほど失くしそうだと不安がるものだったか、彼は過去の自分を思い出せなかった。

 (しかしなぜあんなに言い争ったんだろう。それにあの人へ妙なことを口走ってしまったし……。神は美しさというのを俺はどういうつもりで言ったんだろう)

 一郎の感じるのは後悔や自嘲ではなくて、いかにして独自的の神の論証を成り立たせるかだった。きざというか、嫌なことばを使ったという感想はむろんある。大宮へ気の立った声を使った疑問も強まる。それを考えていたら、宅へ帰る前に疑いを決着させようと数駅の暇が欲しくなった。

 (あのとき口にした神というのは、つまり信仰すべき、崇拝すべき対象だろう。これに従いさえすればよい、というものを探しているのだから、それだけは必然的確実に正しいものを探しているから、それはむしろ概念でいい。では美しいと思ったものに追従すればいいのだろうか、完璧に着飾られた悪徳があるとしても? ただきれいであるというよりは、個人の基準によらない、経験せずともこれこそ真理と知れているもの、人間の私的なえり好みに関係なく、反論を試みることができても、抗いようのないもの。神はおそらく全知全能だから美しくもあるだろう。だから、はんさいをすべき絶対の対象になる。美しくて、かつ正しい……美しくない神とは何であろう? 不完全な神……美は善性……)

 また最寄り駅へ引き返すのにも電車を使った。一郎のいる町は、そこを過ぎれば長らく丘陵がつづき、海岸沿いの国道か峠を越えるかしかない、なかば閉ざされた土地にある。電車で超えたら、電車で戻るほかなかった。

 (美しさは経験的に理解できる。経済的要因から健康の意味が痩せているのか太っているのか変わるとしても、美しさの条件はそれほど変わっていないのではないか。いや美しさというよりは慕うべき性質、性格、門地……いや生まれはもはやそれほど意味を成さない。あるのはその人がどうであるか、その人自身の特徴……。ほんとうはそれだけ優れているかではなくて、どういう人間なのか、そういうもっと基本的なことがらへ興味を持てるかが重要なんだろう。としたら俺は今までいったい誰に、金や権力や能力にとらわれずに惹かれたことがあるだろう。場合によっては、美しいという感想も抜きにして)

 しかしそのような人物は過去の記憶する肖像群には発見できず、彼がいっとう心を躍らされたのは、やはり美麗な人であった。

 (きれいだというのは、やっぱり何かしらきっかけなんだ。人を愛することの出発点には、どうしても権能か美か、なくてはならんのだ。しかしほんとうに美しいとは何であろう。パスカルの言うことをつぶさに研究すれば何かわかるのか……)

 一郎は自分がどういう人間を美しく思うかを考えはじめた。そこから出立すれば議論の範疇は狭まって、結論はいかにしても私的な好みでしかなく、公的な・根本的必定の美性はさしあたり不問となる。すくなくとも、自分が好きであるというところから彼も好きだろうというところへは、着地できないのだから。



 もう雪の降る季節ではなくなった。北部では四月でもうずたかく積もるけれど、一郎が今後この土地で見るのはうら寂しい空を厚い雲で蔽して降り落ちる雨である。晴れた空の青色は淡く、雨天曇天の灰色ばかり一挙に押し寄せる悲哀のように濃く重たかった。吸い吐く空気のなかにまで憂鬱が嗅がれる気がした。

 笹尾氏の最後の旅行は一郎の春休暇のあいだと決まるまで、千代子は笹尾氏やみずからの提案を携えて週に一度は一郎を訪ねた。しかし何を話すことがあるだろうか? 彼女はいざ一郎の書斎に脚を踏み入れると、何もしゃべらず、出された茶を飲んでいるかもわからないくらいにすすっている。一郎もあえて話しかけることもせず、彼女に向かい合うよう籐椅子に座って文庫本を繰る。千代子のことが目の端、気の端にちらちらしていかんせん物語世界へ入っていけないので、自然と次に繰るまで五分も十分もかかる。彼女は黙ったきりでただ何か話そうという顔で彼を窺い、包みを手に提げているのにいつまでも開く機会を逃しているような焦れた風体である。そこに一郎から話を差し向けないのだから、埃が積るような沈黙が、場の生気や時間の流れや、観念的な何かしらの正しい循環を圧する。人の出入りが絶えすっかり使われなくなった空き家に独特な家屋全体のかそけき息遣いが、二人の呼吸のあいだに、部屋に滞留した空気に、あるようだった。

 窓を開け放ち、空気を入れ替え、箒や雑巾で埃を取り去ってしまうようにして二人の沈黙を破るのは、あるいは千代子自身であり、あるいは一郎であり、ときに篠子や母であった。どちらかが口を開くときは、以前の快活なふうではないにしてもすこしばかり会話がある。篠子が室へ来るときはかならず世間話が二人へ飛びこんで、足元にいたちの走り抜けるような気後れがする。母はよいと言っても菓子を持ってくる。千代子は沈黙のなかへ押し入ってくる者たちにあいづちを打ってみせ、話に合わせて微笑する。いったい何を話すだろうとこちらが肚の底に身構えるような相談事のある顔が、ふと見ると、もう余裕のあるしとやかな見目に変じている。

 晩冬のあいだ、この奇妙な会合はつづいた。何を話すつもりで来たかわからない日もあるし、一郎からすると以前みずから進んで彼女を訪ねていた時分は何の話題をこしらえていただろうと思い返せないほど、今は話すべきことがらもなかった。してみれば千代子の来訪はときにうっとうしかった。

 それで一郎はとうとう彼女に尋ねた。

 「ここ最近は数日ごとにいらっしゃいますけどどうされたんですか」

 彼はこの「どうされたんですか」をなるべく柔和にしてみせた。不歓迎のていを見せると彼女の遠慮や反感を買うかもしれない。一郎は、千代子にはそれほど繁く来ないでほしいけれど、それを不満として呈することで彼女を傷つけてしまうのだけは避けたかった。

 「お嫌でしたか」

 「いえ、そんなことでは」

 だからこのように及び腰になる。

 「一郎さんも以前はうちへいらっしゃったじゃありませんか」

 「そうですね」

 「わたくしはああして一郎さんと話すのが楽しみだったんです。でもだんだん来てくれなくなったので、わたくしから今度は伺っているんです」

 「別に笹尾さんから言いつけられたので義務的に伺ってるんでもありません」と千代子はことばへ気をこめて彼の目を見た。

 「あなたの声が聞きたいんです。ただ無性に会いたいから来ているんです」



 千代子の放言はそれから一郎を揺るがしたままであった。彼女の口調を思い出しながらその声を何度も再生した。ぼんやり本を読んでいると、印刷された文がにじんで彼女とのやりとりが代わりに浮かび上がるような錯視が絶えなかった。

 千代子は最後に告白じみたことばを一郎へ投げ渡して帰ったのだった。

 そのせりふを思い返すたびに、彼女の顔や声色がかえって思い出せなくなっているようだった。無性に会いたいということの意味すら、考えるにつれ明晰ではなくなっていた。

 旅行に連れ添う話は、一郎の春休みに合わせて近辺を一泊するよりほか彼の知るところではなかった。大学の春季休暇は二月のなかごろ、講義の試験や課題を済ませてから迎えるはずである。一郎はもうはたらき口を探す時期の入り口にある。

 一郎は未来に向かって自己をどう舵取りするか予定していない。前に広田先生からの課題をうまくやり過ごした功績がみずからのうちにいまだ燦然として消えず、そのおかげで彼には楽天的の性分が根づいた。万事につけ、なるようにしかならないし、究極的には人間がその運命的将来を操作しえないと解釈する。いや、これは悲観的諦観かもしれない。だから就職にしても、資格の取得や採用試験の合格などに向かって尽力するほか、自分の力で成せることはないように見ている。彼は父の忠告をすなおに聞き、へえとすべてに納得したような返事をした。母がどの職業につくことになっても構わないようさまざまの資格を取ったと自分のことを語れば、ないよりは多くあるほうがいいでしょうといいかげんな返答を作った。篠子のからかいにはむしろ妹のわがままを聞き入れる兄の懐深さのような態度で請け負い、彼は何ごともついにはうまくいくだろうと信じた。一月来に荻野らと本式の会話をした。

 「一郎は哲人になるんだろう」と荻野が言うので、その要領を尋ねると、どうも大宮が関係しているらしかった。一郎が彼の下宿の部屋へたびたび上がる姿を何某かが目撃したため、あそこは日本のアカデメイアかリュケイオンかと荻野らが呼称しはじめたという。一郎は笑った。美音子の名は出ないのでさしあたり安心した。

 しかしこうしてまた荻野たちの煩瑣はんさな世界へあらためて引き戻され、広田先生から課題を受けたころ、または千代子と知り合ったころのようになってくると、また大宮のところへはそう行かなくなった。部室へ行って談笑しながらの就活談義や、卒業論文のことをべつだんの結論を求めず話していると、彼は時間を忘れた。母に黙って料理屋で飯を食べてから帰ることもあった。

 「美音子ちゃんが最近兄さんと会っていないって」と篠子。

 「就職のために資格の勉強をしていたら大宮の下宿へは行かれないんだよ」

 「急に慌ててやりだすのね。それで審査のほうには間に合うの?」

 「間に合うよ。けれど最後のチャンスだろうな。履歴書に資格の有無を書くんだから。——雷か」

 今日は何だか天気がおかしいのよ、と篠子は彼のかわりに書斎に一つの窓を閉じた。豪雨の予感のある黒い雲が見えた。



 真昼の太陽にはぬくもりがこもりはじめた。最後に雪が降ったのはいつだったろうと思い返せば、正月のころ道端に土の混じったものが二、三日残るくらい降った、それきりである。季節のことばは厳冬から三寒四温の四字へ移る。

 せんのささいないさかいがあったものの、二週か三週ぶりに大宮のところへ行くと彼は全然とそれに頓着しない鷹揚とした表情で彼を迎えた。すぐに立ち上がって、大宮は他人行儀なそぶりなしに一郎へ留守番を頼んだ。友人が一人、急な用を持ちだしたので片づけに行くらしい。美音子がじきに来るはずだった。

 他人の下宿先であり数週間の無沙汰があったにしても、一郎は先ほどの大宮の様子から遠慮はいらないと判じて、畳の上に寝そべって彼の書棚にある本を手の届くかぎり取り出しては無造作に繰って見ていった。半分は哲学で、半分は小説で、あとすこし生物学の本があった。哲学書はすべて近現代に刊行されたものの邦訳書だった。小説も川端、谷崎、志賀という並び。彼はそこから『掌の小説』をそぞろに読みはじめた。題の気になったものをつまんだ。

 それで十篇も読んだころに美音子が来たので、彼は居住まいを正した。起き上がるのがすこし遅れたので彼女には自分の不精が目撃されたかっこうで、美音子は遠慮がちにあらと笑んだ。彼もできるかぎり愛想をこめた笑みを作る。

 「兄はいつごろ出ました」

 「三十分そこらです」

 ご無沙汰しておりますと恭しい挨拶をすると、いつぶりだろうという形式的な会話がひととおりある。ええ、もう三週間も。そのほか微妙な間柄の若者のあいだに無理のない世間話が一件、二件、交わされて、そこを間借りしている兄が帰宅するまでの相手だというようないささか硬いことば遣いももとの訛りのあるものへと、時間を経て水を吸ったようにやわらいだ。先月はどういうふうに話していたものか彼には知れないけれど、ひとまず友人の妹へ調子をそろえながら、やはり美人だと肚のうちに感嘆できるだけの余裕は取り戻した。冷えるので美音子は上着を着こんだままである。

 「いつごろ暖かくなるんでしょう」

 「もうすぐでしょう」

 「また花見の季節になりますね」

 「城址公園の桜はまた立派に咲くでしょう。しかし僕は就職があるのでそうのんきに桜を見てよいものか……」

 「もう就活ですか」

 「僕は準備がすこし遅いくらいです。ぼおっとしていたら出遅れてたいへんです」

 「どちらを希望してらっしゃるの」

 「たぶん出版関係」

 「そうしたら、自分の将来を決めるんですから、その、神の言うことは聞かなきゃいけませんね。その、神様のような何かの」

 彼女の話の筋はすこし不自然なくらいだったので彼は不思議に思ってことばに詰まる。

 「その……以前言ってた、美しさの概念というのに、従えば、すこしは就職もうまくいくんでないですか」

 美音子は一郎が路上で言った妄言じみたもののことを言いたいのだった。

 「ああ、いや、それは……」苦笑でごまかす。

 「あれから私、ずっと考えていたんです。なぜ美しいのが最上のものになるんだろう、小垣さんは何を美しいと考えるんだろう。でも気になりだしたときから小垣さん、二週間も三週間もずっと会わなくって……」

「それは、いや、すみません」

 一郎はもう自分にとって最上に美しいものを説明しないわけにはいかなかった。なぜ美しいものが神となるのか言ってみせねばこの場を退けなかった。それに大宮が帰ってくると、彼は一郎の耽美的神学を嘲笑するにちがいないので、一郎はこれらのことを簡潔にものおじせずに答えてみせる必要があった。

 美音子は一郎が言いにくそうに一言ずつ述懐するのを、ときどき制止して、彼が意図せず端折った箇所をもう一遍、話させ、彼の論述の腰を折らないくらいに質問しながら、彼の思想を分解していった。当然、絶対的な美しさがまだ一郎の主観的な批評にとどまっていること、くわえて、それは美音子のような背の高い細身の女を指していること、してみれば、一郎が神と見なしあるいは崇拝したいのは、眼前で自分を詰問する大宮美音子であることなどが、なし崩しに露見した。美音子はしだいに嫌な顔を隠せなかった。ただのまじめそうな兄の友人が、どうして自分を神のごとく扱いたがっているのか。聞かないでよいことを聞いた。彼女は一郎がいつ自分にほれたのかまで聴取してしまって、打ちひしがれている絶望的の顔が青白んだ兄の友人を、とうとうかわいそうに思った。学生になって思想ばかり弄していたら、これほどねじれてしまうのだろうか? 哲学をしている兄にはそういう風貌はない。むしろ兄は信仰や神を否定的に見るので、それで以前この友人と小言を言い合ったのだ。観念に取り組む点では似た人間だのに。

「兄はじき戻ってきます。兄に言いつけましょうか」

「あっそれはよしてください。それはだめです」

 つと立ち上がる美音子に、正座の一郎は取りすがった。

 彼女の前に膝をついて床へ頭をつけた。

「どうか許してください」

「なぜそんなに謝るんですか」

 年齢でも学業でも数等ばかり先を進む一郎への不意の優越感が、美音子の心に屹立し、ひいては肉体全体に向かう官能的充足になった。

 彼女は膝立ちになると、許しを請うばかりの一郎の畳へ擦りつける上半身を持ち上げて胸に抱いた。

「神と思ったらもうしようがないんじゃないですか。私はただの女学生ですけれど、小垣さんが私を神様だと思うならそうなってあげます」

 それでなおさら感謝のことばを使って賛美する彼に美音子は得意に思った。兄と議論していた理知的な人物がなぜこれほど愚に見えるのか。

「兄に話したってしかたありません。どうせ侮蔑して、友人としての交際が終わるだけでしょうから。だからそのかわりに、小垣さん、私を礼拝してくださいよ。崇拝してみてください。自分の思うように私を崇めてください」

 美音子は三角座りで、手をついて放心の様子の一郎に向き合うと、身をすこしうしろへ反らして、両手で畳へ突っ張って体を支え、彼のうなだれた顔の前へ自分の足を差し出した。彼の頭に足先がやや当たって、一郎はそれで先ほどの美音子のことばの真意が知れたのか、彼女の宙に浮いた片足へ口をつけ、幾度もさすった。彼女のシルクの真っ白な靴下の滑らかな肌触りの下にぬるい血の巡りがあった。美音子はもう片方の足で彼の肩を軽く蹴った。美音子のなかで学士的な一郎は失墜している。方向を誤ったその足が一郎の頭部をかすめた。

 横座りに戻した美音子の腿へ一郎は顔をうずめ、許してください、許してくださいと言った。彼女は馬鹿っ馬鹿っと握りこぶしに力をこめて彼の頭をたたくと、一郎は馬鹿ですみませんと美音子からすこし離れた。結局彼女は一郎を自分の膝へ呼び寄せて上に座らせて抱擁した。背丈では美音子が上であるから、座高などを考えても彼女のほうがすこし高い。胸元へ彼の頭部を押しこめるふうにして彼を抱くことになる。肩から背中へ撫でてやる。

 そのときの礼拝はこれで終わった。もう兄が部屋へ戻ってくる時刻であった。美音子が便所へ立った。

 取り残された一郎は体に血流を感じていた。血の流れに従い美音子からもらい受けた精力が血管を走駆した。身体の末梢まで発熱した。はじめてほんとうの血液が流れたのだと彼は思った。彼女に蹴られ殴られた頭から憑きものが取れたようだった。さすられた肩が軽かった。目がよく開いた。肺がたくさんの空気を吸った。

 神はやはり美であり美音子であろうと、一郎は覚知した。

 大宮が帰ってからはもとの三人である。一郎と大宮がかけ合い、そこへ美音子が合いの手を入れる。今度は一郎と美音子とが話す。最後はきょうだいの会話になる。

 大宮は前の小競り合いのことはいっさい話に出さない。一郎は助かったと思った。そうして自分が他人の妹と容易ではない関係に陥ったことが、その実兄とふれあううちにまざまざと感じられてきた。彼は背徳の感を抱いた。申し訳ない心持もあった。美音子が静かであるのもいささか恐ろしかった。

 ころ合いの時間になって、誰となく懐中時計や外の空模様に目をやった。帰りは一郎と美音子と二人いっしょに立った。兄は何の疑いも察知もなく実妹と友人とをそこで見送った。

 一郎はその帰途に身構えた。彼女からいったい何を言われるだろうと怖かった。

 美音子は何も口にしなかった。数にならぬ話もゆするような話もしなかった。彼は今度は彼女が何も言わないのにおののいた。それで自分の目線よりいくらか高いところにある美音子の澄ました表情を横から見上げた。

 とうとう「ほんとうに申し訳ございませんでした」と言った。

 「何が申し訳ないんですか」

 「足に顔をつけたり、腿に顔をつけたりして」

 「それが礼拝だったんじゃないのですか」

 「いや、礼拝のつもりで、一心に……」

 「じゃあ何でもいいでしょう。それで心はいくらか軽くなったんですか」

 彼はうなずいた。

 そこで篠子を経由して小垣の家へまた訪ねる算段が立てられた。一郎は彼女の「ではまたそちらへ伺いますから」という言に血の激しくめぐる感覚を持った。ありがたいありがたいと何度も思った。

 今日はバスで帰りますと言う美音子に駅前のバス・ターミナルまでつき添って、バスの来るまでの十分少々を横で待った。

 「では、今度、かならず」と言った。

 一郎はもう引き返せないことを感じつつあった。美音子へ悪いことをしたという罪悪感の裏に、自分の都合のよいほうへ転んでくれたという僥倖ぎようこうの気味が垣間見えた。彼は自分が正直にふるまったためこのような仕合わせになったのだと捉えていた。

 宅の前で買い物帰りの千代子に会った。彼女の顔にまた特殊な感情が差しているようだった。しかし一郎は美しくないなと彼女を見た。彼の信仰心は千代子へいっさい向かなかった。



 自分の心行きをどう処理しようかという問題が彼のうちで就職のことに先んじていた。彼はそのとき千代子にばったり会ってみて、信仰を実践しえたのちのみずからの心境の変化が、もとから予期してはいなかったにせよ、ちょっと驚かれるものであるのに気がついた。自分がすなおな感性の部分ではあまり冷淡すぎるというか、正直すぎるのを千代子への印象で自覚すると、暗い穴倉へ放りこまれた気分であった。彼はそこから出て行けないようだった。小垣一郎の信心の圏内では、荒木千代子はまるで排除された。ただ大宮美音子という一人ばかりがあった。およそ排せない存在であった。

 千代子への自分の態度に一郎は無情を見た。以前はこちらから宅へ会いに行って二、三十分、話していたのが、それが中絶されたあとでは嫌になって、今度はあちらからやって来るように変わったのすら不愉快に思うのだから、どれほど自分勝手かと反省した。しかしだからといえ彼女にまたそれまでのような素朴な思慕をあらためて向けようとは考えられなかった。冷たくあしらう態度は止してもっと愛想よくしよう、自分から話しかけてみようという心づもりは簡単だけれど、反面、顔を合わせてすぐに美しいという感興の起こらない他人へどうしてあえて友好的にするのかと反抗する精神を、抑制できなかった。

 美音子への信仰心も同じである。一郎は彼女が篠子に頼って宅へ来るまでの十日弱を、千年万年の先のごとくに耐えた。彼女からいつごろ伺うかは知らされないので、今日来るかもしれない、やはり明日だろうと、毎日居ても立っても居られず、自分が外出しているときにおり悪しく彼女が来たら無駄足になると外へ出るのもためらわれる。そうして彼女の肢体や顔を思い浮かべながら我流の礼拝をやり、その一刻も早い顕現を希うのだった。彼の思考を美音子にまつわる空想が占領しだした。彼女への頌美をより全面的で直接的にできる方法がかならずあると一郎は信じていた。その頌美はのみならず、自己投与の装いある救済にもなると彼は解した。すなわち自分の尊慕の念をもっともよく体現しうる方法を採れば、彼女からの施しを受けるまでもなくその行為によってすでに多少救済されると彼は理解している。一郎はこの奇妙な尊敬を当人に打ち明けたときから、その心向きがなお激しくなって耐えがたかった。

 こうした精神上の変化が誰に相談できるものでもないことは無理からぬ話だが、さりとて放置していても美音子に面と向かってこうべを垂れたい気勢は治まらず、早く連れてこないかと篠子に催促するか考えたほどだった。生活の途上で、彼の思考中を美音子が通過することはほぼないが、ひとたび彼女のほうへ心持が寄せられていけば、ついにそこを彽徊してだんだん身が落ち着かなくなる。今時あの人は何をしているだろう、冬の寒さが身に染みてやいないか、しかし冬の黒い制服を着た彼女はどんなに優雅な様子で街を歩くだろうと、神にかけるのとはずいぶん異なった思いなしをした。最後には、どうかあの人の脚へすがりついて、緩やかで細い両脚の底からみなぎる若い熱を身に受けたく、手を合わせて願うのだった。自分の神経の表面を覆う古く乾燥した硬い角質のようなものが、彼女の力能によってはがされ更新される気が彼にはした。

 そのあいだ千代子は三回ほど来た。彼に自分の真意を告白してからはいくぶん心安くなったのか、もとのように話題があちこちした。ささいなことをさも一大幸福かのように話すから、それは一郎にも愉快であった。庭に猫が来るようになって二か月だが縁で眠っている姿を見た、笹尾氏の好物がかぼちゃの煮つけと今になってわかった、裏手の路地にひっそりたたずむ道祖神の祠にかまきりがいて通りがかると鎌を掲げて威嚇した、等々。むろん一郎にしてもへえへえと適当な返事をする以外よく知らないほどの話だから、へえそうですかとする。しかし千代子は楽しげである。彼もあまりいいかげんな答え方では彼女に悪いと思って話を膨らませる。実際一郎の口ぶりは当初ひどく冷たかった。そこに千代子の温かい口調が吹きこんで、彼にも自己を顧みる余地がまた生まれる。

 二人の仲はすくなくとも一郎の父母の公認するところである。篠子も前より気楽に千代子へ話しかけ、あるときには二人きりで服屋へ行くし、なぜか母のかわりに小垣の夕飯の材料を買いに出ることもある。家族の一員になれたようでうれしいと千代子は言う。 

 美音子が訪問するまでの十日のうちには、一郎と篠子と千代子で海へ出たことがあった。浜辺を散歩した。二家のある町から海へはバスを使えば三十分の距離で、日常、夏は周辺の者が遊泳に来るけれど、冬は波乗りをする人もいない寂しい片地である。その日は犬を連れた人もなかった。汀から離れた浜を三人は歩いていた。篠子は興の乗った声で話した。二人はそれに答えた。海ははるか先まで穏やかであった。霞がかった海原は水色の絵具を溶かしたような空気が満ち、そこへひと筋ばかり、筆を握る手に緩急くわえながら紺色を引いたような山や市街が目に入る。すべて粒だって見えた。湾越しに見える彼らには知らない町の並びが、どこか憧れを誘った。そこに何があるのでもないだろう。ただ何となく憧れるのだった。磯のかおりがした。

 篠子が波打際へ行き、裸足になる。

 「きゃあ冷たい」

 「自業自得だ」

 「これで魚は生きていけるのかしら」

 「恒温動物ではないんだしきっと大丈夫だろう」

 「千代ちゃん入ってみて、冷たいから」

 篠子と千代子の仲も日増しに深まっていた。

 千代子は誘われるまま、足の片方を裸にして波のなかへつけてみた。その冷たいのが意外だったか、思ったとおりでも肌に感じると別なのか、寄せたさざ波が彼女の指をくすぐるとすぐ体が跳ね上がって、勢いで素足をついた浜の砂に足を取られたか、一郎のほうへ背中から倒れかかった。一郎が「危ない」ととっさに彼女の肩を抱きとめた。千代子は背後から一郎に抱かれたようなかっこうである。

 「大丈夫、千代ちゃん」と篠子。

 「うん、全然」

 一郎へ礼をして乾いた浜に座りこむと、千代子は靴を履いた。どうしようもないこととはいえ遠慮なく千代子の体に触れてしまったのが悪く思われて、一郎は黙った。

 「浜を歩くのは慣れなくって」

 「僕も慣れません」

 「兄さん、ちゃんと千代ちゃんを支えてあげて」

 「いえ、そんな」

 三人はそれから波を離れて脇の公園に入ったが、やはりベンチで海を見た。海はまったく変わりなかった。ある時点からある時点までの波を録画して、繰り返し再生していても気づかないほどに、海洋は姿を変えなかった。潮のにおいがあった。

 バスで千代子ははじめて海へ来たと言った。それから小垣家の海の思い出が篠子によって語られた。女二人の座る座席のうしろで、一郎はすこし眠った。千代子の肩を抱いた記憶が夢のうちに寄せた。そのとき鼻についた彼女のにおいを今も嗅いだようだった。



 一か月のうちで十日というと三分一ほどだが、過ぎていくときには十日などすぐのようである。しかし字面の印象では長く感じられる。それに十日前を思い返すと、何をして何を食べたか覚えていない。

 美音子の思い出が一日ごとながら鮮烈であるのに対して、千代子の場合は数日ごと会うだけに一つひとつのことは容易には思い出せないが重層的でいくつもある。美音子との思い出は画廊を歩いて絵画を眺めていくようだが、千代子との思い出はアルバムをめくるようである。

 日曜日の夜、一郎は父に呼び出された。夜の食卓で風呂を上がったら来いということだから、一郎はまずもって職業の話を想定したのだが、その瞬間の母の顔色からするにまた別な話かとも思った。ただそのほか何を父の部屋で議論すべきかわからないので、いかようにも思慮できなかった。篠子はべつだん聞かされていないと見えて平然としている。

 湯から上がってすこし体の粗熱や水気を取ってから、妙な緊張を胸に覚えたので水を飲んだ。冬の地下に埋まる水道管より流れ来る水は、恐ろしく冷たい。

 父の部屋へ伺いを立て、入ると、そこに母もあった。彼はこれがちょっと意外だった。話はじきにはじまった。

 「就活に向けた準備はぼちぼちかい」

 「はい」

 「卒論は」

 「おおかた方向性は決まりました。資料を探さないといけなくて」

 「ゆっくりやればいい」

 一郎はうなずいた。こんな話かとすこし気が緩んだ。

 父は座布団の上であぐらの組み方を変えた。

 「まあ学業も職業もどうにかなるだろう。問題は伴侶だ」

 一郎はこれにどきりとした。

 「伴侶。結婚ですか」

 「うん。もちろん仕事が落ち着いて、心に余裕ができてから家庭を思い描くのでも構わんが、いや、このさい両親でよい人を探してもいいかしらんと思ってな」

 父はふいと息をついて茶を飲んだ。

 「一郎の意見はもちろん聞きます」と母が言う。「でも親どうしが仲良くなくってはどうにもならないこともあるし、それに、私たち親の目からも見定めておきたい気持ちもあるから」

 「結婚なんてまだ考えたことないだろうね」と言う父に、ええと答えた。

 一郎には二人ばかり女の顔が浮かんでいた。どちらにも決めかねるというように二人は同じくらいの明瞭な像となって彼へ訴えかける。

 「しかし一郎、今のうちでいいと思う人はいるかい」

 彼はこの手の投げかけには即座に答えようと思って先刻から頭を動かしていた。けれども今ここに思い描く二人の名を挙げていいものか、そこで長らく悩んだ。一方は神と敬う人間だから、なおさら縁談に持ちこむべき人かはまるで決断できなかった。最近、自分を訪ねてくる人についても、はたしてその人に愛情を持てるかは彼にも知れなかった。というのも愛とは相手の半分を引き受け、自分の半分を預けることだから。とうとう「いません」とした。話はそれで閉じた。

 翌日の昼に千代子が部屋へ来たおり、彼女の口から出るつれづれ話と同類のつもりでそのことを茶請けに語ると、千代子は硬い顔をして一郎の顔をじっと見た。彼にもまだ事の仔細は判明していないので、たしからしい話を少々話した。

 「一郎さんはどうされるんですか」

 「どうと言われても、なるようにしかならんでしょう」

 「お相手は誰でも構いませんか」

 「誰でもというわけには……」

 一郎には彼女から受けた素朴な告白が思い出された。それを踏まえると、彼女にどう声明しようかわからずに曖昧なことばを使った。この話は彼女にはするべきではなかった。一郎は自分が無神経だと反省した。

 自然に誰かと婚約するだろうと一郎は想像する。どういう人かは別にして、きっと将来には配偶者があるだろうと決めている。しかしそれを千代子に言うのも無責任な気がするので止めた。彼女は帰った。

 結婚は一郎にまったく想定されていなかったことがらである。そしてそれだけに特別誰でないといけないという感情も起こらない。父母が話をつけて、この人でどうだろうとまったく知らない人に会わせられても、気立てだの器量だのというものが好印象ならただちに了承するくらいあまり拘泥しようがなかった。

 一郎の想起した一人は先ほど帰宅した。もう一人が来たのはその二日あとである。

 高校と大学とでは休暇の期間が大いに異なる。春で言えば高校の休暇は十日ほどだが、大学は二月のなかばから三月いっぱいまでおよそひと月半も休む。一つには大学受験があるし、あるいは学会もその理由だろう。大学の形態、学部学科により実質的な休みはずいぶん変わる。のみならず試験や課題や実験などでその大半を奪われる者もある、留学に使って鍛えてくる者もある、労働して金と経験を得る者もある、宅に居座って九十日を無駄にする者もある。大学生という範疇には鑑別するに苦労するほど多様な人間が収まる。一郎もそのなかの一人である。

 とにかく篠子らと一郎とでは生活のありようがまるきり違うため、彼が休暇のとき、女学生たちはまだ通常の授業のさなかであった。それで美音子は夕方に半時間だけ立ち寄ったのである。

 そのとき一郎は新聞の三面記事をこだわりなく眺めていた。俳優の不倫や高速道路の多重事故をつまびらかに知りたいから新聞を開いたのではない。気の乗らない小説や研究を避けるためである。電気ヒーターで居間は熱っぽかった。しかしヒーターの発熱ぐあいをつまみで調節すると次は肌寒いくらいになる。すこし暑いくらいのところへつまみを戻した。

 ところに篠子のただいまが廊下で聞こえ、そのすぐあとによく知ったお邪魔しますが彼の耳に飛びこんだ。胸が跳ねた。彼はなるべく平生の顔を作って新聞に向けた。心と耳だけは廊下に向いていた。

 先に篠子が居間を伝って台所へ入り、母に何か話した。ただ母の言う「三十分だけ」という文句が聞こえた。すなおな返事をした篠子は「また美音子ちゃんが兄さんの部屋を見たいんだって」

 彼はそれで新聞紙を畳むと、気の急いてるふうが面に上ってはいないかと努めて無表情になった。彼女のあとをついて廊下に出ると、たしかに美音子がいつもするよそ行きのかすかな愛想笑いで彼に挨拶した。一郎はその微笑に向かって「こんばんは」

 「母さんが三十分だけって言うからすぐ案内して。本棚をすこし見そびれたって」

 部屋へ入って電気をつけるとき、彼はスイッチの前で電灯のゆっくり明るくなるさまを見上げながら、女学生二人をなかへ迎え入れた。このとき、美音子の華奢ながら若い精力にあふれたような姿と、制服のプリーツ・スカートから延びる締まった真っ白な脚と紺らしい長めの靴下などの色の合い方と、このところ見なかったあえて口を閉じてあるようなきつい表情を、彼は額に収め絵として飾りたかった。以前から彼が空想していたことだけれど、美音子はどこで何をしていても、あるいはどのかっこうであっても、額をはめるとそのまま清輝のような絵になる。

 実の妹と友人の妹、それぞれとは何の遠慮もない仲であるけれど、最近の美音子との関係は篠子のまったく了解しないものであるし、何より深紅のスカーフをあしらった冬の黒い学生服の二人は、どうも知己でないまったくの別人に見えた。彼はそれで篠子にすら遠慮がちに話した。美音子へはむろんもとの敬語まじりに戻った。彼女のほうでも大宮の下宿ではじめて対面したときのような恭しさを目やことばへ浮かべているので、彼も容易に踏みこめなかった。また客用にこしらえる話の在庫は空であった。それで無言のうちに本棚へ行きついた。

 本の話をはじめると篠子はおもむろに「ちょっと着替えてくる」と出て行った。

 自分の部屋へ篠子が向かうときの床板の軋みを聞くと、一郎と美音子は決めていたように目を合わせた。それが合図となって、一郎はほとんど迷わずに彼女の胸へ飛びこんだ。彼女の体を彼は思いのほか細く感じたが、それは制服の下にたしかにあった。

 「遠慮がありませんね」

 それに彼はすぐ謝った。美音子は悪い笑みを浮かべた。

 「ほら謝りなさい」

 彼女が手で頭を押すので、彼はひざまずいて佇立の美音子の黒いソックスを履いた足へ口づけした。それで「ごめんなさい」

 「馬鹿ね」彼女は一郎の肩を蹴った。

 「喜んでいるの、これが楽しいの? だって小垣さん、あなた笑ってる」

 彼はやおら彼女の顔を見た。それに応じるつもりで彼女は軽く笑み、彼の頭を中腰に撫でた。

 ソックスを片方脱いで籐椅子に腰かける美音子を追って、彼は這ったまま彼女の前に控えた。彼女がつんつんと足先を彼の前で揺らすので、彼はむき出しの白い足を取り、了解を得ず舐めた。彼女は嘲笑の短い笑いをした。二人とも書斎の戸口のほう、廊下のほうを心なしか気にしていた。しかるに彼は美音子の足の指をねぶった。冷たい。味がない。爪がすこし長い。舌先を切りそうだった。

 美音子の素足を舐めるとき、一郎はありがたいと彼女へ思う裏で、千代子に対して申し訳ないと謝るのだった。千代子が座って一郎と話していた椅子に今度は美音子が座り、さらに自分と公言できぬことをしているのを、一郎は千代子への裏切りだと思った。そうして千代子のことを考えるうちに彼女の顔が浮かんで、今口をつけたこの白い足はもしや千代子のものかしらんと顔を上げた。そこにあるのはやはり美音子の得意そうな顔である。

 「馬鹿ね」とまた言った。

 「礼拝はここまで」と言うので一郎は足から顔を離し、なかば陶酔のうちに彼女を見上げた。美音子は大して足を拭わずにソックスを履き直した。神的な余裕のある美麗に彼はなお酔った。血のなかに美音子の目にわからぬ、気のようなものが一片ほどでも混じったと思った。肉体に若さと力が戻るようだった。

 彼もそばの籐椅子に座った。

 「今度はどうしましょう、二人きりで礼拝できるところなんてそうないけれど」

 一郎は彼女の口にする「礼拝」の語に何か神秘的ながら官能的な響きを聞いて胸の底が妙に沸き立った。「礼拝」に最適な場所は彼もよく思いつかない。

 「じゃあ本を借りていきます。数日のうちに返すからそのとき、また」

 彼女は本棚からいいかげんに一冊取って学生鞄へ突っ込んだ。それで悪魔的に笑んだ。

 これが神のする微笑であろうか。

 一郎は篠子の足音を聞くまで、しばらく美音子の顔をのぞいてた。いつからか彼女の顔は前の礼拝のときと同じ顔であった。

 篠子の足音が近づいて扉の前に立ったとき、美音子の顔はまた他人向けの底の硬い微笑に戻った。彼も目をそらして、その惰性でもって窓を見た。冬の夕方である。

 「話は終わった?」

 二人はうなずいた。

 一貫性のない複数の夢が連続的な記憶として頭に残るのと同じように、その三十分は奇妙な混在があった。篠子が部屋着で戻ってきたあとでも、一郎の口には美音子の親指の舌触りが余韻となって残っていた。しかし一郎の自発的服従を見るときの恍惚の笑みは、美音子の顔から失せていた。ややもすると今し方の礼拝は、自分の淫靡な妄想ではなかっただろうかと彼は疑りだした。読書の話やある人の作品にかんする話をするとき、美音子は一郎のほうをまったく見なかった。篠子にばかり向いて、彼女のことばにははっきりした返事をする。一郎には軽くうなずいてみせるくらいである。一郎はそれが、人間全般に通じる詐術なのか、それとも彼女特有の魔的な技なのか、図りかねた。帰途、きょうだいで彼女を駅まで送るときには、先ほどの驕慢なくらいの態度を潜めて、急にお邪魔してしまいすみませんと陳謝するので、彼は返事がうまくできなかった。馬鹿と言って蹴ったり、謝りなさいと言って足へ口づけを要求したりする彼女は、それなら、いったい誰だろう。自分は美音子の信徒であるが、今はもとの他人である。その感覚を一郎は精神分裂の一つと見なした。

 そのあとにも一郎と美音子の幻覚のごとき関係は、同じ夢を何度も見ているようで、同類の状況を繰り返しながら、いつまでも実際的な感覚がなかった。本来のできごとではないことを現実のこととして覚えていようとするときの違和感が彼にはあった。精神的な愉楽と快感で彼はいっとき満たされる。が、彼女と別れた、あるいは彼女が他人向きの顔つきになった瞬間に、彼の精神はむしろ、悪性の何かに激しく蝕まれた。それゆえ礼拝のさいには、彼女に強く求め寄った。

 あるとき、小垣の家に彼のほかはみな出かけているときがあった。父は仕事で、母も妹も何か用があっていなかった。そのときにちょうど美音子が訪ねてきた。彼女はベージュのニットに茶色がかったショート・パンツ、黒いタイツに黒のスニーカーというかっこうで、最初一郎が出迎えたときにはなかを窺うようなまだ硬い顔でいた。

 「今は誰もいません。昼過ぎまで」

 すると美音子の顔はふっとやわらいで、彼の心をそのつど奪い去ってしまう悪魔の笑みを見せた。靴を脱いで彼の前に立つと、彼女のほうが頭一つ分は背が高い。

 「元気そうですね」と美音子が言う。

 一郎の書斎へ入ると、彼は礼拝の前に例の精神的負担について報告した。それは懺悔のようでもあった。彼の話のあいだ、美音子はふだんとは違う真剣な顔をしていた。

 「じゃあもう礼拝は止めにします?」

 「いや、止めなくったっていいんですが、ただ何となく僕が苦しいだけだから」

 じゃあその苦しみを解いてあげないといけませんね。家具の立ち並んだ狭い書斎を出て彼の寝室にしている和室に入ると、美音子は彼を促して添い寝した。枕だけ出した。彼女に導かれるまま、一郎は服の上から彼女の乳房のあたりに手を置き、首元へ顔を寄せた。彼女のにおいが濃く嗅がれた。

 一郎には女の体がありがたいものに思われた。男の体がいずれにせよ硬く恐ろしいものに感じる一方、女の体はいかに筋肉がついていようと柔らかく優しいものに思えた。とりわけ女の乳房は、何のためかわからないけど、喜ばしかった。大きさが大事なのではなかった。手に触れたときの熱、弾力、たしかな感触が、一郎の空虚を満たしてくれた。それに美音子に近づくとわかる体臭がうれしかった。

 「蝕まれるのはもっと具体的な欲求のせいなんでしょう。でも私は神様なんですから」

 これが神に成すべきこととは一郎にも思えなかった。

 それから横になったまま軽い抱擁をした。起き上がって、今度は固く抱き合った。苦しいくらいであった。彼女は何度も彼の背中を軽くさすった。叩いた。

 礼拝という名を持った睦まじい触れ合いのあとで、美音子は一郎を倒して馬乗りになった。ふと見せた彼女の侮蔑の目すら、今の一郎にはありがたかった。美音子は彼の頬を五度、はつった。六度目は、彼が顔を反らしたので、止めた。息が上がっている。

 一郎は窓の光を見た。太陽光線がいくらか遮られ、あるいは拡散したような柔和な光が顔に降る。美音子の半身が照らされる。照らされないもう半身はいやに暗く見えた。彼女はただ凝然と彼の顔を見ていた。その目は何も語っていなかった。

 「あなたに叱ってもらわないと僕はだめかもしれない」

 一郎の袖をまくって腕を出すと、美音子はそこへ爪を立てひっかいた。それを両腕にした。傷になるまでひっかいた。一郎は何度も謝っていた。玉のような血が、にじむ気がした。

 「美音子さん」

 沈黙。長い沈黙。

 「僕はあなたのことが、好きかもしれない」

 一郎は涙を流していた。

 「なんでこんなただの女にほれて、神だなんて思うんですか」

 失われるようなため息。

 「あなたってどうしようもないですね」

 彼はまた謝った。光は強まるようだった。




 

 特別急行でいくつも小駅を通過し、二、三の停車駅も見過ごすと、列車は野原を駆けている。田や荒地のなかに一軒、二軒ずつ家があり、納屋がある。あるところには古い内蔵造の家が、覚えているかぎり一軒ばかりあった。農機が走っていた。そうした風景はここそことトンネルを抜けた先にもあり、また無限の林野に隔たれた向こうにも不意に現れた。しかしトンネルの前後、林野の前後で家や大地に取り立てた変化はなく、ひとわたり見慣れた瓦葺きであるから、一郎の脳裡にはあちらとこちらというような区別がされずに全部一つのものとして記憶されていった。彼はだんだん退屈になった。

 笹尾氏は彼に向かい合った座席で眠っていた。氏は列車の一時間をほとんど寝ていた。

 窓越しには始終緑野が滑る。各停車駅の周辺には人工的な景色がむしろ自然物を覆ったけれど、発車するとまた木々がちの景色になった。彼の横、通路側の席の千代子も最初は彼と小声で話をしていたのだが、ふと見た彼女の顔はまぶたが下がり、あいづちも鈍くなっていたので、彼は話を打ち切った。自分も眠る気でいたが、それにはすこし冴えていた。

 トンネルに入るたび耳が聾された。

 美音子に引っかかれた腕はもう痛まなかった。いっときはみみず腫れになり、擦り傷になったところから血も出ていた。彼は美音子にする礼拝のことを考えだした。

 一郎がみずから進んでしているのは、彼女の前にひざまずいて手の甲や足の甲へ口をつけることと、最初は彼女から要求されたものだけれど、時間が許すときには手足の指を舐め含むことまでである。それにしても隷従の態勢で、とても信仰の現れとは言えない。彼は、とくに彼女の体へ顔をうずめ乳房に触れたとき、互いの認識がまだ宗教の範囲にあるだけで、実のところ若い男女の淫行でしかないのかもしれないとやりにくかった。美音子が了承するので身体に触れ、ままならない沈殿物の取り除かれる感覚に喜びを覚えたが、恋仲へ深まって交際しているわけではない者たちに認められるべき関係ではないだろうという自覚が絶えなかった。

 これに加えて、そうした私的なたわむれを超えて、公的に美音子と会ったとき、彼女が自分へ気を置いて接しているのがありありと見えると、なぜ他人のような扱いをするのかと迫りたかった。彼女の目の奥にある近寄りがたい感情が、他人の心理を解しようとする彼の心にわかりやすかったので、彼女の外でのよそよそしい態度を彼は黙認していた。美音子は二人きりのさいにもそれについていっさい説明しなかった。

 美音子なりの取り決めと言うべきこうした対応は、一郎のなかである種の自然現象としていちおう了解されていたけれど、不可解ではあった。

 (もうすこし仲よさそうなふるまいをしてくれてもいいのに。大宮の部屋で談笑したことだってあるんだから)

 一郎の目に決定的な矛盾として映る彼女のやり口は、不断の不満足を彼の精神にもたらした。彼は心がいっこう飽かず、また救われもしないのを感じて、美音子に向かうときには施しを希求する汚穢に満ちた誠実心ですり寄った。根源は清新である。ただその上にもたげた欲望は彼女の若さを貪りたいという野卑な衝動であった。この情動は、礼拝のときにはすっかり受け入れられたのだが、かと思えば、そのほかのときには、彼女の胸の奥に透けて見えるような警戒と侮蔑と無視にはねつけられるので、彼はどれほど美音子に惹かれ、また憎んだことかわからなかった。この二つの感情が彼のうちでせめぎ合い、一つの激動する混沌に止揚したとわかったころから、一郎は美音子に傷をつけたいという冒涜的な気持ちを抱きながら、妙な企みを胸にする愚かな自分を赦してほしくもなった。

 美音子の立ち居ぶるまいや顔立ちなどを想起するたび、彼はこの危険な化合物を心中に見る。それは別の誰に向かうべきでもなく、究極的には美音子で発散されなければならなかった。しかし何をしたらすっかりなくなってしまうのだろう。結局は胸の底に焦げついてしまうしかなさそうだった。

 ところで彼女にも同じような混沌があるだろうと一郎は推量した。というのは、当初は実兄の友人という間柄で登場した人と、兄の下宿で会うたびに会話を増やし交友が生まれたが、彼は自分を神のように捉え、奇妙な好意を持っていると発覚したのだから、まず困惑と直感的な嫌悪がなければならない。そこに、その告解をする彼への純粋な哀れみが加わる。ひずみのある感情を自分のなかでうまく溶かし、より単純な思慕や憧れにして、もとの友情を温めれば安穏であったのが、神とはすなわち美であるというちょっと真意の判明しないことをうそぶいたせいで、その心をあらためるはめになり、とうとう隠していた奇抜な好意があらわになったのだから。あのときも、馬鹿ねと思ったにちがいない。しかしもしそうであるならば、自分を慕う彼を美音子は蔑み、加虐的に惹かれただろう。自分を神だと思って崇拝してくれそうなこの人から、神への愛とも言うべき感情をもらい受けながら、その醜さへのいらだちを晴らすためになぶってやろうという一見整合しない心理がはたらいたことだろう。彼女も自分の心理の混沌を感じ取って、それを恐れるあまりよけいに彼を傷つけたに違いない。「喜んでいるの、これが楽しいの? だって小垣さん、あなた笑ってる」。これは小垣一郎の喜悦に驚き、厭い、愉快を覚えた瞬間だったのだ。だから足の指を舐めさせるという悪趣味を実行した……。

 彼女のなかでこうした暗黒は日常とうまく分離されている。彼が苦悩している裏で、彼女は二人きりのときにだけ牙を剥き、ふだんは隠して慎ましくするよう自己教化した。それゆえに関係が進行するほど、彼へ冷淡にふるまった。そのせいで彼は病的な心情をどうにもできない。彼は他者の心理がややもするとわからなくなり、ときに自分の本意でさえつかめなかった。彼女の罪はここにある。

 すると彼女の罰についてまで考慮せねばならない。しかし簡単なことで、この相互露悪的な関係から引き返せないという罰を、彼女は半永久的に負うのだ。彼には最後に精神的破滅がある。そうなれば自死するか廃人になるかしかない。けれども彼女は、彼が破滅したあとでも、誰かを従え、醜劣な情念を身に浴びつづけなければ満足しないだろう。そのような関係に、進んでなってくれる人がどれほどいるのか?



 駅に降りた。その地方では三番目か四番目に大きい町で、駅からすこし行くと運河がある。その川下りをするのが旅の予定だった。予約していたタクシーを一郎が探しだし、二人を誘導する。一郎は笹尾氏の荷物持ちも任されていた。彼の両手には、自分の鞄と笹尾氏の鞄とが提げられてあった。

 トランク・ルームに三人の荷物を詰めて、まず旅館へ向かった。駅前は都市の様相で、一郎の春季休暇中を利用して平日に来たから、人はまばらなものの、車は多かった。渋滞がどこかしこにあり、同じ信号で二度、三度、待たされるほどの列になっていた。しかしそこらを抜けるともう車通りは緩やかで、旅館や運河のあるあたりは人も車もほぼないくらいに静かであった。小垣の一家ではとても泊らない格式の旅館である。

 荷物を置くと息をつく間もなく今使ったタクシーにまた乗って、川下りの乗り場の近くの蕎麦屋で昼を食べた。そこでようやく一同は息をついたくらいだった。座敷の窓からすぐ裏手の川が見える。柳が川岸に並び、川のほうに向かって枝葉を垂らしている。水のにおいがここまで届いている気がする。柳の先が揺れ、心に涼しい音を立てると、一郎の鼻に冷たい風が当たった。一郎は蕎麦を食いながらしきりにその流れを見た。雲の多い空の下でも川面のごく小さなうねりは光を含んでいた。蕎麦といっしょに注文した天ぷらがうまかった。

 するとそこの川を船が通った。船頭を合わせ五人か六人か乗ったら満杯なくらいの小さな船であった。「あら」と気づいた千代子が慌てて蕎麦をすすりきってから、口に手を添えて言う。二人もかろうじて船の尻を見た。

 「あれに乗るんですか」

 「少人数ならあの船のようです」

 「しかし舳先にああいうふうにして乗っていて、よく落ちないもんですね」

 これは笹尾氏を笑わせた。

 「船頭さんはよくやるもんだよ。うまく運んでいくんだからねえ」

 それからは笹尾氏が前に別のところで川下りをやったときの話を二人は聞いた。あちこち遊んで回ったあと、その日の最後の船へ乗り、暮れがかった川の黒い水の上を船は滑っていった。不思議なくらいあたりは静かだった、そのままどこかまったくの別世界へ漕ぎ出してしまいそうだったという。船が停留所へ着くと、すぐに温泉へ浸かって晩の食事をした。たいへん疲れたが充実していたと、笹尾氏は一郎と千代子の目には映らない情景を追っている。

 今回の旅程はそう忙しくない。詰めこみすぎた予定は身を滅ぼす。旅行を楽しむより先に予定を守ることに意識が向くからだ。それに何より、笹尾氏はもう無茶をできるほど丈夫ではないだろう。

 蕎麦代もみな笹尾氏が払い、一郎は恐縮して店を出た。ここに来るまでの電車賃やタクシー代、宿の代金までも氏の財布から出ている。一郎は、タクシーの料金メーターがほんのわずかの距離ごとに金額を釣り上げていくのを見て始終はらはらした。笹尾氏の財布からは次々と紙幣が出ていく。船代もそうだった。

 一郎と千代子はまず船へ乗りこむところから難渋した。水の上に浮かぶ木の小舟は、幾人かの大人がおとなしく乗る分には沈む心配など無用のはずだが、足を乗せるとぐらぐら揺れて頼りない心地がする。まず千代子が乗った。船は最初岸へ固定されているからそう不安がらなくてよいが、彼女は船頭に指名されて一番に乗るとなったとき、「では、乗ります」と意を決して、忍び足のふうに片足をそろりと下ろし、船が水上に揺れるとわかると、一度、腰を引いて二人へ振り向いたが、笹尾氏に励まされると二念なく乗った。腰を下ろすともう恐れることはないのか、二人へ笑ってみせた。それから笹尾氏が乗り、一郎もすこし怖がりながらも最前へ座った。流れへ漕ぎ出ていった。

 水を割り静かに進んでいく船上に雲間から差す太陽の光はありがたく、顔にぶつかり後方へ逃げる風で冷える体を慰めた。しかし何より景色を楽しむから寒さは気にならない。日中は暖かくなってきたころでもあった。三人は互いに口を利かず、船頭の話を聞きながらへえへえとうなずいた。船は柳のあいだを抜けると、石垣を積んだ岸の際に建った家屋を過ぎていく。昔の名残か、家の裏から川へ下りる石段があった。今でこそ川の水を汲んで使う家はもうなくなっただろうが、しかし石段へ座って流れを見ているだけでもおもしろかろう。一郎は方々を眺めた。古い石橋や、最近やり直したばかりのような木橋をくぐり、ときに道端にいる町の者に手を振り返した。船を受け蹴波を残す水面と同じように精神はまったく安泰であった。ここらで学問をして、ときおり船に乗れたら、どれほど平和だろう。川流れに乗り、嫋々たる微風を頬に感じ、そうした絶えず流れてあるものたちを心に透かしていると、孤独も不満足もあるがまま寛容できる気がする。千代子も同じ気持ちだろうと彼女の満ちた表情を彼は見た。彼の目に気づいて、千代子は笑んだ。

 「心地いいですね」

 「ええ、ほんとうに」

 川下りは案外あっさり終わったと思えて、実のところ一時間ほどだった。空は正直に日を傾かせ、昼下がりとはいえすでに夕暮れの様子。時計の示すかぎりは急ぐ必要はないので、船を降りると甘味を取りに町を歩いた。船の余韻がある感性は原付の音にもある種の情緒を覚える。どの景色や事物を見ても、何かうまい表現でもって物語れそうだった。一郎は詩歌にできそうだと言い、千代子は小説にできそうだと言う。彼は『廃市』を思い出した。

 川から離れていない店で、三人はぜんざいを食べた。体の底が温まった。四方八方、満足した。ただ一郎はせんの川下りで、途中、流れが二つに分かれていたところで、右へ漕いでもらいたかったのだが、規定の航路では左だからそれが叶わなかったことだけが、取るに足らないことにしても心残りであった。別に右へ曲がれと頼んだわけでもなく、何がそれほど口惜しいのか説明できないけれど、しばらくそのことが思考に同伴していた。思い出したことをそのまま口にするような笹尾氏の話を聞いているうちに、ようようそちらへ意識が向いた。彼の残念は芯からどうでもよいものとなって波のごとく消えていった。

 古い景観を維持した町並みを見物しながら、旅館へ帰るときのタクシーをいつ呼ぶか決める。三人とも自分から話題を作り無音の間を埋める性格ではなく、他人の話に合わせたり、おりに触れ情動に任せて口走ったりする人だから、何ごとかに誰かが反応して、他の二人もそれに追いついて反応を見せるほかでは、黙っていた。勝手に見たいものを見ながら歩いて、それで旅は楽しいものになるのだった。

 しかし笹尾氏の足腰は年のわりには頑健で、一時間は町をあてもなく歩いて回った。旅館へ戻ってつまむ菓子を選びに店へ入った以外は、散歩しつづけた。ちょうどよいところに菓子処があるので、つい寄ったというくらいで、そうでなければもう三十分ほどは何のためでもなく歩いていたかもしれない。町の空気に溶けこんで、もとの姿に戻れないだけのようでもあった。

 餡子の入った焼き菓子を買って帰った。

 千代子が膝にその袋を抱えて乗ったタクシーでは、店員からかけられたことばを話題にして三人は話した。一郎と千代子ははじめ笹尾氏の孫と思いなされたのだった。それを氏がすなおに否定すると、では孫とその配偶者かという見立てになった。若い二人はどきりとしてほんとうのところを打ち明けようとしたが、笹尾氏がそれより早く肯ったので、千代子が孫で、一郎がその婿ということになった。店の者はそれから営業向きというだけではない赤らんだ笑みで三人に応対した。

 「なぜあそこで夫婦だなんておっしゃられたんですか?」

 千代子が努めて柔らかい口調を作った。もとより困っているのでもない。

 「次いつ会うかもわからないんだから、あなたたちさえよければ嘘でもああやって言ってしまうんですよ」

 「私は全然構いませんが……」千代子に一郎の顔を窺うそぶりがあったので「ええ僕も構いません。ちょっと驚きましたが」とした。だが一郎にはまだ「この子の婿です」と紹介されたときの笹尾氏の誇るような顔と、千代子のうつむき顔に差す朱色のほほえみが、どうもまったくの社交辞令とは思えなかった。千代子はそうかもしれない。前の告白を考えると、一郎の妻になるという未来は、そうけっして悪いものではないだろう。では笹尾氏はどうか。一郎はその疑いをタクシーの助手席でこね続けた。なぜ笹尾氏は、自信をはらんだ表情で店員のことばに乗ったのだろう?

 旅館へ着くと、先に湯へ浸かった。露天風呂のほうにいると、そこらの男の話し声と、竹模様の塀を隔てた向こうの女湯からする声とが混じって聞こえる。二人の声は聞こえなかった。一郎はだんだんと今日の千代子の様子や、代わりに美音子だったらどうだったかなど思い浮かべた。今日の彼女はふだん一郎を訪ねてくるときとべつだんの変わりようはなかった。いつものごとく笹尾氏につき従い、また一郎と接しているふうである。もしそれが美音子なら、つまり、千代子も笹尾氏もいなくて、ただ美音子とともに旅行しているのなら、どうだろう。旅先でも礼拝するのか、彼女は川下りや散歩を楽しむ人か、浴衣を着た彼女はどれほど美しく見えるのか、等々。温泉にしたって、最後に入って以来、何年を数えるかはわからない。湯煙がそこを囲う樹木へと吸いこまれるように昇るさまは見事であった。しかし一郎は他人のことばかり気にしていた。就職も論文も頭になかった。

 湯を出ると笹尾氏だけがいた。浴場の前の休憩所で、一帯に風を飛ばす扇風機の前に陣取っている。

 「荒木さんはまだですか」

 氏はうまく聞こえなかったのをごまかすような肯定の返事をしたが、すぐに、「もうすこし浸かってたいって」

 そこの自動販売機で一郎は水を買った。氏に頼まれたからもう一本買った。笹尾氏はすこしのぼせているようにも見えた。

 「小垣さん」

 「はい」

 「あんたあの子のことを荒木さんだなんて呼んでるのかい」

 これが致命的な指摘に聞こえて一郎は肝を冷やした。

 「他人行儀すぎますか」

 「隣どうしで、最近はあの子小垣さんの家へ通ってるじゃない」

 「はい」

 「あの子が自分からどこかへ行くなんてそうないのよ」

 笹尾氏は水を口に含んだ。涙ぐんでいるようでもあった。

 「千代ちゃんはね、大学へ入ろうとして、一回は失敗したけれど、もう一回挑んでみようって思いきってこっちにいる親戚のところに来て勉強することにしたの。でもご両親は急にお病気で亡くなられて、きょうだいもみんなあちこち行ってしまって今じゃどこにいるかなんてわからないし、親戚はご両親が亡くなったとたん、千代ちゃんを粗末に扱いだしたのよ、ひどい話じゃない。あの子が頼れるのはもう私くらいだけれど——自分で学費稼ぐためにってはたらきながら勉強するって、私のところに来たのよ——でももう私も年で、外へも出るのも億劫になって、あとは臨終を待つばかりよ。あの子はまた守ってくれる人を失うの。こんなにつらいことをあなた、ほかにご存じ? こんなにひどい苦しみったらないでしょう。私はまだもうしばらく元気であの子を見てあげるつもりだけれど、こればっかりはわからないし……。それに、あの子はもうね、いや、あの子から相談されて一郎さんも、ご承知かもしれないけれど、大学は諦めるつもりだって。勉強には身が入らないし、いっそ稼ぎが安くってもどこかはたらいたほうがいいかもしれないって。がんばって勉強したのに、あんまりでしょう。はたらきに出たってどんなお仕事があの子にあるんでしょう。私から、どこかの女中の口を見つけてやるくらいはいくらだってできるわ。でもそれがほんとうにあの子のためになるかしら。勉強を諦めて、はたらいて、あの子の幸せってどこにあるの? それだったら、ねえ、すぐに信用できる人と結婚したほうがよほど幸せだと、私、思うの。だからあの子を大事にしてあげて。これは老いぼれからのお願い」

 「はい」

 一郎は笹尾氏の堰を切ったような訴えに気おされていた。氏はその返事で満足したらしかった。

 一郎は自分で考えていたよりもはるかに千代子が孤独であるのに気がついた。すると彼女が不憫に思えてならず、どうにかしてやらねばならないという人情を抱いた。前に彼女から宅へ来るのを不快に思ったのは悪かったと恥じた。今からでも彼女を千代子さんと呼んで、いっそう睦まじい交友を築くべきかもしれない。

 しかし「大事に」とは、どういう意味だろう。

 「今度からは千代子さんと呼んでみます」

 「それがいい」

 そこへ千代子が戻ってきたのである。彼女は浴衣に洗い髪の姿で、頬は赤く、湯のにおいをまとっていた。頭髪洗剤のかおりもあった。

 三人は一度、部屋へ帰った。夕飯の膳が二階の座敷で食べられるようだった。



 座敷では「温泉から上がったばかりで体が火照りますね」と千代子が言う。長いあいだ湯に入っていたから、顔に汗がにじむくらい体の内側に熱がこもっているらしかった。濡髪を光らせながら、千代子は用意された膳のうなぎや天ぷらや野菜の煮つけや県産牛のすき焼きなどをせわしなく食べていた。あとすこしで皿を取り上げられてしまうから慌てている、というふうだった。ふだんのしとやかな雰囲気とは違って、食事はすぐ済ませるたちのようだ。笹尾氏は一郎の前なのだからもうすこし大人しく食べなさいとからかい半分に注意した。千代子は照れた。

 笹尾氏の食べきれないものを一郎がもらい受け、千代子は自分の膳をどうにか一人で食べきり、夕食は終わった。三人ともしばらくそこから立てないくらい腹は満たされた。座敷は人が多く、膳にあったすき焼きを固形燃料で熱するせいで暑かった。客に頼まれた仲居が窓を開けると、外は電灯一つない森閑とした闇であった。座敷の明かりで近くが照らされているのでわかったが、すぐそばまで森だった。できるかぎり現代的な景色から遠のくためのしつらえだろう。まるきり明かりがない外は一郎には怖くもあった。

 しかし今の胃の様子では菓子まで行きつかないだろうと三人は話した。都合のいいものを買ったようで、餡子の入った焼き菓子は日持ちするから、そのまま土産として持ち帰ることになった。翌日の昼の特急で帰る手はずだった。

 食事が済んでから十五分は座りこんでいたが、客が次々来るので、部屋へ戻った。一郎には一室が与えられていて、千代子と笹尾氏とは隣り合った部屋の前の廊下で別れた。二人は体が熱っぽいようであった。一郎にも汗がにじんでいた。それで室へ入ると、広縁へ行って窓を開けた。転落を防ぐためか、手のひらが差しこめるほどの隙間だけ開いた。風がすぐ彼の顔へかかった。そこの椅子へ深く腰かけて、今日のことを思い返した。

 昼の川下りを脳裡に浮かべ、わずかに開いた窓から流れる微風を浴びているさなか、彼はまったく卒然と、笹尾氏の口にした「千代子を大事にせよ」がどの意図でもって発せられたことばか了解した。「あっ」驚きで心臓が跳ねるその反動のごとく彼はただちに椅子から立ち上がって、それはまずいと思った。

 (俺には大宮美音子という神がいるから、嫁なんてまるで欲しくない。やっぱりあのとき父さんへ好きな人がいますと言えばよかった。けれど高校生を連れてきたら何て言うだろう? 結局言えるはずがない。でも千代子と、か。なぜ嫌がるんだろう、俺は。あの人だって、見るかぎりあんなに一途なようだし、最初は俺があの人にほれていたんだぞ。何を今さら嫌がって……。あの人が家に来るのはなぜかだんだん嫌になった。最近はまた話相手だと思って接しているけれど、いや、たしかに友人だと思ってる。でも急に結婚となったら……。

 笹尾さんはほんとうに嫁にしてくれという意味で「大事に」だなんて言ったのか? これから横の部屋へ行って、僕には千代子さんとの結婚は無理ですと断って、それが俺のまったくの早とちりなら赤っ恥どころでないが……。あの文脈で「大事に」と言うんだからやっぱりその意味なんだろうか? 向こうからその話が出たころには、もう取り返しがつかない。でもこっちからしかけるのはすこし博奕だな……)

 一郎は結婚を断るときの文句を脳裡に書き起こし、また美音子でないと嫌だと無理を通したときに両家から買う恨みを想像した。社会的制裁の五字が意識された。だが千代子との婚姻となるとどうしても受けつけなかった。なぜと問われても、どうしてもとしか答えられない漠然たる心持で、彼女を友人の範囲に置きたがるのだった。

 (このままでは美音子に礼拝するのが不倫になってしまう。美音子さんどうか助けてください)

 一郎は布団へ飛びこんで枕に顔を擦りつけて、祈祷した。美音子の心底に軽蔑を沈めた慈悲の目が、見ている気がした。彼は枕をかき抱いた。美音子の脚だと思って抱いた。

 (馬鹿な僕を小虫のように足蹴にして、それで、殺してくれていい!)

 一郎は次に二人のいずれか、あるいは三人でいるときなどに、その話を持ち出されたらどうやって答えるか、もう一度、思案した。広縁の椅子に浅く前かがみに座り、風が当たるのはかえって気分が悪いので窓を閉めた。それからまた考えた。笹尾氏のことばにうなずいておいてなお提案を斥けられるだけの理由を、美音子の周囲に求めた。だが、そこには何もなかった。彼女の足を舐める自分の浅ましい姿が思い出された。

 部屋の呼鈴が小さく鳴った。彼はまた飛び上がると、戸のほうを睨んだ。彼の頭はまるで明晰に思考するだけの余地がなかった。

 戸を開けば千代子が訳ありげな顔で立っていた。彼の顔にもある種の覚悟を読み取ったのか、千代子の表情はよけいに引き締まった。彼が布団をずらして、机の位置を直す背後で「大事な話があるのです。一郎さん」

 彼はすこしきついくらいの視線で彼女を見た。彼女はただ座った。彼も座った。

 「笹尾さんから聞いたと思います。一郎さんの了承も得たって、笹尾さん、おっしゃってましたし……。旅行が終わったら、一郎さんのご両親へも正式な話を伝えられたらと思うんです。前々から話はしていて、いつの間にか一郎さんの耳に入っていたようなので。隠すつもりでも、驚かすつもりでもなかったんですが、こんなふうになってしまって、ごめんなさい」

 「いえ、しかし」

 「私を嫁にしてください」

 頭を下げる千代子に一郎は黙った。予期したとおりのことばが彼に向けられた。けれども悩んだあげく、一郎にはどういう文章もこしらえることができなかった。だから彼はひたすら沈黙した。頭を下げる千代子に、一郎は何とも声をかけられなかった。彼は千代子の後頭部を眺めるばかりだった。

 沈黙。

 やおら千代子は顔を浮かして、

 「一郎さん」

 そして彼の目を覗いて、

 「一郎さん」

 彼は首を振った。

 「すみません。だめなんです」

 「どうしてだめなんですか」震えた声だった。

 「どうしても。どうしても」

 はたと、あなたは美音子と違って美しくないから、という理由が一郎に現れた。それは言わなかった。

 「私の何がいけませんか」

 千代子は動揺して目に涙をためている。

 「あなたは何も悪くない」

 「ならどうして」

 一郎はまた黙した。千代子は彼の真意を探って、すこし裏返ってかすれた声になりながら辛抱ならないように話しだした。

 「笹尾さんの話した私の身の上話はもういっさい忘れてくれて構いません。笹尾さんは大げさに言ったかもしれませんし、生活する上で何の支障にもなりませんから。それとも私に学がないのが嫌ですか。それなら英語でも習いましょう。いっしょに外国の小説を読めたらきっと楽しいでしょうから。いや、笹尾さんをどうするかということですか。それなら、一郎さんがお勤めになってから私たちはどこかへ引っ越せばよいですし、笹尾さんはまたほかのお手伝いを雇うって。お仕事だって、笹尾さんがどこか斡旋できるっておっしゃってました。だから心配いりません。私は一郎さんのために尽くします」

 千代子はとうとう涙に押されて一郎の胸へすがりついた。泣きじゃくっているのを彼はただ不憫だと思った。

 「結婚してください。どうか私をあなたの嫁にしてください。私の真正の愛をあなたに捧げてみせます。あなたが望むならどういうことだっていたします。これ以上嫌と言うんでしたら自死もしてみせます。私はあなたが好きだからあなたと結婚したいんです」

 千代子は正座の一郎の膝へ顔を擦りつけて嗚咽していた。

 「自死は、自死だけは止してください。死なないでください」

 「では結婚してくれなくっては困ります」

 そこで一郎は口を動かせなくなって、千代子から目を逸らしもした。

 「何がそんなに嫌ですか。私を嫁にすることの何が、いったいそんなにだめですか」

 「まったく嫌だということじゃないんです。是が非でも嫌というのでは」

 千代子の涙はもう乾いていた。すると一郎の表情をよく見ることができた。要領を得ない態度のせいで二進も三進も行かないのはつまるところなぜなのか、探求するだけの余裕を彼女は持ちはじめていた。

 「ほかに人がいるんですね」

 これには一郎もどきりとした。

 「いや、まあ、そういうんでも、ないですが」

 「いやいらっしゃるんでしょう。その人のせいで、今ここですぐには踏み切れないんでしょう。わかりました。そんなら一郎さんのうちで、一郎さんの、お父さまとお母さまの前で、みんな説明してもらうしかありません。でないと私もこのままでは気分が収まりません」

 千代子は部屋を出ていった。



 翌日の予定は悉皆取り消されて、時刻になったら席を取っている特急で帰ることになった。午前から正午のうちに付近の鳥獣園に行くつもりだったが、それは一郎が千代子との結婚を快く了承すればこそで、実際彼は何ごとかを腹蔵して話さないから、柔和な関係のまま外国の鳥を見物できるはずもなかった。

 一郎は室に閉じこもったきり、部屋から見える庭を眺めていた。笹尾氏が早朝に来た。今回、荒木千代子からの申し立てを快諾してくれないのは残念だが、とにかく小垣の家で会談の場を作るから、そのときに父母と笹尾氏の前で訳を話してくれという。

 一郎には、美音子がいるからという理由のほかなかった。しかしそれは決して説得力のある理由でないし、自己をうまく弁護できる論理を持ち合わせてもいなかった。一郎は庭の池を見た。鯉がいるのはわかったが、すこし淀んでいた。

 (あそこに飛びこんで死ねたら、どんなにか楽だろう。徹頭徹尾、美音子に向かいたい気持ちはあるが、第一、美音子は俺をどう思っているのかわからない。遊ばれているのかもしれない、冷やかされているかもしれない。こんなに情けないんじゃ、男としておもしろくなく見えているだろう。もっとも美音子は高校生で、進路のことまでは知らんが、しかしそうすんなり結婚してくれんだろう。十中八九、両親や大宮が認めてくれない。大宮——あいつはずいぶん嘲るだろう)

 一郎のなかに結婚拒否の大した根拠を持たないまま、正午ごろ三人は宿を出た。飯も食わなかった。三人でいるときにそういう和した雰囲気はなかった。三人が三人、沈黙していた。帰りの特急は葬儀の帰りと変わらなかった。ほんとうは婚約の帰りのはずだった。

 一郎には成すべき方途が発見できなかった。夜に千代子の申しこみを引き受ければ、今ごろは四辺八辺が平和に済んでいた。だが彼は勢いよく千代子との人生に転がっていけるほど豪快になれなかった。自分の求めるところを蔽して、他人の幸福・全体の幸福を優先できるだけの器量を有していなかった。一郎は臆病なまま自己を貫徹しようと試みた。それも首尾よくするために早々と根回しするのではなく、長いあいだ他人の言うことにすなおに従っていたところから一転して最後だけかたくなに否としたのだった。これには全員がつまずいた。

 一郎は宅に帰り着くまで、何遍も死のうと思った。死んで詫びようと思った。けれども死ねるほどの勇気を持っているなら、もっと早くに美音子を我がものにし、千代子を突き放しているはずだった。自己をうまく発することのできないまま、彼はぼんやりと生き残っていた。

 釈明の日は父と笹尾氏がそろう数日後に決まった。その二、三日を、一郎は鬱屈した気分で過ごした。篠子は全部知っているふうに口を利かない。食卓で父母は黙っている。一郎は自分の優柔不断が生み出した不和をようやく実感しだした。今まで他人が作ったように見なしていた居心地の悪さは、どこまで突き詰めても自分のせいである。一言、はいと言えばすべてすっかり収まっていたものを乱したのだと、食卓で篠子がやりづらそうにしているさまを認めて思った。飯を鉛のように感じるだろうと不承々々ふだんどおりの夕食を食べた。けれども母親の作った飯はいつものようにうまかった。

 その数日間、一郎は部屋にこもりきっていた。春の陽気は彼の部屋に落ちた。彼はいっこうにそこへ楽しみを見出せなかった。空は朗らかで、空気はまどろみのごとき柔らかさであたりを流れている。じつに平和な世界だった。万事はうららかな春のもとで進む。ぜひその潮流に乗って、自己の関係する万事を円滑にこなしたかった。彼ばかりが、彼の周囲ばかりが、遅滞して進まなかった。一郎はそのときに底の底まで沈鬱して飯が喉を通らないくらいになればよほど過ごしやすいと空想した。時間になれば腹が減り、いつもと同じように飯を味わうのが悔しかった。自分が心の深いところでは反省も後悔もしていないように思われて恥ずかしかった。ただ漠然と生きにくい心持があるばかりだった。逃げ出せるほどの勢いもなかった。結婚への思いきりがないのと同じだった。

 そして会談の日はとうとう来た。篠子は自室にいる。父の部屋に父母と一郎と笹尾氏が集まり、一郎は被告のように三人の前に対座した。机に出された茶を飲む気にはなれなかった。

 「一郎、お前の意見が知りたい」と父が言う。

 「けっこう仲よくしていた千代子さんの申しこみを断って、理由をはっきり話さないと俺は聞いた。第一に千代子さんとの結婚に不満があるのに驚いた。一郎から千代子さんをたずねていた時期もあったらしいじゃないか。それだけ親睦が深いならと思って、俺と母さんは笹尾さんの提案を引き受けたのだ。お前にも、それがいちばんの幸せだろうと勘定したんだ。それでも否とするんなら、正当な理由がなくってはいけない。俺はこう思うんだが、一郎、どうだろうか」

 母の心配げな顔が一郎につらかった。

 「理由はいちおうあります」

 「うん。何だろう」

 一郎はやはり黙った。放言すれば済む話ではないのがあらかじめ判明しているだけに、三人の(あるいは篠子も)予見しない人の名を出すのは気が引けた。それに美音子の了承を得ているのでもなかった。だからたとえ解決になるはずがなくとも、無言でいるほかなかった。いつまでも黙して打ち明けない一郎に、父はだんだんじれったくなってきた。二遍、三遍と居住まいを正している。

 「おい、どうした。ここまで来て言いにくいことがあるか。何だって言わないとわからないんだ。ほかに好きな女がいるならそう言ってくれないと判断できないよ」

 「います、いるんです」と息せき切って言った。

 「実際、好いてる人がいます。理由という理由になるかわからんのです」

 「誰なんだ」

 口をもごもごさせて、一郎はいかにも言いづらそうにした。言ってやろうという気概だけは湧いていた。さもあらばあれと思った。声は出なかった。

 一分の沈黙ののちに、彼は美音子の名を告げた。篠子の友人で、大学の友人の妹だとも紹介した。

 「一郎の気持を、その大宮さんは知っているのかい」

 「わかりません」

 「恋仲でもないのか」

 「はい」

 「お前、諦められないのか。目の前の婚約と、遠い恋愛とどっちが大事なんだ」

 「はい。どうしても踏みきれません」

 「じゃあ、最後に一回だけ機会をくれてやるしかない。お前、大宮さんのところへ行って、一人で談判してみなさい。それで向こうが了承するんなら、考えるしかない。でも向こうがだめだと言うんなら、その人のことはすっぱり諦めて、千代子さんを選びなさい」

 父はそのことばのあとで笹尾氏に承諾をもらった。三人の意見はまとまって、以上に相違なく決まった。一郎はすぐに大宮を介して、美音子や彼女の両親に会う必要ができた。



 その日のうちに駅まで走り、電車に飛び乗って大学の最寄り駅に向かった。反対方向の電車に乗ったり、そのまま乗り過ごして逃げたりできたらよかったかもしれない。彼はそうしなかった。美音子が彼の申し立てをすなおに受け入れる公算もなかった。

 実家の所在は判然としないので、大宮の下宿へ行った。すると絶妙なおりで、きょうだいが話しているところだった。

 「ごめん。急に来た」

 大宮は大して表情を変えずに座布団を渡した。美音子はほのかに顔が華やいだように見えた。

 「別に、お前の来るのはいつも急だったじゃないか」

 「そうか知らんが……ごめん」

 それから一郎の性急に片づけたいしごとをよそに、きょうだいはもとの話を再開した。彼はそれを遮る気にならなかった。

 「でもなぜあんなできの悪い人との結婚を許したんだろう」

 「愛し合っていたからよ。器量のよさよりもふたりのあいだに愛があるかどうかが大事だと思う」

 「ふん。たしかに愛というのは尊いかもしらん。それが一生つづくならいい。でも両親家族のうしろ盾があるかがよほど俺は重要だと思う。美音子、じゃあ俺や父さん母さんが勧める人よりも、お前は絶対自分が愛した人を選ぶんだな?」

 「もちろん」

 「もしお前が変なやつを連れてきたら、俺は絶対に反対する」

 「兄さんの許しがどうして要るの?」

 「家族だからだ。家族みんなが受け入れないと、お前一人がその人と仲がいいんじゃ、だめだ」

 「よくわからない」と美音子はいらだたしく言った。

 一郎はいたたまれなくなった。自分が見こみのない勝負に挑むのがいよいよ明瞭になったから、そのまま引き上げたかった。彼はもう千代子でいいと思った。

 一郎の少々不愉快な様子が二人に伝わったのか、心配げに美音子が声をかけた。

 「いや、ちょっと話があって来たんですが」

 結局、一郎はそこで大宮に向かって土下座して頼んだ。ほとんど叫ぶように申し立てを言った。大宮はたいそう驚いた。冗談でも嫌だし、本気で言っているのならもっと嫌だ。

 「急に言われても困る。美音子には先に何か言ったのか」

 美音子が先に首を振った。

 「やっぱり急じゃないか」

 「急で済まない。でもどうしても今、婚約を取りつけたいんだ」

 「だから急じゃ困ると言うんだ。だいたい俺を通じて知り合ってるだけの仲だろう。何の関係があるというんだ」

 信仰で結ばれていると一郎は言いたかった。神と、それに従う子だと。だがどう勢いづいたってそれだけは言えなかった。そうすると二人の関係はどうとも形容できなかった。

 「そら、大した仲じゃないんだ」

 いや、実は、と一郎は千代子との話を打ち明けた。話の終わりに差しかかるほどに大宮の顔は曇った。一郎は美音子の顔を一瞥もできなかった。

 「そんな、嫌なものを逃げたいだけじゃないか」

 「そうじゃないんだ。俺はほんとうに美音子さんを愛している」

 「でもそんな仲じゃないのはわかりきっているだろう。何だ、筋が通らないじゃないか。お前一人の好きなように話を進めたがって、周りのことをちっとも気にしてない」

 「済まない。でも、頼む」

 「済まない、って、一郎、お前ずいぶん横柄に見えるぞ。お前は結局、済まない済まないと言っておきながら、その済まないの裏側じゃ、しかたないと居直ってるんだろう。だからこんな無理な相談を持ちかけたんだ。馬鹿だ。お前はずっとずっと馬鹿だ。どこまでも馬鹿だ。卑怯だ。卑怯で当然と思ってるんだ。帰ってくれ」

 一郎は無理に廊下へ押し出されて、そのまま這うように下宿を出ていった。とうとう美音子の顔は見られなかった。彼は大いに負けた。およそ承知していたとおりに惨敗した。そうして駅までの道のりを歩きながら、また千代子との結婚も避けたくなった。向かうところ勝ち目なしとわかりながら、まだ自己を貫きたかった。何か救いがあると思った。救世主がいる気がした。

 来た電車に一郎はすなおに乗った。飛びこんで死ぬのはできなかった。乗り過ごしてはるか遠く逃げゆくのもできなかった。最寄りで降りて、彼は家に向かって歩きだした。心では帰りにくかったが、足が動いた。車の前に飛び出そうと考えても足がすくんだ。川に落ちようと思っても体はそちらへ向かなかった。春の日だけはたしかに彼を照らした。

 生きている、と一郎は思った。春の夕日は燃えていた。あたり一辺を強い日射が焼いていた。花のにおいがした。鳥はねぐらに飛んでいった。帰途の者たちが歩いていた。みな生きていた。万事はたしかに驀進していた。一郎の欲するところなど一個ともそのとおりに成されないまま、いっさいはたどるべき線路の上を走り、一郎を混沌へと連れこむ。

 生きていると、一郎は思った。

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