第14話
落ちていたら命はなかったに違いない。
階段を上がり、しかしながら何食わぬ顔でピージーはドアを開ける。気配に気づきマルウが「おかえりなさい」と声だけをなげかけていた。それ以上、森のことに触れないのは入ったことに気づいていないからではなく、気付いているせいだ。口にしてまた嫌な気分になるのはもう御免だと、ピージーを好きにさせているだけだった。気持ちこそ、ちょっとした仕草にいやというほど現れて、いつも通りを装えば装うほどピージーははっきりと感じ取る。
だが川を越えてさらに奥へと進むとそこで腕を持つ何者かと出会ったことは、森の下に透けて見えるミドルタウンを見つけ、さらにはそこへと落ちそうになったことは、さすがのマルウも想像すらしていない話に違いなかった。
全てはピージーだけの秘密だ。
秘密へ辿り着くことができる者がいるとすれば保安局だけだろう。何しろ川すら越えてしまったのだ。「ルカ」のネットワークが繋がり続けていたとは思えず、いつかまた申請が必要になったとき、気づいた保安局がピージーの行動を監査にかければ知られるだろう。
今日のことは誰にも話さない方がいい。
声は頭の中に蘇る。
保安局こそ、そうした秘密を明かすために仕事をしているのだ。
確信していた。
だから一週間、と聞かされていた制限解除の予定が延びた時は気が気でならず、毎日をどこかびくびくしながら過ごしている。もし保安局が秘密にたどり着いたせいだったら。勘繰りは止まらなかった。だとしても身の回りに、いやこのミドルタウン中を探してもピージーのように保安局に行動を怪しまれているという誰かの話など聞いたことがない。秘密を突き留められたその後どうなるのか。危険人物とみなされただ「ルカ」の制限解除を拒まれるだけならまだしも、もっとなにか他にとんでもないことが起きるのではなかろうか。妄想が膨らむのを止めることはできなかった。何しろミドルタウンにそんな人物は、かつていたとしても今は一人もいないのだから。
延期された日がきても、「ルカ」の解除に許可が下りないままさらに数日が過ぎていった。森の下のミドルタウンも腕を持つ何者かも、本当なら何者で何だったのかが気にかかり確かめたくて仕方なくなるはずも、ますます見てはならないものを見てしまったに違いないという思いがピージーの中から両者を消し去ろうと努める。
見てはいない、会ってもいない。
何度も自身へ言い聞かせるが事実なら変わらず、絵にかこつけて言いつけを守らなかった自身の傲慢さを呪い、だとして誰にも打ち明けられず視線ばかりを泳がせ続けた。
体育の授業を休むにあたってマルウは「ルカ」の制限解除が間に合わなかった、とだけ学校へ伝えたらしい。クラスメイトたちは、そんな間抜けなことがあるものか、と疑いの目をピージーへ向けていた。直接、問いかけたりしないのは知ったところで意味はなく、嘘つきだ、と眺めて過ごす方が短い「ルカ」を影でこっそり噂するのと同じに愉快だからと知れている。ピージーが不在だった体育の授業でまた見せつけたらしい、ロテックス社の「ルカ」で取り巻きを増やしたエフワンだけがしつこくピージーをからかうと、休んだ本当の理由を言わせようと仕向けていた。そのたびにピージーをかばってくれたのはキララだ。
そんなキララも一度は共に川へ向かっている。キララの「ルカ」もそのときネットワークが切れていたかもしれず、ピージーほどの常習犯ではないから見逃してもらえるだろうとして、どれほどかばってくれようと本当のことは話せなかった。話せばキララへ同じような心配を与えてしまうはずだった。
にもかかわらずかばい続けるキララはきっとピージーのことを信じている。
ピージーの描く絵が好きな自身を信じていた。
毎日だろうと足を踏み入れていた森へはあれから一度も入っていない。ピージーの中で森はもう、気軽と入れる場所ではなくなっていた。
膨れた腹にまどろみがちな午後。
でなくとも歴史の授業はたいていが退屈だ。いつだろうと、最後は「災い」の恐ろしさに結びつけられて締めくくられるからである。
今日も「センソー」という対話が「ルカ」抜きで行われたため、いかに残虐で愚かな行為となったかを解いて先生は授業を締めくくっていた。出された宿題も、もしその時代に「ルカ」が普及していたなら歴史はどのよう変わったか、考えられるだけをノートに書いてくるように、というものである。
終わった授業にクラスメイトらが席を離れて友人の元へ行こうとも、それもこれもを上の空に聞いてピージーはノートに教科書を開いたまま鉛筆を動かし続ける。
「ピージー」
教壇からの声に我に返っていた。
「延びた解除はあさってだったな」
「そ、そうです」
とたんあちこちに散らばっていたはずのクラスメイトたちが口をつぐむ。
そう、永遠に解除されなくなったのだ、と諦めた矢先、申請してから二週間を経て解除の許可は下りていた。
教室はいっとき水を打ったように静かとなり、ピージーを盗み見る視線がチラリ、動いたのを感じ取る。
「じゃああさって放課後、体育の補講を行うからキャンプ道具を持ってくるように。当日は帰らずそのまま教室に残っていなさい」
言い切った先生は教壇にあった教科書を抱え上げた。
「わかりました。よろしくお願いします」
教室を後にすればざわめきは舞い戻る。紛れて先生と入れ替わるようにキララはピージーの前へ現れていた。
「それ、なに描いてるの?」
投げかけられて手元へ視線を落とす。そうして初めて気づくなど、とんでもない無意識のなせる技だ。授業中、上の空で描いていたのは記憶に残る森、その下に広がるミドルタウンと箱を背負った雨合羽の何者かだった。
慌てて隠してノートを閉じる。広げたままの教科書も上へ重ねると、ピージーはカバンの中へしまい込んだ。
「ラクガキ。授業、つまらなかったし」
「補講、がんばりなさいよ」
様子を目で追いかけたキララは、ふーん、と鼻を鳴らしたその後で、まるでつじつまの合わない言葉をかけている。合わせるに越したことはなく、ピージーも口を開いていた。
「大したことないって知ってるよ」
「そう、ナイフを使ってリンゴの皮むき。マッチとライターで火も起こしたわ。ひとつだけテントを張ったのだけど、こんな鉄の塊がついたハンマーで思い切り杭も打ってやった。何キロってあったよの。すごく重かったんだから」
動作をキララは「ルカ」で再現している。規制された動きはおそらく体育の授業での半分も力は出せていない。
「あのね」
止めてピージーへつけくわえもした。
「大したことない、なんていうのはビビっているから大口たたいてるだけ。実際にやってみたらわかるわ。ちょっと狂気よ。もうそんなこと言えなくなる」
「怒らないでよ。悪かったから」
口ぶりには言わせるだけの迫力がある。
「なによ。怒ってないし、もう知ってるのよ。ピージーはあたしに待ちぼうけをさせて、またあそこへ行った。そして一人で楽しくキャンプしてきた。だから補講を受ける。わたしの中ではもうそう片付けたんだから」
さすが、エフワンを迎撃できるだけの口撃だ。負けず劣らず辛辣なあれやこれやをぶちまけてみせた。しかも当てずっぽうだとして、ほとんど当たっているのだから恐ろしい。
「それって怒るしかない結末じゃないか」
ならその言葉を待っていたかのように、キララはにっ、と唇の両端を広げてみせた。
「あら、じゃあ覆す方法はあるのよ」
何だろう、と思えば「ルカ」はピージーの前に差し出される。
「さっき隠した絵よ。見せて」
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