第20話 辞めちゃったの?!
ダゲハ課長が空の
酒樽の内側についていた水滴がフェンテの顔に飛んでくる。フェンテはそれを拭うのもためらわれる程、
「どういうことだ!」とダゲハが誰にともなく怒鳴りつける。「何故、鑑定できていない!」
ダゲハが言っているのは、ハルトの机に山積みにされた鑑定待ちの品々だった。前に山積みになっていたものは、ハルトが死に物狂いで処理を完了させているのをフェンテは見ている。今、積まれているのはハルトが退職してから新たに出来た山だ。
「ハ、ハルト先輩が退職したので——」
鑑定できる者がいません、とフェンテが言おうとして、ダゲハが次の空樽を蹴りつけ、樽はただの木板と鉄金具に姿を変えた。フェンテは「ひっ」と小さく悲鳴を漏らす。
「ならば、従来通り鑑定士に依頼すれば良いと、そう思わないか?」とダゲハがフェンテに肩を組むように迫った。ダゲハをセクハラを訴える勇気はフェンテには湧いてこなかった。黙って、目線だけダゲハから逸らす。
「いえ、それが……」
フェンテが現状を説明した。鑑定士ギルドが、冒険者ギルドに反発している、と。
これまで冒険者ギルドは鑑定士ギルドに鑑定依頼を出し、冒険者の持ち帰る魔物の素材や鉱石を鑑定してもらっていた。そこに競争の原理は働かず、鑑定士ギルドが市場を
だが、ハルトが鑑定士の資格を取得してからは、鑑定士ギルドに依頼は出さず、尚且つ冒険者に支払われる買取り金額からの鑑定料天引きも続けていた。つまり、冒険者ギルドは高額な鑑定料の全てをポケットに納め、甘い汁を吸い続けていたのだ。
その結果、依頼が来なくなった鑑定士ギルドがへそを曲げた。冒険者ギルド以外にも顧客がいる鑑定士ギルドは特に経営が傾くほどのことはないが、冒険者ギルドにそっぽを向かれたのが面白くなかったのだろう。
今や、冒険者ギルドの鑑定依頼は、鑑定士ギルドは請け負ってくれず、都市の鑑定士のほとんどが鑑定士ギルドの所属であるため、冒険者ギルドの鑑定依頼を受けてくれる者が誰もいなくなった。
ダゲハは大きく舌打ちをしてから「ハルトの野郎」と怒りをあらわに、拳を震わせたが、次に壊す空樽がなかったために、その拳は振り下ろされなかった。
そもそも鑑定士ギルドを通さずにハルトに鑑定させるよう指示したのは受付課長ダゲハであったが、フェンテがそれを指摘すれば、ダゲハの拳がこちらに振るわれることになりそうだったため、黙って嵐が去るのを待つしかなかった。
ようやく密着状態から解放されたフェンテは胸をなでおろす思いだったが、安心したのも束の間。すぐにダゲハが「フェンテ」と呼んだ。
「お前、ハルトとは仲が良かったよな」
「いえ、仲が良いという程では……」とフェンテが首を傾げてごまかすように告げるが、ダゲハは聞き流して続ける。
「ハルトをギルドに連れてこい。退職したのも昨日だ。まだ都市を出ていないはずだろ」
「つ、連れて来てどうするんですか?」
ハルトの身を心配する程には、彼との接点は多かった。同じ課で、仕事を丁寧に教えてくれたのもハルトだし、冒険者のセクハラから守ってくれたのもハルトだ。恩はあった。
「決まってる」とダゲハが笑う。「脅して鎖で繋ぎとめておくんだよ。うちのお抱え鑑定士としてなぁ」
ダゲハの笑みが酷く汚いもののように感じられた。
フェンテが返事をしないことに、不満を抱いたのかダゲハは「それともお前が繋がれるか?」と欲望のこもった粘度の高い視線をフェンテの胸から腰にかけて送る。
「ひっ」と声が漏れ、全身が
「それが嫌なら、精々役目を果たすこったな。女ではなく、ギルド職員としての役目を、な」とまたダゲハがいやらしい目をして言った。
ダゲハが「行け」と言うとフェンテは拘束が解かれたかのように体が動いた。そして逃げるように、ダゲハのもとを去った。
♦︎
「ねえ、ハルルン辞めちゃったってホント?」
今日何度目になるか分からない問い合わせに、フェンテは「そうですよ〜」と
ダゲハのせいで仕事に対するモチベーションは皆無だった。目の前の相手がD級冒険者の女であり、上客ではないのも気だるい理由の一つだ。
「あ〜ん、あたしハルルン気に入ってたのにィ」と女が嘆く。
「残念ですよねぇ。して、討伐証明は?」
フェンテがさっさと手続きを終わらせようと促すが、女はカウンターに頬杖をついて長期戦の構えをとっていた。
フェンテが分かりやすくため息で抗議するが、女は構わず語り出す。
「ハルルンはさぁ、あたしがF級の時から特訓に付き合ってくれててさぁ」
そんなことをしていたのか、あのお人好し先輩。F級みんなにそんなことをしていたのではないだろうな、と自問して、いやあり得る、と自答する。あのお人好しがやりそうなことだった。
F級冒険者がどれだけいると思っているのか。大抵のF級、E級はダンジョンや遠征で死ぬか、才能のなさに頓挫するかである。その内の一部がD級に上がり、ほとんどの場合D級のまま終わる。C級以上の冒険者は才能のある一握りだけが到達できる領域なのだ。冒険者は級が上がるにつれて人数が減っていくピラミッド型の構造と言えた。現役のS級はマリアを含めてたった3人しかいない。いやマリアは引退するので現役S級は2人だけだ。
だが、F級ともなれば、その数は何十、何百といる。それら一人一人に戦闘の手ほどきをしていたとしたら狂気の沙汰である。
少しでも駆け出し冒険者の死亡率を下げたい、と前にハルトが漏らしていたのを思い出した。
「何度ハルルンをパーティに誘ったか分からないくらいだったのに……」と女が眉尻を下げる。
「そうですかぁ。なら、早く討伐証明出して、ハルト先輩を探しに行ってはいかがです?」とフェンテがさりげなく提出を促すが、女の耳には入っていないのか、それについての返答はない。
「てか、ぶっちゃけ狙ってた! 恋してた! 愛してた! いつ告ろうかタイミングみてたんだけどなぁ!」
女が「きゃぁー」と頬を染めてカウンターをバンバン叩きだす。勝手に恋バナを開始したようである。
フェンテも笑顔を張り付けたまま、カウンターに拳を強く叩きつけた。バァン! と衝撃音が跳ねる。
「いいからとっとと討伐証明だせ」
女は舌打ちして、ハイゴブリンの耳を差し出した。
♦︎
「えぇー?! ハルトニオン辞めちゃったの?!」と訳の分からないあだ名を挙げて驚いたのはC級に上がったばかりの男である。
「なんでだよ! 俺のこれからの活躍を応援してくれるって言ってたのによォ! あれは嘘だったのかよハルトニオン!」と天を
男の視線の先には回転式の木製換気扇がくるくる平和に回っていた。あの木のプロペラをハルトニオンにでも見立てているのかしら。
「あの、まだハルト先輩は生きていますよ」と一応ツッコんでから、「それで、納品予定のヤマキュウビダケは?」と催促も忘れない。
「C級の昇格試験の時も、合格祝いだって一緒に飲んでよォ。いい奴だったんだよハルトニオンは」
「だから死んでませんって、ハルトニオン」
なんで冒険者ってみんな人の話を聞かないのだろうか。この男といい、さっきの女といい、フェンテの言葉は右から左で、自分の主張——というか恋バナとか、葬式みたいな思い出話とかばかり押し付けてくる。
「で、ハルトニオンは今どこにいんだよ」と男が尋ねてきた。
「知りません。私が知りたいくらいです」とつい本音が漏れる。男はフェンテのこの零れたボヤキだけをピンポイントで耳ざとく拾い、「よし。その依頼、引き受けた」と口角を上げた。
は? 依頼? と疑問に思ったのも一瞬で、すぐに「いや依頼してませんし!」と慌てて断ったが、一度火のついた男には、もうフェンテの言葉など聞こえてはいない。
「ハルトニオンの居場所を突き止めて、必ずやギルドに報告すると約束しよう」と勝手に男が依頼内容を宣言した。報酬の話には触れない。多分あえて、である。後で『なんだ、冒険者ギルドは依頼達成した冒険者にイチャモンつけて報酬をケチるのか?』とゆするつもりだろう。
フェンテがまた断ろうとしたところ、横から先ほどの女が現れて「乗った! あたしらのパーティもやるよ。告白もしないで失恋なんて、ごめんだしね」と不敵に笑う。
いや『乗った!』じゃねーから! とフェンテが口を開きかけると、またも別の冒険者から「なら俺も」「私も」「いっちょやったるか」「祭りじゃ祭りじゃァァアア!」と次々と声が上がった。
(いったい何なの?! てかなんで皆ハルト先輩と知り合いなのよ! ハルト先輩、ただの
フェンテの動揺を余所に冒険者集団は盛り上がる。
「早速情報収集だ」
「俺酒場行くわ」
「あたしらは商館」
「ならワシは娼館を」「うわ、キモ、サイテー」「痛っ、ちょ痛ァ! ロッドで叩くな!」
ワイワイと楽しそうに冒険者たちはギルドを出て行った。
さっきまで賑わっていた冒険者ギルド受付前は、今や閑古鳥が鳴いている。
最後まで話を聞いてもらえなかったフェンテは一人ポツンと残された。フェンテが思い出したように呟く。
「ヤマキュウビダケは……?」
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