雲霧を越えて② 不安な雲行き


 船の航行中、極めて重要となるのが水の確保だ。

 飲用水をタンクに貯めて出航しても、飲む以外に使う水もある。

 それら全てを船に積み込もうとすれば、一体どれ程の量にになるのだろうか。

 場所をとり、重量が嵩む。そんなものを大量に載せるのはとてつもない負担になってしまう。

 そして当然、人々はそれについての解決策を用意している。

 現在スナドは雲の近くを航行して、ある装備を広げていた。

 スナドの背、上部甲板にて大きく広げた帆のようなそれは雲に当てる事で表面に水滴が付着する。

 取水膜と呼ばれるそれによって水を得て、今日も船団の運航は問題なし。


 ただひとつ、問題があるとすれば平穏すぎる事だろうか。

 フロドは心底退屈だった。

 なにせ銛撃ちとしての仕事はまるでなく、それ以外の雑用をこなしているからだ。

 基本は掃除、それ以外もやる事はそう変わらずに細々とした事ばかり。

 豪快に空を飛び、大物を仕留めて喝采を浴びたいフロドとしては何ともフラストレーションが溜まる日々だった。


「次どこ行く?」

「何処に行こうと変わらん。俺達以外が掃除してしまっている」

「じゃあサボろうぜェ……」

「勤勉さをアピールして仕事を貰おうと言い出したのはお前だ」


 掃除道具を抱えて廊下歩く。

 2人はその間あちこちを良く見て、やる事がないかと探しているが船内は清潔でなんと素晴らしい事か。

 それが逆に2人を苦しめている訳だが。

 しかしそんな退屈も、今は些細な発見で紛らわす事が出来る程には娯楽に対する飢えがあった。

 例えばそう、通路の向こうを歩く同僚の姿を見つけた、など。


「お、ウィルフ婆さんとフィスクだぜ」

「そうか」

「ありゃブリッジに向かってんな」

「そうなのか」

「追い掛けるぞ!」

「それは必要なのか?」

「い・く・ぞ!!」


 平然と2人を追い掛けて、やはり向かっていた先はブリッジだった。

 フロドはしたり顔でハラネスの脇を小突き得意げだ。


「追い掛けてどうする。そもそも入ったとして追い返されるのがオチだ」

「勤勉な僕らは常に仕事を探してんのさ!着いて来な!」


 一切悪びれる事なく、扉を潜ったその先はブリッジ。船の、そして船団の頭脳となる場所だ。

 様々な機械が並び、空図が広げられて周囲を展望出来る大きな窓もある。

 掃除のし応えは十分。

 しかし目的は掃除ではなく、そもそも入って来た時点で2人はネガティブな反応と共に迎えられていた。


「オイ、フロド。お前達何にしに来た……」

「ヨゥ!兄貴!清掃でーす」


 面倒事を持ってきたのではないかと頭を抱える兄と、いつも通りの我が道を往く弟。

 船長という立場であの弟を持った事がどれ程大変な事か。

 ブリッジに居た船員一同の同情が集まるが、止めて見せようとたち上がる者は居ない。

 結局我が身が可愛いのだ。


「あークソ、機械壊すなよ!」


 フロドはブリッジのあちこちに指を這わせ、鷹揚に頷いて回る。

 指先を眺め、指の腹を擦り合わせて満足げに息をひとつ吐いてわざとらしく一言。


「あー綺麗だわ。僕らがやる仕事ないなコリャ」

「そうか」

「お前ら何の為に来たんだ……」

「ふん!甘いね!ちゃんと掃除出来てんのかい!?」


 しかし立ちはだかるのは先客であるウィルフのお小言。

 だがフロドとて負けていない。


「ああ!?文句あんのかよエェ!?なんならここの機械やら窓やら舐め回してやろうか!?綺麗だからいける!」

「バカ!やめろ!」


 運航に支障をきたさないよう、様々な問題を解決するのも船長の務め。

 結局フロドがブリッジへと大した用もないのにやって来たのは暇つぶしに他ならないのだから、そのまま置いておけばいいと諦め混じりの対応となった。


「なあ、暇すぎんだけど?クジラ出ねえの?」

「証言によればこの先が船が襲われた場所だ。目当てのクジラが移動した可能性はあるがね」

「それにこの雲さね。見つかるもんも見つからないよ」


 ウィルフの言葉でブリッジの外へ目を向ければ、のっぺりと広がる分厚い雲が絨毯のように伸び続けている。

 それだけではなく、上方にも右にも左にも多くの雲が流れていて、この中であればクジラの巨体も簡単に隠せてしまうだろう。

 かといってこの中を探索するには、雲の中というのは危険が多い。

 それこそクジラが飛び出す可能性がある。

 今だって水を得る為に雲の近くを飛んではいるものの、なるべく視界の通る雲の薄い場所を選んでいるのだ。

 渓谷の谷間を縫うように、雲から離れて飛行しなるべく危険は避けたいというのが基本方針。

 その上でひとつ、船長には考えている事があった。


「知っているか?救助された乗客や船員の証言を」

「勿体ぶらずに話しなドリギ坊や」

「船長にまで上り詰めた俺を坊やと呼ぶのは婆さんくらいだろうなァ……まあいい、曰くこうだ──」


 どれに限る事もなく、船の運行の際は周囲をよく見る事が重要だ。

 それは当然スナドに於いても、例の貨客船に於いてもそう。

 哨戒機を出す事も、マストから周囲を伺う事もどちらも重要だ。

 雲を避け、空賊を避け、そしてクジラを避ける。

 このようにして航路を臨機応変に調整し、目的地までの確実な運送を行う事が責務の船員は証言した。

 その日、雲を避けて飛行していたにも関わらず、瞬く間に船は雲の中へと迷い込んだと。

 微風程度で流されて来た雲にしては量が多く、五里霧中の有様。

 そんな中で周囲を伺うと何か雲の中を動く影が見えた。

 そこからはあっという間に影が大きくなって船が襲われ、何度か逃げ出せた救命艇は僅か。

 乗客ではなく自分が助かってしまった船員は自らを責めて気を病んでいるという。


 滔々とした語りはそこで終わり。

 船長の一席であった。


「──てな具合にだ。以前見た事がある資料によると、クジラの中にはクモクジラって呼ばれ方をしていた奴が居る」

「アタシが仕留めた獲物さね。噴気孔から雲を出して身を隠しながら狩りをする賢いクジラ……目の良さがモノを言う狩りになるよ」

「ババアにゃ荷が重いな」

「フィスクが居んだろう。この子はとっても良い目をしてるよ」


 恥ずかしく、しかし誇らしげな顔をしたフィスクの頭をフロドが乱暴に撫でまわす。

 敢えて髪が乱れるように撫でているのだ。

 じゃれ合う2人を横目にならば、とハラネスが疑念を口にする。


「そんなクジラが相手だというのに、この船は雲の近くを飛んでいるのか」

「水は必要だろう?……冗談だ。考えはあるさ、聞きたいかい?」

「俺に関係のある事なら」

「それを言うならお前らがブリッジに居る事がおかしい話じゃないか?関係ないだろう」

「なら仕事をくれ。この船は清掃が行き届いていてやる事がない」

「悪いが俺の予想じゃ暫くは掃除をしてもらう事になりそうだ」


 訳知り顔の船長に対し、ハラネスは僅かに眉を動かす。

 流石にハラネスも掃除にはとっくに飽きて空を飛びたくて堪らない状態だった。

 

「順番だ、理解してくれ」

「しているさ。だが俺の感情は俺のものだ」

「クーデターとかは勘弁してくれよ……?」

「飼い犬に手を噛まれたくないのなら、上手いこと機嫌を取ってみせろ」


 潰れた帽子で扇ぎ、冷や汗をかいた首筋に風を送る船長の引き攣った笑みに対してハラネスは真顔。


「恐ろしい拾い物しちまったか……?まあ取り敢えずは楽しいクジラの話だ。俺の予想じゃ例のクジラは縄張りを主張しているんだと思うワケよ」

「船をわざわざ襲うなんて、理由はそんなもんだろうね」

「婆さんに同意してもらえんのは心強い。ヤツは今他のクジラも追い出そうとしてるじゃねェか?」

「思う、じゃないか……そんなものか」

「だから裏付けをする──状況どうだ!」


 船長の言葉をきっかけに、ブリッジの各所……そこから通信が繋がった哨戒機から得た情報が次々と集まってくる。

 船長は聞こえた内容に合わせ、空図に幾つかの駒を置いて状況を可視化してニヤリと笑う。


「クジラの目撃はこう……ある地点から逃げるように移動する形になっている」

「その根本の方角に移動するのか」

「そうだ、ある程度近づいたらイサナトリを出して誘い出す」

「僕らの出番は?」

「雲の中に何機もいたら、ぶつかっちまう危険性が高まるから留守番だよ」


 フロドの期待に満ちた問い掛けは、ウィルフにピシャリと絶たれて肩を落とす。

 イサナトリは小回りが効くとはいえクジラ1体に群がると接触の危険は当然高まる。

 その為、大抵の場合は2機を1組として運用するのだ。

 そのようなペアには各々の得意分野があるが、ウィルフとフィスクのペアは慎重で確実な戦いを武器とする。

 今回のような狡猾なクジラを相手取るならば適任だと、船長はそう判断した。

 だが……


(嫌な雲だ……)


 空に広がるこの景色を見ていると、不安が胸の内に湧いてくるのだった──

 

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