第17話
「スケッチブック、新しいのに替えたの?」
「ああ、まあ、ね」
さりげなく聞いてくるものの、きららが本当の理由を知るはずもない。
雨が上がった次の日だ。しっかり天気予報を確かめピージーは、森の奥、開けたあの場所へスケッチブックを置きに向かっていた。もう三度目になるが、雨合羽の彼に出くわすようなことにはなっていない。森の下にミドルタウンが透けて見えることもなく、緑に塞がれた周囲の風景が何ら変わった様子もなかった。それどころかまるで絵に描かれたように同じでさえあり、その中に横たわる倒木の前へスケッチブックをそっと立てかけ戻って来たのだった。
その後、様子を見に森へ立ち入ったのは一週間あとになる。もしかすると獣道になりつつあるのではなかろうか。いつもの木を辿り向かう道程での気持ちはと言えば、期待と不安で一杯でしかなかった。なにしろもし返事のスケッチが置かれていたなら、お互いは気持ちを交わし合ったことになる。お礼が言えただけでなく、伝わったお礼が好意的に受け取られたそれは証拠で、互いが互いに興味を持っていなければ成り立たないやり取りのはずだった。そのうえ絵は、これまで一方的に見せるばかりのものだと思っていたのである。だというのにのみならず、見せ返された絵でやり取りができるなどと、そんな相手が現れたなどと、ピージーにとっては夢のような出来事でもあった。
倒木を挟んでスケッチブックがピージー側に立てかけられていた事実は夢からピージーを目覚めさせ、現実だといわしめながら入ってはいけない、と言われたことも、それこそ保安局の不安すら吹き飛ばしてしまう。広がる風景に魅入られ、描くために足を運んでいた森は今や、同じものごとを得意とする相手、ピージーにとっては初めて見つけた仲間、と思いを交わし合いに行く場所となっていた。だからしてスケッチブックにはカラフルなピージーのスケッチと、相容れぬ力強さとモノクロで描かれたスケッチが交互に並ぶこととなっている。誰がどう見ても同一人物が描いたと思えないそれは、バレて問われたなら隠しとおすことなど出来ない秘密の中の秘密となった。
最初の内はクラバチルへ持って帰り返事を描いていたピージーだったが、スケッチが増えて行くうちに持ち歩くことが危なっかしく思えてきて、倒木の場所で返事を受け取るとその場で描き返し立てかけ、森を後にするようにしている。いつも通り持ち歩く用にスケッチブックを新調したのはそのためで、気付いて尋ねてきたきららはやはり、気の抜けない相手だった。
「まだ描いていないところ、いっぱいあったじゃない。見せてもらうの楽しみにしてたのに」
体育という大きなイベントが過ぎ去った教室はようやく落ち着きを取り戻して、休み時間にそれぞれかたまって過ごすグループも尽きた武勇伝に穏やかだ。
「じゃあ、今、描いているのを見る?」
わざとというわけではなかったが、おそらく無意識のうちに話を逸らしてピージーは、机の上に出していたスケッチブックを取り上げ渡した。なら文句はない、と言わんばかり受け取ったきららは、最初のページから目を通してゆく。やり取りに気づいて離れた場所からエフワンたちがちらり、視線を投げてよこしたが、それきり自分たちの話へ戻っていった。
「あら」
と、数枚めくったところで声を上げたのはきららだ。
「最近、森は描いてないんだ」
あまりに自然と声にするものだから、むしろピージーの方がドキリとさせられる。
「そ、想像の森はね」
「何だか身の回りの物ばかり。すっごくステキだけど、ちょっとつまんないかも」
「遠い場所の想像の物ばかり描いてて気づいただけだよ。もっと近くの物にだって描きたくなるような物があったじゃないか、って」
もちろん本当は、森ならもう一方のスケッチに描いており、加えて返事をより思うように描いて返すためにもこちらのスケッチブックではモチーフの練習をしていただけだった。なにしろ雨合羽の何者かはいつも、手が届く範囲にある物をあの力強いデッサンで送り返してくる。それに応えて返したかった。
するときららは繰り返す。
「すっごくステキだけど」
言葉を切ってこれでもかとスケッチを睨む目に、今度は何に気づいたんだろうとピージーこそハラハラさせられていた。
「なんだかいつものピージーの絵と違うのよね」
「ヘタになったって言うんじゃあ」
目を逸らしたはずも聞き耳だけは立てていたらしい。藪から棒にエフワンが張り上げた声で会話へ割って入ってくる。
「『ルカ』のせいだよ。新調時だと思うね」
顔を上げて振り向いたピージーときららの元へ歩み寄ってきたならピージーは、きららの手元からスケッチブックを取り返していた。どうせロクなことを言わないに決まっている。見せるつもりも見られるつもりもないとそれきりカバンの中へしまい込んだ。そんなピージーとの間へ入るように、対峙してきららが体ごとエフワンへと向きなおってゆく。
「誤解がおじょうずね。いつもと違うって言ったのはそういう意味じゃないわ。知ってる? 偉大な芸術家は一生、絵柄を一つに定めないのよ。どんどん進化して、どんどん変えてゆくの。それから」
チャイムがゆったり鳴っていた。これ以上、言い合えばまたクラスメイトらが野次馬と集まって来たに違いなかったが、おかげでそれぞれの席に散らばってゆく。足音と引かれて床を擦る椅子の音が、むしろやり取りを他愛のないものと片付けているようだった。
「あたしはこっちも好き」
エフワンへみせつけるようにピージーへ、きららは笑みを向ける。
「何があってこう変わっちゃったのか、後で聞かせてよね」
間もなく現れた先生に始まった授業のあいだじゅうピージーは、もちろんその言い訳作りで頭の中を一杯にしていた。
また雨が降る。
それはいつしか合図になっていた。
六度目の往復は先週、倒木に置いてきたスケッチブックを回収するためだ。気象庁の示す今夜の降水確率は九十パーセントで、たとえいつも通り返事を描いたところで置いては立ち去れなかった。
すでに重たく雲が垂れ込む授業が終わった午後、クラバチルへ上がる前にピージーは直接、森へ足を踏み入れる。以前は描きたいものを探して森をうろうろしていたが、今は開けたあの倒木がある場所まで一直線だ。川までの道はすっかり踏みしめられて獣道と出来上がり、川を越えてからも迷うはずもないほどと辺りの景色を覚えてしまっていた。だからして薄暗く、いつもと森が様子を変えていようとピージーに心もとなさはない。学校へ向かう時と同じ足取りで森の中を我が庭と進む。超えるために渡る川の石選びにも迷うことなく、むしろ足元など一度も見ないまま駆け抜けていった。
横たわる倒木は今やゴールテープのようだ。見えて来たそこに今日もまぎれもなく立てかけられているスケッチブックを見つける。息せき切ってたどり着き、手に取り拾い上げてきびすを返す。倒木へ背を預けるかっこうでピージーは、その場に座り込んだ。
息が整うまでしばらく。
でなければ目が滑ってしまいそうで、落ち着いたところでスケッチブックをめくってゆく。『ルカ』と『ルカ』。長ぐつと倒木。ミドルタウンと見上げた木陰。何か機械のクローズアップ、雨合羽の何者かが背負っていたものかもしれない、とピージーのカバン。これまで描き溜めてきた互いのスケッチが交互に目の前を行きすぎ、一番最後、何者かからの新しいスケッチに辿り着く。相変わらずモノクロのデッサンだというのにそこには透明感があってつややかな、間違いなく飴玉が二つ転がり描かれていた。
「すご、い……」
色は恐らく白と透明とピンクで、練り込まれて渦を巻いている。固くて甘くてピージーは、確かめんとスケッチへ『ルカ』の指を伸ばすとつまんで取りあげようとさえしていた。それはとても精緻なだけでなく召し上がれ、と聞こえたような気がしたからで、つまり何を描いて返せばいいのかは瞬時に浮かぶと新しいページを急ぎめくる。今にも雨が降り出しそうな空だった。感じ取っているから急ぎカバンより色鉛筆を取り出す。チョコレートだ。頭の中にあるのは板チョコと、いつかキララと食べた色とりどりのマーブルチョコで、その色とつややかな表面と、口に入れたとき相反して柔らかく溶けゆく舌ざわりを紙面へ教え込んでゆく。
雨合羽の何者かはチョコレートを知っているだろうか。
過ったが、互いに飴玉を知っているものだ。きっとチョコレートだって知っている。気持ちが揺らぐことはなく、カラフルな丸と、端正なブロックをひとつひとつなぞっていった。体温でとろける少し苦くてなめらかで甘いチョコレートたちを真っ白だった紙面から掘り起こしてゆく。
集中がピージーから時を奪った。風の音さえふつり、と途切れたその時である。
「うぉ、すごいや」
のぞき込む気配は背後で揺れた。
腕をなくした僕たちは N.river @nriver2
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