生き神おとない・三 作:奴
うら寒い風が胸をすかして、曇天に晴間は見えず、街路の植木が寂しげに葉を落とした姿で人を見送っているさまをうち眺めれば、身体に回った冷えが精神のほうまで及ぶようで、どうも秋はやりきれないと嘆いて知らず識らずに息を吐いてしまう。秋とはそういう季節である。憂愁が体を蝕んで、ある種の病的な思想が健全なはずの肉体で回転するのが秋である、また冬である。ようやく晴れてもその青色はじつに淡い。水にインクを溶かしたような青色である。それが胸の深奥にカーンという明快な音を響かせないからいつまでも生命が温まらない。淀んだ精神になる。雨が降るときはいちどきにまとまって降り、晴れるときは朝夕を通じて、散りばめられた雲に濃淡いろいろの晴天が光る。じきに星が輝く。その緩急があるから心身ともに健康だが、晴れても一膜の雲がかかって、雨が降れば勢いのない長雨が冗長なくらいに降りつづくのでは、身にカビが生えて腐ってしまうようである。冬の乾燥した時期のほうがまだ潔く晴れつづくから好意的かもしれない。一郎は甲乙を決めかねたような空をおりおり見上げながら、帰途へ着くともせずに大学のそばを歩いてみた。いったい何が目的か判然としない散歩であった。しかるに歩はおのずと以前に彼の気に入った地所へ向かい、かつて見た景色を発見して、はてなとそちらへさらに進むと、せんに佐和木さんの引っ越し手伝いをやったときに通った下宿屋までの道のりをたどっている。一郎は今の自分には騒がしいところのほうが空虚な精神を埋めてくれるだろうと解釈していたが、そこへ行き当たると、どうも閑静なほうへと身を投じてみたくなった。真竹の鬱蒼たる公園、例の大津垣、そのほか日に焼けて表面の粉っぽくなった古書のある本屋などをつれづれ見て回るのは、屈託の消えない自身に興味を起こし、肺病に山岳の清い空気が効くようにして効果があるかもしれないと期待した。彼はそうしてにわかに勇み足で人のない深閑たる通りを行き、ただ一度だけ前に見た景色をたどっていくと、とうとう例の下宿の平屋建ての上に、二階を見せている屹立した姿を認めた。
彼はそこに着くまで、つまりその全身を大津垣の内側へ入れるまで、軒を連ねる日本家屋の家々を視一視と見て、思うともなく見定めていった。将来自分が世帯なり一軒家なりを持つとき、どういう構えの家を持とうかと想起したのだった。そこにほとんど間隙なく立ち並ぶ宅はいずれも目に馴染んだ木造の平屋か二階建てばかりで、ところによっては突然と洋館じみた豪勢なものが現れることもあるが、一、二軒ほどである。一郎はその数すくない、ここらでは奇抜に映る家宅の位置を、ただ一度見ただけですっかり覚えてしまって、また来ることがあったら、季節の移ろうなかでの庭の風景の変化や、館の壁面に這い伸びる蔦の延伸具合や、厳しい冬を超えてなお古めかしく老いてゆく全体の風貌とけっして消失しない真空的荘厳を、ぜひ見てやろうと心に留めた。
むろん彼の驚いた家屋は何も外国式のものばかりではなくて、樹齢で幾年も経ているだろう松の、塗り塀を飛び越えて道ばたへ落ちかかってくる枝葉がいまだ水気を失わない姿態も、何か詩句の一断片でも作れそうな感興を彼の身に起こす。また、壮麗な門構えの宅の、塀に設けられた透かしから見える丸く刈りこまれたツゲや、何かしらの灌木や、苔むした一面や、西洋のものとは風体をすこしばかり違えた芝の美しい青や、どこも絢爛たる色調の使われていないにもかかわらず、一種の荘重さと言うべきか、静けさと言うべきか、あるいは宗教的な緊張感とも言うべきかわからないとかく威厳のある立ち姿に、彼はある感動を覚えた。最終的にはそこへ住まう人間に威厳がなければならないが、しかしまず肝要になるのは、その家屋自体が果てしない壮麗、それはつまり金箔を貼るとかいかめしい鬼瓦をつけるとか色鮮やかな季節の花を植えるとかそういったものではまったくなくて、純粋に家屋や門構えや塀から窺える古色のかえって情趣すら感じさせる霊性が自然とかおり立つことである。我々はいくら西洋に讃辞の数句を述べて、日本を古色蒼然として排除しても、究極のところではこうした見知ったものから受ける決定的に強烈で稀なる物凄さだけには平伏して、それが何であるというに関係なく賛美してしまうだろう。一郎は西洋館に惹かれ、また時を同じくして純なる和の家に神秘的の緊迫感を感じ取った。ここには何の矛盾もなく、ただ彼は賞美すべき対象をその理性に感得して、余計なことどもをあえて考えず賞美している。美なるものを眼前にするというのもまた同じことである。彼は、それ一つにあるかぎりすべてのことばを尽くして褒めなければ気が済まないが、自分のあたうかぎりの美辞麗句を連ねてもまったく足りないであろうその家宅の堂々とした美しさに、そこを通り過ぎてしまっても感心していた。美しいものは、やはり人の足をふと止める。人は、けれども、最初いったい何がそうさせるかわからない。近づいてうち眺めれば、ようやく、その美的本性の断片か雰囲気のほんのわずかなものが感じられて、それに心を奪われてしまう。美とはそういうものだろう。ほんとうに美しいとはそうした人の悟性というか霊感に訴えかけるということであろう。都市的に鈍麻した人間の感覚を飛び越えて、その人の精魂へまっすぐ突き進むということであろう。
しかし長いあいだ暗闇に目を凝らしていた者が光のもとに晒されて目が痛むように、文明が混淆して何らの統一性も失われてしまった都会を闊歩する一郎の精神には、幾軒かの家が記憶のなかでもあまりにきらびやかに思えた。彼は胸に異様な熱を感じていた。それは心臓が一挙に締まったような強い苦しみであった。そうしてその感覚が以前どこで起こったかを彼は知った。大宮美音子をその目に瞭然と見たときである。
編み目の細かい大津垣が遠めにわかるころ、頭上には下宿の二階がしかと見え、部屋のところどころの窓が開いてありながら日差しにかき暗されて室内の子細な様子はまったく見えなかった。佐和木さんの室の窓は全部閉じきってあった。
一郎は佐和木さんとのあいだに格別の仲もないし、また大宮ともあの日話したのがようやく本格的な会話に数えられるというくらいであったから、そこを訪ねるような義理もなかった。それで庭先の植物の類だけでも見ていこうと思って、そこに人の気配のないことを知ってから、静かに門のうちへ入った。
そこには花の香があった。まず門の端から垣の角まで、その一辺が萩の赤紫、そして奥の一辺、つまりは家の片腹に女郎花の小さい黄色があって、そのあいだに割り入るようにして楠がすくっと佇んで、その足元にコスモスのさまざまな色をしたものがちょうどきれいに開いている。二階の廊下に便所のにおいが嗅がれたことが嘘らしく思われるほど、庭は芳しく薫ずる。気持ちのよい秋である。一郎は肺を庭の空気で満たした。やはりいい巡り合わせになった。都会からすこし道を逸れて住宅地を進んでゆくと美しい家々が目に入る。それに心惹かれて歩み歩みするに端正な垣の二階建てが見える。そうしてそこへ入ってみればほとんど秘密的な花園がある。庭師と大家と下宿の学生、それから広田先生などがよく了知しているだけの、緊密な小世界である。多くの人の知るところではない、そのことが、あるいはもったいなく思え、またあるいは喜ばしくも思える。一郎にはそこが愛おしかった。
今や一郎と花と木しかない穏やかなる二辺は、秋の冷涼な大気で満たされて、およそ安穏な幸福を咲き散らしていた。時間の流れというものがなく、ただ自己の悦楽と花の微薫と風に揺れる枝葉とだけが彼の脳裡に運動した。純粋に精神的な空間が作られてあった。彼は俗世を離れて、そちらへそちらへと心を吸い寄せられて、ふと妙な間隔を覚えるまではいっさいの自我を持たなかった。悦楽はその無我の内側できわめて抽象的な一個の夢として与えられているようであった。
彼の奇妙な感覚というのは、視線であった。磁力か電気のような力がはたらくのか、それとも人の気配が感じられるのか、一郎はそれの来る方角を探るように見回して、四時の方向へ振り向いて見上げると、窓から大宮が顔を出している。一郎はしまったと思った。
「何してる」
「花を見てたんだ」と一郎は言った。まるで居直るように。
「花か」と大宮は言った。「上がらないか」
一郎にはこの勧めがすこし違和感のあるようにも思われたし、またまさか友好的に出られるとも思っていなかったから、室の窓から彼を見下ろす大宮の顔を、しばらくじっと見つめていた。そうしてその微妙な間のあとに、小さな返事でもって応じた。
上がるなり、「花を見て何になるんだ」と大宮は詰問から入った。
「花、というか自然を見てたら気持ちが落ち着くから。向こうにも竹林があるだろ?」
「あそこに行ったのか」
「この前の引っ越しのときに見つけたから」
大宮は息を吐きながらに、ふうんと言った。
一郎は大宮とのあいだにかねて培われた交友もなかったから、彼にどんな話を差し向けるべきかわからず、いくつかの着想もまったく無に帰して、それで中空をつかみそこなうような心持ちでいた。それで、あまりに無難というか、張り合いのないような話を持ち出した。
「ここならそこの花も見えるから気分がいいだろ」
「俺は花なんか見ない」
会話はこうして途切れた。
一郎はとうとう暗礁に乗り上がったように思って取りつく島もなかった。それならどうして部屋に上げたのだろうと不平すら胸中に吐露していた。それで彼は、半分は大宮を困らせるつもりで、このようなことを投げかけた。
「文学を勉強するって何だと思う?」
大宮は悪態をつかれたようなある種の反抗の目をした。
「何の話だ?」
「悩んでるだけだよ。大宮君だって哲学をやってて怖くはならないのか? 哲学に何の意味があるんだろうって」
「妙に恐怖症を患うだけ不利益だ」
「恐怖症というか、強迫観念みたいなのを簡単に拭えるの?」
「まず怖くなんかないんだよ」と大宮は言った。冷たい風がやおら流れてきて、一郎がそれに肌寒さを感じるのと同時に大宮は窓を閉めた。
「哲学でも学問全般でも、絡まってる紐をほどいていくみたいな作業だよ。科学は自然界で観察される現象が一見すると大きな一つのものみたいになってるのを、小さな要素に切り分けてるんだよ。生物学なら生物の視点から、物理学なら物理現象の視点から。哲学もそうなんだよ。基本的な概念を人が考えるときに生じる矛盾的な問題のせいで誤った考え方をしているのを、矛盾の解決でどうにか変えようってやってるんだから。だから究極的には、学問は何でも、陥りやすい失敗の改善策を一つひとつ自明なものとして明らかにしていってるんだよ。あとで失敗してもすぐにやり直せるように。やり直せるようにというか、実際のありようを理解できるように」
「文学も同じなんじゃないか」という大宮に一郎はうなずいてみせた。一郎に恐ろしいのは、大宮のじつに簡明に答える口ぶりであった。一郎が絶えず苦悩していた、どうも容易に答えられぬと見える学問の基礎的な問いを、彼は即座に明快に答えてみせ、それでいてまた平然としているのが、彼の学問観自体よりもむしろ瞠目させられた。ふだんからこうしたことを考えてるのだろうか。
窓を閉じきったせいで室内には空気の滞ったような沈黙が二人の周囲に埋まり、それゆえに窓外より聞かれる音、ほかの室から届く物音などは妙にそれだけが強調されてあるふうであった。もはや一郎から打ち出す話もないし、大宮もことばをかける気構えはなかった。二人はただ黙った。そうしてそこには、寛げるだけの弛緩した雰囲気もなければ、また早々に立ち去るだけの緊密な様相もなかった。二人はそれぞれが相手の出方をうかがいながら、自分のほうではどうにもできないというようにして、手持無沙汰な気分に手を焼いていた。ただ外の景色ばかりがしだいに夜へと転じていくのであった。
まもなくその全体に活力の失われたところへ刺激をもたらしたのは、大宮への来客であった。最初戸を引く音が下にして、それから階段を上ってくる音が明々に聞こえると、一郎はその音のほうへと意識を向けた。音は階段を上りきって二人のいる二階の廊下をすこし歩いたところ、大宮の室の前で止まったので、一郎はもしやとその人を予見した。ただその予見はあまり欲が過ぎるのではないかと彼は反省もした。が、そのとおりの人物が障子の向こうから顔を出したので、彼ははっと驚いた。来たのは美音子だった。彼女のほうでもまさか一郎がいるとは予想していなかったか、ほのかに目を丸くして見ていたが、大宮が悲喜のどちらともない純粋にうち解けた人に対する挨拶をしたので、美音子の注意は兄のほうへと向かった。一郎は大宮とのあいだにわずかばかりの距離を作って、美音子がそこへ入りこめるようにした。彼女は一郎へ頭を下げてからそこへ座った。
「母さんが勉強は捗ってるかって」
「聞いたってわかんないだろう。進んでるからいいよ」
美音子は卓のほうへ顔を向けたままの大宮へいささか愁然とした顔をやおら近づけて、彼の手元にある書物をのぞきこむように体勢を前へ崩した。その一瞬ばかりは、まるで一郎がそこにいないかのように、きょうだいに特有の間柄や心的結束が露出していた。それは突き放すのでもなく、寄り添い合うのでもない絶妙な関係であった。けっして他人ではなく、他人と言えば言語上の矛盾が生じてしまうが、しかし半分他人の関係であった。美音子はみずから進んで兄のそばへ寄り、彼のしていることを見ていた。
すると一郎はそこに自分のいるのがかえって邪魔なように感じてきたため、思いきって立ち上がり別辞を述べた。
「自分でもう一度考えたらさっきみたいな悩みはほんとうに解決するだろうから」と大宮は言った。今度は美音子が二人のあいだから引き下がるような格好であったが、ところに大宮が「広田先生から好かれている小垣小先生というところだからな」などからかったところで、美音子は思い出したという顔をして、「小垣さん?」と言うので、一郎もただ一つ返事をしたのだが、だんだんに美音子の心の様子がわかってきて、「篠子の兄で」とじきに言を継いだ。彼女もそれで納得したと見え、あらためて彼へ礼をすると、大宮もようやく二人のあいだに取り交わされた会話の意味が読み取れたようで「世間は狭いな」などと評してみせる。三者の間柄は急遽として近まったようで、およそ四畳半の部屋は一気に温まった。結局、一郎はまたそこへ座りこんで、半時間をまた新たな心持で過ごせば、外は暗夜のうちに落としこまれて、街灯も光るようになったので、美音子と一郎とは慌しく帰った。初秋の昼には夏の面影もさながらであったが、夜のとうに深々とした寒冷が、昼に合わせた服装の二人を震わせた。「こんなに冷えるものか」などと睦まじい会話も現れた。
「いつも篠ちゃんから小垣さんの本を借りていて、どれも面白かったから、どんな方だろうと考えていました」
「別に人は大したことないよ」と一郎は苦笑してみせる。
「しかしうちの兄とご交友があったんですね」
「最近のことです」彼はまた苦笑してみる。
このような、表層に努めて丁寧で柔和な笑顔を絶えず浮かべながら、また同時に相手との交友上の距離を測り合うような話の裏側に、一郎は彼女の背の高いことを感じないでは済まなかった。彼女は彼と話しているとき、ほとんどわからないくらいながら猫背であるが、ふとすると背筋が伸びる。もとより端正な顔立ちをしている彼女の横顔が一郎とは別な方向を向く瞬間には、生命の静かながら燃えている感覚が現れる。凛乎としたたたずまいから(一郎には)感じられる魅性で、彼は激しく揺さぶられていた。それはしかし風を受けて海面が荒れるように、何かしらが引っかかって畳の表面が荒れるように、彼の精神の表側だけが動揺しているのであって、その反面にはそうした自己を凝然と見つめている根源的な魂があった。
(自分はこの人の何かに惹かれているんだろう。だけれどこの人の何がそんなによく感じられるのだろうか?)
ことばを交わしながらに大通りへ出たとき、一郎は会話の自然な成り行きのなかで美音子の顔をほんの瞬刻ばかりまっすぐ見上げた。それで(やっぱり美しいからか)と感想を抱いた。
一郎を魅了している人は二人あった。それはここにあらためる必要などまったくないだろう。二人はまさに昼夜、表裏、開閉、軽重、抽象と具体、普遍と特殊、生きていることと死んでいることなどが、つねにいずれかがそこにあり、また二つが同時に両立しえないのと同じように、一郎の精神内部に入れ代わり立ち代わり現れた。千代子があるとき、美音子は彼の心にない。美音子のことを彼が思っているとき、千代子のことなど思い出さない。二人の精神上の立ち回りはつねに排他的で、二者を比較してみるという局面は一郎になかった。彼はややもするといずれかへ理性的に没入した。
しかし一郎はそのころ千代子と顔を合わせることがなかった。不在のうちに置き残されていた萩餅に彼女を見いだしたのちには、本の借り出しやそのほか何かの用で彼女のほうから小垣の敷居を越してくることは一度ともなく、彼の勘定したかぎりでは、およそ三週間の中間が空いていた。そのあいだに落葉樹の葉は黄色に転じ、風から水分は失せ、外を行く人はおよそ厚い外套を着るか持つかし、衣服屋はいずこも厳冬を見越した衣類を陳列していた。八百屋などにはきのこや根菜の類が並んだ。千代子の訪問は一向、ない。一郎はそこに緊急の事情を勝手ながらに見透かした。
だが一郎の心中には、彼女への心配がありながら、大宮の室へ上がった日の帰途に見上げた美音子の横顔の清婉な印象が、たしかな記憶として烙印のごとく観念裡に捺されてあった。彼は彼女の顔をつまびらかに思い起こせた。それは写真帳を開いて鮮明なる一断片として過去を顧みることと同じだった。一方で、千代子がせんに一郎の室で見せた聡明な横顔を、彼は想起できないわけでもなかった。とはいえそれはすでに漠たる輪郭があるばかりの模様やにじみでしかなくて、実際に彼に残ってあるのは、むしろゆかしいという感覚だけである。一郎はぜひ千代子の顔を見たいと思っていた。べつだんそれは彼女の表情が色彩だけの幾何学的な図形か、マレーヴィチの作品のいずれかのような残響に成ってしまったのを修復したいためだけではない。一郎は今称賛している美音子の顔でさえ、数日のうちに忘れ去るかもしれないと推察していた。その印象はむしろ強かった。その瞬間ごとでは鮮烈であるかもしれないが、時を経れば簡単に風化し、細に宿るあでやかさは記憶のうちから逸失された。そのひび割れや磨された部分を修繕し、過去へ過去へと流れて沈設する記憶を更新し、新鮮な感動を再起したかった。彼の再会の心持のいくらかはそのためにあった。ただそれのみでは片づけられない名状すべからざる興味・関心の情念に、彼は当惑していた。
(まだ相手のことを何ら知ってない時点から、いったい何を慕わしく思うだろう? 美麗さのまばゆい光に誘われているにすぎないじゃないか)
一郎はこのとき自己を光源に誘われて鬱陶しく舞う羽虫のごとく解釈していた。美しきを追求して二人の周囲を徘徊し、あるいは鱗粉をつけ、あるいは顔に飛び掛かり、あるいは毒毛を放って害する蛾のごとく解釈した。自分の欲望の一面には、純粋にきれいなものを求めようという原始的な思いがある。そうしてまたほかの一面には欲求を斥けようという理性がある。二者はつねに対立し、ディレンマを彼の内側に作りながら、いずれにしても退く様子はない。ひたすらに一郎を攻め立てている。彼はその刺激のせいで、なおのこと決めかねて苦悩する。その結果として何らの行動もみずから成さないという方面へ至る。
長雨はときおり降りながら、おおむね晴れていた。そのころは、ぐずぐずとつづく雨にも一郎はそれほどの不快も思わず、かえって風趣すら見出していた。彼は自室で悠長な心構えで本を読み、晴れた時分には散歩に出、書斎横の六畳間か部室で昼寝もした。講義は滞りなく受け、いくらかの知識を獲得し、広田先生と多少の学術的な会話を交わした。一郎を中心とする世界はわりに淀みなく平和的に回転した。ただ千代子と三週も顔を突き合せず口を利かないことだけが、心残りだった。彼のこだわりは妙に強力だった。ところがその拘泥のために我が身を動かして解決するほど、積極的な気持を持たなかった。彼は自分の関係ないところで自分に都合よく万事が遂行されることを願う人であった。そうしてまた、自分のまったく関与しないところで生じた利益は、すべて自分の徳によって引き起るのだと信じたい人でもあった。責任を負わずに利得が欲しいのだった。それは千代子や美音子との生ぬるい友人関係を、時間の過ぎ行くなかで保温することでもあった。彼は自分とおのおのとのあいだにはある程度十分な間柄があるものと了解していた。そうありながらまたうぬぼれだと自覚しないわけでもなかった。彼はそれぞれと交わした口数を計算して、自己の陶酔から脱却しようと試みたが、結局はまた夢想へと没入していった。そのころに篠子からこのように尋ねられた。
「美音子ちゃんに会ったの?」
一郎は自分と美音子との面識が篠子に知られることには一応の覚悟を持っていた。
「美音子ちゃんのお兄さんが大学生で下宿してて、兄さんの先輩がそこに越してきて、その手伝いを兄さんがして、それで会ったって」
「事が起こるとみな他人の耳に入ってしまうんだな」
「世間が狭いのよ」と篠子は大宮と同じような反応をした。
日に当たり風を受けると季節のあいだに移行を感じる。夏と秋のあいだ、秋と冬とのあいだ、冬から春へと移り変わるころというふうにして、時季へ心を漂わせれば、かならずまさに今を形容すべき季節とその前後とを、そこに感じ入るだろう。今や一郎は、まだ秋であると思いながら、乾燥した空気、鱗のごとき巻積雲などに冬を見出している。枯れ落ちて溝壑にうずまる無数の朽ち葉はつむじ風に取りこまれて回転し、一郎の鼻先は冷え、早朝、布団のぬくもりに法悦を感ずることを思えば、とうに冬季の冷ややかな空気が町へ降りつつあることはすぐに理解できた。
冬の、死に絶えた沈鬱な雰囲気のなかに、時の経過は緩慢ともなくつねにすでに同じ調子で進行している。変容しているものはただ気温や植物やそこに飛ぶもの、這うものの種類だけで、そうした環境をほかにすれば、時間や太陽の運動や潮の干満などは常時、法則という枠を設けられるほどじつに単調である。そうしたものは日常からは簡単に忘却される。我々の注目したいものはいったい、衰微と栄耀との二極点を行き交い、変化してゆく活動的な万象である。自己にその損害の及ばぬところで、全容を見届けたいのである。
一郎は千代子のほうから顔を見せてくれることをいつまでも待っていた。先生から借り受けた洋書はもう終幕に差しかかっていた。それを読みながらに、彼の脳裡にはぼんやりとした彼女の画像がほのかなる火となって揺らいでいた。彼女に会ったからといって用事はないけれど、会っておかなければ落ち着かない。
(もはや礼など口実かもしらん)と一郎は考えた。だが純粋な興味によって会いたいというならば、それはどうした心向きだろう。彼のうちに躍動するものは、どうやって名状すべきだろう。一郎は文学研究を個人の趣味としながら、かつ大学における専門に据えながら、かかる心的状態を他人行儀に理解している。彼は心理学の面からというよりは、文学の面から自己を解釈している。理性の面からというよりは、情緒の面から自己を読解している。
彼の内側には幸福がある。幸福が血のように巡っているさまを想起すれば自己というものは完全に滅却され、それに陶酔する。己が快であるなら精神の領野を超えて一郎という名の看板のかかった辺々全体が快の一色に染められてある。それはある意味で激烈なる悦楽である、快楽である。それには何らの反動もなく、副作用もない。彼は純粋に身に湧き起こる爽快に身をゆだね、享楽し、自分のその状態を自覚すればなおのこと強い快が立ち現れる。このほとんど恒久な多幸感の源泉に千代子がある。彼は今こそぜひとも彼女に会わなければならないと思った。
二時限の教授は地方の学会へ出かけた。学生へあとに残されたのは束の間の休暇で、一郎はこの望外に生まれた時余に隣家へ出向いた。構えの厳格な門戸を眼前に控え、体には捉えがたき情動がうねっていた。風は冷たかった。叩くべき門はそこにあった。
一郎は呼鈴を押して、かえって身に心地よい緊張をもって待ち構えた。呼鈴の音はじつに気持ちよく遠くまで鳴り響いている気がした。全世界のあらゆるものをいちどきに呼び覚ますような感動があった。彼自身はそこに一片の不安を抱き、笹尾氏や千代子の応対を待った。
まったく無際限であるような隔たりがあった。家宅の前へ立った瞬間以後、その刹那はさらに細分され、その一つひとつが引き延ばされて、時の流れはたゆくなってしまったようであった。彼は遅々とした感のある時空のうちに、また門の向こうの様子を想像した。その屡次に及ぶ空想のすえに千代子が門の小戸を明け、一郎のほうを窺った。驚いた顔をした。
「どうかしましたか」と彼女は言った。
「ここ最近お会いしていなかったのでどうしたろうと思って伺ったんです」
「あら、それは……」千代子は腰をなかば屈めたきりで受け応えている。
「お変わりありませんか。ならいいんですが」
「それがそうでもなくって」
一郎はうち驚いてすこし目を大きくした。
「どうしたんですか」
「いいえ別に、そう大したことではないんですが……。ちょっと病気をして寝こんでいたんです。ようやく勉強も始めたというのに情けないことで」
「いえ病気をするときはするもんです。大事ではないんですね?」
「ええ全然……。ただの風邪のはずなんですけど、どうもこじらせたようで。季節の変わり目だからでしょうか」
そう思ってみるとすこしやつれているように一郎には見えた。頬もいくらか青白いようだった。
「間の悪いときに尋ねてしまったようですね」
「いいえそんなことは。もう治ったはずなんですが、どうも顔色や空咳はもうしばらくのようで」
「治ったんならまあよかったです」と彼は言った。
若干の間があった。
「おはぎ、ありがとうございました」
千代子はしばらく思い当たらないようなとぼけた顔をしていたがようやく気づいた。
「ああ、いえいえ、余っていましたから。みなさん甘いものが好きだって、奥様がおっしゃられていましたから」と一郎の母のことを言う。
それで一郎は挨拶を二、三、言って、宅へ引き返した。自室の籐椅子に一度体を沈め、無痛的になった身体を自覚しながら、千代子の以前にも増した痩身を思い、その細工のごとき危ういきれいさに、今さらほれてしまった。それから思い立って、四時限のためにまた外出した。
一郎の今の恍惚は千代子によって成されていた。彼女の作用による寄る辺のない強い感情は、一郎の内部を循環し、何らの悪感情に侵されることもなく幸福を生産しつづけた。彼は自分の行動のすべてに生気が満ち、意味があるように感覚していた。もとよりそこに何かしらの意味があって、ただ彼が気づいていなかっただけだとしても。彼にはその瞬間から万物が鮮烈になったように見えている。もとは、社会のなかで個人はみな輪郭や外膜のない茫漠たる存在と彼は思いなし、それをまたある種の制度下で機能するゲームにおける変項のように見ていた。厳密にすれば、他者はどこまでも社交の対象でしかないのだ。家族や友人やそのほかの重要な関係にある人物は無視するにしても、そのほかいつ出会うかもわからない端々の者たちはことごとく、見逃されるべき個物でしかなかった。彼はただ徳義から丁寧を貫いた。そうしてその丁寧のうちで、相手をなお木人のように受け止めていた。あるいは、それゆえに、他人の立場に立てずその心理を読解できないのかもしれない。だが今や千代子を、確たる一人として見据えれば、突如として彼女を中心とした八紘は、いろどり豊かな一宇へと落としこまれ、そこに有機的溌溂な印象を浮かべてある。一郎は外界のいろいろをありがたく思った。前途に控えてあることごとは万事うまくいくように彼の目には映じた。
洋書はそのさなか、じつに愉快な心地のなかで読み終わった。広田先生からは時代背景や著者の当時の生活、育ち方等々を把握したうえで、そこにいかなる文学的意義を発見できるかという宿題を課された。彼は悲劇的な恋愛のついに成就せざるを哀れみながら、また論理の蔦を這わせ巡らせた。ただそう易々と導き出せるようなことがらではない。
一郎は、大学の図書館へ赴いて当作家の英文の伝記を読み、出自のたしかな史料に当たり、講義へ出た。そのあとでまた図書館へ引き返す気力は、しかしとうになく、彼は荻野や志山などと談笑して帰るのがそのころの常であった。彼の道行く先にはただ一つのものばかりが出現するのではなかった。次から次へと新たなもの、直前とはまた異なるものが現れ、それに対処してさらに進展すれば別なことがらが持ち上がる。そのなかで彼の感覚も感情も、その色調を転ずる。研究が傍らについた彼には、千代子の気配は薄く消えかかっていた。
この彼のうちには整合的で一貫した心境の変遷は、こうして表してみればすこし驚嘆するほどに激しく、多様であった。千代子が出現する、美音子が出現する。そのあいだに研究のことごとが立ち現れてはまた恋愛へと色を変える。戦火の怱忙に至って兵馬をこしらえるように、彼は自己の思想をその都度持ち出した。
彼のそのような人間関係の事情は、荻野らには一つの関心事として語られている。荻野は興味がって会うごと一郎へ尋ねる。そのあまりにしばしばでまた秘匿を許さぬ新聞社のごとき態度が一郎の気に食わなかった。彼は話を振られるたびだんだん不愉快になった。
その裏側で笹尾宅への一郎の訪問は繁くなった。当初は遠慮のすえ一週に一度ほどだったが、それも五日に一度、三日に一度と頻度が増していき、またそこで取り交わされる会話も最初はごく簡便で事務的な報告のようだったが、そこに人間味と関心の色が差して、社会に半身を浸して生きる人間たちの一つの喜びが、具体的に体現されてあるように見えた。二人は互いに相手のより私的な世界へ身を寄せられるようになっていた。ただ門前に静かなやり取りは三、四十分の睦まじいさえずり合いとなった。彼らにもそのことはしだいに理解されてきた。どうしてあの人とそれほど心置きなく話せるだろうと思えば、おのずとある結論が思い浮かぶ。しかしいずれにしても、そうした思案を別にして、じつに純粋な精神的快楽のためにときおりの談笑を楽しみ、またの愉楽を心待ちにした。二人のあいだにはそのたび感じる充足のほかに、相手が秘め隠しているかわからず、ただ自己のうちにあるものだけはしかと認識しているような特殊な情念が、相互作用の結果として完成されようとしていた。二人はなぜ相手とこれほど仲良くやれているのか、またいつから今の仲にまで成熟したか、思いつかなかった。けれどもただ楽しかった。そしてその楽しいという感想だけで満足できた。
その芽吹くような陶酔を味わっている一郎は、かえって広田先生から与えられた目下の課題に明晰な思考でもって向かい、一応の試みの解答を提出できもした。それは彼のうちでありあまるほどの達成感と自信とを抱かせた。とくに先生からは色よい返答をもらい、実地的な助言も授かったから、一郎の脳内には薬物が作用して起こるような一時的の全能感で満ちていた。そのことを千代子に報告して二、三の讃辞をいただけば、なおさら悦に入るのだった。「あなたのおかげです」とまで言った。
しかし、一郎のこのしごとはどこから漏れたともなく研究室の同輩や院生、のみならず他学部の荻野などの耳にも入ったようで、つけ火のようにして噂は広まった。とはいえそれは一郎の知人から知人へ、行き着いても二、三度は会話したことのある者のうちに留まるほどの、点から点へというように口伝されたものでしかなかった。ただ一人一人は一郎と会うたび彼を茶化し、彼はそのつど欣喜と迷惑とが半々に混じった心持で応対するのだった。荻野などは執拗にその話を口にしていた。
ところで、大宮もそれを知っていたことに一郎は驚いた。それは庭先の花々が音もなく咲き、鼻聡くない人でもすぐにわかるほど風に乗り町を抜けるようなかおりを放つ一角へ一郎が赴いて、ほんの五分ほど滞在したその姿を、今度は帰宅した大宮と美音子とに目撃されたときのことであった。一郎がもとより滔々と湧く全般的な喜びを花の香でなおさら強め、深呼吸してかおりが鼻を伝い肺にたまり、同じ花が体内に咲いて殺されてしまうほどに堪能している姿を、そのきょうだいは盗みの現場のように発見した。彼が人の気配を感じて振り向いたときには、大宮は挨拶の代わりに手で示し、美音子はその後ろで一郎の弱みを得たようにいたずらな微笑を作っていた。
一郎はそのまま帰るつもりであった。そうしてまた、二度もその姿を見られてしまったからいよいよこれ以上の勝手はできないとも思っていたのだった。けれども大宮がまた部屋へ上がるよう誘い、階段を上るときに一郎を背後にしながらもっとばれないようにしろなどと忠告するので、一郎はむしろ今こうして宅内へ入ることで妹との心置きのない団欒に自分が水を差していると悪い気がしていた。先に階段を上る二人に、一郎の目に見えない本心が隠されているようだった。
部屋に入るなり大宮は例の話を持ち出した。一郎が話の出自を聞くに、部室での会話を耳にしただけだという。この話に食い入ったのは大宮よりは美音子だった。
「どう研究を推し進めていったんですか」
「どのくらいかかりましたか」
「それでいったいどんな答えを先生に出したんですか」
というように彼の答えるに合わせて矢継ぎ早に質問を繰り返し、やけに熱のこもった顔をして静聴していた。彼には美音子の様子が意外だというより奇妙にすら見えた。兄も同じようなことを感じているという表情で妹を見守っている。
「よほど興味があるんですね」と一郎はすこし冷淡なくらいのことばを使ったが、美音子はそこでようやく正気に返ったというように「ええ、まあ」と取り澄ました面と熱を冷ましたような声でもって返事する。むろん一郎は先生自身から激励の辞句をかけられていたから、そこに彼女の秋海棠のかおるような声や柳の眉の微動するさまが加われば、なお心地よくも感じるのだが、しかし篠子から一郎の本を又貸ししてもらって読んでいるというような愛読家にとって、そうした研究の話がおもしろいものか彼にはいますこし理解しかねた。といって彼女に虚飾があるのでもない。
会話はそのまま読書や書物のほうへ滑り、大宮の合いの手をもらいながらおおむね一郎と美音子とのあいだで話が進んだ。小さく静かながらどこまでも暖かな談笑だった。本来実妹と和やかな午後を過ごすはずだった彼を差し置いてこのように歓談するのは一郎にも気が引けたが、しかしそうやって済まないと思いながら、肚のうちでは彼女と対峙してももはや慣れ親しんだふうにできることの幸福を噛みしめていた。
美音子は姿勢を崩していてもすこし大きく見えた。座高が高いからというよりは、単に背が高く足が長いから、正座から足を延ばして横座りになるとその細くしなやかな脚の稜線がわかるのだった。また猫背にならず背筋が張っているから、彼女の肢体は上品なようだった。誰が見てもそのほのかにあでやかな様子に惹かれ、簡単な素行や立ち居ぶるまいに、その背の高さから来るものかそれとも彼女の生来のものか、美妙が見出されるのだった。美音子の一顰一笑を、一郎は感動をもって見た。
「そうすると、今度小垣さんのお宅へ伺ってみたいですね」と彼女が言う。
「大した蔵書はありませんよ」
「そんな、また」美音子は微笑んだ。
「部屋中本棚だらけって荻野くんが言ってたけれど」と大宮も差しこんでくる。
彼女はしめたという顔をして一郎を見た。
「まあばれてしまったんなら。狭いところだけど」と彼は妙に改まった。
それで今度篠子を介しながら、どうにか小垣の家を訪ねる算段を立てると彼女は言うのだった。
訪問の話は翌日には篠子の耳に入っていた。
大宮きょうだいと顔を合わせた次の日の夕の卓で、篠子は母へ美音子を家へ上げてもよいかなど尋ねていた。何も構うことはない、というような二つ返事を母はした。そこに父はまだいなかった。
そうしてみれば、と一郎は思いついた。一郎は偶然であれ今まで何度か美音子と会っておきながら、一度としても彼女の制服を着た姿を見たことがなかった。最初駅で見かけたさいは普段着であったし、大宮の部屋で見たときも同じような服装をしていて、学校の帰途そのまま兄の部屋に上がっていたというふうではなかった。ことによれば彼女のまた別な美しい側面が、万華鏡を回転させるように宝石を光にかざすように、新しい輝きを見せるかもしれなかった。割り干しの大根を噛み鳴らしながら、彼はその平気な顔の下に歓喜の心を躍らせていた。大根をばりばり言わせて六つも七つも食べた。
「一郎、あんた、最近笹尾さんのところへ通っているようだね」
そこにこのような槍で虚を衝かれたのだから、一郎は一見ふつうのていを偽装しながら体内で心臓は捻転するほどにびっくりしていた。急にばたばたと脈動が早まった。
「どうして、話しているところでも見たんですか」
「町内会の沢崎さんが、あそこの、荒木さんだったかしら、いつもお菓子なんか持ってきてくれる人とあんたとが、最近よく話しているって」
「ええまあ話してます」
一郎はわざと合間に食事を進めていた。何が悪いのだという表情をあえて作っていた。
「荒木さん、最近来ないけどどうしたの」と篠子が言う。
「風邪でしばらく寝こんでたって」
「ちゃんと気遣いのことばはかけてあげたの?」今度は母が言う。
「もう大丈夫と言ってました」
それからは、いったい何を話すのかなど、荻野らにしばしば詰問されることに似かよった質問が続いたので、一郎はまた曖昧に答えた。
「失礼のないようにやんなさいよ」
夕飯がちょうど終わった卓はそこを区切りにいったん静まったけれど、じきに父の戸を開ける音がして母も篠子も動きだし、一家の晩景はまたにぎやかに戻った。
一郎は皿を片づけて退散した。つい最前に千代子の話が三人のあいだに立ち上り、とりわけ母の脳裡には、依然として自分の息子と知らぬ間に親密になっている素性のよくわからない女の姿が、長雨の絶えざるごとくにいつまでも感覚されてあるだろうから、父の着替えを手伝い、汁物などを温め直しているときに、ふと話してしまっても不思議ではなかった。いや、もう前に父と話をしていて、食卓で母のほうから情報を引き出してあとで父と共有し、最後に父母揃って一郎に問いただすというような計画が練られてあったかもわからない。今ごろは父に、町内会の沢崎さんから伝わった話は真実で、ずいぶん仲を深めているらしいなどと、誰に聞かれたらまずいのでもないのにことさら声を押し殺して話しているのだろう。すでに二階へ上がった一郎には以上の考えが巡った。よほど篠子を呼びつけて密偵のように扱おうかと思ったが彼は止した。
一郎は自分の書斎のような部屋で、何にも手をつけられずに自分の不意な神経質を味わっていた。ただ自分と千代子のどうというわけでもない交友が、努めて秘匿していたのではないにしても、いつしか人の目につき噂を生み母の耳に入っていたことに、なぜだか言いようのない恐ろしさを感じていたのだった。彼は壁際の卓に向かっていた。今すぐに成すべきことはとくになかった。単に何かせねばならないという焦りがあるから、卓についているのだった。けれどもできることは一つとしてもなかった。ただ階下から伝わるかすかな響きへとみずからの感覚を鋭敏にした。そうしてそのうち卓の下に這いつくばって、耳を床に当てた。父は何を話しているだろう、母は何を話しているだろう。こう思った。
地階から届く音の広がりはまったく無意味なまま一郎の耳に触れた。
そののち、あるのかどうか知れない外聞を大事に思って千代子を訪ねる回数が減ることはなかった。一郎はむしろ意識して励行するくらいになっていた。講義の始まる時間にすこし余裕を持って家を出ては、一週のうちに二回か三回、千代子を訪ね、世間話をあてどなくした。むろん千代子とその門前なり門中なりで話すときには、道のほうに人の歩いていることがはっきりわかった。その人らが鳴らす靴で砂利を擦るような音がからかいやいたずらのごとく鼓膜を揺らした。自分の服の端を始終指でいじられているような音であった。
千代子の小さな声で成される話にごく自然な笑みを浮かべ、一郎は愉快に感じていた。彼女と話すことは目下この上ない悦楽である。千代子もまた一郎と同じように、話しながらずっと微笑を顔に残したままであり、当然とその表情が一郎にはわかるから、ますます彼の顔は弛緩した。相手も同様の感情と同様の心持でいるのだろうと、当たり前のことのように彼は考えていた。
しかし一郎は同時に、美音子の今度の訪問のことが拭いきれなかった。あたかも今ここに特別な友好があるように千代子に見せながら、また一方で美音子の美しさに見ほれ、妹を通じて敷居を跨がせる機会を作ったのは自分である。母からすれば息子が隣家の年近い女とどうやら親しくしているらしいというところまでは、今ようやくほんとうだとわかったのだが、その奥に一人、己の関与しない領域で知り合い、にわかに仲を深めている女がまだいる。篠子にしても、兄が両方を同じように慕い、いやあるいは本人の自覚しないもののじつはいずれかへたしかに傾いているのだとは思わないだろう。
一郎はみなに申し訳なく思った。彼は関わるすべての者に対して、それぞれすこしずつ異なった向きに欺いている罪悪感を覚えた。そしてそこに責任を感じる裏で、ふいに進展した二関係を誇らしく思ってもいた。彼にはただ、美麗な人間と関係していることの幸福があった。これは研究の一時的な成功によるものか、それとも彼の天然のうぬぼれによるものか、今すこしわからない。
母の了承をもらったが早いか、篠子はその週の金曜日に美音子を宅へ招いた。それは夕のわずかな時間である。一郎はその前日に篠子からそのように取りつけたという話をもらっていやに早い気がした。しかし彼女の言うとおりに美音子は宅に来ていた。
午後三時になるともう日が傾いて斜陽が差し、四時を過ぎると昼の余波の橙色と夜のさざ波の青色とがすこしの違和感もなく、実にたやすく調和している。五時になれば真っ暗だ。戸の上の外灯は角を曲がったころからそこにたしかなものとして目に入る。家々のすこし色のついた室内の明かりが不思議の寂寞を作った。
美音子の学生靴が篠子のものとそろって並んであるのを自宅の玄関に発見したのは、それよりさらに進んで六時になろうというころである。彼女が来るとわかっていながら、知らない革の学生靴があるのに一郎は驚いた。それはどうしたって美音子の靴である。一郎は玄関の照明をつけないまま靴をいつもより慇懃に脱いで靴箱に入れた。母の調理する音が炊事場からする。
階段を上るにつれて篠子の部屋から飛んでくる話し声が鮮明に聞こえる。そのなかに、「上がってくる」というような、おそらくは篠子のことばが含まれている。木造の床を足で擦る音。
「おかえり」
部屋から出てきた篠子のすぐ後ろに美音子がいる。二人とも学生服を着ている。一郎にとっては篠子の制服姿などいくらでも見ているが、しかし美音子のこととなると新鮮に映った。篠子はずいぶん前から伸ばしていてもうけっこうな長髪だが、それとは対称的に美音子の髪の毛は短い。そのときはふだん見ていたときとは違って横の髪をみな耳にかけていた。それもまた彼には目新しかった。そうして篠子と並んだとき、彼女はますます高く見えた。
「門限があるから、ほら」
篠子が手を払うように動かして部屋を案内せよと一郎に合図する。
一郎は本棚を見せた。
そのときになってようやく思い出したというように、以前に一郎から借り受けていた本を美音子が取り出した。
室でのできごとはこれだけである。美音子は本棚の全体を眺め、一郎が若干の説明をしたところで「また今度」と本心か社交辞令かはっきりしないことばを使う。一郎は曖昧にうなずいてみせた。
彼女の帰りはきょうだいで送った。人数の構成で言えば大宮の室のときとは逆になったかたちだが、精神上の結束という点ではむしろ血のつながらない女生徒二人のほうがきょうだいより強い。彼女たちが睦まじく話している姿を一郎はぼんやり見た。その若さの感触が、どうにもむず痒く思われた。
宅へ戻るときには、きょうだいで、
「美音子ちゃん、もうすこし楽しみな雰囲気だったのに」
「部屋が汚いのがいけなかったかな」
「それは」篠子は苦笑した。決して否定もしない。
「実際本棚が二つあるだけだから、もっと部屋中たくさんあるのを想像したんじゃないか」
なら申し訳ないことをした、と一郎は言いもしたし、無言のまま肚で繰り返しもした。
美音子と一郎との関係は友人の類には知られていない。もとより大宮に美麗な妹がいるという話もみな了知するところではないのだろう。とはいえ道端でも駅でも、誰かがどこかで美音子を見かけてはいるはずである。ただ彼女を大宮の妹と見ないで行人として見過ごすだけである。それも変な話だと一郎は感想を持つ。べつだん当人の口から妹の話をするわけではないにせよ、大宮はしばしば美音子と通りを歩き何ごとか話している。一郎は二人を何度も見かけた。
大宮はときに美音子を厳しく扱っているけれど、そうして大衆に混じっている姿を観察すれば、ともすると似つかわしい恋人どうしという観もある。彼にしても目鼻立ちは整っている。美音子は兄と同じくらい背が高い。それが何だか彼女のすばらしさを幾倍も増幅させているようだと一郎は思う。二人はじつにいいきょうだいだと結論する。
翻って自分と篠子の関係を顧みれば、すこし隙間のある仲である。ふだんは互いに自分の勝手をする。ときに一郎が篠子の勉強を手伝う。篠子は一郎をからかう。二人して母の家事に加わる、父の話の相手をする。本の話が取り交わされることもある。けれども篠子は「文学を研究するって変ね」と言う。一郎にはそれがすこし癪である。
日中の太陽に温められたはずの空気すら秋の服装では肌寒く感じるほどの季節が到来した。明けるころは吐く息が白かった。公園の木々などはみな葉を散らして枝の先までまったく剥き出しになってしまった。においというにおいがすべて冷たい空気の底に押しこめられてすこしも嗅がれなかった。冬というものは、とくに我が身に危険があるのではないとしても、何となしに、死の恐怖と言おうか、生命の脅かされるような印象を持たないではいられない。心臓まで凍てつくというような印象である。むろんその寒いうちに新年が来て、通りはにぎやかになり、店は三が日以後しばらく安売りし、家庭には独特な筋肉の緩むような雰囲気が立ちこめる。そのなかで、買った餅が食い終わらない、今年は親戚も含めて何人の子どもにお年玉をやる、面倒なあまりとうとう初詣も御免被ってしまった、等々。生き物が騒ぎ血が巡りすべてがにおい立つ春に比べたら、冬はしかしおよそ静かである。
大宮のいる下宿の庭の花は、大家の苗買いしたノースポール、ビオラ、四季咲きのオキザリスなどが咲いていた。花の名は全部美音子がその場で言い当てたのだという。一郎はそれに感心した。
「今度クリスマスローズの苗も買うらしい」と大宮。
「もう正月を過ぎたじゃないか」
「でもその聖夜の薔薇を植えるらしい。もともと今時分の花だからと」
「せっかくなら二十四日に植えたらすこしは粋だったな」
「でも一郎、お前また見に来るんだろう」
大宮のからかうような笑みに一郎はハハハと笑って返した。
大宮は電気ヒーターを自分のすぐ後ろに置いて、背負うかっこうであったから、一郎は文明発達の恩恵にすこしもあやかれなかった。ただしだいに彼の背中が焼けるのではないかという懸念が胸のうちに離れなくなった。「熱くはないのか」と何度か聞いた。
二人はともに元来口数の多い性分ではない。相手が話せば応じる。自分から話を持ちかけるのはすこし億劫である。たとえ話題を用意して何ごとか議論しても、数分ののちに話すべきことを言いおおせて満足する。あとはおのおの勝手にしている。本を読む、またそこらを散歩する。散歩は一人で出るときもあれば、二人で黙ったまま歩くこともある。自分の見たいものを見て、考えたいことを考える。いいところで引き返して部屋へ戻るか、一郎だけが途中、駅の方角へ足を向けるときもある。
一郎には彼のしつこく茶化したり騒いだりしないところが好ましかった。それが荻野たちとの大きな差異であり、つき合いの頻度が大宮へと傾いた要因にもなった。彼は以前よりも、つかず離れずの緩やかな結束を求めている。孤独を主とした、変化がない、一向に平坦な関係が自己に合っていることを知った。それから大宮には美音子がいる。彼の部屋を訪ねればときとして彼女に会え、その艶美な風情と宗教的戦慄をもたらす姿態を目の当たりにできた。(真に美しいとは彼女のようなものか)と一郎は美音子を評価した。美音子には面前にひざまずいて救いを庶幾したいほどの、無音の壮麗さがあった。またそうした教会の天井を見上げたときに顔面に降りかかってくる荘厳さを自然に見せる彼女の隠然とした本性に、彼は敬慕した。彼にはきょうだい二人ともが慕わしかった。
その日の帰りは美音子も一緒になった。つい今まで三人で話題を作り、話し合い、笑っていたが、駅までの道中、二人はすこしも声を交わさず、表情も硬い。一郎は住宅の並びを眺め、そこに他人の生活を即興で物語を編むように想像する。遠くに犬の吠える響きがある。もう夜である。いや、夜と言うにはすこし早いのだが、昼過ぎてふと面を上げると空は赤ばみ、また次窓へ目をやれば長い夜が始まっているこの時期に、夕方というのは恐ろしいほど短く、体で感じるよりも時の進みが何倍も速いように錯覚する。美音子にその感覚は今ないように一郎には見えた。彼女はただじっと、二人の向かっている大通りのある方角から何か届くというように、前方を向いたまま歩いている。その締まった表情、すべて看破するような目を、彼は何度か盗み見た。
とうとう一郎の視線に気づいたか美音子が彼を見た。彼はすぐ目をそらした。
「すみません」
「視線ってどうしてわかるのでしょうね」と美音子はほほえむ。
「目の端にでも映るんじゃないですか」
彼女はすこし笑った。
「気持ちが通ずるからとか文学的なことを言うのかと思ってました」
彼はすこし笑んだ。
街並みの明かりが反射するくぐもった色の空の下、犬の声はまっすぐ響き渡る音であった。
帰宅して母の作った肉じゃがの芋ばかり取って食いながら、美音子と視線の話をしたあとで今度は美音子のほうから自分の顔を何度か覗いていたと、今さら気がついたように思い出す。彼女の視線は、彼の頬や横顔に赤い痣を残すほど強く彼に刺さっていた。彼はその美音子の顔を目の端に捉えていたが、正面から向き合ったときの顔よりも鮮明に記憶している気がする。やはり視界の端に映るから視線を感じるのだ。それがたとえ背後だとしても、それは人の気配でもって視線を感覚するのだ。と一郎は思う。
電気をつけた書斎はなお暗闇に近い静寂で、空気が固まっていた。
(しかし自分の横顔を仕返しのように眺められたのだから、ことばを混ぜ返すみたいにからかうみたいに、あの人の顔を真正面から見て目を合わせてやればよかったか)
横並びになると一郎は美音子を見上げることになる。男のなかでも決して低いのではない一郎より、美音子は背が高い。彼女の歩く姿を想像する。自転車を立ち漕ぎする脚の動きを思い描く。彼女の健康的な命。美音子を思うと体熱が一度も二度も上がり、同時に血に淀みがなくなった。ときおり一郎は、そうすることで体内から清潔になり禊のあとのように穢れが落ちると水をコップに何杯も飲み干したが、それと同じことで、美音子の立ち姿をより濃い幻として眼前に見ていると、指の先、髪の毛の一本までもが細く長く艶やかな彼女にみなぎっているかもしれない夢幻的な精力が、血管から血漿がにじむようにして体表に染み出て、目にもわからないほど細かい霧か粉になって自分に降りかかるようで、力がみなぎる。それもただの力ではなく、精神上の満足や昂揚や興奮がみなぎる。美音子のそばに控えていれば、彼女から神仏の加護のごとき効験を受けられるのだろう。物静かでふとすると締まった真顔をし、またささいなことをうち話すときにはほんのわずかな笑みを口に咲かす彼女に仕えていれば、いかなる苦難をも受け止められるだろう。一郎は美音子に救いを求めたかった。子供のように無垢なまま美音子につき従っていたかったのだった。その一度とも目にしたことのない彼女の長くしなやか(であるはずの)素足に取りすがって、身に焦げついた毒を浄化してしまいたかった。「崇めたい」と口にした。声は光ある部屋に散って、一郎自身に降りかかるようだった。
太陽光線が弱いからか陰は薄い。日はぬるく、陰は寒い。ハクセキレイが道を走った。護岸工事のされた川の一本の帯ほど平たい流れの上を、アオサギが翼を広げて滑空し、水に降り立つ。木橋を渡るとき、川の水のにおいと、かすかな下水のにおいと、磯で嗅ぐような別のくさいにおいに呑まれる。一郎は息を止めた。朝、息の白くなるときにカラスは可燃ごみの袋をくちばしで突き破り、滓をあさっている。そこへ近づくとカラスは電線まで飛び上がり、一郎の過ぎるのを待った。路地は生ごみのひどいにおいがした。
広田先生の風邪見舞であった。冬は空気が澄み、いっさいが死滅してまるで酸素すら失せてしまったようだが、実のところ犬は雪を尊ぶし、流行性感冒は毎年はびこる。先生の場合、ウィルス性のものであるのは変わらないとしてもそうした危険なものではない。教員に与えられた個室で研究に打ちこむときに電気ストーブを使わずにいたら、喉が痛み、悪寒がする。体温計で測れば微熱がある。兆候を並べ立ててからようやくだるくなる。
先生は二、三日安静にすると研究室の何人かに告げた。そうするほど重篤ではなかったけれど、はるか前に風邪を放って肺炎を患い医者にかかってから、体調の崩れを感じると過度に用心するようになった。
先生は寝床で本を読み散らかしていた。枕のぐるりに小説や評論や哲学書や新聞がまとまりなくある。一郎が先生の妻に案内されてその枕元に手をついて座ったときに、先生はようやく起き上がった。ふだん、並んで歩くか、椅子に座って差し向いになるか、教卓と机とで対面するかのときとは違って、先生は小さく見えた。弱ってもいるようだった。血色や所作がどうというのではなく、ただどことなく弱っているふうだった。
「お体のほうは」
「いやまったく。ただ昔に肺をやってから怖くってね」自慢ごとみたいに言う。
「ほかにどなたか見舞に来られたんですか」
「いや(膝に置いた本を撫でた)、小垣くんがはじめてだね」
「寮からとなったら遠いですからね」
「ご近所どうしのよしみということかな」
先生は力なく笑った。
土産のりんごを差し出すと先生はすぐに妻を呼んだ。先生の妻は家のどこからかスリッパをぱすぱす言わせて部屋まで来た。りんご、切ってくれんか、と言う先生に二つ返事をする。
「病人のそばに長居しても退屈だろう。うつしちゃ悪い」
一郎は三冊ばかり本を預かって帰った。千代子に貸した本をまだ何冊か返してもらっていないことに思い当たった。ただ催促するのも悪かった。
宅へ帰ると表戸に「小垣一郎さん」という紙片が挟まってあった。すこし怖いような気がしたが、差出人が千代子とわかって、ちょうど噂をしていたところに、と声にせず一人つぶやく。帰ったら笹尾の門をたたいてくれということだった。
その通りに家へ上がりもせず笹尾のほうへ行くと、すぐに千代子が出てきた。ワイン色のセーターにジーンズというかっこうで、大学を目指す書生の境遇にあるというよりは、とうに大学を出て結婚し、子を持つ者のような落ち着きがあった。髪は全部うしろで束ねていた。化粧はなかった。彼にはその姿が意外であった。
「人の風邪の見舞で、しばらく」と彼はそこで詫びた。
二人はそのまま小垣の家に上がり、一郎の書斎へ入った。窓辺の籐椅子に千代子は腰かけ、一郎は茶を沸かしに台所へ下りた。千代子のほうから一郎の部屋へ行きたいと言ったのだった。彼にはその意図が知れない。なぜ立ち話を厭うのだろうと、コンロに点火し急須に茶葉を入れるさなか、二階で足音の移動するのがうち聞こえる。棚を開いてもいっこう菓子類は見当たらなかった。
慣れたものと盆にいっさいを載せて上がれば、千代子は書斎の窓から宅前の小道や家々を見渡している。昼といえども曇り空で、いつまでも暮れない薄明に、ひしめく雲のもとに押しこめられた町並み。笹尾の家からでも似たような景色が見られそうだが、彼女は観光先で町並みを見るごとく目を輝かしていた。単なる住宅の集まりがきらめいて見えるらしかった。
一郎の戸を開ける音で、彼女は一種の陶酔から覚めた顔をして彼に向いた。静かながら笑みに満ちていた。上機嫌のようでもあった。
「気分がよさそうですね」
彼女はうち驚いて、二度目の陶酔からまったく覚醒したように、目の奥まで澄明に返ったという目で一郎を見、済まない顔をした。
「ずっと笑っているので、何かあったのかと思っただけで」
いえ、そんな、千代子はすこしうつむく。そのあえてきつく結ぶような表情に対して、何も気にすることはないと声をかけるふうに一郎は茶を出し、ふと本棚を向いて、「全部読み終わったんですか」
「ええ、風邪のせいで時間がかかってしまいましたが」
「いえ気になさらないでください」
風邪ですから、とすこし間を置いて言った。体があまり丈夫でないんですかと加えて言おうとしたが止した。
一郎が本のことを千代子に差し向けたのは、彼女の頬に見えた緊張をほぐそうということだけではない。本棚には以前に彼女へ貸した本が返されていたからでもあった。すべて正しい位置に戻ってあった。一郎はまたそのことを話した。覚えていましたから、という答えであった。
席を促して茶を飲みはじめたときは、曇天の下に音すら閉じこめられ、室内はまるで無音だった。一郎は茶を含む千代子の口元を一瞥した。さっきまで千代子のあたりをたゆたっていた浮き立つようなかおりはなかった。一つとしても粗相は許されぬという構えに見えた。そしてその顔は聡明であった。柔和に戻ったのは会話がまた進んでからしばらくであった。そのうちには、笹尾から小垣へ正月に分けた餅のことから、正月の話などがあった。
「笹尾さんはどこへ初詣をなされるんですか」
「今はすぐそこの八幡宮になりましたね。前は伊勢まで行ってたみたいですけど」
「かなり遠出になりますね」
「体に堪えるから、ちょっと無理になったと」
「無理は禁物ですからね」
「旅行じたい、次で最後と言うんです」
「今度はどこへ行かれるんです」
「それがまだ決まっていませんので」
雲に覆われた灰色の空の下で、鈍い日の光はいよいよ暗くなっていった。
気を緩くした二人のあいだで、また千代子の表情はすこしの硬さが差した。せんに作った急ごしらえの結びではなくて、胸のうちから情念が湧いてできた、自然なものである。
静寂の海原の上に泡の集まりのようなさざ波が立つ。家族はまだ帰って来なかった。
「その旅行に、小垣さんを連れて行こうと言うんです」
一郎に体を内側から突き上げるような波濤が立った。
「なぜ」
「……わたくしと笹尾さんだけでは、もう心もとないということになって、道中ずっとつき添ってくれる人がいればという話になったんです。ですが笹尾さんの周囲には都合のいい方が全然いませんで、かといって一日中同行するのに、まったく素性がわからないような人では困るとおっしゃるものですから、ついわたくしは、小垣さんの名前を出してしまったんです。そうしたら笹尾さんはそれでよいと」
「都合がつくかちょっとわかりませんが」
「すぐにと言いません、こちらが大学の休暇に合わせますから」
「それなら悪かあないですが……」
「どちらかに気心の知れた人がいいとなったんです、ほんとうに済みません……。でも宿泊などの費用は全部笹尾さんが持つっておっしゃりますから」
言いようのわからない何とも表せない忌避の心持のせいで渋っているのだから金云々の話ではないと一郎は言いたかったが、千代子のことばを受けたまま口をつぐんで、考えるしぐさをした。
「両親に相談します」
千代子は憂鬱な顔のまま帰った。そのあとじきに母と篠子が戸を開いた。一階はまた騒がしくなった。
千代子が訪ねていたことは二人の知るところではないらしかった。一郎が階段の上段から体を倒すようにして下の様子を窺ったとき、二人は台所にいた。一郎がそこへ顔を出すと、静かで返事もないからうたた寝でもしていたか、と母が言う。つく必要のない嘘を彼はついた。旅行に連れ立つよう千代子から頼まれた記憶は、まるきり夢であったかもしれない。それなら千代子の見せた恍惚の笑みも幻の作った甘美である。だとしても自分はなぜ千代子の誘いにあれほど憮然とした反応をしたのだろう?
一郎は篠子が冷蔵庫へうまく食品を収めていくうしろ姿を眺めた。美音子ならいっとう上の段にも容易に手が届くだろう。篠子にはすこし高すぎた、おそらくは千代子にも。
その場では笹尾からの依頼について打ち出さないまま、彼は母に言われて副菜を二種こしらえている。冬でも炊事場には熱気がこもる。母はとくに火の前に立っているのだから顔を手で仰ぎもするし厚手の服を一枚脱ぎもする。調理が終わって火を落とせばすぐに冷えた。何の会話もなかった。一郎は母の手際のよさ、卓のほうの篠子の気配をと見こう見した。そのあいだに副菜ができ上がる。
皿に盛って卓に置くと篠子はつまんだ。どう察知したか母の叱りが飛ぶ。制服から早く着替えなさいと言う。篠子のほうは不服の顔である。
「もうそろそろ着替えないとって思ってたの」
これが美音子だったらどうであったろう。一郎には、母が半分当てつけるように料理を卓へ並べはじめて、美音子はそそくさと逃げるように筆記具を片づけるのを見た。黒髪が電灯の白い光を撥ねて艶の質感を露わにする。階段を上るときの細く長い両脚の運動が決定的に麗しい。床の軋みには喜ばしい音階がある。
一郎が千代子の提案について母へ差し向けたのはその夕飯の卓上である。
「あらそう」という簡単な返事でもって承諾された。
「そんなに仲がよかったの?」
「つき添いの人が誰かいたらって言うから」
「いいなあ、旅行。お母さん、私たちも旅行に行きたい」
「篠子の受験が済んでからゆっくりやりましょう」
「絶対よ、でもどこにしようかな」
話は家族旅行に移った。一郎もそこに首を並べて話した。彼は千代子の話が母に素直に受け止められたのを意外意外と思うばかりで、鳩首するあいだに混じっておきながら腰を据えられない心地であった。今度のことはまったく禁止してほしいと望んですらいた。父の帰る前に早く決めてしまおうというようにあちこちの地名が出、名所の名が挙がってもどうしても亢然とされなかった。笹尾の二人について行くのは誰か何かに済まない気がする。しかしとくに一言すべき理由もなく断るのは徳義に背くだろう。いっそこちらの父母が頑固になってしまえばいいのだが、母は何も恐れることはないと提案を呑みこむ構え、まさか一郎から拒んでくれとは頼めない。彼は自分の感覚だけで眼前の予定を断ろうするけれど、そこに一つの論理もないから説得的に話せない。ただどうというわけでもなく、嫌だから嫌だった。
一郎から笹尾へ訪ねる回数が減ると、今度は千代子から一郎を訪ねる回数が増えた。それもたびたび余りものを渡しに来て小垣一家の尋常の動きを理解しているのだろうか、一郎が一人で宅にいる時間に来るから、彼も不審がるくらいであった。いったい何だって他人の動作を見抜いているだろう。決して彼女は意図していないのか、それとも理性的な狡知だろうか。
一郎の不在のときにも千代子は来たと篠子は言う。試験の日で正午には放課となり宅にいると、一郎に問い合わせたいと彼女が戸をたたく。兄はちょうど在宅していないから用件を請け負うと言えば大したことでないからとすぐ引き返す。千代子の素振りに他人行儀が窺えるのではないけれど、篠子には怪しく見えた。いったい何を遠慮するのか?
荻野らへ千代子の話をする機会は週に一度もなかった。一郎はそれを認識してすこし嘘らしく思われたが、何度も尋ねられている記憶も持たなかった。執拗に問われるよりはまったく快いのだが、以前よりも自分から口にする話の嵩が増したようだった。
ある日荻野と通りを歩いていたときも、
「志山の恋愛は行くところまで行かねばしようがないっていう話、俺もだんだんわかりだした気がしているんだ」
「荒木女史のことか」
「うん。たしかに今の生ぬるい幸福がつづくんなら何も問題ないが、どうせ終わりが来るんだから」
「お前は荒木女史とどうなりたいんだ」
「どうって」
「交際したいのか、婚約までこぎつけたいのか」
「婚約!」一郎は半分冷笑のように反復してみせた。「日常的に話すだけの人と婚約は考えんが」
「志山の言いたいことはそうだろうぜ」
「結納まで行くのが、〈行き着くところ〉なのか」
「そうでなくってどうする。互いに恋慕しあうだけの仲は、つまりイミテーションな社会契約だよ。本式の関係構築をしたくない、そうするほど愛してなどいないからこそ、こぼれやすい恋人などという間柄に甘んじているのだ。それじゃ、関係の極北に到達したとは言えないぜ」
一郎には荻野が交際という結びつきを何があって嫌悪しているか、案出できなかった。「だから、一郎、お前もし荒木女史と関係を持ちたいのなら、結婚だ」
「それは暴論だ」
「身を池に投ずることになっても、子を授かり威厳ある門戸を構えても、全部究極的な結末さ。どうか就職までの一年すこしをただの恋愛なんかいう芝居で終わらせるなよ」
「それはお前の願望でないのか。それこそ芝居になる」
「誰かの望んでることをあえてするのが芝居なら、偽っているほうが得だ、誰にも賛同されないよりは」
一郎は荻野のことばをまたも冷笑でもって一蹴した。理で捨てるのでなく情で捨てた。自分の気に食わないから取り合わないのだった。
(そんな話は純度の低い哲学だ。人の生きざまという意味での安いことば以上の何でもない。警句らしく口にして、その口触りのよさに酔っているんだ。そんなものは結局、頼りにならない)
二人はそれきり千代子の話を避けた。
一郎はその二人を隔てる無言の幕間で、荻野の愛の解釈を検討していた。
荻野は関係の極北として結婚や心中を据える。恋愛は万事において未成熟で、恋愛程度にとどめるなら最初から友人であるより深い結合を要せず、またよし関係を突き詰めるというなら、結婚して家庭を築くかともに死ぬかの二者択一であるという。ここにはすこし問題があるようだ。というのはすなわち、荻野にとって単なる恋は回避すべきものとされているが、そうした根拠はいっさい提出されていない。それは志山の論でも同様だが、一つの論拠もなく恋愛は未発達で軽忽と決めている。一郎に解せないのはこの一点である。千代子と多少の仲であると言えば、ならば嫁にもらえ婿と捧げよとけしかける。一郎に億劫の素振りあれば、はなから止せとする。恋愛というものを一断片としても理解できない者の僻みだと一郎は心に嘲った。この少々行き過ぎた言い分は、恋愛をまったく解していず愚昧に思われた。
(そう簡単な話ではないのだ。人間がかかわるのだから。人間上の有機的で交錯した煩瑣な世界を考えないでどうする。恋愛を励行しないでどうする)
彼は荻野がようよう馬鹿に見えた。
一郎は以上のことを、荻野にただしもせず自己のうちで解決した。
境い目はなくとも春と夏の違いはそのうちに知れる。ぬくい日常が進むと夜がどうも冷えきらない。昇る太陽も熱く鋭く肌に刺さる心地がする。あの夢のような水中のような時季は何であったろうと額の汗を拭う。それに比べれば、秋と冬とは何らの違いもなく、ただ肌寒いとか単に寒いとか言ってみるものだが、雪の降らない土地の一郎が冬の訪れを知るのは木の葉の色づき落ちる様子ばかり。いくら晴天が曇りの上に閉ざされても落ちてくるのは雨滴だけである。
冬の雨は肌に当たる空気をいっそう冷たくするが、しかし湿気に悩まされる夏よりは気分よく傘を差して往来できるもので、雨だまりを踏み抜いて足に凍傷を起こすのだけ避けていれば何の嫌味もない、ただの水の降落である。まだしばらく冬だと一郎の心に絶えず浮かんだ。
しかし愛というのは、と一郎は国鉄駅に着いたときまた述懐した。愛というのは、恋よりももっと概念的なものだ。恋がその人自身を求めるなら、愛はその人の人間性と言おうか、その人の持っている性質の統合そのものに焦がれる。恋がいつまでも具体的な相手にすがるものなら、愛はそれを超えて各人の精髄へ入りこんでいく。愛はもっと超然としている。個人の肉体などすでに愛の範疇ではなく、たとえばプラトニック・ラブというが、あれこそが愛である。つまり精神的な要求である。個人の肉体を欲しがるのは、単に肉欲が行使されているに過ぎない。だから志山や荻野の言う「行き着くところ」を、一結実としての愛とすれば、議場には何らの問題もなくなってしまう。そしてまた愛するというのは背負うことである。背負うというのは、すなわち、相手の人生、生活、生命、何でもライフに当たるもの、それから、苦楽、感情、不都合、信条などすべて。われわれは人を愛するとともに、その人の半分を負担するのである。これは相手方も同じことで、相手も私を愛せば、かならず私の半分は彼女の上にある。市場を口にして、それもただ口説きたいだけの者は、相手の何も抱える気がないにもかかわらず、ことばの妙だけをよすがにしているのだから不埒である。痴人はみな「愛する」の文句に溺れる。そこに絶対の魅惑があると見て、陶然と彼にほれる。三文の決まり文句をもらった人物にしても愛を了承し、愛を与えているかはわからない。ほれているうちは酔っているのであって愛情の授受の覚悟などまだ持たないはずである。愛は金銭のようにはやり取りできないものである。だからしてやっぱり誠の愛は、互いの決死の覚悟の下にしか現れない。本気で愛するのであればいつまでも相手を具物として見つめているのではないだろう。いつかその人を抽象物として、観念として、大事に思うときが来る。それが、愛の胚胎である。
一郎は最寄り駅で下車しながら、改札を出ながら、どうやら志山らの案に自分も傾きだしていると自覚した。彼らの思想が自身の考えの一側面から捉えたものであると、冬の雨のもとに理解した。車内に塗れた雨傘のひしめいていた憂鬱から解放されて見慣れた町の駅前を見渡すと、すこしは胸の曇天が晴れたようだった。
(しかし自分が他人を愛するとしたら、それは誰なんだろう)
千代子が一郎の部屋に上がっていた。母が通したのだ。一郎はたたきに千代子の靴を見てどきりとした。愛の議論ははたして彼女の靴となった。すべて盗み聞きをされ、また待ち構えられてもいたような錯覚が一郎によぎる。居間から出てきた母はおもしろい話があるというように含んだ笑みを隠しきれない。母の言うとおり、二階の部屋には千代子が、茶と茶請けとともに待っていて、一郎が室の戸を開けるのに合わせて千代子は籐椅子から立ち上がって、静かに挨拶した。彼の肚はどうも鋭い熱を帯びていて、努めて冷たい声で返すと、その腹立ち紛れに戸を閉めるさい、音が立った。なぜ腹立たしいのかは彼にもわからなかった。ただ何となく嫌だった。千代子には彼の機嫌が窺えないと見えて、べつだんのことばもなくまた座った。「今日はなぜ来たんです」というどうにも千代子に向かってやりようのない怒りのあらわな口ぶりにも、彼女はどこにも意に介する部分がない声と顔で、「用事はなかったんです」
彼にはこのことばが、まったく構えていないところへ体を突かれたようであった。よろめいたまま次の動きも取れなかった。
「でも私の家の前で立ち話をすることもあったんですから、それと全然変わりないでしょう?」
「ええたしかにそうです」
彼も籐椅子に対面するよう座った。彼女が茶を淹れた。茶請けは小垣の家で見かけたことのない菓子である。
しかし双方とくに言うべき用も持たないから、会話は途切れがちで、体をすこしずらして部屋を見るか、そこの窓から夕暮れの気配のある空を見るか、それくらいで、またふと相手の顔を見ては目線が合って気まずげにうつむくこともあるが、すくなくとも温もりはなかった。千代子の顔には何かしら思索の様子が見えるが、それを一郎に言うことはなかった。
(いったい何の時間だろう)と、茶で飲みこんでいたいらだちが、一郎の胸に戻ってきた。しかしじきに彼女は満足そうな顔で帰っていった。
一郎は玄関を出る姿は見送った。
彼女の気配が小垣の敷地から失せてしまうと、母は居間からまた顔を見せた。
「何を話したの」
「別に何も」と一郎は言った。
ほんとうに。何も。
一郎にはだんだんと、千代子がわからなくなっていた。いや、前から千代子の何を知っていたわけでもないにせよ、彼女の存在に見出していた温かな色合いが、今では褪せていた。彼は美音子と話しているほうが楽しく思われたし、そうでなくとも以前の自分から笹尾の家へ通っていた時代が懐かしかった。門前で話していた話題は、自室で向き合っているときには浮かんでこなかった。彼はただいづらい気持ちを抱えたまま、ときおり千代子の顔を見た。彼女一人が不思議に楽しそうだった。
しかしこの事件を誰に話せばいいだろう。千代子のことを荻野に言うつもりはもう一郎にはなかった。すると彼の周辺にいる人物はみな除かれた。誰も彼も荻野たちにまで話を回してしまいそうである。そうなったら広田先生だろうか。教員に話すようなことではない。結局は大宮に話すか、またはいっさい黙るかだろう。篠子に言っても詮ないはずである。大宮にしてもこういう話が彼の興味の範疇かどうかは一郎に不案内で、あるいは一蹴されるかもしれない。篠子に話してもしかたないというのは、彼の心から外されることのない自尊のせいである。
一郎の危惧のとおり大宮からは助言も薫陶も得られなかった。
「向こうはどういうつもりなんだろう」
「さあ」
「俺はどうしたらいい」
「知らん」
机に向かったままの大宮へ不満足の目を向けると、「僕が何を言ったって決めるのは一郎なんだから、自分で決めたらいいじゃないか」
「決まらないから困るんだ。だから大宮君の意見だって参考にしたい」
「全部盗むんだろう」
大宮は演じるような冷笑を一郎に聞かせる。彼の興味は風向きに従い吹かれる枝葉のように手元の本から一郎に変わり、一郎のほうへ座り直した。
「僕の意見をまるきり援用して、というよりは剽窃だ。剽窃して、それを最初から自分の意見だったようにふるまうんだろう。いかにもお前のやりそうなことだが、一郎お前、演じちゃあつまらない」
彼に終始ちらつく嘲るふうの笑みが一郎には癪だった。
「真似をして何も悪くないだろう」
「でも実際つまらないからよくない」
「なぜ」
「なぜって、自分の頭で考えて、そこに相克する理論を対置させてみて、あっちもよい、こっちもよい、を繰り返すんだから、人は自己が養成されるんだ」
と僕は思うんだけれど、と大宮は間を継いで「他人に相談するていを見せて、その実は自分じゃ何も考えがまとまらないから、人の言ったことをそっくりそのままぱくってやろうって、そのもくろみが浅はかなんだよ。いつまで経っても自分の確乎たる意思みたいなのが完成しないだろう」
「研究者なんだから」大宮は言を添えた。
一郎はまったく取り合ってもらえないつもりでまず大宮に話していたから、このような反撃的の弁論に面食らった。それから、反論してもよかったのだが、自分の存在と性質を否定された気になって、彼は抗弁もなく大宮の話を聞きおおせた。それもまた自分を恥じる一端である。一郎はからかわれないことを第一に話を持ち出した相手から予想しない返事を頂戴したので、彼の推察が正しくて、自分の本質を概説されたのだと思うあまり、自分は実際、他人の受け売りで生きる人だという感が拭えなかった。納得さえした。感心もした。うまく看破するものだと大宮を見た。
彼はもう本に向かっていた。
「じゃあその人のことはしばらく様子を見る」
「うん」
「しかし俺も自分で自分の気持がわからないんだ」
大宮はもう哲学世界へ引き返していた。本来の彼はむしろそれくらい自己を優先する人である。一度自分の世界を創ってしまえば、よくせきのことがなければ出てはこない人物である。次もとの世界に帰ると時空はとうの先へ進んでいる。昼に思考を弄すれば次に覚醒したとき、日が隠れたあとということすらあった。他に頓着せず一心に学問へ身を捧げるがごとき様子だが、彼の頬や顎には不精髭がごま粒ほどにも生えていない。彼の痩せた顔はつねに清潔に見えた。剃刀を頬に当てる姿に出くわしたことはまだない。頭髪にしても、いつでも小ざっぱりして、蓬生のときはなかった。なぜそれほど自分の美容に気遣いが回るか尋ねてもよかった。けれども没頭中でない平生の彼でも、色よい答えは返してくれないだろう。大宮が興味を抱くのは社会的・政治的・思想的方面の議論で、支度の行き届いた彼の顔面は、社交的であるにしても、社会的でも政治的でも、まして哲学的でもなかった。ただ一個の青年の顔である。一郎は彼の刈られたばかりのうなじを見た。不快な心持をすこしも起こさない静かなうなじである。
美音子は今日来ないのかと一郎は姿勢を崩して部屋の戸を向いた。無音のまま閉じきってあるだけの戸のほうから冷気が忍びこんでくる。その注がれた水のような冷気が部屋の淀みに混じった。火鉢もストーブもなく男子二人の体熱が頼りの四畳半は、一人の勝手と一人の手持無沙汰のあいだを冷ややかな空虚が敷き詰めている。
着こんだ肌へもなお冷たい隙間風が堪える季節であるが、一郎は一握の流体のような眠気を体の底に感じ、大宮の了解を得るでもなくそこに寝ころんだ。そのまどろみのなかに書物の文や思想の断片が立ち昇る。「自然ということばを使用するとき、われわれの想像する世界は緑一色の植物にまみれた世界だろう。しかし地球は長らく、剥き出しの大地であった。果てなき海洋であった。緑豊かな風景というものは、それからの気候変動等の事象が原因となってもたらされたもので、厳密には、原風景などではないのだろう。われわれが還るべきと思う自然とは、実際として、いったい何であるか」。そう思えば植物に侵された大地は自然とは言えない気がする。生物のとても住めない高温の地表、ガスの類だけで満たされた大気、これが天体のあるべき姿かもしれない。あるがままという意味での自然を思えば、植物が生える今はかえって異様だろう。
こうした感想もつまりは人の受け売りでしかない、と一郎は思い直す。しかし他人からもらわずして自分の内側から発生する思想がはたしてあるだろうか。
(単細胞生物のように自己増殖する思想、それはつまり焼き増しだ。栄養を外部から得るがゆえに代謝する。人間はもとよりただ一体のみで暮らすようにはできていない。それは、あるいは、肉体的にも、精神的にも)
今自分の脳中に走る観念は、いったいどこから生じているのか。そういう凡庸でしかも強力な疑問は人間をあまねく駆け抜け、しかし個人でどうにか解決されたためしはない。自分の力だけで正解を導き出すとはいかにすべきか、他人の手を借りるのは恥ずべき失態か、絶対的正解とはどこにあって誰が知っているのか。
徳や法を踰越した神的な正しさがあればよいのにというような文句を、一郎は寝言のように声に出した。それが頭脳に展開される孤独な領土を超えて大宮に電撃のごとく落ちるのである。
「神的な正しさは、ない」
一郎にはまだ彼のことばが眠りの膜を通じて水で隔てられているように聞かれた。膝を立てたかっこうで横になった一郎を大宮は上から見る。そうしてまた「神的な正しさはない」と言う。
「自分一人の力で開拓するしかない世間なんだから」
「神はないのか?」
「信ずれば、ある。だが実質的にはない」
「無神論という信仰」と一郎は脈絡なく言った。彼はうなずいた。
しかし一郎の脳が明晰に思考できるだけ覚めてくると、大宮のことばに何か抗弁を試みたくなった。
「それでも神を信じることは悪なのか?」
「おおむねは」
「じゃあ神は何のためにある、神はいるのか」
「ないって言っただろ。あるのは準拠すべき気休めの論理だけだ」
「人の信条を気休めと言うのか?」
不意の沈黙。
雪が、降っている気がした。何の音もなく落ちていくものたちが、耳ではなく脳に直接感覚されるしんしんという音を立てて土に吸われていくと思った。それは轟音のあと、他のあらゆる音たちが元へ戻ってくる合図でもあった。
空の灰色の雲には、何かしら降ってくる予感が秘められていた。
信仰は、いや、しかし信仰は自由だ。大宮が言う。
俺たちはいったい何をいさかいしているんだろう、と一郎は謝罪でも訣別でもない挨拶を置いて帰った。廊下は異様に冷たかった。灰色の雲が昼の町に陰鬱を作る。空間が狭められたように一郎は感じた。厚い雲が蒼穹を覆ってしまったことで、人の力の及ぶ領域は現実的に縮小されたかのようであった。
俺たちはいったい何をいさかいしているんだろう、と一郎は独りごちる。彼に熾った火は急速に勢いを減じ、彼の気勢は萎えてきた。
目前の影に知り合いの感を認めて目を細めた。といって、この方面を歩く人は彼の知己の範囲ではずいぶん限られているから、予想は早くにつき、またそのとおりであった。
「お帰りですか」尋常と同じ瀟洒で暖かげな装いの美音子である。
「ええ」
「今、兄は何をしていましたか」
「本を」
彼女はすみれの微風に揺れるような笑みをした。彼はすれ違うところを呼び止めて、呼吸の二回分だけ間を置いてから「神のようなものはいると思いますか」
「いえ、私にはよくわかりません……」
美音子は「でも、いるとしたらどんな姿でしょう」
どんなでしょう、と一郎は彼女の目元から視線をずらして思い巡り、じきにまた目を彼女の表情へ向ける。
「美しさです。たぶんそうした概念的なものです」
それで別れた。
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