第68話 前夜


 なぁ、こんな噂知っているか?


 そう狩猟頭オーサンが話しかけて来たのは、いよいよ明日に迫った襲撃防衛の決起集会の帰り、解散となって各自散り散りに歩いている時だった。


「夜中にな、小便しに家の外にでると、浮かんでいるらしんだ。紫色の火の玉がゆらゆら〜、っとな。それは決まって森の方へ消えていくらしいぜ?」


 オーサンが、どうだ? とあごを上げて口端を片方上げた。


「いや、『どうだ?』じゃないが。今更火の玉が〜、って言われても怖がるような年齢じゃないし僕。というか、怪談するにしても語り方が下手すぎて、逆にこれでどうやって怖がるの?ってレベル」


ハルトが素直に感想を述べると、「てめ、この野郎、可愛げのねぇガキだな」とオーサンがヘッドロックしてきた。


「ちょ、やめろ、この『オッサン』め! オーサンの『オッサン』! やーい『オッサン』」

「おいこら、『オッサン』を悪口みたいに使うんじゃねぇよ。世のオッサンが悲しむだろが」


 なんとも緊張感のない襲撃前夜である。襲撃の前日であったからか、ハルトも少し悪ノリしていた。

 だから「どうせならその怪談でモリフでも怖がらせよう」なんて提案をしたのかもしれない。


「でもオーサンのセンスのない怪談じゃ、いくらモリフでも怖がってくれないかもね」

「あ? だれのセンスがないって? いいだろう。やってやろうじゃねぇか。モリフのやつがビビったら土下座してもらうからな」

「いいよ? なんならモリフと一緒に全裸で土下座してあげるよ」とハルトはナチュラルにモリフを巻き込んだ。


 教会堂にずかずかと2人、勝手に教会堂に入っていく。食堂まで行くと、オーサンが無遠慮に司祭室にノックした。


「おい、モリフ! ビビらせてやるから出てこいや!」


 そんなんで出てくる人がいるのだろうか、とハルトはオーサンの横暴を眺めていた。一向にモリフが出てくる気配はない。やっぱりな、とハルトが呟いた。

 オーサンが再度、扉に穴が開くのではないかというような乱暴ノックをするが、やっぱり反応はなかった。


「あれ、おかしいな。いつもは苦情を言いにそろそろ扉を開けるのに」と迷惑なだる絡み常連のハルトが言う。

「中で死んでんじゃねぇだろうな」


 ハルトは「まさか」と言いながらも、少し心配になり、扉を引いた。キィと軋みながら、引っ掛かることなく扉が開く。


 


 ——が、そこにモリフはいなかった。



♦︎

 


「へぇ。引きこもりのモリフが外出ねぇ」とマリアがベッドで横になりながら言った。うつ伏せで肘をついて、足をぱたぱたと上下させていた。


 夜、眠る前の夫婦の雑談をマリアは大切にしていた。ハルトの他愛のない話をいつも楽しそうに聞く。マリアは自分が話すよりもハルトの話を聞く方を好んだため、毎度ハルトが話題を捻り出す役割を担っていた。

 が、この日はネタがあったので話題には困らなかった。


「そうなんだよ。食料を貰いにでも行ってたのかな」モリフと言えば惰眠か暴食である。情眠でないとすれば消去法で暴食だと言えた。

 

 それからいくつか、なんてことのない雑談を2、3交してから、寝よっか、とどちらともなく言った。


「照明魔法消すよ」とマリアが言う。

「うん」とハルトが答えると、少しずつ光の玉が縮小していく。


 寝室にはそれぞれ別々のベッドが用意されている。はじめはマリアが「なんで夫婦なのに同じベッドじゃないの!」と猛抗議したが、ハルトはマリアの隣で眠るなんて、絶対無理だと分かっていたため、適当な理由をつけてマリアを説得したのだ。マリアと同じベッドに入るなど、肥大化した緊張と性欲で、睡眠どころではなくなる。

 


 やがて風前の灯だった光の玉は、じんわりと消滅し、真っ暗な夜の闇が部屋に流れてきた。

 


 マリアと「おやすみ」と言い合った後は、静寂だった。

 よく聞けばジーとも、シーとも取れる音がかすかに鳴っているような気もする。


 


 マリアが動いたのか、布が擦れる音が聞こえた。


 

 またしばらくジーっという音に耳を集中させる。


 

 どこかからホーホーというミミズクの声が聞こえてきた。


 ハルトはなんとなく窓を見つめていた。

 横になっているので空が見える角度だが、視界は黒に塗りつぶされているので、どのみち何も見えない。

 それでも何気なく暗闇に目を凝らしてボーッとしていると、一瞬窓のふちが微かに紫色の光を反射した。

 ハルトの脳裏にオーサンの声が蘇る。


 


——浮かんでいるらしんだ。紫色の火の玉が。


 


 ハルトはごくりと唾を飲み込んだ。

 いやいやいや気のせい気のせい、と自分に暗示をかけていると、不意に森から獣の遠吠えのような音が聞こえ、ハルトの体がビクッと跳ねた。

 それから、ふふっ、と忍ぶように笑うマリアの吐息が続けて聞こえた。


 ハルトは警戒するようにまた窓を見つめていたが、もう一度光るようなことはなかった。先の一度きりだ。

 


「マリアさん」とハルトが躊躇いがちに呼ぶと、


 

「ん?」とすぐに返ってきた。そのマリアの声を聞いて、ハルトはほっとした。

 


「そっち行っても良い?」

 


「え…………そっちって……私のベッド?」とマリアが驚いたような声で確認する。


 

 うん、とハルトが答えると「どしたの? オオカミの遠吠えがそんなに怖かった?」とマリアが笑った。


 ハルトは、違うし、と答えようとして、なんとなく恥ずかしくなり、「……やっぱいい」とだけ言った。


 大丈夫。もう光らない。そもそも幽霊なんて非科学的な存在僕は信じない。実態がないなんてありえない。実態がないならどうやって地面に立っているのか。あるいはどうやって地核まで落ちないで地表にとどまっているのか。そもそも重さがないなんて——


 ハルトが延々と幽霊信じる派を脳内論破していると、不意にどさっと柔らかい何かがハルトにかぶさった。そして、ハルトの首に腕を回し、ハルトの顔を胸に抱きかかえる。


「ちょ?! マリアさん!?」


 ふんわりと甘い匂いがする。男の欲望を刺激する危険な香り。その香りはハルトの理性を溶かすには十分な刺激を備えていた。

 ハルトの気も知らないでマリアはハルトの頭を撫でる。


「ふふ、もう大丈夫。怖くないよ?」とマリアが優しい声で囁く。


 もはや幽霊のことなんて、地殻の深くまで吹き飛んでいた。頭の片隅にすらなかった。頭の中はマリアでいっぱいだ。ハルトは自分が抑えきれなかった。


「マリアさん」とまたハルトが呼ぶと、マリアはハルトに顔を向け「まだ怖いの?」と微笑んだ。


 ハルトは這い上がるようにずいッとマリアに顔を寄せ、マリアの唇を咥えるようにキスをした。


 マリアが一瞬目を見張る。

 そのキスがただ触れるだけのキスではなく、もっと熱く湿り気を帯びたものだったから、その先を察したのか、マリアに緊張の色が見えた。

 だが、それも一瞬。全てを受け入れるようにそっと目をつむってハルトのキスに応じた。マリアの色気を含む吐息がハルトの中に流れる。


 その後は、欲望のままにお互いがお互いを熱く求めた。肌が合わさり、温かく柔らかいマリアの肌を直に感じる。

 途中、何度もマリアがハルトの名前を呼んだ。呼ばずにはいられない、というように何度も何度も。存在を確認するように「ハルトくん」と呼んだ。


その夜、2人は優しさを見せつけ合うように、深く繋がった。




 ♦︎



 

 朝、頬に柔らかい感触があった。

 目を開けると、マリアのきめ細かな肌が視界を埋めていた。どうやらマリアに抱き枕のように頭を抱きかかえられているようだった。すうすうとマリアの寝息が聞こえる。


 マリアもハルトも何も身につけておらず、ただ肌の上に掛け布団を被せてあるだけだった。

 赤ちゃんが咥えるところがすぐ目の前にあった。なんとなくマリアが寝ている間に見るのは良くない気がして目をつむる。


(襲撃の前日に、こんなことになるなんて…………まるで死亡フラグじゃないか)


 ハルトは若干不安になり、すぐに離れた方が良いような気もしていたが、体はピクリとも動かない。男は性欲には勝てない生き物である。まぁいいか、とハルトは気にしないことにして、目をつむり、再び最高に幸せな朝に浸った。

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