第61話 帰還
襲撃まで残り5日。
さりとて村には
冷たい空気が肺を洗浄するような平和な午前中、ハルトが農民達と畑の手入れをしていると、唐突に背中から何かがのしかかって来た。
「ただいま! ハルトお兄ちゃん!」と耳元で声がした。女の子特有の柔らかい感触と甘い匂いを背後から感じる。
ハルトは踏ん張りが効かずにそのまま正面に転倒し、畑にダイブする羽目になった。
ナナは13歳で小柄とは言え、刀や防具を装備しているため結構な重量となっている。その分だけハルトは深く畑にめり込んだ。
「お、おい! 領主にベタベタしてんじゃねーよ!」とエドワード少年がナナをハルトから引き剥がし、結果的にハルトは畑で窒息死せずにすんだ。ただエドワードは土で窒息しかけた領主はどうでも良いようで、その視線はナナに向いている。
誰も引き起こしてくれないので仕方なくハルトは自分でのっそりと体を起こした。
「おかえりナナ。皆も。どうだった? 成長した?」ハルトが土まみれの顔で訊ねる。不幸には慣れていた。むしろ慣れすぎて哀れな程だ。
ナナが答える前に狩猟頭オーサンがナナの胸を
「このセクハラオヤジ!」とナナが
ナナとオーサン、それからエドワード少年がギャーギャーとけんかを始めたので、ハルトは仕方なく残った民兵長ラビィに声をかけた。
「ラビィはどうだった?」
ハルトが笑いかけると、ラビィは両腕で視線を遮るように胸を隠した。
「いや胸の成長については聞いてないから。幻魔術習得した?」
「一応……はい」
「そうか。お疲れ様。ゆっくり休んでくれ。村の外れに木工職人が作ってくれたお風呂があるから、使うと良い」
木工職人とは、木工の才を持つ村人ゴンゾーの事だ。木でなんでも作ることから『木工職人』『職人』などと呼ばれている。
ラビィは一瞬目を輝かせて喜ぶが、すぐに胸を抱くように隠して身を
「見ないから! 絶対覗かないから! 一旦思考を胸から離して!?」
ラビィと話していると「いいなぁ! ナナもお風呂入ってみたい!」とナナが野郎どもとのケンカから抜け出して来た。
「どうぞ」とハルトが言うと、「でもなぁ」とナナがもじもじしだした。
「でもなぁ、お風呂なんて初めてだしなぁ、誰か一緒に入って使い方教えてくれないかなぁ、優しい高貴な方いないかな〜」
ナナがちらちらとハルトに視線を送る。
ハルトは『何言ってんだコイツ。自殺志願者か?』と
ハルトが何か言う前に「し、仕方ねーな。俺が教えてやるよ」と少年エドワードがやって来て名乗りをあげた。
「はぁ?! あんただって初めてでしょ! てかあんた高貴でもなんでもないし!」
「あぁ?! そんなこと言ったらあの領主だって高貴じゃねーだろォが!」
「いいの! ハルトお兄ちゃんはいいの!
堪らずハルトが割り込む。
「あの……ケンカしながら僕を
結局、全員一人ずつ風呂に入った。そもそも構造上、1人ずつしか入れないのだから、当然である。
♦︎
マリア達が帰還したのは、その午後だった。
大量の鉄を乗せた台車を引く狩猟班の野郎共はへとへとのようで、心なしか少し顔がやつれて見えた。
フェンテに至っては疲れ果てて台車の鉄鉱石の上で伸びている。寝息が聞こえるから無事ではあるようだ。
元気なのはマリアだけだった。
「ハルトくーん! ただいまぁ!」と満面の笑みをハルトに向ける。
ハルトはドキッとして言葉に詰まる。
芸術品のように美しいマリアが、子供のように無邪気に笑う顔がハルトは好きだった。
心折れかけた時に、微笑むマリアが隣にいるだけで立ち上がることができる。ハルトにとってマリアは太陽のような存在であった。
どぎまぎと頬を染めるハルトを見て、ギリリと奥歯を鳴らすナナ。そしてさらにそのナナの様子を面白くなさそうに見ているエドワード少年。
その星座のような奇妙な関係性を
オーサンが悪い笑みを浮かべる。
「おい領主様方よぉ。夫婦なのに、その出迎え方はねぇーんじゃねーか? ただいまのキスとか、おかえりのハグとか、そういうのを期待してるわけよ。こちらとしてはな?」
「んな?!」とナナがオーサンをキッと睨みつけ、
「そ、そうだ! もっと
マリアは「え……?」と固まる。
——が、ハルトの方は両手を広げて受け入れ体勢を取っていた。『確かにお勤め帰りの妻を迎え入れるには覚悟が不十分だった』と素直に反省した末の行動である。
ハルトが一歩ずつマリアに近付く。
「だ、だめ!」とナナがハルトを止めようとして、オーサンとエドワードが立ち塞がった。
「今いいところなんだ。邪魔すんな」とオーサンが言い、「人の恋路を邪魔するのは良くないぜ」とエドワードがブーメランな発言をする。
ナナが身を低くして一足飛びにオーサンとエドワードの間を抜けようと地を蹴った。オークを倒し続けたことで大幅に『レベルアップ』し、常人では捉えられない速さとなっていた。
しかしながら、オーサンとエドワードには
一息に駆け抜けようとするナナにエドワードの
エドワード少年が羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。恋する相手を引き止めるために膝蹴りを繰り出す彼は、
「俺らを強くしたのはアンタだぜ、ナナ隊長?」とオーサンがおどけて笑う。
ナナは怒りと焦燥で顔を歪めた。
その間もハルトはマリアを抱擁すべく歩み寄る。
だが、肝心のマリアは何故か及び腰だった。いつもはこれでもか、と果敢にハルトにアタックするのに、今の彼女は弱々しく後ずさる。
「待ってハルトくん! 今はダメ! 私汗臭いから! 鉱山では体拭くこともできなかったの! ね、お願い、せめて水浴びさせて?」
しかし、必死のマリアの制止も極度の緊張状態にあるハルトには聞こえていなかった。
(夫婦は抱擁。夫婦は抱擁。夫婦は抱擁。夫婦は——いや、待て。抱擁してからどうする? キス? じゃあそのあとは? 胸に手を——いやバカ違う早まるな。いきなり過ぎる。その間があるはずだ。考えろ。キスとぱい揉みの間の空白の行程を導き出すんだ)
ハルトの思考が高速回転する。しかし、残念なことにその思考はもはや『おかえりのハグ』からはほど遠いところにあった。
S級童貞者のハルトは、あろうことか『行為』をする手筈を確認していたのだ。人前であるにも関わらず。マニアックが過ぎる。もちろんハルトはパニクっているだけで、そういう趣味はない。
ハルトが空白の行程を導き出す前に、マリアの元に辿り着いた。
マリアはマリアで、ハルトを拒否することに
——が、それは判断ミスである。その言葉、一文字たりともハルトの耳に入っていない。
ハルトが勢いよくマリアを抱きしめた。
恐るべき動体視力でどんな魔物の一撃もひらりと
「おかえりマリアさん」とハルトが囁く。
マリアは「ちょ、ハルトくん、待って、ダメ」と涙目で説得を続けるが、いつもより濃いマリアの匂いに思考を溶かされたハルトにはやはり聞こえていなかった。
(なんか……ちょっと酸っぱいけど……良い香り……)
光に吸い寄せられる虫のように、無意識にハルトがマリアの首筋に顔を埋めて、深呼吸するように深く匂いを嗅いだ。
マリアの羞恥の限界が訪れたのは、その時だ。
「だ、だ、ダメぇぇぇえええええ!」
マリアはハルトの体を軽く押して離した——つもりだった。しかし、極度の羞恥心で力が入り過ぎ、ハルトは30メートルほど弧を描いて吹き飛び、槍投げの槍のようにビィイン、と畑に頭から突き刺さった。
「あーあ……俺知らね」とオーサンが責任を放り投げ、
「…………この領主やばい」とエドワードが戦慄し、
「ハルトお兄ちゃァァん!」とナナがハルトを引っこ抜きに駆け出した。
何はともあれ。
村の戦力は帰還し、後は襲撃に向け、備えるだけとなった。
ちなみにハルトは生きていたが、この後1時間、ヒーラーのキアリに回復魔法をかけてもらうはめになった。
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