第16話
気にかかることがあるとすれば、傘の用意と靴が濡れてしまうことくらいがこれまでだった。警報級の雨なら「ルカ」に長手袋をはめてやることもあったが、完全防水を謳っているとはいえ長く同じものを使いたい人はそんな具合に丁寧に扱い、すでに使い古している人は漏水による故障や、隙間から沁み込んだ水の腐敗でカビが増殖して引き起こされる感染症の危険を避けるためだ、今のピージーにまず浮かんだのは森の奥、あの開けた場所に置いてきたスケッチのことだった。
もう見つけてもらえたろうか。
すぐさままさか、と過るのは、たった二、三日で見つけてもらえるようであれば置きに向かったあの日、出くわしていてもおかしくないと思えたからだ。つまり誰の目に触れることもなく野ざらしのまま雨に打たれてスケッチは、あられもないことになってゆくだろう。思い及ばなかったのは、思い付きにすっかり浮かれてしまったせいだ。
これはまずい。
もしそんなものを雨合羽の何者かが見つけてしまいでもすれば、果たしてどう思うだろうか。感謝の気持ちがつたわるどころか、ゴミを捨てて行ったと思われてもおかしくなかった。
まるきり逆効果じゃないか。
雨が降る前に回収しないと。
ピージーは頭の中で手を振り上げる。授業が終わってからだ。もう入ることはないと思っていた森へと一目散で向かっていた。
近づいてくるのが夕刻だけでなく悪天候もなら、森は吸い込んだ湿気にどんより重みを増して目の前に広がっている。そもそもスケッチするのため森へ入っていたのだから天候の怪しい日に足を踏み入れたことはなく、様子はまるで知らぬ場所のようでもあった。
振り払って飛び込む。
ちかごろ森に入っていないせいで、手入れができていない。消えそうなものへは上から書き加えてきた木の目印は薄くぼやけたものも多く、天候のせいで慣れたはずの森も他人顔を向けていたなら迷わないよう、急ぐ気持ちを抑えてピージーは目印のひとつひとつを丁寧になぞりながら川まで進んだ。
降りた岸に、もうきららと来た時の面影はない。見つめるピージーの心がそう見せているのか、変わりゆく季節が本当に変えてしまったのか、今日こそ足を滑らせては冗談にもならないと並ぶ石を慎重に選んで川を渡る。対岸へと這い上がり改め辺りを見回した。なら不思議なことに記憶はそこから先の方が鮮明で、覚えて日の浅い目印の木から木へ、確かと足を繰り出してゆく。カタチに覚えのある若木の脇をかすめ、このあいだ来た時は黄色い花をつけていた下草を片側にさらに奥へと進んだ。ここまでくればあと一息で倒木のあった場所だ。記憶を頼りに距離を測り、ますます押し寄せる雲が足元を薄暗く変えて行く森の中を歩いた。
果てに見えてきたのは、とってつけたように開けた場所だ。
あった。
呟きは心の中に漏れる。
ここへ来るのは三度目だが光景は写真かと細部に至るまでがピージーの記憶に残されており、違わず倒木も手前に折重なるとピージーの腰の高さまで積み上がっていた。とんでもない突風にでも飛ばされていないかぎり、回り込んだ向こう側に立てかけてたスケッチブックはあるはずだった。
目指してチラチラと目をやるのは、雨合羽の何者かがめくり上げて出て来た地面で、もしかするとまた不意に動いて顔をのぞかせるのではないか。緊張を張り詰める。
そうして何度も視線を行き来させているうちに、近づく倒木に見えてきたものはあった。最初、落ち葉が張り付いているのかしらんと思っていたが、やがてそうではない、と気づかされる。
とたん弾かれたように駆け出していた。
もうめくれ上がった土の場所のことなど忘れて手を伸ばす。
スケッチブックだ。
それは場所を違えて立てかけられていた。
それだけじゃない。
そこには覚えのないものが描かれている。
ピージーが描いた握手のページをめくった次の画用紙には、同じ構図のスケッチが、生身の手と「ルカ」の位置を反転させて描かれていた。
だとして証拠などどこにもない。
だが目にしたとたんピージーは確信する。
雨合羽の彼だ。
彼が描いたものだとすぐにも分かった。なぜなら全ての色を使って描いたピージーのスケッチに対して黒のみの、光り具合から間違いなく鉛筆だけを使ったそれはしかしながらあらゆる色を使ったかのように鮮やかで、黒の濃淡が柔らかさと温かみを生身の手に、余白が反射する光の瑞々しさを「ルカ」に与えていた。そしてなにより握り合った二つの手はピージーのそれより食い込まんばかりに力強い。見ているだけであの日の緊張が蘇るなどと、ピージーか彼、体験したものでなければ知り得ぬ臨場感にあふれていた。
やあ、あの時は危なかったね。
声が聞えたような気がして、ピージーは咄嗟にスケッチブックから顔を上げる。
もしかすると今しがたこれを置いた彼は背中の箱から粒を撒いて、まだ近くにいるのではと辺りを見回し探した。近づく雨にさわさわ、と風が森を撫でるばかりだったなら、そっとスケッチブックを閉じてゆく。
本当に。
静かに返して思うのは、こうしてスケッチブックが回収できたことへの安心だけではない。返事が来るなどと想像だにしていなかった。一方的だったはずの感謝の気持ちが伝わった以上、話しかけられたも同然になるなどと、動揺は隠せなくなる。抱えたスケッチブックを腹に笑った。踊り出したい気持ちを踊れない自身のせいで持て余してただ足踏みする。じっとなどしておれないのだからクラバチルへと駆け出していた。
鼻歌交じりで渡る川に警戒心など欠片もない。だが落ちる心配こそ毛頭もなく、曇り空のことも忘れて森を飛び出し境界路地を駆け抜けた。
忘れなければならない出来事だったが、秘密はもう一人のものではなく、二人なら抱えたままでも黙っておける心強さがあった。
そしてなによりとんでもなく上手い。彼のモノクロスケッチは短時間で仕上げたはずも、思わせない精緻さと今にも動き出しそうな生々しさが圧倒的だった。いったい何をどうすれば、こんな具合に描けるのか。歴代の巨匠だろうとピージーは、こんなものを見たことがない。それほどのものが自身のスケッチブックに納められているなどと、それこそ黙っておれそうにないほどだった。
マルウが夕飯に忙しくしている間、自分の部屋でそっとスケッチブックを開いてみる。返されたスケッチを穴が開くほどピージーは眺めた。向かって今にも握る手を解いて伸びてきそうなスケッチは雄弁だ。
その夜、予報通り雨が降り出していた。雨音にも眠れずピージーは、マルウも寝静まった深夜、起き上がってまたスケッチブックを開く。じっくり彼のデッサンを眺したその後で、椅子の背に引っ掛けていたカバンへと手を伸ばした。
彼と同じに鉛筆で描いてみようか。
思案し、それでは自分らしくない、と取り下げる。
ちびた色鉛筆をゆっくり削りなおしてから、ピージーはスケッチブックの新しいページをめくっていった。生半可な気持ちではつとまりそうにないのだから、雨が詰まった夜の重みが丁度いい。
打たれながら集中し、モチーフが問題なんじゃないと見極める。
だから単純なほどいいだろう。
深夜二時、ピージーは彼へと返事の色を重ねていった。
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