廃ビルテント少女
くーくー
第1話
からんぽろん
屋上へ続くその扉の鍵は壊れていたようで、ひしゃげたノブを軽く回すと抗うこともせず無気力にぎぃぃと開いた。
その隙間からは、ぬるく湿った空気が漏れ出してくる。
男は、今日仕事でミスをした。
それは、ほんの些細なミスだった。
けれど、それぞれの小さなミスが積み重なり予算に関わる大きなミスにつながった。
自分だけのミスではない、しかし最後のトリガーとなるミスだった。
確認を怠った主任である男の責任だ。
いつもならば何度もチェックして気付いたはずなのに、その日はぼーっとしていた。
先週、学生時代から付き合っていた彼女に、プロポーズ目前にしてフラれたのだ。
「私ね、大切な人が出来たんだ。彼と一緒に住むから来月上京するの」
「なぁ、もうすぐお前の誕生日だろ。そろそろ俺らも先のことを考えないとな」
男のそんな言葉に、返って来た返事がそれだった。
サークルの二年後輩の彼女とは、フリー同士でなんとなくくっつき言わば惰性で付き合っていた。これといった告白などもしていないし、互いに焦がれて惹かれて激しく愛しぬいたわけでもない。
でもやっぱりそれなりの情は互いにあって、このままこの先も一緒なのだと思い込んでいた。
三十路も間際に迫ってきていて、七年も付き合っているのだからそろそろ結婚を決めるのもちょうどいい時期だろう。
それが普通のこと、当たり前の道筋だと思っていたのだ。
これでも地元に残った同級生の中では、少しばかり遅い方だ。
おそらく彼女はなかなかプロポーズしない男に焦れていて、待ち構えたように二つ返事でOKされると思っていた。
しかし、その考えは全くの見当違いであったのだ。
「年下で頼りないけど、笑顔がとても可愛くてね。夢のある人なの」
別れ際に誰に告げるともつかずに零した甘い響きに濡れた瞳、まるで見知らぬ人のようだった。
あんな表情も声も、七年の間一度たりとも男に向けられたことはなかった。
「夢、夢がなきゃいけねぇのかよ! 可愛くなくて悪うござんしたっての」
居酒屋からの帰り道、腹立ちまぎれに道端の石を蹴ろうとして足首をぐきりとひねった。
足を引きずりながらタクシーを拾おうとうろうろするが、その日に限って駅前のロータリーは空っぽで空車も全く通らない。
駅向こうの市民会館で、中高年向けのちょっとしたイベントがあったようだ。
「あー、ついてねぇな」
アパートまでの道のりをため息つきつついつもの倍近くの時間をかけてとぼとぼ歩きやっと帰り着き、着替えもせずにごろんとベッドに横たわる。
いつもは気にならないチカチカとした窓の外の明かりが、まるで自分をあざ笑っているかのように思えて、男はまたふーっとため息を漏らした。
翌日、湿布を貼ってもまだひりひりする足に顔をゆがめながら帰宅しベッドにもたれるように座り込むと、すぐ脇にある水槽の様子がおかしいことに気付いた。
明かりが消えていて、水の上には熱帯魚が腹を上にしてぷかぷかと浮かんでいた。
局地的な豪雨による停電の影響だった。
昨年の夏、花火大会の帰りにふらりと寄った国道沿いのショッピングモールで買った熱帯魚。
「ネオンテトラって言うのよ。きらきら光ってとてもきれいね、この子に会いたくなったらあなたの部屋に遊びに行くわ」
けれど、彼女はもう二度と来ない。
「もーあなたったら、いつまで熱帯魚呼びなのよーそれじゃこの子がかわいそうでしょ。ふふっ、仕方ないわねー、私が今度名前つけてあげるから感謝なさい」
結局、名前を付けられることのなかった熱帯魚も、もういない。
普通の生活、当たり前のこと、そんなことも自分にはままならないのか。
決して、多くを望んだわけでもないのに。
ありふれた地方都市で生まれ育ち、地元の公立大を出て隣町の役場に就職。
漫然とただずっと続くと思われていたありふれたどこにでもある平凡な普通の生活が、さらさらと指先から零れ出してゆくような焦燥感を感じた。
そんな焦燥感が、男を家路へと向かう反対方向、夕暮れの街へと向かわせたのかもしれない。
繁華街とは名ばかりのシャッター街をとぼとぼと通り過ぎひたすら歩き続けると、行き止まりにあるさびれた廃ビルに行きついた。
元は飲食店の集うにぎやかな雑居ビルであったようなのだが、景気の衰退とともにテナントが一つ減り二つ減り、今は肝試しの若者すら寄り付かなくなり荒れ果てている。
男はその中に吸い込まれるようにして、ふらふらと入って行った。
黴臭くところどころコンクリートが欠けた薄暗い階段を力なく踏み続けると、シャリシャリとしたガラスの破片が靴底に当たる。
それを避けることもなくただただのっそりと足を動かし続けて、たどり着いた屋上。
壊れたフェンスに身をゆだねぽっかりと開いた穴から下を覗き込もうとした男の目の隅に、奇妙な光景が飛び込んできた。
それは到底ありえないはずの光景、屋上のど真ん中にポールのひしゃげたテントが張られ、その前にちょこんと何かが座っているのだ。
うす闇の中目をこらすと、その正体はどうやら年端の行かぬ少女のようだ。
この辺では見かけない濃紺のセーラー服姿、くしゃくしゃの髪。少し汚れた頬。
少女はけげんそうな顔で自分を見つめる男には一瞥もくれず、テントからから取り出したカセットコンロに片手なべを置き、尻の下のリュックに入っていたペットボトルからたぷたぷと水を注ぐと即席ラーメンのパックをぴりりと口で開け、慣れた調子でそれを作り始めた。
真夏だというのに、ぐつぐつと湯気の立つ具なしのラーメンをずるずると豪快にすする少女。
汗を掻き掻き一心不乱にすするあまりに素っ気ないその醤油味のラーメンが、どうにも無性にうまそうに見えてきて、男の腹はぐぅぅぎゅるるると派手な音を辺りに響かせた。
その音に反応するように少女はパッと男の方を向き、駅前のスーパーの名の入った袋入りの割りばしをひょいと差し出した。
男はそれを受け取ると、小さな片手なべを二人で囲みずるずると無心にラーメンをすすった。
「ごちそうさま、うまかったよ」
男がぺこりと頭を下げて礼を言うと、少女は何も答えず鍋に残ったラーメンの汁をずずずと飲み欲し首元にだらりと垂れた赤いスカーフでぐいっと口を拭くと、まだあどけない顔に似合わぬ枯れた重低音の声でガハハと豪快に笑いもぞもぞとテントの中へと戻っていった。
「あのぉ……き、君ぃ……」
男が声をかけても、何も返事はない。
ラーメンのお礼というわけでもないが、別れ話の直前にもらい鞄に入りっぱなしになっていた彼女からの誕生日プレゼントのハンカチをテントの前にそっと置いて行った。
少し伸びた素ラーメン、決して御馳走とは言えないようなものだ。
しかしここのところ何を口に入れても砂を噛むようだった男の舌は、久しぶりに確かな味というものを感じることが出来たのだ。
来た道と違い、階段を降りる男の足取りは心なしか力強く、軽やかになっていた。
数週間後、先日までの無気力さが嘘のように張り切ってバリバリ仕事をこなす男の耳に女性職員たちの雑談が入って来た。
「ねぇあの街外れの廃ビル、とうとう取り壊されるらしいのよ」
「あらーあそこぉ、やっと土地の買い手が見つかったのかしら。ずっと放置されていると子供が近づいたりして危ないものねー今にも崩れ落ちそうだし、ちょっと怖かったのよねぇ」
そんな、あの廃ビルが、あそこがなくなったらあの子は一体どうなってしまうんだ!
男はきゅっと胸が締め付けられるような思いになり、いてもたってもいられず昼休みになるやいなや慌てて廃ビルに駆け付けた。
階段を二段飛ばしで一足飛びに駆け上がり、ぜーぜーと肩で息をしながら扉を乱暴にこじ開けて屋上に出たが、そこからあのボロボロのテントは姿を消し人の気配すら一切感じ取ることはできなかった。
空っぽの空間、しかし、そこには少女がここに確かに息づいていた証である置き土産が残されていた。
屋上いっぱいに、真っ赤なペンキで大きなスマイルマークが描かれていたのだ。
そしてその真ん中、口の部分にはあの日共にすすったのと同じ即席ラーメンがひとつぽつんと置かれていた。
「今度は味噌味か」
ラーメンを拾い上げてふと空を見上げると、そこに広がるのは爽やかに晴れ渡った青い空とは程遠いどんよりとした暗い空、ぽつんぽつりと雨だれも落ちてくる。
それを避けるようにきゅっと身をすくめると、どこからか不意に現れた青いとんぼが男の頭上をかすめるようにして通り過ぎ、痩せた体を小さく震わせながら灰色の分厚い雲に突き進むようにして高く高く舞い上がった。
男はとんぼが消えていった空に向かって「わーっ!」と大きな声を上げた。
腹の奥底までも、全ての想いがすっかり空っぽになってしまうくらいに。
そして、天高くまで届くような大きな伸びをして、照れを隠すようにぷっと噴き出しゆっくりと階段を降りた。
裏手にある町民プールから流れ込んできたであろう塩素の匂いがツンと鼻をくすぐったが、そこで遊ぶ子供たちの嬌声はちらりとも聞こえない。
「あぁもう新学期が始まったのか、そろそろ夏も終わりなんだな」
男は独り言ちて、一度も後ろは振り向かずただまっすぐ前を見て一歩一歩先へ先へと歩を進めた。
廃ビルテント少女 くーくー @mimimi0120
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