第13話
もう振り返って確かめる気にもなれない。森は追手の味方で、ならされていない地面も無造作に生える木々もピージーをまっすぐには行かせなかった。避けてきびすを返し、かき分け不意に日の下へ出る。いや出たのだと思っていた。目の前は靄がかると白く晴れ上がり、晒され森も霞んでいる。だが霞んだそこにはミドルタウンが見えていた。飛び込んだピージーの足元、うすら白く透けた森の下だ。遥か下方に街並みは広がっていた。空に投げ出されたのかと錯覚すれば、落下に備える体から平衡感覚は奪われる。事実、足はミドルタウンへと吸い込まれて、ずるり森を滑っていた。
「わああっ」
落ちまいと座り込んでいた。突いた手で森にしがみつく。ままに手足をばたつかせて後じさろうとした。だが蹴りつけた足にこそ手ごたえはなく、なおさらバランスを失ってピージーはミドルタウンの空へ身を滑らせてゆく。瞬間「ルカ」は掴まれていた。
「キミもッ」
つむじへ声は叩きつけられる。
振り返って見知らぬ顔を目にしていた。
ずるり、とまた体が森の淵を滑ったなら、ついに触れていた森の端から離れる。ピージーの体は完全に宙吊りとなっていた。
「わあああっ」
足にはもう何の感触もない。風だけが吹きつけている。掴む相手はもう森からのぞき込まんばかりと身を乗り出し、懸命にピージーを支えている。
「ひとりじゃ無理だッ。キミもしっかり力を入れて掴んでッ、落ちるッ」
言う目に気づかされていた。ヘルメットのスリットからのぞいていたあの目だ。今はもう脱ぐと手袋も、着込んでいた雨合羽に機械の箱さえ見当たらなかったが間違いない。
「やってるよっ」
ともかくピージーも怒鳴り返してもう片方の「ルカ」を振り上げる。相手の腕を出来る限りの力で掴んだ。
「これで制限、いっぱいなんだっ」
かけられたままの規制が呪わしい。
じれったさに相手が唸り声を上げていた。その気迫でじりり、ピージーの体を引き上げ始める。宙に晒されていたピージーの胸が、じわりじわりと森の淵を擦りながら上がってゆく。後から添えた「ルカ」でどうにか森を掴んでいた。ままに森へ乗り上がろうともがき、無理なら再び手へすがりついてぎょっ、とする。その手は「ルカ」ではない。肩から途切れることなく伸びた皮膚に覆われた、生身の腕だ。本物を見るのも初めてなら、触れることがあるなど考えたことすらなかったというのに、今、こうして目の前にある。落ちかけている事すら忘れていた。ピージーは自身がすがる手と、その向こうで踏ん張る顔を見比べる。見比べて、また少し浮き上がった体に我を取り戻すともう一度だ、精一杯の力で森へと「ルカ」を伸ばした。短い下草を握りしめ、無我夢中で引き寄せ這い上がる。様子に息を合わせて引っ張る相手が勢いあまり背から転げた。連なりピージーも引きずり上げられる。地面に顔をこすりつける格好で森へと戻っていた。
「あ……、ぶなかっ、た」
あおむけになっていた体を起こした相手の息は荒い。
「町に落ちてたら、とんでもないことになってた……」
こぼして汗ばんだ額を拭う。ふらつきながらだ。立ち上がってみせた。遅れてピージーも四つ這いで身を起こす。顔を上げた時にはもう、出くわした場所へと相手は歩き出していた。そこに機械の箱や身に付けていたものは放り出されている。辿り着くとまず雨合羽を羽織り、さも重そうに箱を背負い上げて手袋をはめた。最後にヘルメットを頭へひっかけ、帽子のツバのように跳ね上がっていた面の部分を下ろして箱から伸びるホースを拾い上げる。姿は最初、見た通りに戻っていた。だからピージーは四つん這いのままで呆然と眺め、前から何者かも立ち去ってゆく。
「帰る方角は分かる?」
はた、と踏み止まると投げかけた。
ぼんやり聞いてピージーは、おっつけ意味を理解しなおす。慌ててうなずき返していた。
「ここへは来ちゃだめだよ」
「あっ、ありがとう」
言えばようやく体と気持ちがつながった気分になる。
「いいよ、そんなこと」
だが相手はぶっきらぼうで、それよりも、とじれったそうに手招きしてみせた。
「だからそこは危ないんだってば」
思い出して振り返ったピージーの、足元から続く森はやはり透けて遥か眼下にミドルタウンを広げている。信じられなかったが真っ逆さまと落ちかけたなら、四つん這いのままで急ぎ離れた。その動きに勢いがついたところで立ち上がる。
「君は誰」
森から帰してくれるというのだ。今度こそ恐れる気持ちは半分になっていた。
「どうしてここに。その手は……」
「ルカ」じゃないよね。
言いかけたところで相手は顔を背けてしまう。
聞えない。
言わんばかりだった。前へ向きなおると長ぐつで地面を二度、蹴りつける。背の箱を軋ませ前屈みとなったなら、地面のとところをつまみ上げてじゅうたんのようにまためくりあげてみせた。
「今日のことは誰にも言わない方がいい。君も、ここへ入った事は知られたくないだろ」
階段を下りて行くかのようだ。残して何者かは地面の下へと一段、一段、と姿を消して行く。ヘルメットの天辺までが見えなくなると地面は元通りと辺りを覆い、開けた場所に降り注ぐ日だけが丸く残されていた。
寝ぼけて変な夢を見たような気分としか言いようがない。一部始終にピージーは目を瞬かせる。信じきれず駆け出し、この辺だったと地面へ「ルカ」を這わせて探した。めくれそうな場所を見つけることが出来ないなら、同じ仕草で地面を蹴りつけてもみる。
何も起きはしなかった。
振り返る。
そこで森は薄暗いまま奥へ続くと、もうミドルタウンは見えなかった。だからといって確かめようと近づいたところで、また急に透けて空へと放り出されでも、もう助けてくれる者こそいない。
急ぎリュックから色鉛筆を取り出す。潜んだ倒木へに印をつけた。
やってきたとき印をつけた木を探して辺りを見回す。
見つけて歩くが落ち着けず、早足となって気付けば全速力で走っていた。あれはいったい何だったのだろう。そして彼は、きっと彼だ、いったい何者だったのだろう。頭の中で疑問は渦巻く。肉の腕など初めてで、つまり彼は保安局からなんの規制も受けていない人物であることには間違いなかった。ならそんな人物がどれほど危険であるかは容易に想像でき、証拠に彼は恐ろしいほどの力を発揮している。だが発揮して、ピージーを引き上げてくれもした。
走っても振り払えない今日の出来事は、上る速度以上にピージーの鼓動を早める。
落ち着きが取り戻せたのは息が続かなくなった頃、石を渡って川を越えた後だった。
戻った森は見慣れた場所で、そこに危険は微塵も感じられない。
抜け出して歩くクラバチルの境界線路地は、夕日を浴びるともう真っ赤に染まっていた。
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