第15話
誰だろうとお断りだったが、中でもキララにはとうてい見せられない。頭の回転の速さで何を言い出すやら恐ろしすぎた。やっと制限解除の許可が下り、保安局という心配事からも解放されたばかりだというのに、それだけは御免だった。
持ち帰った教科書をクラバチルの自分の部屋で再び開く。ラクガキが鉛筆描きだったことには胸をなでおろすしかないだろう。消しておこうとピージーは消しゴムを取り出す。ラクガキへ押し付けた。
だがどうにも思い切れない。
雨合羽の何者かとしばし睨み合う。
やがて消しゴムを浮き上がらせていた。
そう、制限解除の許可が下りたせいなのだ。去った不安に許しを得てぼんやり鉛筆を走らせたように、あの日、目にしたものは何だったのか、今や疑問と興味はピージーの頭の中へここぞとばかり吹き出していた。ラクガキはそんな疑問と興味が頭から溢れ出したものに等しく、消すことは埋め尽くす頭の中の疑問に興味こそ削り取れと言わしめているようでピージーは戸惑った。
握りしめていた消しゴムを机へ転がす。
なにしろ初めて死ぬかもしれないと思ったのだ。いきさつも状況も、他にもいくらだってある都合の悪い出来事とは違っていた。しかも助けてくれたのは恐ろしいと思い込んでいた雨合羽の何者かで、感謝の気持ちこそなかったことにするなど薄情者としか思えない。
そういえばあの時、ちゃんとお礼は言っただろうか。
すっかり動転していた前後をいまさらのように振り返る。独り言と呟いただけだったなら、なおさらちゃんとお礼を伝えておかなければと思えていた。
雨合羽の何者かは来てはいけない場所だ、とピージーを諭している。確かにいずれ忘れなければならない場所に出来事なのだとしても、せめてきっちりお礼を伝えておきたかった。できたなら躊躇なくラクガキも消せそうで、言われた通りと気持ちよく忘れることもできそうだった。
上の空で描いていたラクガキは所々が曖昧ときている。明らかに間違え書きこまれた箇所が幾つか目についた。たとえば背負われた箱から伸びるホースは向かって左についていたはずも、手癖で右に描いている。訂正のためなら消すことはでき、描き直しながらピージーは、どうすればお礼を伝えることができるだろうかと考えた。同じ時刻に出向けばどうだろうと考え、あの日、出会ったのは偶然だろうと眉を下げる。だとしてももうやみくもに森へ何度も入る勇気はなく、現れるまでじっと待つことこそやみくもでしかなかった。
訂正できたラクガキは完璧だ。見つめて満足し、握る鉛筆に気づかされていた。
置手紙をすればいいんじゃないのか。
たとえば地面をめくって出入りしていたあの近く、倒木に立てかけておけば気付いてもらえるはずだと思う。何度も森へ出向かずとも一度で済むならこれ以上の思い付きはないと思えた。
早速、レポート用紙を取り出す。一枚目に、あの日、動転してとんでもないことになったことへの謝罪を連ねた。続けて助けてもらった感謝をつづってゆく。はずがピージーは、早くも自身の文章にうんざりしていた。嘘を書いているわけではないが言葉にしたとたん、文章は借り物のように嘘臭くなって仕方がない。伝えたい気持ちもすっかり借りてきたような具合になり代わると、そのよそよそしさにげんなりするほかなくなっていた。
レポート用紙をちぎって捨てる。
すぐにも書き直すがてんで納得できなかった。
それもまた破り捨て、もう一度、と躍起になりかけた時となる。はっ、と気づきき手を止めていた。なにしろ紙に「かくこと」なら文章よりこちらの方が得意なのだ。
スケッチブックを取り出した。ゴムで縛っていた色鉛筆を解いて机の上に広げる。
全ての色を使うつもりだ。
描き始めた。
あまり時間をかけてはマルウに見つかってしまうかもしれず、とにかく厄介なことは避けたくて急げ、と自身へはっぱをかける。しかしながら手を抜くことはせず一時間後、絵を仕上げた。
立てたスケッチブックの隅から隅までを見回して、損じたところはないか確かめる。そんなピージーの目の前には生身の手と「ルカ」の手が、互いをしっかり握り絞めていた。
あの日、ピージーを引き揚げた生身の手は確かに恐ろしい力を見せつけたが、恐ろしいからこそ最後までピージーを離してはいない。ピージーは「災い」に助けられた。
翌日の放課後、寄り道はなしで森へ向かう。入るのはあの日以来となり、保安局からのおとがめもなく制限解除の許可が下りたところでずいぶん勇気が必要だった。
奮い立たせてシラカバの木の下を潜り抜ける。
脇目もふらず息せき切って川までを走った。
渡ってそこから慎重に、つけたての目印を探しながら目的の場所を目指す。
夢でも幻でもない。やがて丸く開けたあの場所は再びピージーの前に現れ、しかしながら雨合羽の相手には会うことこそできはしなかった。倒木の手前で立ち止まり、そっと奥をのぞき込んだところで透けた森の向こうにミドルタウンが見えることもない。一目瞭然の光景に頭の中で怪しげととぐろを巻いていた興味と疑問はほどけてゆき、それでもピージーは雨合羽の相手が地面をめうって現れたなら見えるようにと倒木を回り込んだところにスケッチブックを立てかけた。
済めば長居は無用だ。クラバチルへの帰路を急ぐ。
境界路地をすり抜けている時、妙に気持ちは満たされていた。ままに明日の体育の補講もうまくいくような気がしてならなくなる。終えたならこのまま疑問と興味にそっとふたをし、教科書のラクガキと共に消し去ることができそうだと思えていた。
長い長いひと月がようやく終わろうとしていた。
その翌日、ひとりだけ持参したキャンプ道具を携え居残り、現れた体育の先生と校庭に出ると刃物や火の扱い方を、ふるったハンマーの威力とそれらの危険性を学ぶ。
キララの言ったとおりだ。一時間足らずの間に経験したこと全てにピージーは頭の中が痺れたような感覚を味わっていた。薄っぺらい刃先はスルスル、リンゴを割いてゆき、押さえて持つピージーの「ルカ」さえ区別なく傷つけてしまいそうで危うかった。炎は最初こそ小さいがあっという間に成長して、扱える大きさを越えると手出しできなくなることを目の当たりとする。それはブレーキのない車のようで、大きさに関わらず決して扱ってよいものではないことを記憶に刻んだ。ハンマーはその点、意志をもって振るわねば大惨事を招くことはなく、「ルカ」に制限のかけられた日常では安全な物のように思えている。だが授業のため制限を解除していたなら繰り出せた力に、自身の中にもまだ「災い」が残されているといううすら寒い現実を味わいもした。
終えた補講のおかげで体育の授業にも点数がつく。
色々あり過ぎたが、よかった。
心の底からほっとする。
雨がくる。
ピージーが聞かされたのはそれから三日後のことだった。
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