第12話 レベルアップ

 

 一瞬にして視界が変わった。



(チクショウ、あの野郎!)



 沸き上がる怒りは、転移の影響と思われる眩暈めまいと吐き気で塗りつぶされた。

 しかし、それにしている場合ではない。ハルトは即座に抜剣して、素早く左右前後を見回す。



(敵影はなし、か)



 そこは見たこともない場所だった。どぎついピンク色のむき出しの肉——のようなものであって本当に肉かは不明だが——で覆われた目測20メートル四方の部屋にハルトはいた。

 壁や天井、床には血管らしき盛り上がったとつがあったり、ビクンビクンと痙攣けいれんしていたり、と気味が悪い。



(この壁…………まるで生きているようだ)



 まず剣を肉床に刺してみた。

 反応はない。それは壁でも同じことだった。周りに魔物がいないことを確認してハルトは納剣する。吐き気や眩暈は既におさまっていた。

 ルイワーツへの怒りはひとまず置いておき、生き延びるための悪あがきをしよう、とハルトは心に決めた。その上で生還し、あの野郎をぶん殴るのだ、と。



(不死王の大墳墓に来る前にあらかた各階層の特徴は予習してきたけど、冒険者の報告記録にはこんなエリアは書かれていなかった。つまり、未踏の階層である可能性が高い)



 自分の呼吸が早いことに気が付く。胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸をするが、一向に収まらない。耳の奥でどくどくと鼓動する音が大きく聞こえていた。

 体中が『ここは危険だ』と警告しているかのようだった。






 ふと部屋に宝箱が置いてあることに気が付く。

 宝箱自体は別に珍しいことではなかった。どういう風に宝箱が出現し、空の宝箱が回収されるのか。それは分からないが、ダンジョン内には宝箱が複数設置されており、不定期に中身が補充され、さらに設置場所も変わる。

 ダンジョン内に人間を呼び込むためのシステムだと偉い学者が言っていた気がする。


 普段宝箱を目にすれば、考えるよりも早く手が動き、我先にとソレを開けるのだが、今は状況が状況だ。開くことがためらわれた。


 だが、宝箱を前にして開かない、という選択をする者が果たしてこの世にいるのだろうか。ハルトも例にもれず、おそるおそる宝箱を開く。この窮地きゅうちを乗り越えられる品物であることを祈って。



(——って、なんだこれ? 葉っぱ? いや、苗木?)



 葉のついた小さな植物を拾い上げる。緑色の何の変哲もない植物に見える。手に持ったソレにハルトは『サーチ』を使った。



(天界樹の苗木、か。どうやら回復系のアイテムっぽいな)



 回復することは分かるが、何がどの程度回復するのかは分からなかった。そもそも、どの程度回復するか、など曖昧なものは使って見なければ分からなくて当然と言えた。仮に『HPが100回復します』とか言われても『じゃあ100ってどのくらい?』と結局ピンと来ない結果に終わる。


 ハルトは天界樹の葉をバッグにしまった。



 宝箱に集中していたからか、ハルトはそれに気が付かなかった。

 部屋にある2つの出入口の片方に、いつの間にかボウリング玉程度の大きさのサルが立っているのが見えた。

 ハルトは慌てて剣に手をかけるが、サルが動かないことに気付き、抜剣はしなかった。

 ふさふさのボウリング玉に細長い手足が生えたような様相をしている。

 サルは突っ立って、ジッとハルトの方を見つめていた。その瞳はつぶらで、邪気などまるでないように見える。



 ハルトはこのサルに救いを求めた。

 サルに戦闘の意思はないように感じたからだ。

 もし仮にここが未踏階層だとすれば、もはやハルトの戦闘能力でどうにかなるレベルの敵ではない。だが、そんな過酷な環境に生きているこの生物の助けを得られれば、どうにか上層に戻れるのではないか。

 そう期待してのことだった。



 サルが、よちよちとたどたどしく、こちらに歩み寄って来る。



「大丈夫だよ。僕は敵じゃないよ」とハルトは手を差し伸べた。






















 ——が、これが間違いだったのだ。



 次の瞬間にはサルはだらんとぶら下げていた腕を、いつの間にか顔の前でクロスさせていた。

 ハルトにはその動きが全く見えなかった。気付いた時には、サルの腕は上がっており、鋭い爪が伸びて、そこから血が滴っていた。



 一瞬遅れて、あつっ、とハルトは差し伸べていた腕を引いた。



 引いて気が付く。


















 その腕には手首から先がなかった。


「あ゛あ゛ァァああああああああああ」と腕を押さえて、ハルトは尻もちをついた。



 辺りに腕から噴き出た血がまき散らされていく。

 錯乱するハルトの頭上から、切り飛ばされた自分の手首が降って来た。手首が床に跳ねて、不規則に転がる。その音は『ぼとっ』とも『べちゃ』とも聞こえた。

 自分から離れた手首は、もはや自分の一部という認識は消え去り、ただの物にしか見えなかった。




 殺される、その恐怖が幸いなことに腕の痛覚を麻痺させていた。

 ハルトは無事な方の手でショルダーバッグから煙玉を取り出し、床に叩きつける。もくもくと広がる煙は、サルの動きを一瞬止めることはできても完全に撒くことはできない。

 サルが驚いている隙にハルトは2つある出入口の内の1つに走って逃げた。

 サルもそれを察知して追いかけてくる。



「きゃははははっはははは、行ったったァァアア、きゃはっははは」と人間の幼児のような声で奇声を上げてサルが迫る。


「うわぁあああ! 来るな! 来るなァ!」ハルトが片手で剣を振り回して牽制けんせいしながら、右へ左へ宛てもなく通路を曲がる。



 サルはつぶらな瞳をくるくる回して常にハルトを捕捉していた。いつでも追いつけるのに、敢えてギリギリの距離をあけて追跡し、ハルトとの鬼ごっこを楽しんでいるようにも思えた。





 やがて開けた場所に出る。

 先ほどより少し広い広場。例によって四方八方を肉壁に囲まれている。出入口は入って来た所を除けば1つ。逃げるとすればそこしかない。


 しかし、ハルトはもはや体力の限界だった。荒い呼吸で喉はかすれ、口内は血の味がした。

 足が重い。手足に力が入らない。血が足りていないようだった。切断された右手首は十分な止血も出来ずに未だ血は止まらない。





 だから、ハルトがそこで転んだのはある意味では必然であり、同時に幸運でもあった。






 転ぶ前の最後の1歩。ハルトが踏みしめた肉床には魔呪印まじゅいんが淡く光っていた。





 その1歩を最後にハルトは床に伏せる。膝がガクンと折れて、一瞬のうちに崩れた。

 倒れたハルトにサルが飛び掛かる。

 その目は玩具おもちゃで遊ぶ子供のような純粋な目であった。

 玩具はハルトである。虐殺という名の遊び。



 ハルトは死を覚悟した。



 それとほぼ同時だった。サルが真横から飛来ひらいした何かによって、飛来物ひらいぶつに合わせてスライドするかのように吹き飛ぶ。


 何が起こったのか、全く分からなかった。

 一瞬にしてサルがハルトの視界からフェードアウトしたのだ。吹き飛んだ方に目を向けると、ハルトの剣程の太さの矢がボウリング玉のようなサルの胴体に突き刺さり、貫通していた。そのまま壁に突き刺さり、肉壁にはりつけ状態となっている。

 サルはまだ動いているが、虫の息だった。弱弱しい動きで矢を抜こうとしている姿には同情すら覚えた。




 ハルトが自分の足元を見る。そこでようやく状況を理解した。



(矢のトラップを踏んだのか)



 ハルトが起動したトラップを、ハルトは意図せず回避し、運悪く飛び込んできたサルに突き刺さった、ということのようだ。





 ハルトが床に伏せったまま、息を整えていると、唐突にハルトの中に何かが流入して力が満ちていくような感覚があった。

 これまでにも何度か経験したことのある感覚。サルに目を向けると虫の息だったサルがついに息絶えたようだった。


 魔物を殺すと、その生命エネルギーを吸収して強くなるらしい。神の祝福という者もいれば、魔物という存在に近づいているという者もいる。


 前世の記憶を取り戻したハルトは『要はレベルアップだよな』と解釈していた。

 今までにも何度かハルトは『レベルアップ』をしていたが、今回のそれはこれまでのとは比較にならない程の振り幅の大きい能力上昇を感じる。

 それは単純な腕力や敏捷性だけに留まらない。ハルトの特殊能力『サーチ』も大きく成長した、とハルトには分かった。



(腕は…………治らないか)



『レベルアップ』が起こったとしても失った体力や部位欠損が戻るわけではない。



(とにかく止血しなきゃ)



 ハルトはバッグから止血セットを出そうとして、ふと思い出し、腕を止めた。それから、止血セットではなく、先ほど手に入れた苗木を取り出した。茎から葉を毟って口に放り込む。

 噛みにくい厚みのある葉は、信じられないくらい苦くまずかった。何度も吐き出しそうになりながら、それでも生きるためにハルトは涙を流して咀嚼そしゃくする。全て嚥下えんげしてから吐き出さないように口を手のひらで抑えた。


 身体の変化はすぐに起きた。

 まず切断された手首の断面がチリチリと針で突かれているかのように痛んだ。そして、それはやがてむずむずとしたかゆみに変わる。


あつっ」と声が漏れた。切断された時と似たようなねつを感じたと思ったら、いつの間にかハルトの右手は復元されていた。



「おいおい……まじかよ」



 右手をぐーぱーと繰り返してみる。何ら異常はない。元通りの右手だ。ほくろの位置まで以前のとおりだった。

 部位欠損まで直す回復薬など聞いたことがなかった。

 一瞬、もしかしたら恐ろしく貴重な物を使ってしまったのではないか、という思いに駆られる。


 だが、そんなことを言っていられる場合でもない。右手を欠損したままでの生存率は絶望的だった。もっともそれは右手が治ったとしても大して変わらないかもしれないが。



 絶望的な状況を打破すべく、ハルトは深呼吸をしてから、ゆっくりと立ち上がった。






————————————

【あとがき】

 ここまで読んで頂きありがとうございます!

 明日から朝7時前後と昼の12時過ぎの2回更新していきます。

 引き続き応援して頂けると嬉しいです。

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