第8話

 家を出るまでもう余裕はない。リュックにはもう着替えや食材、材といえば画材も準備万端、詰め込み終えられている。しかもキララとは校門前で待ち合わせの約束さえしていた。待たせることになるのは厄介で、だが手首にある子供用の、だからわかりやすく大きくつけられた玩具のような黄色いボタンをいくら押そうとピージーの「ルカ」はうんともすんともいわない。

「ねえ、許可がおりないよ」

 子供用の「ルカ」に限って解除の申請は、保護者しか行えない決まりがある。ボタンでの操作をあきらめたピージーは、朝の家事に動き回っているマルウの元へ急いだ。

「どうして。ちゃんとしっかり押したの?」

 マルウはちょうど汚れ物を洗濯機へ放り込み終えたところで、差し出されたピージーの「ルカ」を取ると代わってボタンを押し込む。

「あらおかしいわね」

「遅刻するよ」

 確かに何ら反応がなかったなら、自身の左小指の爪を突っついた。

「ワイファイかしら」

 反応した爪の表面が小さな液晶モニターに切り変わる。そこに電波の受信状況を表示さいた。強さを示すグラフはしかしながら、爪の中で三本、きっちり立っている。

「来てるわね。どうしてかしら。いつもどおりに動いてるの?」

 問われて改めピージーは、「ルカ」を握ったり、開いたりさせた。繰り返す傍らをマルウはすり抜けリビングへ向かう。テーブルの上で開きっぱなしになっていたノートパソコンをのぞき込んだ。数日前に出したはずの申請が送信済みになっていることを確かめたなら、今度はキッチンへきびすを返す。携帯電話はいつもそこに置かれていて、直接、保安局の窓口へと通話をつないだ。

 幾らも待たされることなくつながった通話に、かすかとキッチンからもれてくるマルウの声は毅然としている。聞きながらピージーは何ら問題の見つからない「ルカ」で、制限が解除されたならすぐにでも出発できるようリュックを持ち出し玄関へ移動した。腰を下ろして足を通した靴の紐を結ぶと、マルウが戻るのをじれったい思いで待つ。

 だが雲行きが怪しくなったその辺りからだった。マルウが発した「えっ」という言葉をきっかけに、それまで毅然としていた響きはしどろもどろと歯切れを悪くし、ついには懇願へトーンを変えてしまう。

 心配になりピージーは玄関口から身ひねり聞き耳を立てていた。雰囲気は掴み取れても話している内容までは聞き取れず、ままにふつり、と声は途切れる。いっとき誰も、マルウさえいなくなったように部屋はシン、と静まり返り、やがて足音はそんな静けさの奥から近づいていた。

「あなた、また森に入ったんでしょう」

 玄関口にピージーを見つけたマルウは開口一番、言う。

「あなたももう言って聞く子供ではなくなってきているし、だから多少ならと目はつむってきたけれど、どうして勝手なことばっかりするの」

 それはまるきり困り果てている今とは関係のない話だ。理解できずしばしピージーはきょとんとし、しかしながらすっかり機嫌を悪くして帰ってきたマルウの様子ににおずおずと立ち上がっていった。

「解除、は?」

 とたん額へ『ルカ』をあてがったマルウはため息を吐き出す。

「申請が下りるのは早くてもまだ一週間かかるそうよ」

 ピージーへ教えた。

「あなたが森にばっかり入るから、申請の監査に引っかかったのよ。言っても未成年だし、学校と家の往復だけなんだから、そのことが確認できればおしまい。処分なんてことはないだろうって。許可が下りるのは終わってから」

 思いもよらない出来事に声を失う。

 顔へとマルウは強い口調で続けていた。

「先週、行ったのよね。それもいつもより奥まで。保安局はあなたの『ルカ』のネットワークが一時、切れていたことが記録されていたって」

「それで解除してもらえないの?」

「スケッチするために入っただけなんでしょ。事情は話したけれど」

「入るなって、迷子になるからでしょ。なってないよ。スケッチしたかっただけで、悪い事なんてしてない」

「してなくても、電波の届かないところまで行けば当然でしょ。今日の体育はどうするの」

 それでも行くのか、行かないのか、時間がないのだ。決めさせて一方的とマルウは投げていた。つまりどう食い下がったところで見込みはなく、制限がかかったままの「ルカ」で参加する生徒などいない。それこそ何をしに来たんだろう、と変な顔で見られるに決まっていた。だとして理由こそ話したくはない。森になど感心のない彼らだ。冷やかされるのは目に見えていた。

「あなたがやったことなんだから、あなたが決めなさい。行くなら先生には『ルカ』のこと、ちゃんと伝えておくから」

 ピージーは絞り出す。

「……休む」

「いいのね」

 念を押されて到底、納得などしていなければ、ただむっ、と唇を尖らせ返した。

「じゃあ、学校に連絡してくるから。監査のこともあるし今日はもううちでじっとしていなさい」

 面倒事を、と言わんばかりマルウは投げて背を向ける。ビングへと戻りながら、握ったままの携帯電話で学校へ通話をつなげた。瞬間、ガチャリ、とドアの音が聞こえて振り返る。

「ピージー、どこ行くのっ」

 リュックを掴みドアの隙間から抜け出してゆくピージーの背中へ声を上げていた。森へはダメだっと言ってるでしょ。口走りかけたところでつながった通話に押し止まる。

「あ、すみません。子供がお世話になっております。今日、体育の授業を予定している中等生の……」

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