第3話体育館裏

 僕はミナちゃんに伴われるがままに、体育館裏へと足を運ばせていた。



 其処でお喋りをしていたミナちゃんのグループの女子達は、僕がこの場へと赴いた姿を目の当たりとしても特段驚く様な素振りも見せなかった。



「あ、優くんはここに座ってて。わたし更衣室の鍵取ってくるから」



 しかしながら、そうして僕が同所への雰囲気を掴もうと試みている最中に、ミナちゃんは到底予想だにしないことを言う。




「え‥でも‥」



「大丈夫だよ。みんなと一緒にここで待ってて。わたしたちいつも更衣室の中でお菓子とかこっそり食べてるの。だって教室だと男子とか先生に見つかっちゃうでしょ?だからね?」



 そうして何処か口元を意地悪げに吊り上げて見せた彼女は、そう言い残してこの場を後とする。



 けれどここからそう遠くない廊下を突き当たった辺りの所在している職員室で鍵を借りるなら、其処まで時間が掛からないと思われた。



 それだから今に場を共にしている女の子達に対して会釈を終えた僕は、その場に佇むばかりとなってしまう他にない。



「優」



 するとそんな風に口をつぐみ、沈黙を保っていた僕へと与えられる声がある。



「何かな?エリちゃん」



 だからそうして憮然とした面持ちの彼女から話し掛けられた僕は、小首を傾げるばかり。



 特段エリちゃんとは会話を交わした覚えもなく、平素からの交流も薄い人物な為、僅かながらに気まずい思いもする。



「‥あげる」



 しかしながら、その様にして問い掛けた僕に対して続けたエリちゃんは、お菓子を乗せた手を差し出して来る。



「ありがとう。でも、こんなの学校に持ってきてもいいのかな?」



 そしてそれを思わず反射的に受け取ってしまった僕の口から自ずと溢れたのは、そんな下らない質問だった。



「いい」



 だが、これに対して応じたエリちゃんは、その無表情を崩さないままに受け答えた。



 凡そ感情の色を伺わせない面持ちを浮かべているそんな彼女は、更衣室の扉に背を預けたままに、棒状のお菓子に口を付けた。




「そ、そうなんだ‥」



 だからそんな風に返答をされては、僕としても頷く他になかった。



 そうしてこの場において同所を共にする女の子達の中、唯一会話を交わしたのは、エリちゃんだけだ。



 後の女子達は誰が口を開くでもなく、この場へと居合わせているだけとも見て取れる塩梅だった。



 その為必然的に沈黙が訪れる同所は、痛々しい程の静寂に包まれることとなる。



 そんな有様にまるで質量さえ伴っている様な圧迫感が感じられるこの場に居合わせた僕は、自然辟易とする。



「はやくたべる」



 そしてそんな雰囲気の最中、一切の躊躇いもなくエリちゃんは続く言葉を言い放つ。



 どうやらその語る所を鑑みるに、僕へと自らに倣う様促しているらしい。



 だから自ずと視線は今し方手渡された菓子へと移る。


 その形状からして恐らくは栄養補助スナックであることが窺える。


 それ故自然とそれに対する品質の程は、それ相応に及びがつく。


 さして言及するまでもなく、微妙な味わいであるのは想像に難くない。


 さぞ口内の水分を取られてしまうことだろう。



 如何にもな効率を求めた添加物の表記がなされていて、大変不味そうだ。


 けれど目の前で催促の如き振る舞いを見せつけられてしまっている手前これを一蹴する訳にもいかない。



 それに加えてただでさえこの場に居合わせている僕は異分子であるのだから自ずと、言われるがままに菓子を口とする他になかった次第。



「‥おいしいよ‥」


 すると案の定砂を噛む様な感触が口腔全体へと余す所なく襲いくる。


 そしてそんな風に飲み込みに苦闘している僕の現状を知ってから知らずか、エリちゃんは再び此方へと手のひらを差し出してくる。


「これ‥」



 そんな彼女が僕へと与えたのは、半分ほどその内容量を減らしているペットボトル。


「のんで」


 恐らくは飲みかけ。


 だがしかし、彼女は言う。


 相変わらず無機質な声色で。


 そしてその大きな双眸は僕を捉えている。


 真正面から一点の曇りもなく至極純粋に、訴えてきているのだった。


 ─飲め、と


 その一見して極めて美しい虹彩を称えた瞳は、まるで吸い込まれてしまう様な錯覚を与える代物。


 加えて、艶やかに長い睫毛は何処か伏せがちだけれど、それから更なる底知れない色香を感じられる。


 それだから僕はやはり差し出されるがままにペットボトルを受け取る他にない。


 次いで蓋を開けると、ある事実に気がついた。


 際して飲み口に触れた指先が、エリちゃんの唾液と混ざり合った食べかすと思しき代物に触れた事に。


 それがどうしても気に掛かる。


 それはやはり敢えて思考を巡らせる余地もなく、エリちゃんが使用した痕跡に他ならない。


 ペットボトルの飲み口の辺りに、エリちゃんの食べかすが付着していたのだ。


 つまり僕が今このペットボトルに口を付けた瞬間に、必然的にエリちゃんと間接的な粘膜接触を果たすこととなる。


 それはやはり躊躇われる。


 何故ならばその理由は偏に、以前に僕が拝読した書籍が所以。


 その書籍曰く、人の唾液には夥しいまでの雑菌が存在しているのだとか云々。


 それ故これを鑑みると、どうしてもこのペットボトルに納められている内容物を飲むのは憚られる。


 しかしながら、僕が身を置く現状は改めて把握するまでもなく佳境に過ぎている。


 身体極まったとはこれを示すに相違ない。


 女子のグループの中、気まずいのもあるものの、相手から受けた好意を無碍にしたら余計に悪化するのは自明の理。


 さして考える必要性すらなく明白だ。


 それに眼前に佇むエリちゃんにしても、クラスでは男子から余程に人気がある。


 加えてそれの証左として大変可愛らしい顔立ちをしているのは、先入観を捨てても見て取れる。


 愛想は皆無と称して差し支えないが、それを考慮しても群を抜いて美しい容貌だ。


 クラス中の男子から告白を受けているのも頷ける。


 それに加えて学年を超えたお付き合いの申し出さえも実際にあったのだから、男子達の慧眼には実に頭が下がる思いだ。


 それ程までに類い稀なる美貌の少女からこうして施しを受けている。


 それはもしかしたら光栄なことかもしれない。


 いや、きっとそうに違いない。


 加えてそんな実感と共に、クラス中の男子達が、エリちゃんに魅了されてしまうのも致し方なく思われた。


 それもその筈、この様にして真正面から見据えられてしまっては、僕みたく本質的に臆病ではない限りは、いらぬ邪推を巡らせてしまうかもしれない。


 そうして勘違いも甚だしい自惚れが災いして告白をした挙句の果てには皆誰一人として例外なく玉砕の憂き目と遭うのだから救えない。


 そしてそんな彼女と僕は今現在真正面から並び立つかの如く対峙しているのだ。


 だから僕は唾液の雑菌を気にすることをやめないまでも、それにより気を逸らす事に成功。


 そして、これが幸いして一息に鼻の呼吸を止めてペットボトルの飲み口へと唇を押し当てる。


 そのまま傾けるがままに口内へと侵入を果たした若干生温い感触の水を喉奥へと嚥下する。


「あ」


 しかしながら、そうしている最中に与えられたエリちゃんの声に反応して飲み終えると同時に視線で見遣る。


 そうしてエリちゃんを再び視界へと納めた僕の口内は既に空となっている。



「ぜんぶ」


 そして立て続けに与えられた言葉の意味する所は容易に及びがついた。


「あ‥ごめん。喉乾いてたからつい‥」



 だから自ずと口とした謝罪も早急に成された次第。


「いい」


 すると此方の焦燥などなんら意に介した素振りさえも見せないエリちゃんは、僕の手からペットボトルを奪い取る。



 そして自らの手中へと握るそれを眺めた彼女は、僅かながらに未だその容器へと納められて水滴を舐めとるかの様にして舌を這わせた。



 まるでこそぎ落とすかの如く、飲み口へと舌を伝わせる光景が鮮明に窺える。


「ん‥ない」


 次いでそれも無意味と断じたのか、ペットボトルを床へと投げ捨てる。


 そんなエリちゃんの姿からは、自身の振る舞いに対して気にした素振りも窺えない。



「きす‥」



「え‥?」



 だがしかし、そんな塩梅の彼女の奇行の数々に圧倒されている僕の耳は次いで放たれた言葉を鮮烈に捉えていた。



 否、正確には脳裏へと強烈な印象と共に刻まれることとなった。



「かんせつきす」


 そしてそんな具合に混乱を露わとする限りの僕へと与えられるのは、更に事細かく出来事の詳細を語るエリちゃんの何処か甘い声色だった。

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