留守電越しの明るい彼は。

Joi

留守電越しの明るい彼は。

 二重ロック式のドアを開ける度に、和樹くんの『やってる感』という言葉を思い出す。


 去年の夏、台風で薄っぺらいドアが歪んで防犯対策ガバガバになったのを忘れちゃいけない。


 玄関の先にワンルームが広がっている。窓から朝日が射して、椅子やテーブルの影がフローリングに落ちていた。その影を辿っていくと、私の好きな家電の気配を掴むことができる。


 小物入れボックスの上に置かれた内線電話機の1ヶ所がオレンジ色に点滅していた。そのボタンに触れると、ツーという単調な音が部屋に響く。


 『成実、今日もお疲れ。冷蔵庫に作り置き入ってるから、お腹入りそうだったら適当に食ってね。仕事大変そうだけど無理するなよ。大抵はどうにかなるようにできてるから』


 和樹くんは『適当』という言葉を好んで使うし、実際に適当な人だ。


 でも、彼にとって『適当』はネガティブなワードではなく、『適度な当たり』としての準拠らしい。


 冷蔵庫を見ると、タッパーに鶏むね肉の醬油煮が敷き詰められていた。


 和樹くんの得意な作り置きメニューだ。肉を切ってタッパーに詰めて、醤油と砂糖と酒とみりんを入れてレンチンしたら完成する。手抜きだけど、味がお肉に染み込んでいて美味しいから、適当だけど適度な当たりだった。


 もちろん、適度でも何でもない本物の適当もある。ドアの例が典型例だ。


 玄関脇のステンレスキッチンに置かれた紺色のマグカップは、今日も定位置を外さない。和樹くんはコーヒーをなみなみに注ぐから、茶渋も飲み口周辺に付着する。私が重曹を買おうと言っても、彼はいつも陽気に断った。


 『マグカップとしての機能は果たしてるし、誰かに使ってもらうわけでもないから良いんじゃない?マグカップが欠けたら買い直そう』


 屁理屈だけど、正直ベースの意見に裏表はなくて、私はつい「そうだね」と笑ってしまうのだった。適度ではない、本気の適当。内容によっては喜べないけど、だいたい可愛らしいと思える。


 和樹くんの留守電をもう一度再生する。紛れもない合成音声だし、しばらく地声も聞いていないから、留守電越しの明るい彼は私の脳から本物を忘却させる有害性を持っているといっても差し支えない。


 だけど、今の環境で和樹くんの近似値を体感できる媒体は、留守電だけだった。


 和樹くん。私たちって本当に同棲しているのかな。


 さすがに『やってる感』だけじゃ成立しないんじゃないかな。


*****


 和樹くんと会えなくなったのはいつだったか、憶えていない。


 確かなのは、留守電が適当に入ることだけだ。私にとって、その間隔はちょうど良い。そのせいか、今の環境に危機感を抱けずにいる。彼氏と会えていないのに、私も私で呑気だなと呆れてしまう。


 喧嘩したことはなかった。微妙な雰囲気になることを喧嘩と呼ぶのかもしれないけど、私たちは何も言わずに距離を取り、頃合いを見て再会するから正面衝突にならなかった。


 どうして会えないのか考えると、正直分からない。それでも、どんな形であれ存在しているから、私は和樹くんの留守電を聞き続けるし、彼の適当を信じている。


 本気の適当じゃなくて、適度な当たりを。


 洗濯機を回している間に部屋の掃除を済ませ、余った時間でテレビを見ながらコーヒーを淹れてほっと息を吐く。私は元々綺麗好きだから、コーヒーの茶渋も取りたかった。でも、和樹くんの言い分がおかしくて、つい自分のマグカップも茶渋を残してしまっている。


 ふと、今日は生ごみの日だったなと思い出してゴミ箱のビニール袋を取り出す。そのとき、中から違和感のある音がして開けてみた。


 「缶は入れちゃダメって言ったのに」


 昔馴染みのドロップ缶を取り出して溜め息を漏らす。和樹くんの『燃やせばみんな一緒』という言葉を何度聞いただろうか。ドロップ缶はステンレスキッチンに置いておいた。ここなら缶のゴミ出しで忘れない。


 何だか、和樹くんのエピソードを振り返ると、彼の適当が本当にポジティブワードとして適用できたのか怪しく思えてきた。


 洗濯機から洗濯物を出してベランダに干し、ゴミ袋片手に外へ出る。階段を降りてゴミ収集所に放り込んでから、私は進路をアパート沿いの路地に向けた。


 良い機会だから、和樹くんの適当を見極めよう。『やってる感』の濫用が認められれば、いよいよ私だって留守電で対抗してやる。


 片側一車線沿いの歩道を真っ直ぐ進むと、踏切に辿り着く。私が渡っている途中で警報音が鳴り、慌てて反対側へ移った。どうも踏切との相性が良くない。


 何度か、和樹くんと歩いていて踏切に急かされたことがある。その度に彼はからからと笑っていた。


 『毎回、ど真ん中で警報鳴るの何なん?』


 『知らないよ。私だって鳴らしたくて歩いてるわけじゃないもの』


 『頼むから1人で歩いててコケるなよ。もし子供が線路につまづいてピンチだったとしても、真っ先に緊急停止ボタンを目指せ』


 『適当大好き人間にしては冷静過ぎない?』


 『適度な当たりを目指した結果がそれなんだよ。成実のひ弱な腕力で子供担げるの?』


 『……仰るとおりです』


 和樹くんの適当が真に実力を発揮するとき、理屈を兼ね備えているのかもしれない。時短だったり、その人の特性だったり、知識習得だったり、何らかの目的を持っているように感じる。


 踏切を越えると、スギの木が均一に植わった通りが緩やかなカーブを描き、駅周辺のアーケード街へと続いていく。買い物も週末の外食も手近に済ませるならいつもアーケード街だった。


 中間地点辺りで、こげ茶色の喫茶店が見えてくる。和樹くんとフラリと立ち寄るのは、いつもこのお店だった。彼にとっても私にとっても、思い入れのあるお店だ。


 入り口前の看板を覗き込み、お目当てのメニューを探す。それは右下にチョークで書かれていた。


 『とあるカップルのシチュー(再現版)』


 再現版、という言葉に苦笑する。個人経営なのにオリジナルを名乗れないメニューを掲げているお店なんて、探してもなかなか見つからないだろう。


 初めて訪れたのは、私の誕生日祝いだった。和樹くんが1ヶ月前に貸切予約してくれていて、簡単なコースを振る舞ってくれたのだ。


 件のシチューはそのコースのメインとして出してもらった。だが、和樹くんは衝撃の行動に出る。


 『このシチュー、七味唐辛子入れたらもっと美味しくない?』


 店主の制止も聞かず、和樹くんは七味唐辛子を適当に振り、店主に激怒された。でも、七味唐辛子を加えたシチューはなぜか美味しくて、店主も『クソ、美味ぇじゃねぇか』と苦虫を嚙み潰したような顔で認めた。


 ただ、いかんせん七味唐辛子の分量が適当だったことから、「再現版」としてメニュー追加されることとなったのだ。


 顔を上げると、ドア越しに店主と目が合った。隣に和樹くんがいないことを急に意識して、会釈してから慌ててその場から離れる。


 アーケード街を抜けてからも私は至るところに足を運んだ。


 一緒にピノを食べながら将来の話をした線路沿いの公園。「行こう」と言い続けて2年近く経ったのに行ったことのない中華飯店。結局いつも利用してしまうミスド。迷子になった挙句、当てずっぽうで北上した末に到着したラブホテル。


 「適当だなぁ……」


 思わず呟き、笑ってしまう。あの軽さが面白くて、気楽で、少し不安になって、苛ついて、たまに感心して、やっぱり心地良くて。


 どうしようもなく好きなんだから、そろそろ『同棲やってる感』を止めてくれないと本当に困るんだけど。


*****


 部屋に帰ると、内線電話機の留守電ボタンが点滅していた。それに触れると、聞き慣れた機械音と合成音声が流れ出す。


 『成実、いつもお疲れ。ちょっと遅くなりそうだけど、ケーキ買って帰るわ。眠かったら寝てて大丈夫。俺が無理やり起こすから。じゃ、また後で』


 無理やり起こすなんて言うけど、そんなこと一度もしなかったよね。結局ずっと待ってて、私が起きたら「今帰ってきた」なんて適当な嘘吐いて、一緒にケーキ食べる時間作ってくれてたじゃない。私がコーヒーの飲みかけに気づいてないとでも思った?


 本当に適当なんだから。


 ガチャン、とドアノブが大きな音を立てた。びっくりし過ぎた私はその場で動けなくなる。


 果たしてドアの先から現れたのは、和樹くんではなかった。


 大家さんと隣室の今泉さんが、私たちの部屋に向けてライトを照らす。大家さんが靴を脱ぎ、恐る恐るフローリングに踏み入れる。今泉さんは釘を打たれたように玄関から先に進まない。


 「今泉さんの気のせいだと思うよ。見てのとおり、この部屋はがら空き。三枝くん以降、入居者はいないんだ」


 「言われなくたって分かってます。でも、あれから1年ですよ?誰もいない部屋の電話音で引っ越すのも癪だし、大家さんとして対策を考えてほしいだけです」


 「対策と言ってもねえ……。祈るくらいしかないよ」


 「じゃあお祓いしましょう。あの2人のためにも」


 大家さんの視線がステンレスキッチンに向けられる。その横顔はくしゃくしゃで、今にも感情が流れ出しそうだった。


 「……成実ちゃんは勇敢だった。あの日、まさか緊急停止ボタンが故障してたなんて誰も思わなかった。それでも踏切の線路につまづいた子供を助けた。心底悔やまれるのは、仕事帰りの三枝くんが偶然その場にいて、目と鼻の先で彼女を失ったことか」


 「三枝さん、今はどこに」


 「分からない。僕も聞かなかったからね。でも、どうか生きていてほしい。生きてさえいれば、どうにかなるから」


 「彼、いつもそんな感じでしたよね。適当で」


 「小者で不器用で、優しい奴だよ。あれは」


 「……キッチンにドロップ缶置いてあるの不気味ですね。しかもあれ、1年以上前に販売終了してるやつ」


 「三枝くん、飴好きだったよね。よく貰ってたよ。せっかくだし置いておこう。この部屋には必要なんじゃない」


 大家さんと今泉さんのいなくなった部屋は、虚無だった。内線電話機も、茶渋の残ったマグカップも冷蔵庫も洗濯物もテレビもない。ただ、私がいるだけ。


 そっか。私が私のために『やってる感』を作っていただけだったんだ。


 喧嘩したわけでも、同棲の中で合わない部分が生じて別居状態になったわけでもない。ましてや関係がマンネリ化して『やってる感』だけで生活していたわけでもない。


 そもそも最初から終わっていた。私が終わらせてしまったんだ。


 ごめんね。和樹くん。


 もしも私のせいで、適当が使えなくなっていたとしたら。大抵はどうにかなるようにできてるって言えなくなってしまっていたら。


 どうにかなるよって伝えに行かないと。気配どころか触れられないし、声もかけられない。そんな私が、生きている人間に伝えるなんて矛盾してるけど、この部屋で『やってる感』を出しているよりはずっとマシだ。


 もうこの世にいないって分かったばかりなのに、ショックは大きくない。きっと、貴方が適当を教えてくれたからだ。私にとっての適度な当たりを。


 大抵はどうにかなるようにできているんだよね。なら、きっと伝えられるよ。


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留守電越しの明るい彼は。 Joi @BanpRRR038

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