さようなら、ねこ

六重窓

第1話

 昔、猫と暮らしていたことがある。飼っていたのではなく、時折、餌をもらいにふらりとやってくるだけだったのだが、それでも私にとってその猫は特別だった。雪のように真っ白で、撫でてみたいと何度思ったことか。野生の猫らしく、人が手を伸ばせば警戒して近寄ってこない、そんな賢い猫だった。

 猫には名前がなかった。飼い猫ではないのだから、名前なんてない方が良い。私はその猫が黙々と食事をする様を、近いような遠いような距離でぼんやりと眺めていた。

 しかし、そんな静かな関係は、私があの家を手放したことで、永遠に失われてしまった。私がいなくなったところで、あの猫が生活に困るとは到底思えない。美しく、強かに、自然の中で生きていくだろう。だが、いなくなることを告げずに病院へ来てしまった。灯りの消えた家を見て、猫が引き返

す夜があったとしたら、それは寂しい夜だろう。

 私は病窓から空を見上げる。猫に名前を付けなかったことを少し後悔していた。あの猫の姿が、思い出の中でぼんやりと溶けていってしまう気がする。名前というのは、何かを覚えておくためにあるのかもしれない。

 医者は、もうあまり長くないと言っていた。そうやって言葉を濁されると、今日死ぬのか明日死ぬのかと気を揉む患者もいる気がする。それとも相手を選んで余命宣告をしているのだろうか。私はといえば、誕生日を目前に控えた子供よろしく、指折り数えて死を待つのも悪くないと思っていた。やり残したことは特にない。看護師は、家族に手紙を書くと良いと勧めてくれたが、筆は進まなかった。病床で何を綴れば良いのだろうか。感謝か、懺悔か、そんなところが一般的なのだろうか。

 夜の病院は静かだ。静かなのに、絶えず人の気配がして、なんとはなしに目が冴えてしまう。

 あの猫は元気だろうか。元気に違いない、と確信を持って私は想像する。どう足掻いても触らせてくれないだろう気高い猫に触れてみたかったというのは、やり残したことになるのだろうか。いや、どれだけ長生きしても叶うことのない夢なのだから、考えるだけ詮無いことだ。


 不意に「みゃあ」という声が耳を掠めた。院内に猫が紛れ込めるはずないのだから、空耳に違いない。それでも、それは子供の泣き声ではなく、紛れもなく猫の鳴き声だった。会いにきてくれたのだろうか。もう一度会えると思えば、心臓がどうしようもなく跳ねる。

 慌てて窓の外を見やるも、中庭に猫の姿は見当たらない。雲間から月光が差し込んでいる。どこにいるのだろうか。雪原でもなければ、周囲に紛れてしまうことなどない純白の猫。

 窓を開けると、冷たい夜風が病室に吹き込んできた。身をすくめたくなる寒さだ。私は凍える手で窓枠を掴み、真っ暗な病院の中庭を目を皿のようにして探した。呼びかける名前を知らないことが、ひどくもどかしかった。

 縋る気持ちで中空に手を伸ばして、私はその猫がどこにいたのか気が付いた。夜空には真っ白な猫が浮かんでいた。いつもの足取りで優雅に歩いてきた猫は、私の近くまでやってくる。

 私は手を伸ばす。猫は逆らわなかった。ふうわりとした感触が掌に伝わって、瑠璃色の瞳と見つめあった。雲に浮かぶ二つの月。それは一瞬だったが、まるで永遠のような時間だった。

 今までの気まぐれで暖かな日常への礼と、最後に会えた喜びと、別れを言えずに出てきてしまったことへの謝罪と、様々な感情が綯い交ぜになって、結局、掛けるべき言葉を編み出せずにいた。

 だから、万感の思いを込めて、一言「さようなら」とだけ言った。月は三日月になった。

 白猫は尻尾を一振りすると、夜の闇に消えていった。

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