第9話

 走る。

 悪いことをしたのだ、ということは分かっていた。だがなぜそれが悪いこととみなされるのか、それだけが納得できない。理由など簡単だ。誰もその説明をしようとしないうえに、何度も足を運んだピージーは森の様子をつぶさと目にしていたからだった。

 保安局やマルウより森の事なら知っている。

 なのに。

 苛立ちは止まらず、もう家で大人しくなどしていられやしないと思う。

 クラバチルの階段を駆け下りながら、握ったきりのリュックを背へ担ぎ上げた。最後の数段を端折って飛び降り、朝日の下へ出る。照らし出されたミドルタウンには行き先を定めた人ばかりが歩いていた。証拠にチラリともよそ見しない目はピージーの気持ちになど興味はない、と言っているようで、お互い様だとピージーもまた住かを分けると境界線路地へ潜り込む。

 ただスケッチがしたいと思っていた。いつも通りに過ごせたら、それが誰よりピージーの言い分を証明する味方になってくれると思えていた。携えて帰った絵に皆が感心するなら、悪いことをしたのだと言い張る誰もへ矛盾を突き付けることができる、とさえ思っていた。

 目印のシラカバの木の下をくぐり抜ける。森の中はいつもよりも暗かった。低い所から差し込む太陽がクラバチルの影を長く伸ばして森へ横たえたせいだ。途切れた奥こそ明るく輝く森は、こんな時間に初めて入るピージーの感覚を狂わせた。だからいつもより慎重になる。次の目印のを目指しピージーは森を奥へ進んでいった。

 リュックはずいぶん歩きやすい。早くもクラバチルの影から抜け出す。木の根の絡む起伏の激しい一帯も、いつも以上に慣れた足取りで越えた。そのさい先週、一緒に歩いたキララを思い出し、今頃どうしているだろうと過らせる。なにしろ一言もなく授業を休んでしまったのだ。待ち合わせに現れないピージーに気をもみ、休むことを知ってからは心配しているにちがいないと想像してみる。落ち込みかけたところでキララは頭の回転が早かったことを思い出すと、きっと森のキャンプに一人で出かけたに違いないわ、とうがっている様子へ思い当っていた。

 川までの道のりを知り得る森の全行程としたなら、半分を過ぎた辺りに来ている。キララのおかげでいくらか苛立ちから気は逸れたものの、まだ足を止める気にはなれなかった。

 昇った太陽が、いつも通りの高さから森を眺めている。重なる枝葉はその視線を遮ると、薄明るい中をピージーはキララのことも忘れてただ前進した。

 最後の目印の木を越えたなら、やがて川のせせらぎはピージーの耳に届く。

 自身の「ルカ」へ目を落としていた。この辺りでネットワークは切れたと聞いている。また切れて行動を怪しまれ、このまま一生、制限が解除されることのない身になってしまったらどうなるのだろう。周りにそんな人などいやしなければ、ピージーはひとたび口元へ力を込めて視線を上げた。なにしろ恐れて後戻りするのなら、「悪いこと」だと認めたことになってしまう。

 マルウがしていたように小指の爪を突っついて電波の受信状況を確かめた。確かにゲージは低く、五つある目盛りのうちの一つ、時に二つがチラチラと灯るような心もとなさだ。

 もうそれ以上は目をやらないことにする。

 ピージーは再び川へ足を進める。

 キララと訪れた時と寸分たがわぬ川岸へ出ると、見下ろした。

 水かさも、速さも、川はあの時と変わりがない。だが時間帯が違うせいで違う方角から差す日に、驚くほど川面はあの日と異なる色を反射させていた。

 本当に?

 思わず疑う頭から、とたん憤りに心配さえもが蹴り出される。

「すごい」

 ついに声へ出すと言っていた。ならもう全く同じ場所からのスケッチではつまらない。ピージーは流れに沿って川岸を移動した。幾らか歩いて、ここがいいと決めた場所へ腰を下ろす。そこには繋いで渡れば対岸へ行けそうな石が並んでいた。ぶつかり間を流れる水は、前回、描いた時よりはるかに複雑と飛沫を跳ね上げ光を反射させている。だがここがいいと選んだ通り、いっときも止まってくれないそれらはひときわピージーの、だからしてきっと森の秘密はピージーの、描きたい心をひときわ鷲掴みにしていた。

 空を見上げる。

 なるべく手早く仕上げようと思う。でなければどんどん角度を変えてゆく太陽に、光も飛沫も表情を変えてしまうだろう。

 降ろしたリュックからスケッチブックを取り出していた。ピンクを忍ばせ描いた川の次を開き、軽くひねった体でゴムでひとつに束ねた色鉛筆の束もリュックの中から掴み上げる。選ぶ色はもう決まっており、迷わず黄色を抜き取った。

 あいだにも相手は表情を変えつつある。

 急ごう。

 真っ白な画用紙の上で最初、大きく一気に「ルカ」を滑らせる。区切ると水平に一本、線を引いてみせた。

 向こう岸とこちら側だ。

 紙面に世界は現れて、ピージーの頭の中へも秘密を求めて舞台は広がる。川面に、光に、石にくまなく目を配っていた。蹴り出した苛立ちに不安の立ち入るスキはもうありはしない。

 証明して、矛盾を知らしめるためにもスケッチを持ち帰る。

 そこに森の秘密もまた閉じ込めて。

 画用紙が色鉛筆を削る。 

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