生き神おとない・二 作:奴
大学の門前の居抜きに、とうとうラーメン屋ができた。昼には学生が水牛のように群れた。一郎はそれを荻野と見物した。路傍に臚列した人は、いかにして数えても五十人はいた。一郎はそれほどうまいのかと興味を起こしもした。けれども行列が嫌だった。店も狭いのに五十人が食い終わる時間を待てばいったいいつになるかわからない。荻野も卑しいものだと言って嘲っていた。
「何もあんなにして食料に群がるかな。はたからすると滑稽だよ」
「でも実際うまいんだろう」
「うまいんだとしても嫌だ。もっと慎ましくやるべきだ。これじゃあ何だか資本主義飯店という感じがする」
荻野の妙な言い回しに一郎は苦笑した。
「いったい資本主義的でない飯屋があるか」
「あるかもしらん。俺が店を開くならそうする」
「共産主義の飯屋?」一郎は茶々を入れる。
「それは中華料理かソヴィエト料理かというだけだろう」
「そしたら資本主義飯店などというのは欧米のファストフードだ」
行列はそれほど動いていなかった。
一郎は夕に研究室を訪ねて、広田先生と数日ぶりに顔を合わせた。先生の顔がちょっと明るくなったようだった。一郎は詫びるような口調で無沙汰を詫びた。先生はしばらく口に詰めた羊羹を咀嚼していたが、ようやく飲みこんで息継ぎするとそれから返事した。
一郎の詫び方はすこし丁重すぎた。それは一郎が、できるかぎり毎日室に顔を出して、先生と話をするなり黙然と論文を読むなりすることこそ学生の責務と解釈するからであったが、そう熱心な者はめったにない。研究生や、卒業論文の準備をする学部生などはしきりに来るにしても週に幾日かは自宅にいる。広田先生も自分の小室にこもりがちである。ときおり研究室まで来て、学生と歓談しながら茶をすすった。
一郎も謝ったあとで先生に茶を勧められるうちに、我ながら先の陳謝が変に丁寧だったと感じないでもなかった。そこには作りすぎた慇懃というか恭謹の態度が見えていた。むろん全部話せば、不精の理由はある一人の女だが、それをまるきり白状するのはもっとも馬鹿である。数か月も行方知れずで帰ってきたのなら身の上を打ち明けるくらいは義務かもしれない。けれども数日ぶりを詫びるなら簡単なことばでよかった。いや言う必要すらない。言ったとして何の益があるか。一郎はそこで思いとどまって、心中に詫び方のことをこだわっていた。ただ羊羹を食った。
しかし土地柄かもわからないがこの国は菓子でも調味料でも豆を使ったものが多い。一郎は思った。口にした羊羹は小豆である。前につまんだ豆菓子は大豆であった。ほかに餡子も汁粉も味噌も醤油も豆腐も湯葉も油揚げも厚揚げも豆である。ビールを飲めば枝豆が欲しくなる、茶請けは甘じょっぱい豆がいい、そんなことを父が語る。一郎は思い返す。
「先生は豆を食いますか」と尋ねてみる。先生は意外の顔をした。食うときは食うというようなことを言った。
会話はつづかなかった。また沈黙した。
彼は室の中央の長机を並べたところで広田先生に体を面しつつ頭だけは壁沿いの書架を向いていた。目の端にそれとわかるだけの先生は何を考えているか黙っていた。
室の白熱灯は無生物的の白色の光を発するものと、黄色がかかった光を落としているものとがあった。部屋の隅はいくらか暗くもあった。おぼろな楕円様の明るみの外から、ほの暗い部屋の一隅から、いや背表紙がモザイク柄を成す壁面の書架から、紙の熟れきったような朽ちかかったような酸いにおいが光の粒に混じって楕円のなかへ漂ってきた。彼の脳に強く意識されるにおいであった。水分を失い、時を経て褐色に変じた古い学術書やギリシアの悲劇集や聖書が羅列された研究室の本棚を、一郎はよく物色した。そこには仮綴じの本が乱雑に重なってもいた。
「君飯屋に行ったか」広田先生が口を開いた。
「いえまだです」
「食べて帰るつもりは」
「きっと母がもう夕飯をつくってるでしょうから」
「じゃ無理か」
「ええ」
今度はすこし冷淡にしてしまったと一郎は考えた。
二人は半時間も向かい合っていたけれど会話は右のとおりで、彼らのほかには人がいないから部屋は埃の積もるように音を沈ませ、体を動かしものを動かすと音はそれだけ大きく響いた。椅子を引きずる音は部屋いっぱいに鳴る。
いったい何のために研究室まで足を運んだかわからなかった。三十分先生と顔を突き合わせて菓子を賞味して帰りも外食につきあわないのでは、最初から室へ行かなければよかったというようなことも、一郎は思わないでもない。それに先生について室を出てしまったのも失敗だったろう。一緒に料理屋へ行くのでもないから居残って本だの文献だの読んでいればよかった。
(いっそひと月まるまる行かないでみようか)
頻繁に室を訪ね先生を訪ねる人がいる一方で数か月に一回来るかどうかという人もいることは推して知るべきことだが、しかるに一郎はその決心をつけられない。彼にはその手の不精が不徳義に思えてならない。しばらく顔を出さなければきっと謗りにあう。先生からも失望され、いつか勘づいた父母からも責められるかもしれない。そのためにあのとき詫びを入れたのだと一郎は発見した。
先生は潰れきった鳥打帽を頭に載せて、ラーメン屋のできた建物のある正門とは別の、西側にある小門のほうへ一人で帰っていった。家宅は一郎の家の近辺だがどうも所用らしかった。佇立してその後ろ姿を見届けると、その被り古された鳥打帽は先生の髪型のようにも見えた。じきに青信号の横断歩道を渡って、陶器屋とか床屋のある通りを私鉄駅の方角へ進んでいくところで、その様子も見えなくなる。大学を囲む長い鉄柵と、構内の散歩道の口腔から食道そして腸までの消化器の経路のようなうねる道を内包する鬱蒼として草のかおりの濃い森林が、先生の影を追う一郎の目を遮った。彼は正門のあたりに踊るような豚骨のにおいで息が詰まった。教師と学生の別れの終わりは、この胃腸にのしかかるような重いにおいのために、朱な夕暮れの作った寂寥も醒めた格好で、調子が合わない。
しかし夕日だけは見事であった。日は、防護してくれていた薄い被膜を剥いで生命の根源を露出すると、金色の光が周辺の膜のような雲に、その溶け落ちるほどに煌々と輝いた太陽の一部を混ぜこむ。今は、くすんだ白色の雲に、鮮やかで稠密な黄色を装飾しているもっともすばらしき瞬刻で、そのうち刹那的に弾けてしまったあとでは、消え入りそうな蝋燭の最後の燃焼ほどの頼りなげな残照を置いて日は山中に消え、昼の長かった盛夏からすこし時間がずれていよいよ夜の満ちるのも早まってきた晩夏に、薤露嵩里の煩悶をもたらす藍染めの幕が降りて一体を閉ざす。太陽が燃焼しているまさに今、すでにその反対の方角には群青の夜が迫っている。「月は東に日は西に」とはまたすこし季節や趣を違える昼夜の移ろいがある。一郎が向かう国鉄駅はこの夜の側にあった。
天井の照明が消されるとしても文明人の世界には地上に別な照明が無数ついて、およそ天地に昼夜が両立しているがごとく錯覚しうる。あるいはもとより平面であった大地が分画され、建設されたさまざまの垂直的建築物のあいだで星々は自在に消え現れる、移動する。我々は空にそのまばゆき光を見出せなくなるかわりに地上の人工的の星をありがたがる。その結果昼夜というのは単に大照明の有無でしか語り得なくなった、というのは過言ではないだろう。そもそも人間が増えすぎた。
道行きて、あるいは料理屋に入り、あるいは駅に向かい、あるいはとうに泥酔している人間たちの、流体的と言おうか、原子の熱運動のようと言おうか、どこにしまいこまれるかも見当つかないほどのごった返しのなかをできるかぎりぶつからず、まっすぐに進んでいくと、巨大な書店や百貨店や、喫茶店や料理屋、衣服屋、靴屋、そのほか細々した店をいくつ通り越したかもわからないときに駅にぶつかる。駅の周辺はとりわけて人が多かった。この時分の街の話をするにしても人が云々、喧噪が云々と語ることはすくない。人より背の低い外国車が、夕日の燃え尽きたあとのやや暮れなずむ紺碧の空のようでその色を映した川面のようで、通りに押し合いへし合いする人をよそにゆっくり通り抜けていく姿は麗しい。あれくらい余裕のある立ち居ぶるまいができたらどれほどよかろうと思案していると、今度は威圧感のある黒塗りの車がこれまたゆっくり走っている。それから、そうした触らぬ神としておきたいものたちの間隙を、出前の自転車が速度を落とさず器用にすり抜けていく。近ごろはあのような職業があるかと感嘆もするが、しかし大通りを走るのと同じように人ごみを疾走していく二輪を見ると、驚恐として不安がってしまう。すこし神経質なのか一郎は事故のことなども不必要に克明な想像をする。そうして自分が事故を起こしたのだという気分になって勝手に青ざめている。
しかし見渡してみると大学門と駅のあいだにも無辺の宇宙があり計量できぬほどの人がいる。昼間はもうすこし落ち着いているが、夕から終電車までこのような騒がしい容貌に変わる。それらをすべて書き出そうとすると以上のようになって、特筆すべきことはほぼないなどと思いながらいろいろに記述できる。一郎の興味は人や動くものどもに起こる。
おびただしい人数の行き来する駅の構内へ入ると改札の前の売店に大宮を見つける。以前に部室で笹尾某すなわち荒木千代子の話を荻野や志山としたときに、同じ室内でその一団から離れて何やらやっていた哲学科の男である。一郎はおやと思って、とくだん、気にも留めずにやり過ごすつもりであった。しかし彼の横にもう一つの影を認めたせいで、一郎は二度見をしてしまった。大宮は女と一緒であった。背丈は十人並みの彼と変わらないどころか、ちょっと屈んでいたところを見ていたようで、そのあと背筋を伸ばしたら彼よりすこし高いくらいなようであった。するとそこらの男などよりは断然と長身らしい。大宮は一郎とそれほど大差ない単純な見た目だが、その女はどこか華やかな感じがあった。衣服が目にあやなのではない。大宮と似た真っ白のシャツで、下は黄土色というとすこし間の抜けたようだが、秋の色と言おうか、落ち葉とかホオジロの腹の色のような暗めの橙色をした長いスカートで、改札の前から遠めに彼女を見るのでは、艶やかな髪が背の肩甲骨の下端くらいまで伸びていた。足に何を履いているかは一郎にはよく見えなかった。一郎はその女を人びとのあいだに見据えると、そばで商品を見ている大宮までも意識から外れて、ただ女のことばかり鮮やかに明瞭に見えた。彼女だけはそのなかに輝いていた。一郎は不意に苦しく感じた。心臓の弁のうまく開閉せずに血の流れが狂っているような痛苦が胸に渦巻く。もうすこし近くによって見られないものかと彼はしばらく考えた。そうして改札のすぐ近くの柱にもたれて、なおも女を見た。彼女は文具の棚で試し書きをしていた。ペンを取ってはそこに置かれてある紙に適当な文言なり記号なりを書きつけて、満足しないのかまた別のペンを手に取った。そうしてまた何か書いていた。大宮は離れてほかの棚へ行った。一郎には女の顔がまだうまく見えていなかった。彼女は始終棚と向き合ってペンを買い定めているから、ただその腕だけがしきりに動いた。人びとは一郎の後ろへ、改札の向こうへと消えた。いろいろの通路からのべつまくなしに人が現れ、みな改札口に吸いこまれた。帰宅するのであった。女はずっと背を向けたままである。同じ店内に大宮はまだいるだろうし、そのうち女が大宮のほうへ行くか、大宮が女のもとに戻るかするだろうから、たやすい気持ちで近づけばすぐに自分の怪しい姿が見つかってしまうだろう、と一郎は考えている。
(何とかして顔だけでも窺っておきたいものだが、それにしても大宮が邪魔だ)
一郎と大宮は互いに顔と名前くらいは知り合っている仲であるから、ややもすると彼女を狙っているような格好の一郎を大宮が見たときに、のちのち何と言われるだろうか。そう考えてみると二人のまわりをうろうろするのは憚られた。しかしぜひとも拝見したい気持ちが一郎に強まってきた。
それで一郎はとうとうせきあえず、柱から離れて人を避けながら店に歩いていく。その女の背中に凝然と目を据えて、今ここで逃しまいと見る。店に入って、大宮に知られても構わないと、平気の表情で女のいる棚の右側へ歩いて行こうとした。そのすれ違いざまに横目で女を見上げたのである。
すると一郎の心臓は余計に狂い、動悸が高まった。胸のあらゆる構造が取り払われて、体を循環して帰ってきた血がそのまま胸中に迸る気がした。それだけ熱かった。それは女の美しいせいであった。
足が止まって、しばらく女を見ていた。一郎はいけないと思って慌てて店の奥まで突っ切って行ったが、離れた掃除用品の棚越しに、女のいたほうを眺めた。文具の棚に、女の目から上だけが見えていた。その目は照明のためかずいぶん光っていた。真玉のようであった。髪も艶やかで、宇宙のように黒く澄んでいた。(あれは何という美しさだろう)彼女の美しさはただの美しさというよりは、神秘的な・無際限の・無窮の・自然物にみなぎる精力のような・より根源的な・情動の力源のごとき美しさで、約言すれば、頌美と崇拝をすべき妖艶を有する魅惑の女であった。(あれは何という美しさだろう)一郎はまた思った。
あまり長居もできまいと一郎はまた女の横を通り過ぎて改札機へ小走りに向かった。もうその人の目元口元などは見なかった。他方で女の魔力とも言うべきものが磁力のようにして一郎の背にはたらいていた。もう一遍その花のかんばせを見たいとも思った。しかし再びその目鼻立ちを確かめたら、彼女に引きこまれたきりもとへは戻れぬ予感があった。それで一郎はプラットフォームまで一目散に駆け上がっていった。
(あの女は何者なんだろう、あの女は、大宮の何なんだろう)一郎は最初、二人が話しているのを見た。女は棚の下のほうを物色してから、大宮に声をかけられたので体を伸ばして彼のほうにすこし顔を向けた。そうしてことばを交わし合っていた。それだけのごくわずかな会話では、はたからしても妹背の仲か否かは判断できかねた。とはいえ大宮に直接尋ねることも遠慮された。「君、昨日は女と一緒だったろう」と出し抜けに聞くのはどの手順を踏んだとしても無作法であったし、交友のそれほどない一郎が急に話を持ちかけるのも、いぶかしがられそうで嫌だった。
電車に乗りこんでから、一郎はまた女のことを考えた。たしかに彼女は美人であった。端正とか、顔つきのいいとか、肌の白いとか、あるいは誰かの美人画にそっくりだとか言って表現するのは難しく、どう言い表すべきか迷うけれど、美人であることには美人であった。彼女の顔の一つひとつ、容姿の一つひとつを詳らかに説明するのは、一郎には手のかかることだから、あとで他人に話すときには伝わりづらいものだが、とにかく心惹かれる女性であるというのは確実である。一郎の心を今に砕きそうなほどの質量と圧力のある光が彼女から発出されていた。
大宮とあの女が乗り合わせてはいないかと一郎は車内を見渡した。知己の一人もなかった。
暮れは、早かった。日はとうに燃焼してしまって、群青の空が滑らかな一幕のように広がっていた。そこに雲が散らばっていたが、その微妙に動くなかに星々がきらめいている。宅へ向かうほど、駅から離れるほど、静かな青空は瞭然として濃やかになり、星が見えだすほどに、金の斑点模様の織物らしくも見えた。駅のほうでは都市の電気を映して空まで明るかった。
玄関に入ると知らない靴が一郎に向いているので、彼はしばらくそこに立って考えてみた。そのうちふふふと居間から声が漏れてきたのですぐに得心して、自分もその隣に靴を並べて、自室に引っこむ前に居間へ顔をのぞかせた。そこは玄関のほの暗いところとは違って電灯の煌々とした感じがあった。その下に父と母と篠子とがいた。客人は彼ら三人に囲まれて歓談していた。四人はみな同時に一郎を見た。
「お帰んなさい」と篠子がまず言った。
それから、
「ああ、どうもお邪魔しております」と千代子がいながら一郎に頭をすこし下げた。
「ええ、どうも」
「千代子さんも一緒に夕飯にするから、すぐに降りて話し相手になってあげて」
「はあ」
一郎は気の抜けた返事をした。このとき父は全然と声を出さなかった。
彼は二階へ上がって、階段のすぐのところでまた下へ耳を澄ました。母の何か言う声と、それから篠子の元気のある声とが聞こえた。次に、千代子が篠子へ話しかけ、そこで女二人の会話が編まれていった。父は新聞でも取り出したか紙束をめくる音がする。そうして母の台所へ立って支度する音が一郎のところまで届く。これだけの環境音を耳にすればおよそ万世不易の太平が一家庭に収斂したような心地がする。篠子と千代子は仲のいい姉妹で、一郎はその兄で、という具合に、千代子の存在は何らの違和感もなく小垣一家の内側に組みこまれた。一郎は手をついてもうしばらく二人の話し声を聞こうとした。煙のごとく巻き上がる団欒の雰囲気が、彼の体を温めると思った。だがじきに、篠子と千代子のどちらともない笑い声がどっと上ってくるや、彼は自室に入った。
「じゃあ千代子さんは兄さんの後輩になろうとしてるんですね」
「頭ではそのつもりなんですけど」
「いいじゃない私、頭のいい人好き——あっでも何の学部に入りなさるの」
「私は法学部を……」
「それならいいわ。ああでも法律を学んでる人ってみんな偉くなりそう。弁護士とか裁判官とかでしょう?」
千代子は篠子の勢いに圧されているようでその返事は弱々しかった。
「あんまりまくし立てちゃ悪いよ」一郎は割って入った。
「あら兄さんの文学のことより、よほどましに見えるのに」
「文学部ですか」
「ええ」
「そのなかでも誰を研究なさってるとかあるんですか?」
「十九世紀の西欧のを」
「私、文学研究がそんなに大事なことかわからない」篠子が決然とした声を張った。
「あら、どうして」
「だって」篠子は卓にいる者の顔を見渡して「小説ってほとんど趣味でしょう? 私も好きで読んでるけど、あれをまじめに研究していったいどんな利益があるのか想像できないし、何だかお金持ちの道楽みたいで」
父がすこし曇らした顔を新聞のほうから上げた。一郎は雲行きの怪しいほうからそのまだ及んでいない青空のほうへ舵を切って話を進めようとした。
「でも篠子は大学へ行って何をするの」
「私は、そうねえ……」
父はまた新聞の氈幄へ引っこんだけれど、一郎は彼の気迫を視線のようにして感じないわけにはいかなかった。篠子の答弁しだいでは、父がそこを蹴破って怒鳴りこむのではないかという一触即発の危うさが、先まで温かかった食卓の上に充満していることに一郎は冷や冷やして篠子の口ごもるのを見守った。篠子はせんまで達者にしゃべった一方で自己の将来をまだ判然とは決めかねているらしく、困ったようであった。そこに千代子が気遣ってか否か助け舟を出した。それもまた一同を驚かした。
「でも私は、やっぱりもう大学は止そうかとも思ってるんです」
「それはまたどうして」父が閉ざされていた幕から咄嗟に出てきた。
「ご存じかとは思いますが、私も一回、大学受験に失敗して、ちょっとしたよしみで笹尾さんのところで書生をやらしていただいて、もう半年になりますが、この生活に慣れてきますと、もう勉強は諦めて女中として生きたほうがどんなに性に合っているかと思うんです。勉強も楽しいです。さっき一郎さんが文学研究をしていると言われて、私も昔はゾラとかジッドとか本気で研究してみたいと思ったこともあります。それで、決して一郎さんも、文学者もけなすつもりではないんですが、どうしても、文学を調べて何になるんだろう。私はそのあと卒業して、どんな職業に就くつもりだろう、何がしたいだろう、と考えますと、何だかだんだんと、実学をやったほうがいいんじゃないかと考えてしまうんです。ほんとうに文学研究を馬鹿にするつもりじゃありません(父が、いやいや、と承知の合図を見せた)。ですけれど、今の科学とか工業とかいう社会で、何の考えもなしに好きなことを学びに大学へ行って、それであとに効くんだろうかと思うと、怖い気がするんです」
怖いというのは、と一郎が促す。篠子は真顔になっている。
「怖い、というのは、もしそのあとの職業に、大学でやったことをつなげないといけないのだとしたら、私には何も残らないんだろう、ということです。学問する過程で資格が得られるとか、勤め口のつてが見つかるとかいうならずいぶん結構なんですが、文学ではそれがないような気がいたしまして。私はこのとおり一回失敗した身ですから、いざ就職するとなっても、そんなに思うようにはいかないんじゃないかって、怖いんです」
卓はしばらく陰鬱な様相を呈す。篠子は半分崩れた姿勢で、畳目をいじっていた。一郎は千代子にかけることばを思索していた。今文学をやっている僕にしたって考えなしですよ、と冗談らしく言ってもみたかった。しかし父の前で言うにはすこし勇気が足りなかった。千代子の声の響いていた場に、母の料理の音と煮こんでいるもののにおいが染みてきた。醤油に砂糖を混ぜた甘いかおりであった。
「たしかに就職の話となったら法学部のほうが多少はいいかもしらんが」父がようやく口を開いた。「最後はそんなに変わらんでしょう。みな平気な顔でいい就職口を見つけて社会へ出て行くもんです。ほんとうに研究したいことをしないと、四年間、空しくなります」
千代子はうつむきかげんのまま父を見てうなずいた。口もとには微笑もあった。だがそれは、不似合いの化粧のような浮き出た印象が一郎に残った。彼は、千代子の目の奥にまだ悲哀が帯びていると、そこにはっきりと見た。一郎にしても父の慰藉がどれほど当人によいものかもう一つ納得していなかったところで、千代子の秘匿しきれない凄々とした情動が、その目に、ほんのり白粉をはたいた頬に血のごとく流れているのを、彼は見ないではいられなかった。一郎は、千代子の心の奥のほうに涙を垣間見たようだった。そうしてそこに立ち罩める冷たい空気が外へ、彼女の心を覆っている茂った森をすり抜けて、自分のところまで漂うと思った。彼はその涙のそのまま蒸発したような、目に見えぬ微細な霧で身のにしめるようであった。
「腹が減っているときはよけいに暗い気持ちになるもんですから」
一郎は自分でも慰めてみようとした。
食事のときには、千代子はまた屈託のない笑みを浮かべていた。母の作ったものを逐一おいしい、おいしい、と褒めて、雑誌記者みたいにあれやこれやと尋ねていた。母は話すのも気持ちのよいと見えて、調味料に何を加えるといい、具材への味のつけ方はこうだ、と快く全部話していた。
「私も料理覚えなきゃ」と篠子が独りごとを言った。
雨が、降りだしていた。電気をつける前の一郎の室では、冷めた空気に湿り気の強いにおいが嗅がれた。雨のにおいであった。夕食のあとで千代子は一郎の蔵書をぜひ見たいと口にしたから、何構いませんと彼女を二階へ上げた。そのときに梯子段ほど傾斜のある階段を、一郎は得意に一段飛ばしながら、千代子は四つ足になって登った。
「笹尾さんはいいんですか」
登りきって、つい前に一郎が二人の声を聞いていた踊り場に立ったときに、その闇のなかで一郎は思いだしたように聞いた。彼女が居間にいると知ったころから気にかかってはいたけれど、つい聞きそこなっていたと言おうか、先延ばしにしていた。
「ええ、今日は宅にいらっしゃらないんです。ご友人と一緒にご旅行で」
「どちらまで」
「三島とか何とか……静岡でしたっけ」
「ええ三島は静岡です」
あなたは同行しなかったのかと言おうとして、千代子の暗きにぼんやり光るような表情に、瞬間、心を惹かれて、一郎はそれ以上は黙った。部屋の電気をつける前から彼の室に入れば水のような冷たい風がかすかに通り抜けていった。彼は窓を閉めた。
「ここが自分の部屋です」と一郎の言いしな、千代子は彼の卓に開きっぱなしの洋書が目についたようでそこへ進んでいった。ページを繰って声にならぬほどに文を口ずさんでいってから、著者の名を言った。たしかにその人であった。一郎が何か言う前から、彼女はまた話しはじめた。
「あの場面が好きなんです。あの……木々の下で、主人公の子と、もう一人パートナーになった子が、お互いの故郷の情景を語り合う場面」
「あれはよかったですね」
一郎も調子を合わせた。そこでの故郷の説明のされ方はすこし人間味のない機械的なふうではあったけれど、それにしてもそこに吹く風、流れる川、薫ずる草、揺れる木々、連なる家々、人、すべてが容易に思い浮かんだ。あれもある種の名文だったと一郎は感慨した。
「私は訳書を読みましたが、これをお研究なさるんですか」千代子が言う。
「いえ研究はまた別のを。それは教授が貸してくれたんです」
彼女は感心そうにうなずいた。すこし目が光っていた。
それから千代子は一郎の部屋を見て回った。彼は千代子の歩くのに任せて、うしろから博物館か美術館の学芸員のように家具調度を紹介していった。一郎があえてしなくてもよいような説明を二、三、加えるたびに彼女は何だかあいづちを打った。そしてまた千代子も、あるときにはあえてしなくてもよいような質問をした。一郎はまた丁寧に答えた。それで肝腎の本へ行き着くのはだいぶあとだった。
「いつもここでゆっくりなさってるんですね」
せんに篠子と豆菓子をつまみながら休んでいた低いテーブルと、肘かけのある椅子まで居室をぐるりと回ってたどり着く。順路のほとんど最後であった。その木製のテーブルと椅子は数年前に父方の祖父母の家から拝借してきた経年の代物で、もとは皮を剥いだときと同じ白っぽい色をしていたのが、ときが経って深みのある茶色へ変色した。一郎のはじめて見たころにはとうに今の色合いであったけれど、祖父母の証言からすればずいぶん変わったらしい。彼はそのようなことを説明した。
「あなたのくれた豆菓子もここで食べました」
とうとう本棚に対面すると、千代子は一人でしげしげと隅まで眺めた。それは篠子が本を探すときよりもよほど観察という一つの慎重な作業であった。千代子は自分の求めているもの、ないしは自分が求めていたのだと結果的に気づくものをそこから探しだそうとしていた。意識的な遭遇と無意識的な遭遇、あるいは、必然的な発見と偶然的な発見とを、その現在不動の小世界に見出そうとした。そしてそのためには、蔵されてある書物の一冊とも見逃せないのだった。一郎は彼女のその真剣な表情を見た。本のそれぞれの背表紙を鋭利なまなざしで読み取り、ときおり取り出して適当に開いている。今欲しいのは手がかりであろう。その本が、自分に好ましいものか否かを決するような手がかりを、彼女はめくる何ページかに求めていた。品定めするような、賞味するような目の動き、題や装丁や名状しがたい霊感に心を揺すられながら、まだもう一歩踏みこんで行けぬときに相手を胸中に診断するような気迫、文章を二、三文、読むときの唇のかすかな運動、震えが、階下の音も聞こえないなかにただ静かに舞った。それは千代子の美しさであった。彼女のする所作、ふとすると立ち現れる癖、手つきはみな、彼女の持っている美しさである。それがことばに成しがたい絶妙なる季節のかおりと同じようにして、部屋の空気へ溶け出している。一郎は花のかおりや、白粉や整髪料のかおりの風に漂うのを嗅ぐようにして、千代子の持って生まれた霊性を呼吸していた。
(彼女のなかにある美しさというのは、いったい大宮の連れの女と何が違うだろう。荒木さんにあるのは、殺気とはまた違うもの、射殺すような目だけれど、単に相手を殺そうっていう目じゃあないんだろう。人間を殺そうっていうよりは、もっと観念的な、心の奥の奥を抉ろうというのだ。あの女のはもっと柔和だった)
一郎の射抜かれ方は、ある種の先端恐怖症者が俎板に置かれたままの庖丁を遠くから見て、それでも恐ろしく思われるという感性に近かった。自分に向けられたものでも、今すぐの危険がみずからに逼迫しているのでもないころから、どういうわけか、妙な物理的な現象によって、自分の目か胸かにそれが飛びこんでくるのではないかという幻めいた恐怖を抱いて、引きつけのような患いを起こしてしまう。それと似たもので、千代子の放った強い鋭い眼光がすべて自分に向けられたのだと、一郎は知らず知らずに感じ取った。彼にはそれがほとんど避けられなかった。彼女の目もとに視線が伝っていったときには、間もなく彼女の雰囲気というものが胸に押し寄せてしまったから。一郎は不覚の感も抱かず、彼女の放射した(と一郎があとに考えた)ものを受け入れた。彼女のこのあと成すだろう動作のもろもろは、すべて彼を動揺させるだろう。人は音を空気の震えと捉えぬままにただ音とばかり聞くが、一郎はこの先、千代子の一挙手一投足をただ人の体の動かし方と見ずに、美の発揮と見るだろう。そのせいで心臓の不備に近いものを、しきりに胸に感じるはずである。
「何冊か借りていってもよろしいですか」
「ええ何冊でも借りてください」
彼の眠りを覚ますような千代子の声に、彼は間断なく答えた。
「送ります」
いえ、と辞退して「すぐそばですから」
「その何十歩かが、僕には心配なんです」
そんないいのに、と小声に言いながら、といって断るしぐさもそれ以上なかったから、一郎はその五、六間の距離を連れ添った。雨はわずか一瞬ばかり止んでいるようで、この数分も油断ならないほどに湿気が漂ってあった。彼女の借りた本を半分持ってやった。そうやって笹尾家の玄関戸で別れた。
「大学のことはまた考えてみます。文学もやっぱりおもしろいかもしれません」
「ぜひ」
「本、いつまでに返しましょう、期限なんかは……」
「気になさらんで」一郎は努めて笑んだ。「気の向いたときに読んで、気の向いたときに返しに来てください」
全部言い終えると、一郎は踵を返した。
一郎の室はふだんよりもかえって空虚に感じられた。数冊の本が千代子の手に渡ったからというのではなしに、はめこまれていたものが外れたような、一つのものが欠け落ちたような、中空から空気が切り取られたような、奇妙な欠落である。それは水分を失って外殻だけになった虫の死骸が、ひとところに吹き流されてごみに絡まったままであるのに近い、ある種の不気味さがあった。つまり魂の失われた感覚であった。彼は千代子へ最後に説明した背の低い籐椅子に深く座りこんで、横たわるようにした。また雨が降りだしていた。今度こそ本降りになるようであった。雨滴が屋根をたたく音が千代子のいた時分よりも激しくなって、すこし恐ろしいくらいであった。そうすると彼女はちょうどいいころに帰宅したことになる。
(ひどい豪雨でこの数間も帰れぬくらいになったら、もうすこしここで話せたんだろうか。しかしあれ以上向かい合って話すことなんてなかったろう)
今しがた宅へ戻ったばかりの彼女が何をしているか一郎は気になった。(さっさと湯に入るんだろうか、それとも俺の貸した本を読むのか……)紙をめくる音が聞こえるようだった。千代子がすぐそばで耽読している気配を、一郎は感じていた。
開け放しの戸を指の関節かどこかでたたいて「兄さん、お風呂」と篠子が呼んだ。
彼は入口にいる篠子の姿を見やって、椅子の上で体をすこしずらした。返事はそれからした。
「千代子さんと何を話したの、わざわざ送って」
「別に」
一郎は篠子を追いやろうと思って淡白な口ぶりにした。
「本好きどうし、おもしろく話したんでしょ」
「部屋に置いてあるものを全部案内したんだよ」
「それで疲れてだらしない座り方をしてるのね」
「そういうんではないけど……」
篠子はからかうように笑っていた。何をおもしろいと思ったのか他人にはよくわからない、子どもの不意にする笑いみたいに見えた。
「どうしたの」
「いいえ、何にも……でも部屋の家具を教えたって、どうしてそんなことを」
「そのときの気分でそうしたんだ。でも荒木さんは熱心に聞いてくれたから」
ふと見ると篠子はどういう心持か不明瞭な真顔をしていた。
「まあいいときにお帰りになったわね」
篠子は、彼の部屋のなかや廊下をと見こう見するその一瞬の沈黙のあとで、自分の部屋に帰っていった。また雨の音がそのしじまのなかへ割って入ってきた。急に雨脚は強くなり、またじきに弱くなった。
「うん」と一郎はまた遅れて返事した。部屋を出ると、廊下にはまだ篠子の残していった風呂場のかおりがした。湯と石鹸と、ほかに何か香料を含ませたようなかおりである。
一郎にはさまざまの関係が生じた。それらは世間上に島のようにして浮かび、そしてまた島どうしの交易は見られなかった。ただそれぞれが一郎とつながり、そのあいだである種の感情が行き交った。第一に家族があった。これは切っても切れない血縁上の関係である。次に荻野らがいた。広田先生もある。大学内にできたつかず離れずの間柄である。さらには千代子らがいる。また考えるところでは、大宮に連れ添っていた女がいる。彼女とはいずれ友好を結ぶだろうと一郎は予見する。
(彼女をあえて大宮某とでも呼ぼうか)と一郎は彼女の名前をはじめて考えてみると、そこで大宮の二字から彼の連想は過去へと向かう糸を伝って、しばらくぶりの世界へ急激に飛び帰った。彼は何かしら見えない力に引っ張られ、卒然とあるところに行き着いた。お・お・み・やの四音節のことばが彼の頭を烈しく打ちたたいた。
(篠子の友だちに大宮さんがいるでないか、大宮美音子。美しい音の子で、美音子、と篠子が言っていたが、あの人は彼の妹ではなかろうか? それだったらあのとき駅で彼と一緒にいたのも、いくらか筋が通りそうだけれど)
一郎は何らの証拠がないところからあの日見た女をすでに大宮の妹で篠子の友人である大宮美音子だと決めつけた。(それなら俺にはいっそう都合がいい。仲の大してよくない大宮から連絡するのは遠慮されるんだとしても、妹の力を借りたらずいぶん話が早くなるし、俺の推理も真っ当だ。もしかしたら篠子が連れてくるかしらん)
こうして一郎の航路図にあの女の名が載った。まじめともふざけているとも言えない、気楽な批評家のような談話をやり合っておもしろがっている荻野や志山が諸島となって連なる海域、家族というもっとも奇妙で懐かしい大陸、そこに先生という風がおもむろに吹く。そして霧深い海原の果て、あるいは一郎のまったく警戒していなかった方角に大宮美音子という新しい地平があるらしい。小垣一郎という人間はこの大洋・河川を流れていく一葉に過ぎぬ。彼は生活に翻弄される、時世に翻弄される。彼の精神は時流に乗ってあちこち漂泊し、各人にぶつかる。そして思い返せば、これより狭いことは決してないし、また拡がっていくにしてもよほど広大無辺である。彼は社会の茫漠さが怖い気がする。そしてその怖さが胸に障る気がする。ここに及んで一郎は落ち着かなくなる。これが近ごろ何遍も繰り返っている。数えてみれば交友らしい交友はすくないものである。寂しいと思う。同じことを夙夜となく考える。
改築されてから十干十二支の半分を越した一郎の部屋はもとの和室であったが、今は西洋風の板敷に様変わりして和風の設え方とはまた別な趣向がある。本棚の横に小さな窓があるばかりで光の通りにくいそこは、快晴のつづく爽快な時節でもほの暗い。小垣の家はどの室をとっても太陽光線が深く入りこまず、よく言えば詫び寂びを感じ入るところであり、また悪く言えば陰気なところだった。とりわけそれは暁のころ、通りは、夜の底に鈍い輝きを発する光の粉をまぶしたような明るみがしだいにまばゆくなり、そこに生き物の息を吹き返す感触と、生命のもう一度熱を持つにおいが立ち昇りながら、駅前の騒がしい大通りに比べれば盆でも正月でも静かな住宅街は、いっそう深い眠りの中で浅く呼吸するような空気をはらんでいる、そういうときには、家のなかはいつまでも底抜けた明るさを持たなかった。
家や路地に日光が落ち、そこらに転がる石の一つずつが明瞭になっていくにもかかわらず、昨晩から降りしきる雨のせいでその日の朝はどうにも鬱屈の抜けきらない雰囲気であった。空の奥までひと思いに解き放たれて、町中に淀む湿気が天空をはるか高く昇っていけば、どこともなしにある晴れなずんだ憂鬱がなくなりそうにも思えた。一郎は日の出の直前に目を覚ました。彼の部屋の真隣にある六畳の寝室の布団のなかで、一郎は自分の肉体の感覚や吸いこんだ空気の味から、起きるのはまだあとでいいと思って、再び眠ろうとした。彼の体にはまだ濃い眠気が回っていて、多半混濁した意識に彼の思い巡りは夢のようにして広がっていた。彼は何ということもなく千代子の顔を思い浮かべ、それから美音子(と彼が思っている女)を浮かべる。のっぺらぼうの女の顔をまじまじ見てみると、それが千代子だったりあの女だったり、また篠子だったりする、という思い出し方を彼はした。しかし大宮と連れ添っていた背の高い女の相貌はしだいにかすれていた。二度、三度と顔を突き合せれば、彼もきっと鮮明に覚えた。まだ一度きり、それも正式に対面して話したわけでもない。だから彼女の目鼻、口唇は、ひょっとするとほかの人のものの寄せ集めのようだった。
明け方の光は窓につけられた御簾様の障子を通してガラス窓から音もなく入りこんだ。朝はしだいに輝きを強めている。彼の文机と行燈ばかりの寝間で、一郎はあてのない夢のような空想を脇に押しやって眠ろうと試みた。けれどもだんだん寝つかれなくなって、しまいに薄目を開けて障子の隙間から漏れ出る光を見ていると、脳はしだいに覚醒して、全身に血の巡る感じがした。体の硬直が途端に解けて一挙に弛緩したようである。彼は自分が何かから自由になったと世迷言を思って、布団のなかでまろぶうちにそれがおかしく思われてきた。(目覚めるのを自由になったと思うのはどういうつもりだろう。睡眠にしても自由でなきゃできんのに)
まだ煩雑なことがらを考えるほど脳の回路ははたらいてはいなかった。千代子のことなどを考えるのも億劫な気がして、彼女の後ろ姿とか肩の稜線などをすこし線画にしたような、彼以外の誰が見ても曲線というより仕方のない粗末な想像が、ようやくできた。しかしそれも打ちやって、朝だ朝だとばかり考え浮かぶ。彼はそのうち深呼吸した。光の粒の混じった沈滞気味の空気を吸いこむと、肺が急に拡がるようで痛かった。あるいは冷たい空気が布団のなかで温まった肺に障るのだった。一郎はその甘い痛みを好き好んで味わった。寝転がっているのが厭わしくなると、すこし体を持ち上げてみる。体の末端まで血が行き届いて指が動き思考が明晰になるとわかるとようやくそこに座った。雨の音が聞こえた。布団に残った体温が昇ってくるようでもあったし、部屋の空気が温い一郎の体に染みるようでもあった。彼はずっと遠くで降っている雨を思った。
夏はとうに過ぎ去ってしまったという、冷たさであった。
傘を片手にして勝手口から裏木戸を出ると、石垣の幾里も延伸する路地は粒の大きい雨が降り落ちていた。蓋いのある水路の下に集まった雨水の流れる音が湯々と激しい音を作り、目に見えるよりも恐ろしい豪雨に感じられた。一郎は部屋で座りこんでいる気分でも本を開く気分でもなく、どういうことか妙に腰が落ち着かなかったので、音を立てないように外に出てみた。もとより人の通らない路地はいくつものうねりが水のような透明の潤んだ空気で満たされ、そこを誰に知られるともなく一郎は歩いていった。路地で傘を差すと、ときおりものにつかえてしまった。たとえば背の低い庭木が、ちょうど開いた傘の高さに枝葉や花をつけていた。一郎は石塀の家にあるサルスベリをがさがさ揺らして通り抜けた。あとには葉が四枚、五枚、落ちた。彼が傘をすこしすぼめて歩きだしたのは、そこの路地に面して玄関戸がある半分潰れたような家の前に、トネリコやパキラの鉢を見たときであった。狭隘な私道を抜ければ円形の開けたところに出て、また別の隘路へ行くはずだった。そこには石垣で作った花壇に巨大な檳榔が植わってあった。
路地にはところによって空き地があり、スズメやシジュウカラが集まり、カラスが来ると逃げた。しかし間隙なく家々が立ち並び、圧倒感と言おうか圧迫感と言おうか、そのまま押しつぶされてしまうような感覚を抱かないではいられない所狭い路地に、ただ数点ばかり空き地という空白があったとしても、狭苦しいことには変わりなかった。家並みは無限につづくように感じられた。空は狭かった。いくら歩いても月に近づいたという心持がしないように、駅付近のビル群が遠くに見えている路地にいては、そうした城のような場所へはいつまで経ってもたどり着けないようであった。ただ半分倒壊したようなかっこうの古い家、雨染みの幾筋も走った旧弊な家が長屋のように間断なく伸び、道程に沿って足元を水路が伸びる。ときどきそのなかであっても鮮やかな灌木や鉢植の緑色が目に映るのだった。柑橘類の実も生っていた。ただいくつかは路傍に落ちて腐っていた。雨のなかで実のにおいは一つも嗅がれなかった。
路地の終わりへ、出口へと向かうにつれて雨粒は霧になり音もなく降った。足元に雨だまりはないはずだが、歩を進めるほど靴の裏で細かく水が跳ね、硬い舗装路の下からにじみ出てくるようだった。そうした音までも、側溝の雨水がその流れ方一つで遠くした。一郎には降り方と相反する激音ばかり耳のなかに渦を作っているようにして聞こえた。
その夢現の別のない、感覚が漸々と摩されて薄れ、日は昇ってゆくというのにいつまでも明けきらないような薄明の下で、蛇行し、うねり、ようやく本通りへ抜けたと思えば巨木の倒れてできた森林の穴のごとき小さな広場へ出て、そこからまたある意味獣道とも思われる次の路地へ、鬱蒼とした並む家宅へと入っていき、幻のように靄に包まれた都市の風景をいつ着くとも考えずに追っていくと、駅の周辺へ出る手前の通りが見えた。その行く手に一郎のほうへと人が通りから曲がって来た。一郎は(何だってこんな狭い道を選んで通ろうとするんだろう)と閉口して、しぼましていた傘を閉じきると、まだ彼に気がつかないでいるその人の、傘の下に隠れた顔を見てやろうとそちらを見ながら横をすり抜けようとした。軒にたまった雨滴が通り抜けようという彼の頭と肩にしたたった。それで彼はますますその人の顔が見たくなった。彼は自分でもすこしわざとらしいと思うくらいに腰を屈ましながら通った。そうして相手の顔が傘の下に見え、その人と目が合った。それが予想していない人だったから彼はあっと驚いた。顔を深く隠して一郎の歩みを阻んでいたのは広田先生であった。
「先生」と一郎は言った。
「あ、ああ、小垣くん」
今時分どこに行くんだいと言う先生に苦笑を見せながら、彼はそこの軒の下へ寄った。彼が明朝に寝覚めたきりそれ以上寝られなくなったと理由を言うと、先生もおおかた似たようなことを言った。
「外の雨のことを考えていたらだんだん歩きたくなってね」
その雨は霧に変わって、あらゆるものを静かに、それと感じられるくらいに濡らしていた。ほとんど見えないほどだった。路地を出た通りにはいくたりかいた。
一郎が、では、と口にしようとするときに先生が手招きでもって制止した。
「君、今度の土曜日は暇か」
「はい」
「じゃあちょっと引越しの手伝いをしてくれんか」
「構いませんが、誰の引っ越しですか」
「佐和木くんのだ」
それから集まるところや時刻など示し合わせて、二人は別れた。先生は今一郎が通ってきた路地へ進んだ。一郎は遠回りして宅へ帰ろうとした。
佐和木というのは研究室の一歳年上の人であった。
以前に千代子は、一郎のそのあと渡った木橋で欄干に体を預けて、川の行く先をずっと眺めていた。川はけっして直線ではなく、ところにより曲がりくねっている。その流れに沿って路地は作られていた。だから橋の上から川の流れを見ようとしてもすぐそこで土手の家や立木で遮られて見えなくなるのだった。彼女の見ていたものは、そこにある風景というよりはそのほか別のもののように一郎は考えていた。彼女はもの思いをしていたのだろう。彼女がそこにいたころは夕であった。晴れていた。一郎が通ったころは朝方であるし、雨が小降りになっていた。しかし彼はそこに着くときから、千代子がまた橋にいると錯覚して胸が高鳴っていた。
雨は昼過ぎにまったく途絶えて、それからは地上に微風が吹くうちに空では塗り重ねたような雨雲が果てへと去ってゆき、あとには花が咲くように太陽があった。快晴が三日つづいた。新聞が秋雨前線などのことばを使いはじめる時節に差しかかった。
その年の晩夏あるいは初秋という時期は、残暑がぐずぐずして悩ませるのだろうというおぼろな予期とは反対に、すぐに冷たい風が戸を鳴らしだした。これほど冷えるかと思って天気予報の欄を読めば、平年通りの気温だという。夏が暑すぎたのかもしれない。
熱気と湿気のこもって近寄りがたい雰囲気のあった大学の散歩道も、木々のあいだに心地よい風が吹き抜けて、かえって歩き回りたいくらいになった。だからということでもないだろうが、一郎が大学へ来るたびにそこを歩いていると、スダジイやタブノキなどの木の下、芝のように短く刈りこんだ草の上で、知己を見かけることが増えた。そのときも志山と堀が、道に面した林の間隙に埋もれるようにして座りこんでいた。一郎にはそれがすこし滑稽なように見えた。
「そこで何をしてるんだ」
二人は彼の半分笑った表情がなぜだかわからないで、どうとも取りがたい顔をした。
「今日は風がいいだろ」と志山が言う。
「やっと爽快な日がつづくね」堀が合わせる。
「でも堀、今ドイツ語の講義やってんだろう」
「あれは無理だ。だんだんわからなくなってきたから止めたんだ」
「それで語学の単位は、足りないんだろう」志山が一郎に代わって口を開いた。
「ロシア語、やる」堀はぶっきらぼうに言う。
「文字とか覚えなきゃいけないんだろ?」と一郎。
な、と合いの手を入れる志山に堀は、「勉強してんだ、先に」
「そのやる気があるんなら、ドイツ語をまじめにしたほうがよほど経済的だ」
「なぜだかロシア語のほうが身が入るんだよ」
エータ・サバーカ、これは犬だ、と堀が口にした。
それから話は佐和木さんの引っ越しの話になった。
「大した駄賃は出そうにないな」
「俺は引き受けた」
なぜと堀が尋ねるのを一郎は最初曖昧に答えた。それから二人のそばに腰を下ろして、弱い木漏れ日の落ちてくる木々の下にため息をついた。
「なぜでもないよ。でもこういうのって誠意だろ?」
「誠意か」
「お前荻野に毒されてんじゃないか?」
二人は彼をからかうふうに笑った。
「でももし頼まれたとして、荻野は手伝いに行くかな」
「行くんじゃないか」志山が言う。
「行かないと思うんだけどな」
「あいつは何だかんだってまじめだから。講義もすなおに出る」
堀はおもむろにロシア語の参考書を取り出して音読しだした。彼の口からたどたどしく話されることばは、英語とは語感が違っているし、聞き慣れないためか魔術の呪文のように思えた。一郎と志山はそれに耳を傾けだすと、話は途切れてしまって、めいめい景色を見たりそこへ寝転んでみたりした。鳥の声があった。そして散歩道を往来する人もときおり前を行って、彼らを流し目に見た。
上空は、薄い綿布のような雲が一面に敷かれてあるのか、光の具合のせいで空の色調が淡く水色よりもまして淡白な白藍のように見えるのかわからなかった。ただ雨はなく、遠く離れたどこからか水気が風に乗って頬に冷たい肌触りを起こした。そうしてその無個性で単調な空模様のまま、土曜日まで曇りとも晴れともつかない日がつづいた。昼間は暑いくらいだった。まだ腕を風に晒しているのでなければ肌に汗のにじむほどの熱気が、太陽光線で温められていた。鳥や虫は季節の移ろいを繊細に感じているようですっかり交替してしまった。もう蝉など、思い起こしてみればしばらくその声を聞いていなかった。暮れ過ぎから鈴虫だのコオロギだのが、その蝉の音とはまた独特な喧噪に侘びしさを混じらせていた。わずかな草原にトンボが群がった。一郎のなかには、朝と夜の区別、虫の鳴く時間と鳴かない時間の区別などをほかにして、一日として見ていけば、以前感じていた境界のようなもの、昼の頂と夜の底とのあいだにある変曲点は見つからず、いっさいは深閑と過ぎ去った。漠然たる感覚ばかりがあった。そのために彼の記憶も漠としていた。
連綿たる数日のなかに、彼は夢想するように浮遊するように、格別の感動もなく自己の生活を通過させた。覚醒してしかと目の当たりにする外界と、夢中で屡次に及び変転する無感覚・無時間の様相と、そこには何らの差異もないようだった。そしてその万事の平面な風貌は、本来現実をより鮮やかなままに残し夢幻を過去の一反省として捨て去る脳の機能を鈍らせて、彼の脳裡には夢と現とが遠慮もなく混ざり合っている。だから一郎があるときの明け方、それが土曜日までのいつの明け方とも知らないのだが、半睡のうちに胸へ手を当てて、胸骨の下に、心臓の緩慢な、しかし規則的な拍動を聞けば、それが泉の湧き上がるように思われてくる。それはどうやら実際の我が身に起こる心拍らしい。他方、次の瞬間には夢も見ているようである。ふとすると蜂が耳のそばに羽音を立てているような首筋の不快に悩まされても、それが夢のものと気づけば俄然と羽音も小さきものの飛んでいる気配も消えてしまう。あれは何だったろうと寝返りを打つ。蜂を夢に見るのはどういう吉凶だろう。ややあって高いところに登っている気がするが、それがあまりにも高く聳えた塔の上とわかると怪訝に思い、痺れて動けぬような思考のうちに夢だ夢だと騒ぐ。塔はなくなる。自身は布団のなかである。あれは何だったろうと思う。また獅子が眼前にある気がする。絶えず唸り、自己のまわりを歩き回っては睨みを利かしている。しかしなぜいつとも知れず獅子が眼前に現れたのだろうといぶかしめば、夢ではないかと目が冴えてくる。虎視眈々とはあのことかと温もりに包まれて考える。
一郎の数日の記憶は、右のような蜂や塔や獅子が、荻野と志山と堀と広田先生と両親と篠子と千代子のあいだに混濁している。あるいは、と一郎は思ってもみる、志山や堀と灌木の下に話し合ったのが実のところ都合よく作られた幻で、首筋を蜂が舞ったこと、獅子と対峙したことこそが真に自分の体験したことでないか。彼はその後の土曜日の引っ越しをあとになって顧みると、かならずいっしょになって蜂や塔や獅子の夢を思い返し、それからずいぶん時を隔てているのだとしても、いずれがほんとうでいずれが嘘か、判別できないように考えてしまう。しかしその佐和木さんの引っ越しのことだけはいつまでも真実だと確信している。他がいくら彼の覚え違いとしても、蜂をほんとうと思う、塔をほんとうと思うのが、いくら馬鹿らしいとしても、土曜日の佐和木さんの件だけは一郎のなかで何にも冒されずに輝かしくきらめいているのであった。
大学の縁辺は都心を貫く本通りが市外まで延びているせいか自動車も人間も我先にと道を行き、エンジンをうならして走り去る音や革靴を地面に鳴らす音や、そのほか人の成す喧々囂々の騒ぎが通りという通りを駆け巡っていたが、その路地裏だけは嘘みたいに安らかな静寂に沈み、下宿屋は何に脅かされることもなく建ってあった。古い木の門と目の細かい大津垣を抜けると、飛び石に案内されて正面の玄関戸が目に入る。視線を転ずれば左に曲尺様の庭がある。そこに萩や女郎花が丁寧に植わってある。コスモスもあった。そうしてその直角のあたりに、色づくにはまだしき楠が堂々と立っている。そこを曲がってさらに見物する気は今の一郎にはなかった。佐和木さんの行き先はその下宿で、そこで待っていればトラックに積まれて荷物と当人がやって来るという算段を広田先生から聞いていたので、一郎は言われたように定刻にやって来た。しかし駅までの道のりで目にするおびただしい人数を思えば、大学からそう離れていないにもかかわらず人気も騒音もない下宿は彼にも非常に心惹かれた。(これが前に先生が勧めてくれた下宿だったのか、惜しいことをしたなあ!)一郎はいっとき、庭の花々が風に揺れているさまをぼんやり眺めていたけれど、頭上に人の声を聞いて見上げれば先生が窓から手を振っている。一郎も曖昧に振り返して二階へ上った。
土間にあとから床板を敷いてあるらしく、建ったのはずいぶん古いことがわかった。下駄箱に大きさも趣味も異なる靴があれこれ入っていた。全部男ものであった。一階に人の気配がないのをいいことに、一郎は開け放しの座敷などを見た。べつだん変わったものはないけれど、長火鉢がもう出ていた。のぞきこんだその室には、他の細々した物品や雑誌など置かれてあって、どうやら一階は大家の住まうところのようだった。台所のほうから延びる廊下の突き当りに便所があった。別の部屋も見ようかしらと明かりの消された部屋のほうへ便所のあるほうへと足を向けようとしたけれど彼は止した。階段を上った。上りきってすぐ左にもう一つある便所のにおいをほのかに嗅ぎながら、いちばん奥の室の前に待っている広田先生に挨拶した。
六つある下宿用の室はすべて同じ仕様になっているらしかった。佐和木さんの部屋は玄関の真上で、先生の顔を出した玄関向きの窓と、室に入って正面側の窓と二つある。押し入れは開けられたまま、なかには布団が一式あった。それだけだった。
「肝心の主が来ないね」
一郎はせんに広田先生が眺めていた景色をあらためて見た。全体静かで本通りのある方角から混ぜこぜになった喧騒が流れてきた。平屋が多く、いくつかの二階建てに遮られながらも大学は近くに見えた。
「しかしいいところですね」
「教員づてに話が出回るだけだから穴場なんだ」と先生が説明した。
「僕も惜しいことをしましたね」
「書斎もいいが下宿もよかろう」
「ええまったく」
そうしているうちに軽トラックがそこの前へ停まった。先生は窓のほうへ顔を向けるでもなく「噂をすれば」と一郎の横をすり抜けてどたどた降りていった。
積み荷というのも衣服や書籍と高が知れていて、一郎と先生と佐和木さんで運び出し、全部を二階へ持って上がるまで三十分とかからなかった。トラックを運転してきた人夫は、一回ものを運んだきり運転席に戻って紙たばこをふかし、帰った。
荷をしまったり書物を並べたりという作業もそれほど時間を要さないから、そのうち佐和木さんが自分の好むようにしつらえだすと、二人の人足も用がなくなり、かてて加えて話すこともないから、すこし手持無沙汰に鎮座した。先生の心づもりでは、荷解きが全部済むのに正午過ぎまでかかるだろうということだったが、十時に集まってじきに荷物が来てから簡単にやりおおせてしまい、昼を食べるにはちょっと早いくらいであった。それで外へ出るともなく部屋で何かするでもなく、先生はしきりと懐中時計を取り出して見た。佐和木さんは親元へ手紙を書いていた。一郎は手慰みの文庫本も持っていなかったから、ただ天井を見上げ、外を眺めた。そのうちに時間が過ぎた。
今度は歯のすこし擦れた下駄の音がこちらへ向かってきた。先生は玄関向きの窓へ目をやってから佐和木さんを急き立てて部屋を出た。当の佐和木さんはすぐにペンを置いて、紙面を開けたままそのあとを追った。一郎が一人がらんとした室に取り残された。佐和木さんの手紙には窓からの景色がよいという文言がある。
じきに戸の開く音がするとともに、下駄の主だか先生だかわからない声が上がって挨拶がはじまった。閑静な町にからからと侘びしさのある音を鳴らしていたのは大家らしい。一郎は、彼らの話す声がそこの階段から空気の振動だけになって上ってくるのを聞いた。何と話しているかすこしも判別できないけれど、いずれかが幾度も礼を言い、それに他方が謙遜してみせているようだった。音の調子にはそのような感があった。
それから別の部屋に人が訪ねて来た。閉てきった障子戸の向こうから、先生や大家のどうもお世話になりますいえいえというようなやり取りの間隙に、女の声がする。一郎はそれに興味を起こして、障子を開けて廊下を見た。声のするのは、階段にいっとう近い、便所とはす向かいの部屋だった。戸は開いたままであった。
「じゃあ残りは持って帰るね?」
「母さんも最初っから自分たちでも食う気でこさえたんじゃないのか」
「違うわ、全部兄さんが食べるだろうって」
「六個も食えないよ」
受けている女の声は湿っぽく、下宿しているらしい男の声は激しくなって、口論の様相がしだいに増していくところで、「もう大家さんにでもお裾分けしたらいいんだろう、さっき帰って来たってんだから」と女を外へ追いやろうとした。
一郎はその誰とも知らない女に同情を示し、またすこし横柄なくらいの男へ敵意のような嫌悪を抱きながら、しかし誰がいるのだろうと、入口に腰をすこし屈めたままの女が出てこようという後ろ姿を見守った。そのときに女が戸から出て階段へ向く前に一郎のほうを見た。それに一郎はあっと息を呑んだ。
女は大宮の連れの人だった。
彼女はその場に立ちすくんで一郎と目を合わしたきり黙った。彼も姿勢を崩したまま上半身を廊下へ出している体制のまま女の目を見た。それがふと視線の交わったただの一瞬というのには長すぎるくらい二人はいっとき見合った。断ち切ったのは室内の男の一声だった。それに気圧されるようにして、女は声のほうに顔を向けたあと、また一郎を見て頭を下げて行った。一郎も礼をした。
彼はその女の降りていったあとに、障子の開いたままの部屋へ勇みよく向かった。いったいあの美女をぞんざいに扱うのはどの悪漢だろうと怒りもしていた。それでちょっとその男の顔を見てやろうと思って、先ほど彼女の佇んだところまで行って便所に行く素振りをしながら室のほうへ一瞥すると、彼はまたあっと息を呑んだ。一郎もまた多少の予想を作ってからその人の顔を見たのだし、また予想はまさに的中していたのだけれど、しかしほんとうにその人だからかえって驚いた。彼は大宮だった。
一郎の床を軋らせる音を耳にして、また女の反応が気にかかったのか、大宮も廊下に目を向けていたけれど、一郎が不意に顔を見せたので、手におはぎを掴んだまま目を見開いていた。それから大宮は何でもないというように会釈した。ここに来て一郎は進退窮まった。便所へ行くには間が悪くなってしまったし、そのまま大宮へ何を話そうとも考えていなかった。それで持ち出すにいちばん都合がいいと女の話をした。
「あの人は」
「妹だ」
「さっきはちょっと言い争っていたね」
「自分が一人で怒っていたんだ。それにしてもおはぎ六個は多すぎるから」
「にしても、妹さんに強く当たらんくてもいいだろ」
「関係ないだろう小垣さんには。美音子をかばう義理もないのに」
「俺の妹の友だちだよ」
大宮は低い声で笑った。
一郎はうまく話を合わせたと我ながら得意になった。それから妹の口にしていた大宮美音子というのが、例の女で大宮の妹だというのも判明した。彼の推理、というより自分にもっとも勝手のいい仕合わせはそのとおり当たっていた。
先に先生と佐和木さんが上がってきた。ちょうど一郎と大宮の小競り合いのところに階段の踏み板を鳴らしながら上ってきた二人は、一郎の姿を見て意外の顔で踏みとどまったが、室に座っているのが二人の全然知り合わない人とわかると一郎の横を通り抜けて部屋へ帰っていった。一郎もそれで佐和木さんの部屋に帰った。
正午近くなって三人で外へ出て昼食に向かった。そこの下宿から数分ばかり歩いて、古書店や、真竹の藪のある公園を越えたところに蕎麦屋がある。そこで昼を済ますと、じき解散になった。佐和木さんはむろん下宿の方面へ歩いていく。先生は大学へ帰った。それには着いて行かずに一郎は国鉄駅へ向かう。
昼過ぎの盛況なころといえ、下宿のあたりの寂寞の残滓が流れ着いたように一帯は静かで、行きずりの宅からも生活する音は何も聞こえなかった。ただ一軒、二軒、皿を洗う音がした。それが夢のように聞かれた。
そしてまたこの時分、道にはまだごく幼い子どもを散歩させる人や、角のたばこ屋の前にたむろして噂話をする老婆らや、自転車で疾走してゆく料理屋の出前が、おのおの独自な世界を作ってそのなかで生きている。そこを一郎が一人で通り過ぎていく。
駅の周辺も似たように、用のあるのかないのか、人の集団が、山に点々とある山桜のようにして方々に四方山話を咲かしている。彼はその人びとのあいだに美音子を見かけた。最前のおはぎの包みを抱えて、改札口のほうへと緩慢に歩いていった。彼はそれに追い着いて話をしてみようかという計画を胸中に練ってみたが、思えば先方は一郎のことをおそらくは友人の兄というほどにも知覚していないだろうからと、知らん顔をして電車に乗ることにした。けれどもプラットフォームに上がったとき同じ乗り場にその背中を見つけ、目が合うのでは気まずいと離れて別の車両に乗る人ごみに紛れたところで、ふと美音子のほうを見ると、一郎の視線を送った瞬時のあとに向こうでも一郎のほうを向いた。二人は二度も目を合わせてしまった格好になる。一郎は咄嗟に目をそらして、美音子の頭上にある電光掲示板を見ているふうを繕いながら、しばらくしてまた美音子を見たけれど、彼女はまだ一郎の顔をじっと見ていた。彼はそれでとうとう知らんふりもできないと悟って会釈した。すると彼女から近づいてきた。実際向き合ってみると感じたよりずっと背の高い女であった。
「すみません、先ほどは」切りだしは美音子のほうからだった。
「いいえ」彼はこう簡単に返した。
「ふだんならもうすこし大人しいんですれど……何がいけなかったか、あんなに」
「僕もあんなに感情を表に出す大宮ははじめて見ました」
ねえ、とあいづちを打った美音子は、やおらゆるく結んであった包みを解いて、おはぎの入ってある箱のなかを一郎に見せた。その見せ方が、人にはたやすく見せられない何か怪しげなものを一郎にだけこっそりと見せてくれるというような、誘いかけるような、背徳的な淫蕩と嬌羞の感を醸し出していて、すこしずらされた箱の蓋の上に危なげな笑みを浮かべている美音子の顔を認めると、一郎は心臓を強く揺さぶられた。別にそこに何があるのでもなかった。ただ一人で食べるには立派すぎるおはぎが三つ並んであるばかりであった。美音子はかすれるような小声で、「今思えばこんなに大きなおはぎを一人で食えと無茶を言ったんですから、ねえ」と言って、一郎にまた笑いかけた。それがどうもなまめかしかった。
じきに電車が来て、二人はそろって乗車し、横並びに席へ座った。美音子はそこでまた風呂敷様の包みを緩く結んだ。座っても美音子のほうがすこし高かった。二人は肩を並べていた。一郎はその箱の上に添えてある彼女の両の手を見た。高速で疾駆するうちにときどき動揺する車両でも、美音子の体は右へも左へも揺られず、そして体勢も変わらなかった。ただそこに重ねられた手が、大枠の窓から注がれる日光のまだすこし強い輝きを受けて真白に映えていた。電車の走り行く一瞬間ごと、太陽との位置関係で日の入り方はいくらでも変化する。当然と青白い手の光り方も変わる。ただ美しい純白ということだけが一郎のなかに感想となって繰り返し浮かんでいる。
電車はそのまま二人をどこまでも運び去ってしまうような気が一郎にした。太陽を背負って都市を貫いていく現代文明の利器が車輪を回転させればさせるほど、男女は延々と辺地の先までも連れ行かれてしまうようだった。終点は山間の田舎びた町である。一郎はそこからけっして抜け出せない錯覚を感じた。それは恐ろしいようでもあり、きらびやかなようでもあった。しかしある駅で彼女は立ち上がり、一郎もまたそのあとにつづいて立ち上がった。
降車する駅を同じくして、乗り場から下り、馴染深い喧騒のなかへ放り出されると、彼の空理にでき上がっていた美音子との逃避行のようなものは砕けてしまった。眼前には一つの駅前町の姿である。バスやタクシーの停車場があり、旅館やホテルがあり、売店があり、何より自動車と人間の往来がある。一郎には、それらが無感動に眺められた。ただ横に美音子がいるということだけ、ふだんと違っていた。自分よりいくらも長身で、背筋のよく伸びて足の長い、よい体貌の女性が、そばにつき添っているというだけで、彼の心にある熱烈な感情は附熱された。立ち尽くしているだけでも彼女は閑雅に見えた。
一郎は駅を出てすぐの停車場で美音子と別れた。そのとき土産と言おうか単なる押しつけと言おうか、余りのおはぎを一つ、彼女は折った笹の葉に包んでくれた。
「ありがとう」と、一郎は小声で礼を言った。
歩きながら今もらったばかりのおはぎに頬張った。さんざんはたらいて歩いたあとでは練られた餡子の甘味がよかった。彼はその甘い風味を鼻に通すときに、これを作ったという大宮家の妻のことを考えた。別にもとより学生である大宮とも懇意ではないから、彼の母親の顔などますます見知っていずに、苦肉というか自然の成り行きとして、代理で美音子の顔が浮かんだ。そうして彼女がそのおはぎをこしらえたのだという空想を描いた。袖をまくり髪を後ろに結った彼女が、精々料理している姿が思われた。彼女の大きな手ならそれなりのものができるだろうと確証もないのに納得した。一郎は自分の手に渡った立派な菓子が美音子の作だと、心に本気で考えはじめていた。
帰途でそれを食べおおせてしまって玄関を開けると、ふだんになく母が出てきた。一郎は母の顔に特別の表情を認めたわけではなかったけれど、とにかく何ごとかは起こったのだろうと尋常の挨拶のあいだに推量した。
「ちと遅かったね」
「何かあったの」
「もらったのよ」と母は含みを持たせたことばを使う。
一郎が要領を得ずにいると、「荒木さんがおはぎをくれたのよ。昼に来て、一郎はしばらく出かけてるって言ったんだけど、用のある時間まで待ってみましょうって言うから。部屋でずっと待ってたみたいだけど、つい三十分も前に、時間だからって」
一郎は今の食卓に皿へよそわれた小ぶりのおはぎがあると見るや、どういう因果かと足がすくんだ。母が彼の後ろから、はじめてそこにあると知ったように卓上の小さきものたちを見つめ、一郎を軽く押しのけるようにして台所へ入った。そこから声ばかり茶がいるかと一郎に呼びかけるので、彼は返事とともに皿に対座した。せんに美音子のくれたものの三分一ほどのもので、彼はそれを一つだけ食べた。実のところ蕎麦のあとへすでに一つ菓子を食っているだけに、たとえ小さいとしても胃へ格納されない気分であったが、それでは千代子に済まない気がして根気をもって飲みこんだ。湯呑に残った茶の数口ほども受けつけられない具合であった。それで文庫本を取り出すのでもなくのつそつとして、ぼんやり残された二個を見もしたし、庭を見えるかぎり見渡しもした。
開け放した縁の引き戸の外から、日に温められた風が室へ流れこんで、そこに夏よりもいくらか薄まった生命のにおいがあった。土のにおいもあった。何ともわからない花の香が薫じた。彼は爽快に感じた。一郎の鼻腔に豊饒の秋のかおりを嗅がしめ、静かな風が鬢をくすぐり、身体の底に沈んだ滓のような疲労を拭い去っていった。彼はそこに美音子の顔を思い浮かべたが、それもじきに弾けて千代子の空想へと転じた。彼女が訪ねてきて、一郎のいないのを知って室で待機しようと思いついたときの心理や顔つきを、彼は想像に起こした。(荒木さんは、今に来るかと思って待っていたんだろうか、それとも単に義理なんだろうか)
胃が落ち着いてから二階へ上がって室の戸を開けるとき、一郎はまだ籐椅子かどこかに千代子がいて待っているのではないかと胸が昂ったが、母の言ったようにもうそこに彼女の影かたちはなかった。そうして以前に感じた空虚も感じられなかった。
洋書を置きっぱなしにしてある洋風の書机に、以前千代子へ貸した本の一冊が置かれてあった。それは川端だったけれど、そのあいだに見えるようにして二つ折りの紙が挟まっていた。そこにはこう書かれてあった。
「本、ありがとうございました。ご不在でしたのですこし待ってみましたが、所用が控えておりましたので、お暇させていただきました。またお伺いできたらと思います」
そして最後に「荒木」と署名があった。一郎はその手蹟に素朴な可愛気を感じ取った。
不吉な色をした雨雲が天を塗抹し、強からず弱からずの雨が連夜降った。風は、なかった。山は低いところまで霧とも雲ともつかないもやを装い、町全体に深山の風貌を作っている。三日、四日と晴れなずめば人は迷惑がりながらいつまでも雨読を強いられ、部屋干しを強制される。金物までかびくさいと思うくらい、家中に妙な湿り気のある大気が満ちていた。蔵書のかぎりない一郎には湿気が本に障らないかと懸念された。彼もその晴れるともなく思いきり降るともない秋雨に蹙眉して、二度も傘を縮まして路地をそぞろに歩く気力は起こらず、ぐずぐずした空を窓から見上げながら、これこそ読書の口実かと一人笑ってみるが、時日が合えば母のやる家事の手伝いをすることもある。
父は職場へ出る。篠子も学校へ行く。そこに美音子がいる。平日はことに一郎と母だけが宅にいる。講義があれば一郎も外へ出るが、用がないなら家で好きにしている。ところに夕になって篠子が帰宅する。宅では下ろしている黒髪を、外では後ろで一つに結っている。夏も冬も校則を超えないようにと同じ髪型を保って校舎に入る、勉強する。一郎は幾遍かその社交向きの態度の篠子を見たことがある。筆の穂首のように一つにまとまった髪を揺らして、制服に身を包んだ、一見すると均一無徴な健康的女生徒という見てくれで、篠子は往来を闊歩している。澄ました顔をしているだけにふとすると別人のように見えるのだが、宅へ帰ればその格好のままで階段の一段目に座り本を読みだす。そうして夕食の時間まで玄関で暇を潰すことがある。そこへ母が取り締まりに来る。
一郎は一回ばかり、そうやって読書に耽っている篠子を見たことがある。それは大学を出たのが夕になり、電車で最寄り駅まで帰ってきたのが夜になり、ようやく宅へ着いたときで、篠子は先に帰り着いていたのだった。彼女はやはり一段目に腰を下ろして、学生鞄を脇に置いたまま本を繰っていた。彼女は一郎が戸を開けた音にいったんは顔を持ち上げたけれど、じきに目を紙面へ落とした。そのときの目つきは、およそ宅内で見せるものではなくて、むしろ学校の自分の席にいるときに、自分の世界へ閉じこもっているとおのずからなる排他的なものであった。もの憂げな目のやり方と、自然に塞がっている唇の一文字に結んであるふうには、家族にはけっして見せない彼女なりの憂鬱が浮かび上がっていた。一郎はそれをはじめて目撃した。それは本を閉じた瞬間、一郎へ口を開いた瞬間から消え失せて、また旧来の溌溂な表情がそこに戻っていた。ふだん目にしない表情であるだけに、一郎は篠子の顔を見て、胸の奥にある何かを突き崩された心持がした。
似通った目は千代子にもあった。せんに本を貸しだしたとき、書架に目を通す千代子のまなざしは、篠子のものと同じように一郎の深奥を照らすようだった。別にそうした目つきが彼女たちに特有というわけではなく、誰であれ、他人を揺すぶるほどの、相手の肝胆を見透かしているような顔を、自然と見せるときがあるだろう。それを一郎が偶然と二人の上に認めたというだけである。
(しかしいろんな女の目にやられているのはどうなんだろう。いや女というにかぎらなくって、人の目が恐ろしいと思うのは一般的だろうか。父さんの眼光鋭いときも身震いするし……。本ばかり読んでいるとかえって他人の心に敏感になるというか、不明瞭に感じるほどあれこれ妄想してしまっているんだろう。その妄想にびくびくしているんだ)
一郎は篠子の目に見受けた憂鬱を、千代子の目に見受けた迫真を、そして美音子の目に見受けた官能を、みな自分の好きなように作り上げてしまった妄想の類と解釈して、いっさい排除した。彼女らの誰であれそこにはただ見るというほかに感情らしい感情はなかった、他意などなかった、と解釈して、急に湧き起こったこの一件を解決してしまおうとした。それで事は済んだつもりにした。すると妙に安心してしまって、雨の絶えざるなか、母のほかに人のない家屋の自室でひっそりと昼寝した。
何の夢も見ずに、籐椅子に体を沈めて一時間ほどで目が開き、窓から入る光の加減でそれほど時の経っていないことを悟ったが、漸次覚醒してゆく肉体を考えると、かえって口惜しくも思った。今あえてやりたいこともない無聊に、時の流れはいやに遅滞していた。そこらに置き捨ててある本を取って読んでも興趣は毫も感じられず、それを置きやって思索に耽るには脳波に何かが夾雑してもう一つ聡明に考えられず、一郎は籐椅子に尻を落ち着けたまま呆けていた。世界はまるで停止していた。彼を置き去りにしてしまうのでもなく、彼を後ろから押しのけるのでもなく、彼とともにそこで固定されていた。ただ水の音だけが外からした。一郎は時計を手に取る力も出ずにそのまま時の進み方を感じ取ろうとした。そうして彼は、そこに何の流れも感知できないのは、今まさに時流が止まっているからだろうと最初本気で推量した。それを敢然と否定する気持も彼になかった。それで困ったと思って室を視界の範疇のかぎり洽覧するうちに、哲学的の深考というよりはもっと生活的の・俗な思い巡りをおのずからはじめた。このころ一郎は、おはぎの礼を千代子に言おうと決意して、向こうから小垣の敷居を跨ぐのを待ち構えていた。彼の予想では十日のうちにまた訪ねてくるだろうと見積もられてあったが、反対に彼女はいつまで経っても来なかった。むろん中元のおこぼれに与る盆のころはとうに過ぎてしまって、またキリスト教の祭日もしばらく先という時分で、笹尾氏への贈答品が多い時期でないことは一郎も承知していた。一方で今は彼の貸し与えた本がまだ千代子に残っている。一冊目の川端を三、四日で済ませたから、同じような間隔でやって来るかという勘定は大きくはずれた。もし向こうから来ないのなら、自分が笹尾家の敷居を跨いでいこうかと、一郎は脳内に意見してもみた。しかし元来が礼を言ってこなかったという過去を顧みれば、わざわざ訪問するのはちょっと慇懃が過ぎるようだ。ありもしない肚のうちを探られても大いに困る。そうやって去就を決めかねているうちに、時日だけがいたずらに費やされた。今さら謝辞を言うのはおかしいくらいになった。が、彼にはまだ礼をしないでは済まない気がしていた。それでぐずぐずしている。雷霆と動くも山と動かざるも同様な値踏みがされて、それゆえにどちらとも決断できなかった。彼は自分の優柔不断を恥じた。
今に小雨でもありそうな灰色の雲が天にいつも敷き詰められている。雨は多少の間歇を置きながら断続的に降った。それがかえってすっかり止んでしまうかどうかと足踏みしているうちにまた降って、次こそ道が乾き晴間も見えるかと空を見ていると、雨粒がはたはたと落ちてくるので、人をからかっているように見えた。風は湿っている。どこへ行くにも傘を携帯しなければ不安になる。
小垣の家の庭はそうやって土気が悪しくなった。苔はかえって増えたけれど、泥のぬかるんだ庭は見目悪しく、父はそのころとんと庭へ目を向けなくなった。風で吹きこんできた枝葉が表面に水気を滲ませているところへ落ちかかって、戦場跡のごとき無残な様子である。もとより苔むすくらいに風通しも日当たりも悪いから、手に触れてみるとつねに土の表面には水気があるが、雨が小一時間つづくと粘土のようなぬかるみと水たまりが幾日も乾かなかった。ようやく乾燥したと思ってふと出てみると靴の下で泥が滑って危ない思いをする。父の賞美する苔の風景は、このようにして雨風のたびに荒廃してしまって、容易に出られない一角へ変ずる。
一郎はそのことを父に話しもする。
「庭の普請をやり直さないと雨のたびにこれじゃせっかくの苔も台なしですね」
「ここらの土は水気が多くって雨が降ったらひどいという話だよ」
「舗装されてなかったころは外を出歩くのも大変でしょう」
「どうもそうだったらしい。北村青果の玄さんも昔は梅雨の時期は店をまともに開けなかったって言うし、そこらの路地で車がすぐぬかるみに取られて立ち往生してたところを何度も見たって言うし」
「今はじゃあだいぶ便利になったんですね」
「でも羽川のほうは陥没したんだろう」
一郎ははじめて聞いた話であったから生返事になってしまった。というのも羽川はけして遠くない地所だのに地面陥没の話はどこからも聞かなかったからだが、父はほんとうらしく事件を引用するので嘘ではないのだろうと父の顔を見た。父も一郎がそ の件を知らないのに意外らしい顔をした。
「一昨年かもっと前かの台風のころにだいぶ降ったろう」
「ええ」
「そのときに」
「羽川のどこあたりですか」
「塔石通りの印刷屋のあたりで」
「へえあんなところが陥没するんですか」
「真夜中になって、人の知らないうちに表面の舗装ごと落っこちて」
父は一郎へ、怪我人のなかったこと、店の入り口の目前で崩落があったために印刷屋はしばらく閉店せざるをえなかったことなど話して聞かせた。一郎はへえへえと納得したような半分上の空のような返事を繰り返した。
「うちの近所でそれがないならいいんですが」
「まあまったくありえないということにはならないだろう」
かかるうちに、雨は縫い針の穴から一滴ずつ通しているように細かくなって庭へ降りこんだ。父はその雨の落ちる音が聞こえないから、ようやく晴れだすのかと何度も立ち上がって雨戸を開けてみるけれど、庭の景色のむごいのと、期待はずれに降っている無音の霧雨とが癪に障って、その無性にいらだたしい心持を噛み殺すように押し黙っている。一郎はじきに退散してしまう。雨はこのようにして小垣一家へ作用する。
一郎は雨の有無に関係せず、行くときは否が応にも大学へ出かけて、講義を受ける必要があった。電車が運航しないほどの雨ではないし、文明の発達がアスファルトを人に与えたので泥にやられる心配もなくなったが、依然と水に濡れたり傘を持つだけ荷物が増えたりなど苦労がなくなることはなかった。が、それも以前に比べればかわいい不平かもしれない。
一郎が雨のつづくころに外を出ることを厭うのにも別の事由があって、大学周辺の人の行き来の激しいところは傘を差して通りを渡るときに他人の肩や顔や傘を気にかけねばならないからだった。傘を差さずにたくさんの人数のあいだを通り抜けたほうが早いだろうが、今度は相手の傘にぶつからないか心配になる。それが目へ飛びこんできたらと思うとこれより怖いものはない。大学は雨天だろうと人が行き交う中心街にある。
彼はそのときも自分の差す傘、人の差す傘へ用心しながら大学まで来た。昼ごろで、正門前のラーメン屋は相変わらず盛況であった。店の軒に沿って雨をしのごうという客たちは、それでも肩や胸のあたりを雨に濡らしながら待っていた。正門へ向かう学生たちは彼らをちらりと見る。一郎もその一人である。
講義を二つ受けて、連絡橋を課外活動棟のそばへ出る講義棟のほうまで進むころはもう曇天になっていた。早くも地面が乾きつつあった。講義の途中で止んだと見える。部室のある課外活動棟のそばに植わってあるケヤキからは枝葉についた雨滴が雨の降っていない今でもほたほた落ちていた。
秋の長雨の時季ということでなしに雨の降るときには、部室には雨宿りの人が集まっているか、それとも寄る気力もなくて直帰するため誰もいないかだが、そのときは後者で、いるのは荻野と大宮ばかりだった。一郎はそこへ入ったとき、大宮が顔を上げたので、すこし胸が締まった。入口に立ち止まっていると向こうから先に目をそらしたから、彼は人知れず助かったと思った。大宮は何か紙面へ書きつけはじめた。
それから一郎は荻野と二人きりで話した。話題は向こうがこしらえ、一郎はそれに応答した。当初は時候の話や俗な世間話や講義のことなどであったが、それがしだいに荒木千代子のことへと移るや、荻野の顔は活き活きとした。一郎は閉口した。
「じゃあだいぶ仲よくなりだしたんだな」
「大したことは話さないし、最近は全然会わないよ」
「どうして」
「お裾分けだのなんだのってものを持ってきてくれるような季節じゃないから」
「お前へ会うための口実もいっこう生まれないんだな」
「そんなことはないだろ」
「もっと楽観的に考えたほうが気分がいいぜ。慕われてるというんでなくっても、好意くらいは持たれてるだろうって考えたほうがいいだろ」
「うぬぼれじゃないか」
「うぬぼれでいいんだよ」と荻野は言った。
荻野は一郎と千代子のことへまともに取り合う気はなかった。だがまったくからかいどおしというのは無礼だと思っていくらかまじめに話した。すると一郎は悲観的と言おうか、冷静に自己の置かれた立場を批評していた。それが彼には張り合いなく思われた。だから半分は本気で、以上のような進言をした。
「そうしてあとは行くところまで突き進むんだな」
「志山の言うそれはやっぱり極端すぎるだろ」
「そうでもないさ」荻野は笑む。それはすこし賢しく見えた。
「ほんとうに恋愛を実らせるなら多少は強引にすべきだって言うんだろう。そりゃあ相手が嫌がるようなことをすれば信頼関係はなくなってしまう。でも微妙な押し引きっていうか、駆け引きをしながら、大局的には押さないといけない、最後の恋愛の局面に持ち越さないといけない。そういうことなんだろう」
「なあ」と荻野はなぜだか大宮へ賛成を取りにいった。大宮はまったく聞いていなかった話へ返事するように、賛否のどちらともないような曖昧な口ぶりで返した。けれども荻野はそれで満足であった。
「大宮くん。君は恋愛するか」
大宮は予想せず荻野から追加の質問を食らったので口調には少々困惑の気味があった。
「いや、別に」
「しないならしないで高尚だがね」と荻野はそれ以上つけ加えるかどうかわからないような言い方をした。とうとうつづきはなかった。
一郎はこうして千代子一人を好いているような、千代子との関係だけを自分の憂慮すべき案件と決めているような外聞を装いながら、一方で本心には、しかのみならず美音子の存在があることへの後ろめたい感情を禁じえなかった。ことに、一郎と荻野らの織り成す千代子の話を、無関心ながら大宮が耳に入れているに違いないと思えば、いっそう切に感じられた。
(これで美音子へも気があると知ったら兄はどう思うだろう。それとも妹へ向けられた感情も全然と気にかけないんだろうか)
自分の知人が篠子に言い寄ってきたらどうしようかと一郎は考えた。そのときに兄として妹を保護するなどということがあるのか、それともまったく放置するのか。篠子にしたってけっして悪い人ではないし、他人へ好印象を与えるような性情だろうから、誰かの意中の人になっても妙な話ではない。しかし父母の立場であったらまだ理解できるとして、自分のきょうだいの色恋沙汰に口出しする人がはたしているのだろうか。彼はそれを荻野に尋ねてもよかった。それが新しい議題になって、ある場合には大宮へ聴取するような事態も考えられた。しかし俎上へ載せるのはためらわれて、結局は口を開かなかった。そうやって話の過程で大宮へ尋ねることが、彼には、あとで都合がいいように言質を取っておく卑怯な行いに思えた。そのゆえ一郎は心のうちで、自分と篠子の場合はどうだろうという想定をするにとどめていた。しかし答えは出そうにもなかった。それにそういう想像を働かせることじたいが小恥ずかしかった。
雲間に薄白い青空が見えて、また虫の音も再度草叢にせわしくなるころ、日は早々と暮れて、大学には外灯の光の届かないところで談笑している人の群れがまだ点々とあり、門の周辺では、面白い話がいっこうに途切れないのか、どちらかが相手を引きとめているのか、互いにすこし距離を取った二、三人が話し合い、その横を車輛が通っていく。教員も時を同じくして荷物をまとめ帰路につき、あるいは国鉄駅へ、あるいは私鉄駅へ、またあるいはバスの停車場へ向かうのだが、しだいに卒業実験のころともなれば、学生の補助のために夜を徹する者もすくなからず、建物のあちらこちら、すっかり暗くなった夕過ぎに煌々と光を放っている。一郎は自分の卒業論文を思う。その構想はあるような気がするがよく考えてみればいまだ形にならない模糊たるもので、道すがら、まだ本式に考えなくてもいいだろうと心安くしても、その斟酌ははかばかしからず、思考すればするほどに底のない虚無へと迷いこんでいくよう。これははたして自分の不勉強が来たすものか、それとも尋常一般な症状か、それを考えるにつけても一見答えのない懊悩は深まって、その害毒な様子は増すばかりで、これまで幾度もそうしたように心中に首を振って、考えるのを止してしまった。一郎はただ目前にある読書や講義や、おのれの気ままな生活を第一に考えたい人間である。そうしてそれら第一級の品々のほかには、何をもいっさい受けつけられず、また受けつけたくない人間である。彼の内側には論文という議題を設けるだけの空間もなく、また千代子や美音子などという他者への特別な感情を育てる土壌もない。いわんや社会主義など考えるだけの政治的思考の余地もない。彼は純粋に趣味のことどもだけをして生活したいのであって、趣味の範囲外と見なされるもの、いかにしても興趣を持ちえないような対象は、地体まったく受容できなかった。それが今、やれ千代子がどうこう、やれ美音子がどうこう、それからまた論文がどうこう、職業がどうこうなど考えなければならないことが、次々に乱立した。彼はもうこれで手一杯どころか、とうに自己の容量を超えているようだった。彼はならなくてもよい神経質になりはじめて、自分の精神内部がしだいに時化ていくのを痛感するほど、それを他人へ披見したことがないのだとしても羞恥を禁ぜず、かえって癇癪は篤くなっているらしかった。一郎自身、そのような自分を嘲らないわけでもなかった。一郎は最近の自分の臆病なところ、些末なことへ怒りっぽくなるところ、また不安がる必要もない事物を妙に懸念して止まないところなど、ふだんの自分らしからぬ側面を冷笑していた。けれどもそれはむしろ瘦我慢と言おうか、心底から笑い飛ばしているのでもなくて、そうやって表層真理では揺らいでいる自分を馬鹿にしながら、深層心理には自己を見つめるもう一人の自分として、心配の念が弥増さっていた。誰にも気の違えたような自分を見せていないから、今のところは助かっている。けれどいつしか誤って不安定な自己を露見すれば、動揺しながらもまだ本来のまま保たれている小垣一郎という一個の存在が、根底から覆されてしまうだろう。一郎にはその将来が恐ろしいのだった。
自己がその基礎から打ち砕かれるときの第一のきざしは、あるいは他者の心を掴めなくなることかもしれない。感情はきっと機能せず、ただおのれに培ってきた理知のみで奮闘する。いつかは当初より目算しながらあながちに目をそらしてきていた事実を、眼前に認めなければならない。人間どうしの有機的な関係はいったい頭脳だけでは醸成されないのだ。理論で世間を繕おうとすればかならず綻ぶ。世間には世間にあつらえ向きのやり口がある。学問や法や政治やそのほか千万の、知力で走駆すべき広野と、家族や交友や上下の関係やそのほか無数の、知力に加えて心情と経験則で解決すべき森林がある。その分別ができてはじめて万事がうまくゆく。方法を過てば畢竟破却する。学問をしそこなう、他を害し自己を害する。他我の理解が不能になってゆく過程は、この心情面からの崩落の一兆候であり、彼の憂う未来はここからはじまる。
一郎に恐ろしいのは、これら不安が精神土壌を震動させて亀裂を八方へ走らせていくときの、その連鎖的な・連続的な脅迫にある。千代子はただ事務的にものを運んで来ていたのだろう、それを一郎はいつからか好かれていると思って昂揚していた。が、それは嘘かもしれない。また一郎は、美音子はとうに自分のことを篠子なり大宮なりから聞き出していて、彼女のほうでも自分を気にかけているだろうとそぞろに考えている。これが幻想に過ぎないことはおのずから了解されるだろう。このように考え及べば、しまいには人間が信じられなくなる。感情というものが、学問上に置くべからざる不定形の幽霊に見えてくる。相手の感情を問うこと、ある場合には自分の情念に疑問を抱いて、そこに何らかの答えを試みにも与えるのは、どうも哲学的無意味に思えてしまう。
(人の心について思索すること、心理状態を学問の対象にすることは、全部馬鹿なことだったかもしれない)と一郎は思う。(恋愛などという感情の一つの状態というか、構造というか、そんなものはまったく虚構で、こんなものに振り回される人間はみな馬鹿だろうか。だったらなぜ気づかない人がほとんどだろう。みんな、もっと気づいてもいいはずだ。もしほんとうに、恋すること、愛することが嘘なら。そんなものはまったくまやかしだとしたら)
一郎はただこれだけのことを、生活をまず停滞なく済ませながら、その裏で論ずる。舞台の上には平生と変わらぬ小垣一郎を演じきりながら、幕間に至って化粧を落とし仮面を脱ぎ捨てればかかる懊悩を持ち出す。家事の手伝いをする、父の話の相手になる、篠子の家庭教師になる、その裏で人の心に拘泥する。またときには荻野や志山と話すときの話題に充てようと考える。けれどもいざ打ち明けようとすると何かが怖い。その怖さが一体どこから来るのか見当もつかない。ただ胸が焼けるような、突然と声帯を失ったような、ともかくも声の出せない心持がわだかまって、とうとう別なことを口にする。背後に本心の慟哭するのを聞きながら、あえて今はものの数にもならないことを喋る。喋々喃々はこうして成立する。それがなお偽りに感覚されて、その齟齬が胸を突く。
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