第九話
出陣から一日半。
竹林から、微かに揺れる人影が見えてきた。明治の世には相応しくない、侍の姿がそこにはあった。
「月太郎だ! 月太郎が帰ってきた!」
村人達は月太郎のもとへ駆け寄った。月太郎は酷く疲れていたようだったが、皆の祝福を受けて幸せそうに笑った。
光子は、揉みくちゃにされていた月太郎の手を引っ張ると、早々に家まで連れ帰った。村人達からは、お似合いの夫婦だと囃し立てられた。
家に戻ると、月太郎は仰向けに倒れ込んだ。
「おかえりなさい。妖怪退治の演技も大変だね。でも、何であんなに時間がかかったの? 相当疲れているみたいだけど、大丈夫⋯⋯?」
「いやぁ、ちょっと、道に迷ってしまって。焦ったよ本当に。食べ物も持っていかなかったから⋯⋯」
そう言うと月太郎は、おぼつかない足取りで蔵へと向かった。程なくして居間に戻ると、そのまま寝入ってしまった。
──何かがおかしい。
光子は、違和感を覚えた。否、違和感というよりは、既視感。それも、そう遠くない過去。
月太郎の目には、影がある。それはたった一度でも人を斬った者にしか宿らない、底の無い闇の影。その影は決して消える事はないが、光子との暮らしの中でそれは薄れつつあった。
ところが今日、月太郎は京都から帰還したあの日と同じ影を纏った目をしていた。
光子は蔵に入り、先程月太郎が仕舞った刀を手にした。同時に、気配を感じた。先程床についた筈の月太郎が、虚ろな目で光子を見ていた。
「光子⋯⋯」
「月太郎。答えて」
光子は、刀を抜いた。
刀は、赤く染まっていた。
「妖怪退治は、私達の狂言だったんだよね?」
光子は月太郎の影を覗き込んだ。
「だから、この血はきっと、何かの間違いなんだよね?」
月太郎は、その問いに答えようとしなかった。
光子は月太郎の気質をよく理解している。月太郎は、嘘がつけぬ男なのだと。妖怪退治は狂言で、刀の血はひかりを守る為の自演であるなら、そう言えばいい。でも月太郎は言わない。ただ項垂れているだけだった。
「月太郎、どうして⋯⋯?」
あの日、月太郎が京都から帰ってきた日。
腰の刀には、血がこびり付いていた。普通、刀で人を斬ったら血を拭き取るものだ。だがあの日、月太郎は最後に人を斬ってから、そのまま刀を鞘に収めていた。
月太郎は言った。「これからの時代、人を斬り殺す刀は不要。その血でそのままこの刀が錆びればいい。もう二度と使えぬ様、そしてその血を、一生忘れぬ様に」と。
「血が怖い癖に」と言って、光子は月太郎から刀を強引に引き取り、血を拭き取った。月太郎の言い分も、分からなくはない。だが、光子は月太郎に、前を向いて欲しかった。人を殺めた事実に、必要以上に苦しめられる必要はない。世を想うそれぞれの正義が、互いに死を覚悟して戦った。その正義の為に、侍として戦地で剣を振るった月太郎には、新時代を力強く生きて欲しいと光子は考えていた。
だが、今は違う。
罪の無い者を、死ぬ覚悟の無い者を、月太郎は斬ったのだ。それも、か弱き者。それが人ならざる者だったとしても、許されるはずが無い。
「ひかりちゃんは、洞窟に居た筈でしょう。こんなに時間がかかったのは、竹林を超えてあそこまで行ったから? あの洞窟で、ひかりちゃんを、斬ったから?」
光子の問いに、月太郎は答えない。嘘がつけない男の沈黙を、光子は肯定と受け取る他なかった。
「月太郎。私はね、“腰抜け月太郎”が好きなんだ。人を斬る事が怖くて泣いてしまう、そんな臆病者で、誰よりも優しいあんたが好きなんだ。それなのに、どうして⋯⋯。ひかりちゃんは、あの洞窟に居ればよかったんだよね? あそこに居れば、誰にも見つからなくて、それで安心だったんだよね? どうして、あの子を斬らなければいけなかったの?」
月太郎は、答えない。
光子は、それ以上言葉を発する事が出来なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます