あいまいな群青 作:淵瀬このや

 朝の群青に亜麻色がなびいて、私は見失わないように自転車を漕ぐ。初夏の四時半はむき出しの肌を突き刺す。車の通らない十字路、誰も歩かない横断歩道、黄色の点滅信号。それらをすり抜けて、彼女を追いかけて、私たちは「友達」をやめに行く。

 海に行く。



「じゃあ、海行こっか」

 クッションに身をだらりと預けたまま、彼女が言った。午前四時前で、ずっと起きていた朝だった。朝にもなりきれていない時間かもしれない。泣き腫らした目だった。なんてことはない、アニメを見て号泣しただけで、彼女はかなり親子の絆というものに弱いらしかった。なぜなのかは知らない。私と彼女は知り合ってまだ一週間だった。そして、もうそのカウントが増えることもない。

 泣いた直後なのに、彼女の声は晴れやかだった。「もう少し休んでからでもいいんじゃない?」なんて、言えなかった。

「そこで、約束してた通り『友達』はおしまい。付き合わせてごめんね?」

「まったくだよ」

 口が乾いて、言葉は沈む。

 カーテンの端から、街灯の光がわずかに入りこんでいた。




 一週間限りの友人関係がはじまったのは、月曜二限、心理学入門の講義の前だった。

 ひとつ開けて、左隣の席。それがカタ、と引かれる音に私は反射的に目を向けた。いつもは誰が座ろうと隣を窺うような真似はしないのに、この日はどうしてそうしたのだろう。使ったばかりの汗拭きシートのような、甘い石鹸の香りが鼻腔を擽ったからか。目を引く艶やかな亜麻色のロングヘアを、視界にうっかりうつしてしまったせいか。引いた椅子の上に黒のリュックをのせ、そのままパソコンを取り出して、私と目があった彼女は「やっほ!」と微笑んだ。まるで、私たちが旧知の仲であるみたいに。

 みたいに、というのは、私の方は彼女をまったく知らないのである。私は右を見て、ついで左を見た。彼女の言葉に反応している者はいなかった。この親しげな挨拶は、まぎれもなく私に向けられたもののようだった。

「あはは、キミだよキミ。キミに話しかけてる、であってるよ」

「ぇえっと、んんっ、……ひ、人違いじゃ、ないでしょうか」

「間違えるわけないよ、だって私は『はじめまして』のキミに話しかけてるんだから」

「はじめましての人間にそのテンションで話しかけるんだ……」

 彼女は、私の思わず責めるようになった口調に、大きな目をさらに丸くした。下瞼のラメがくるりと光って、おかしくてたまらないと破顔した。

「うん、いいね。やっぱりキミにしてよかったよ」

 私のすぐ左隣の椅子を引く。ぎっ、と音を立てて、片脚の膝をそれに預ける。耳から零れ落ちた淡い栗色の髪が私の肩にかかって、彼女の両手が私の頬をつつむ。ひんやりとしていた。目が、私をまっすぐ捉えた。焦げ茶なのに、青が混ざってみえた。

「ねぇ、今週の日曜日の朝に、私と一緒に海を見に行ってほしい。それまで、私を『友達』と思って過ごしてくれない?」



 中川なかがわ七海ななみ。講義の後で彼女は名乗った。「七海でいいよ、呼び捨てがいいな」というから、「あお」と私も名前を伝えた。同じ文学部だということもわかったのは、学食でいやいやながら麵コーナーの列に並んだ時だった。大学に入ってから、節約のために、お昼をとるという習慣は消滅していた。

「碧は何にする?」

「別に、なんでもいい。安いやつ……。きつねかな」

「ええ~! ちゃんとお肉とか食べたほうがいいよ! てかなんなら私出すし!」

「いや、さすがにタメの子にそれは悪いし」

「まあまあ、友達代ってことで! 友達サブスクリプション! ね!」

「じゃあ……、肉うどん」

「控えめ~!」

 彼女はすべての言葉にエクスクラメーションマークをつけるように話した。ひとりに慣れた私にとって、彼女は騒音の擬人化だった。顔面の圧に押されて一週間限りの友人関係を承諾したことを、かなり後悔するくらいには。

 ようやく見つけた二人がけの席にふたりで座る。二人がけの席はふたりが座るようにできていない。狭い。肘が当たるのが、どうしても気まずい。本当の友人なら気にしないのかもしれなかった。本当の友人なんていたことがあるかもわからないから、普通はどうなのかもわからなかった。友人になれたと思えた子は皆すぐに離れていった。私はたぶん、人よりいっとう嫌われやすい人間なんだと思う。

「七海……は、なんで、私に声をかけたの?」

「ん~? そこにいたから、かな。友達ってそうやってなるものらしいから」

 見た目にそぐわず、彼女はずぞぞっとうどんを啜った。友人をつくることに慣れた側の人間の台詞だった。そっか、と言った。何を期待していたのだろう、落胆にざわつく胸に肉うどんを詰めた。なぜ一週間なのかは聞かなかった。怖かった。




「まだ、外寒いかな」

 彼女は呑気にそう笑って、家から持ち込んだ部屋着をするりと脱ぐ。だぼっとしたパープルのTシャツがはらり床に落ち、その細い線があらわになる。

「ちょっと寒いみたい」

 私はスマホで天気予報を映して言う。「上着、貸そうか?」

「大丈夫、持ってきてるから」

 そのブルーのシャツの前をとめて、荷物から白のフードのついた羽織りを取り出した。

「さすがの私でも遠慮しちゃうや! きっと碧の服はいい匂いするもん」

「出会ってすぐでも、イヤホンとるのは躊躇しなかったくせに?」

 きゃっ、なんてふざけた声を出すから、私は思わず呆れてしまう。彼女は出会った次の日に、三限前に音楽を聴いていた私から片方のイヤホンをぶんどったのだ。イヤホンの共有に比べたら、服の共有くらい些細なものだろう。ましてや一週間といえど、関係性の積み重ねだってあるわけだし。

 そう考えてしまうのは、きっと彼女に距離感を変えられてしまったせいだ。この一週間いつだってまとわりついてきて、いつも一緒にいた彼女に、狂わされてしまったせいだ。

「イヤホンとったとき結構怒られたからそれは反省してるってぇ~! でもさ、あれで碧の好きなアニメ知れて、カラオケも行けて、そして今日がある、でしょ? 結果オーライオーライ!」

 なんて笑う、彼女は本当に勝手だ。勝手に全部を変えていって、そしてすぐに私のもとから立ち去ってしまう。

「チャリの鍵持った? じゃ、行こ!」

 そう言って、手を引いて、彼女は私の望む停滞を許してくれない。



 外はかなり暗くて、それでも星はほとんど消えて朝の準備をしていた。大通りに出ても、車はほとんど通らない。大型のトラックが、大きな交差点に止まっていた。

「うぅ、冷えるなぁ」

 先を行く彼女の声が、風にのって私に届く。どういうふうに行くの、と後ろから声を飛ばせば、「太陽の昇る方を目指して!」と彼女は片手を掲げてまっすぐ前を指さす。見れば、ほんのり白んでいるような気もした。




 彼女が口に出したようにカラオケに行ったのは、昨日の夜からだったはずだ。十二時を過ぎるか、というくらいだった、泣いているような声の彼女から、迎えに来てくれ、と電話があったのは。

 サンダルをつっかけて家を飛び出して駅に着けば、彼女が手を振っていた。顔は真っ赤に上気していた。足元も、ふらふらしていた。

「サークルの飲み会で、飲まされちゃった」

 彼女は言う。まだ二十歳にはなっていないはずだった。

「ねぇ、カラオケ行こうよ」

 舌っ足らずに頬を染めつつ、彼女は私の肘に腕を絡める。私は意識してめんどくさそうな顔をつくりつつ、足を繁華街に向ける。「今から?」

「帰るの面倒だし、せっかく碧に会えたからさ、遊びたいな~って。だめ?」

 ほら、碧が前に聴いてたさ、アニメの主題歌! あれ碧が歌ってるの聴きたいな~、なんて楽しそうな目を向けられて、誰が断れるというのだろう。気づけば狭い個室のひとつにいた。酔いが回っているからか、もともとの性格ゆえか、彼女は本当に盛り上げ上手だった。何を歌っていても笑顔が絶えない。先ほどの泣いているような声は、何だったのだろうというくらい。

 それが綻びを見せたのは、私が失恋曲を歌っているときだった。

 驚いた。今更泣くほどの感動をもたらすわけでもない、消費されたメジャーな曲だったから。驚いた。初めて彼女がまともに見せた感情の表出だったから。驚いた。その涙が、あんまり綺麗で、拭いたくないほどだったから。

 演奏だけが流れて、やがて終わる。やけに明るい男性アイドルの声だけが狭い部屋に響く。私はただ彼女を見つめていた。その涙のわけを知りたいと思った。でも同時に、一生知らないままなのだろうとも思った。日曜日の朝には、この関係は終わる。

「……ごめんね」

 それでも、彼女のその弱弱しい声に、私は彼女を抱きしめていた。さっきまであった人一人分の距離なんて、一瞬で無くなってしまった。

 たどたどしく、彼女の亜麻色の髪を梳く。染めているのに、それは傷みを知らないようにするすると私の指を受け入れる。人の髪にきちんと触れるのなんて、初めてだった。必要な言葉は、空気と一緒に、喉につっかえたままだった。

「……その、さ。この後、うち来る? 一緒にアニメでも見ようよ」

 だから私は、逃げの一手を打った。何も聞かない。踏み込まない。そうしたら彼女は、正しく私を『あと一日だけの友達』として扱ってくれる。ずるいまま、もう少しだけ彼女の心の弱いところの一番近くにいることができる。私は彼女と別れることに、今以上に傷つかなくて済む。彼女は私を見上げ、涙を浮かべた目をぱちぱちとさせた。それから、「行く! けど、どうせだからお泊りがいいな。荷物用意するからさ!」と言って、ぱっと、花が咲くように笑った。




 どうしてこんなに彼女を欲するようになってしまったのだろう。信号待ち、その横顔を盗み見て思う。彼女は真剣な顔をしていた。図書館で一緒に勉強したときみたいな顔。廊下でばったり会って、そのまま無理やり彼女はついてきた。邪魔されるものと思っていたのに、そんなことはまったくなくて。いつもだいたい笑っている彼女の真顔に、あの日もひどく動揺した。本当に、彼女はずるい。初めて見る表情に、私ばかりが揺れてしまう。

 そんな彼女を欲してしまったのは、きっと、選ばれたように思ってしまったからだ。他人と深く関係を持たない人間が、それなりの時間、ひとりの人間と交流を持ってしまったせいだ。ことあるごとに手を引かれて、誘われて、いろんな顔を見せられて。必要とされた、なんてとんだ勘違いをしてしまったんだ。これは絶対、ひとりに慣れた人間にしかわからないんだろうな、と溜息をつく。例えば彼女みたいな、友人をつくることに慣れた側の人間には。きっと、彼女と私はまったく違う。こんなにも違って、彼女が光の側にいるから、こんなにも惹かれてしまう。

「……あれ? どうしたの? そんな何か言いたげな目ぇして」

「……なんでもないよ」

 あなたが知る必要はないよ。呟く。

 去る人間を引き留める資格も覚悟も、ただ流されてあなたと友達になった私にはないから。これくらいは背負わせてよ、なんて、心の中で呟く。



「あ~、よかった! 日の出に間に合った! この時間帯の海が一番綺麗だからさぁ」

 すととっ、と自転車から降りて、彼女はそれをガードレールに寄せて停める。下には階段と砂浜が、そしてすぐに海が広がっていた。波は存外静かで、耳をかなり澄まさないと音も聴こえなかった。私の知っている海ではなかった。少し気味が悪くて、でもどこか安心するようなアンバランスさがあった。

「ね、降りよう降りよう!」

「そんなに急かさないでよ、転んじゃうよ」

 靴裏が、砂に触れた。柔らかく沈み込んでいく。立っている気がしなかった。

 海のずっと向こう側に、街が見える。他人の気配が遠い。ただ自分の息遣いだけが静かな砂浜を埋めていて、小さな孤独に吞まれていく。

「海来たの、何年振りだろう……」

 言いつつ、隣の彼女を見やって、目を見張った。声も出さないまま、小さく彼女は震えていた。泣いていた。何も言葉を持たない私は、近づいて、その背を撫でた。




「え~! 碧ん家ベッドあるんだ! いいなぁ」

 私の部屋を見た彼女の第一声はそれで、そのあまりに感動した声色に、私は思わず吹き出した。

「何、七海の家には無いの?」

「そう! 最初はまあ無くていっか~って思って買わなかったんだけど、いちいち敷くの割とだるいんだよねぇ。もう最近床で寝てる」

 風邪引くからやめな、と顔をしかめれば、彼女は「碧の過保護~」と唇を突き出す。口紅はひいていないようなのに、それは綺麗な珊瑚色だった。

「代わりに床に座るスペース無いから、ベッドの上座ってもらうしかないんだけどね」

 じゃあお邪魔しま~す! と彼女は言葉の勢いに似合わずそっと腰掛ける。私がリモコンを持ってその横に座ると、キラキラとした目を向けてきた。

「ねぇ、悪戯、していい?」

 悪戯って何、と聞く前に、「どーん!」と彼女は私の頭を抱えて引き倒した。二人分の体重に、寝台が軋む。衝撃に、心臓がうるさく跳ねた。何するの、と掠れた声で抗議すれば、「でも、ちょっと楽しくない?」と彼女が笑う。空気の押し出される音が、彼女の薄い胸越しに聴こえる。

 小さな沈黙がおりた。

「なんて言うかさ、こんなに近いと、間違えちゃいそうで怖いね。大切だって、勘違いしちゃいそうで、いやだな」

 震える声に、何を言うべきかわからなくて私はただ押し黙った。その胸に押し当てた耳で、彼女の心臓が、ことりことりと音を立てているのを聴いた。

「ねぇ、間違えちゃったらさ、ひょっとしたら、離れたくない~って、なっちゃうかもね。最初に『一週間』って言った、私だって」

「……そしたら、七海は困るんでしょ」

 彼女の手が、惑うように少し私から離れた。その熱を惜しく思う間もなく、ぎゅっ、と、私の頭をさらに強くかき抱く。

「うん、困る」

「じゃあ、いいよ」

 間違えなくて、いいよ。その背中に回した手で、彼女をそっとさすった。頭上から、鼻を啜るような音と、かすかな声が聴こえた。小さな「ごめんね」に、私は気づかないふりをして、彼女の胸に顔をうずめた。本当に間違えて困るのは、きっと私だったろうから。彼女は、私で隙間を埋めている。それは私も同じだった。詰め物が大切になりすぎたら、困るのだ。そんな覚悟もないまま詰めてしまったから、困ってしまうんだ。だから彼女を悪役に仕立てあげた、謝るべきは、私の方だった。




「私、友達をすてたの。この海で」

 日が出ていない海は妙に凪いでいた。風もなく、夏の熱気が身体にまとわりつく。彼女は遠くを見ていた。向こう岸に、車のライトが光った。

「……棄て、た?」

「ああ、違うよ。『捨てた』なの。写真、見る?」

 有無を言わさないように突き付けられた、スマホの画面にうつったその写真には、浴衣姿の少女と、その子の手より二回りほど大きなくまのぬいぐるみが写っていた。ぼやけてよく見えないけれど、後ろの光は屋台だろうか。少女は先ほどまで泣いていたかのように目のまわりが真っ赤で、でも花が咲くような満面の可愛らしい笑みを浮かべていた。綺麗な黒髪は短いながら丁寧に結われていて、前髪だけは汗をかいてぺちゃんこに濡れていた。

「友達、って、この女の子のこと……?」

「違うよ。それは私。捨てたのは、このぬいぐるみ」

 後悔の中に、少しだけ昔を懐かしむような声色が混ざった。写真をそっと消して、愛おしそうな眼をして、彼女は私を見る。私の向こうにある、彼女のかけがえのない誰かを見る。

「私、人間が怖いよ。だって、皆いなくなっちゃうから。他の子みたいに、私うまく人に踏み込んだり、踏み込ませたり、できなくて。たぶん、私は人よりずっと、嫌われやすいんだと思う」

 あ、とかすかに声が出た。目の奥の奥が、ぎゅっと熱くなる。

 同じだ。私と彼女は、本当は、同じだったんだ。

「だから、だからぬいぐるみがずっと友達だったの。ぬいぐるみは、何処にもいかないから。私を置いていかないから。でもわかってたの。それじゃ何にもならないって。知ってる? 理想の友人を自分でつくるのって、すごく虚しくて悲しいの。寂しいの。だからお別れした。捨てた。大人になれたはずだった」

 苦しげに息を吸う。ひゅっ、と喉が鳴って、声がひび割れる。そんな声の出し方をしたら、喉をいためてしまう。そんな彼女が心配で、私は彼女に手を伸ばす。彼女は私の手に縋りついて、そっとその細い指を絡めて息を吐く。

「だけど、やっぱり駄目だった。寂しくて悲しいままだった。ううん、もっとひどくなった。誰も私のことなんて求めてくれない。必要とされたいのに、何もうまくできない。どうしたって空っぽで、許されたくて、苦しくて苦しくて仕方がない!」

 砂浜に声が響く。ずっと遠くに船の汽笛がなる。かすかに電車の走る音も聴こえる。どうやらもう、始発の時間らしい。彼女が本当をぶちまけてくれるまで、ここまで、時間がかかった。

 肩で息をする彼女は、いつもよりずっと小さく見えた。ひょっとしたら抱きしめてあげるべきなのかもしれない、と、私は彼女の手を離した。でも離した手は、どこにも居場所を見いだせなかった。今、その背中に回す勇気はなかった。引っ込めてしまった。この一週間、ずるくてあいまいなまま、彼女の隣にいようとしてきたから、今更、彼女の大事なものになろうと望むのも、たとえ望んでも『私』では足りないかもしれないことも、怖かった。

「……ねぇ、お願いがあるの」

 そんな私を見て、彼女は笑った。明け方の星みたいに、弱く。それを見たら、私が何かがらがらと崩れるような気がした。たった今、私は諦められたのだ。失望、されたのだ。悟ってしまった。

「私を許して。嘘でも棒読みでも、何でもいいから『許す』って言ってほしい。お願い」

 切実な声だった。彼女が望むなら何でもしてあげたいと思わせるような、さっきの失態をこれで埋められると錯覚してしまうような、そんな。

「……『許す』、よ?」

「……ははっ、君は嘘が下手だねぇ。私のこと、許せないって顔してる」

 いよいよ、彼女がわからなかった。許すも何も、私は彼女に何もされていなかった。彼女は私で隙間を埋めて、私も彼女で隙間を埋めて。許せないなんて、思う権利はなかった。彼女はいつもよりぼんやりした顔で笑っている。それで、もう私では埋められないのだと気づいてしまう。逃した一度きりのチャンスは、あまりにも大きかった。

「ねぇ、最後に聞かせてよ。なんで、なんで私だったの? なんで私を、一週間の『友達』にしたの?」

 最後なら、もうどう思われてしまったってよかった。ただあなたのすべてを知りたかった。生まれてはじめて引き留めたいと思ったあなたの、だけど絶対に手に入らないあなたの、全部がどうしようもなく欲しかった。

「前も言ったでしょう? あなたがそこにいたから。寂しさを埋めたいって思ったそのときに、ちょうどひとりでいてくれた、都合のいい子に見えたから」

 本当に、本当にそれだけなの。彼女は微笑む。悪い顔と、悪い声色で、なのに悪役になりきれない彼女の喉は小さく震えていた。

「ねぇ、嫌いになった? ……嫌いに、なってくれる?」

「なるわけ、ないでしょう」

 彼女が表面的に欲しがった言葉を無視して、彼女が本当に欲している言葉を突き付ける。私の方がよっぽど悪役ヒールで、彼女の綺麗な顔がくしゃりと歪む。あなたの欲しい言葉くらい、手に取るよりずっと確かにわかる、わかってしまう。だって私たちはこんなに同じなんだ。だからもっと求めてくれたらよかったのになんて他力本願で、視界の奥に渚が光る。日が昇るか迷っているあいまいな時間に、海の群青だけが静かに揺蕩う。

 このあいまいな群青に、名前をつけるならきっと「カタオモイ」なんだろう。片想いだし、過多想いだ。愛とか恋とか、そんな大仰な名前をつけるのは怖かった。そうやってこの想いを遠ざけようとしているのに、それでも、私はこの先もずっと、これを引きずってしまうのだろう。一週間限りの付き合いでも、これからの時間の流れのなかで、この一週間が彼女の奥底に沈んでしまうとしても、一度想いはじめた人を忘れられるわけがなかった。忘れたいとも、思わなかった。

「……付き合わせてごめんね。ありがとう。もう帰ろっか」

 少しだけ空が明るくなってきていて、風が吹きはじめた。さっきまで暑かったのに、急に冷えて、嫌になるね、と彼女は苦笑いした。

「これでもう、私たちは友達じゃなくなるんだよね?」

「うん、そうだね。今までありがとう、それじゃあさようなら、だよ」

 彼女は飄々と、悪戯に慣れた子どもが叱られているときのように言った。まるで私に憎まれたいみたいに、煽るように。

「……私は、もう少しここに残ろうかな」

 何だかよくわからない気持ち悪さが、腹の底にたまっていた。ついさっきまで彼女で埋まっていたそこが、どんどん得体のしれない何かにおきかえられていく。先に帰って大丈夫。きっと出会ったころと同じくらい平坦な声がでた。

「ん、わかった。じゃあ先に失礼するね、ばいばい」

 彼女は笑って小さく手を振って、住宅街の角に見えなくなる。

 もう一度、私は海を振り返った。空がどんどん赤に染まっていく。太陽が、少し顔を出す。すぅっ、と、海にまっすぐ赤の線が入る。そこだけ、海が燃えているようだった。そこだけ、消えない火を灯されてしまったみたいだった。

 腹の気持ち悪さが、上まで込みあげてきた。吐く、と思った。吐かなかった。代わりに目から涙が零れ落ちた。一週間前までは慣れ親しんでいたはずの空白が、暴れだして溶けだして、私の表面を濡らして覆う。

 私はようやく、これを『寂しい』だと認められた。




 また、月曜日が来た。心理学入門、教授が、淡々とした口調で教科書を読みあげる。ひとつ開けて隣の席は、誰もいない。

 当たり前だった。この授業で私の隣に人がいたのは、たったの一回だけだ。

 チャイムが鳴るよりずっとはやく、授業が終わる。講義の感想を打ち込みながら、ふと何かの予感に突き動かされて、私は顔をあげる。

 彼女が、誰かと談笑しながら教室を出ていくところだった。

 相手は、前からの友人だろうか。きゅ、と下唇に力が入る。それとも、私みたいな一週間だけの友達なのだろうか。彼女には今まで、何人の一週間の友達がいたのだろう。聞いておけばよかった。今となっては、聞けなかった。彼女の人生にこれ以上介入する権利を望む資格は、私にはもうなかった。でもたぶん、友人でいる間にそのことに思い至っても、私は聞けなかっただろう。全部が欲しいと言いながら、結局、すべて受け止める強さなど私は持たないのだ。パソコンを片付けて立ち上がる。

 なら、私は全部を許そう。どうしようもなく痛くて苦しい、彼女が私にもたらしたこれを忘れられない私ごと、彼女を許して忘れよう。空腹なんて先週まで感じなかったはずの腹が、くうと音を立てる。全部彼女のせいで、全部私が悪かった。だから学食に行って、この不満を訴える腹をまずは満たしてやろう。許して忘れて、また空っぽになった私に、おいしいものをいっぱい詰めてあげよう。

 先週はあんなに狭かった机と机の間隔はやけに広くて、歩きやすかった。

 私も、許されたかった。

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