プロローグ② 飛翔


 イサリビ機関……というよりそれに使う燃料は爆発的な推進力を齎す。

 例えば仰向けに倒れたイサナトリを10秒足らずで遥か空へと打ち上げる程に。

 ハラネスはイサナトリに嵌められた硝子の覗き窓から、先程まで居た浮島を下方に見て息を吐く。


「少なくとも飛ぶ事は出来る機体だ。信号弾を撃つ仕事くらいは出来る」


 コクピットに複雑怪奇に配置された計器やスイッチの中からハラネスは慣れた様子でひとつのスイッチを弾く。

 するとイサナトリの背部から信号弾が空へと昇り、周囲へと緊急事態を示す光を煌々と放つ。

 瘴気の雲の向こう側でこの光が見える事を祈りつつ、操縦桿を動かしてイサナトリの腕を動かす。

 右腕の銛筒の破損した装填装置から銛を引き出し、発射機構へと銛を装填。


「よし。この一発があれば充分」


 ガチリと音を立ててロックされた銛とセットされた炸薬を確認して満足げに頷いたハラネスが次に操作するのはノイズばかりを吐き出す無線機。


「これでお前の歌がよく聞こえるぞ……」


 ザラザラと耳障りな音がコクピットに満ちる。

 明瞭とは言えない覗き窓越しの視界で油断なく周囲を睨み、ハラネスの精神が張り詰めてゆく。

 

(ヤツは奇襲を行うだけの賢さはあるが同時に好奇心だって強い。こんな遮る物のない目立つ場所を飛んでいれば確実に食い付く)


 自らを餌にした罠。

 如何に熟練の銛撃ちといえど緊張から流れる汗はとめどなく、しかしそれに勝るのが高揚だ。

 生存本能から齎される危機に対する対処法、戦う以外に道がない為に無理矢理に燃え上がる闘志……それは最早中毒じみてハラネスを魅了する。


(魅力的に飛んでやろう。だが喰らい付くのは俺だ)


 無防備に、緩やかに飛んでいると不意に無線機が吐き出すノイズが大きくなった。

 遠くから迫る嵐のように心をざわつかせる音を聞きながら、思わず操縦桿を握る手に力が入る。

 そしてそれを離れた位置から覗くモノがぬるりと空を滑った。

 浮島の影から、濃い瘴気の雲から覗き見て姿は見せず。

 巨体を隠して距離を詰め、狩人の慎重さで獲物を視界に収めるクジラは喉を鳴らす。

 遊びごたえがあると喜ぶ無邪気な力でヒレを目一杯に動かせば、その身を大風の様に早くしてイサナトリの背へと迫る。

 大気を掻き分け鼻先でその丸いおもちゃを叩くかと思われた……が、しかし。


「掛かった──ッ!」


 動翼を稼働、波に揉まれる落ち葉の様にひらりと身を翻したイサナトリは強引に背後からの襲撃者を躱して今度はクジラの背後へと付く。

 無線を妨害するウタクジラは、その性質ゆえに接近を無線のノイズで感知する事が出来る。

 知恵にて奇襲を回避され、予想外に直面したクジラは脱兎の如く飛び去ろうとするも、背後には目一杯までイサリビを吹かしたイサナトリが猛追する。


「逆転したな。これで俺が狩る側だッ!」


 操縦桿を握る力が一層強くなる。

 キリキリと細かく、慎重に傾ける操縦桿はイサナトリの腕と連動し、その前腕に取り付けた銛筒……対クジラ用に開発された巨大な銛を撃ち出す機械の狙いを付ける。

 トリガーへと指を掛け、逸る気持ちで僅かに力を込めつつも冷静な判断で獲物を睨む。


「横風が強い……飛行のスピードと合わせて誤差は……ここか」


 トリガーが音を立てて引き絞られて、イサナトリの右腕へと命令が伝達される。

 右腕に懸架された大きな筒状の装備、銛筒。

 対クジラ用に開発されたこの道具は火薬の爆発力にて巨大な銛を高速で打ち出し、クジラの横っ腹へと深々と突き立てた。


「入った……ッ!?」


 肉には刺さったものの、その一撃では命を奪うまでには至らない。

 僅かなブランクか慣れない道具によるものか、一撃で仕留める事が出来なかったハラネスを待つのは壮絶な綱引きだ。

 撃ち出される銛には頑丈なワイヤーが繋げられており、仕留めたクジラが空の底へと落ちないように、あるいはこのような綱引きにて動きを制する為に使われる。

 ハラネスのイサナトリは意趣返しのようにそのエアブレーキを展開、目一杯の抗力とイサナトリの重さ自体を武器にして、苦悶の声を上げ必死に猛スピードの飛行を行うクジラの体力を奪う。


「ぐっ……浅かったか……余力がまだこんなにも!?」


 しかしクジラも生きる為に必死だ。

 自らの命を奪おうと追い縋る存在から逃げようと決死で飛行する。

 大きく身を震わせ、全身の筋肉を動かして。

 銛が肺に刺さったのであろう、熱い吐息と共に血を吹き出しながら大小様々な浮島の間を縫うようにして飛び続ける。


「浮島にぶつけて俺を叩き落とすつもりか?この程度で離すものか……!」


 クジラは身を捩り、ロープの先のイサナトリへ横方向へ動かす力を伝えて抵抗する……が。

 ハラネスも必死だ。全開でイサリビ機関と動翼を動かして、シートに押し付けられながらも左右の揺さぶりを制動し致命的なダメージは避けている。

 それでも装甲をガリガリと削るけたたましい音が昂る精神を追い詰めて、どんどん早くなる鼓動と狭窄する視界が肉体の限界を悟らせる。


「まだ……まだだ。必ず、反撃のタイミングが……」


 肉体の限界、精神の極限に踏み込み無意識に片足を突っ込んだハラネスは全身の感覚を遠く、死を近く感じ……初めてイサナトリに乗った日の事を思い出していた。


(初めて空へと飛び出した日も恐ろしさは感じた事が無かった)


 ハラネスは幼少期より空を飛ぶ事に憧れ、その想いを抱いたまま大人になり当然のようにイサナトリのコクピットへ収まった。

 そしてその隣、少し前には彼の兄の姿が常にあった……しかしそれは過去の事。


(兄さんはもう居ない。前を飛ぶあの光はもう……ならどうやって飛べばいい?)


 暗くなる視界の中で踊る光は過去の幻視。

 いつも前を飛び、先導して競争心を煽る輝きを目で追いかける。


(死ぬにはまだ飛び足りないんだ。俺はまだ燃え尽きちゃいない)


 細れて消えかけている光は弱々しく意識の外の暗闇を踊り、やがて中心へ。

 ハラネスが意地で睨み続けたクジラの元へ。


「次は……そこへ導いてくれるのか。兄さん……」


 走馬灯から漏れ出た光がハラネスの意識を急速に現実へと引き戻す。

 硬いシートから伝わる振動、イサリビ機関が唸りを上げる音、コクピットに満ちる油と鉄の匂い……正面には急速に迫る岩壁。


「ッ!!──オオッ!」


 イサナトリから白炎が噴き上がる。

 爆発的な推進力を活かしたクジラの剛に対して剛で対するような滅茶苦茶な回避。

 しかし意識の手綱をしっかりと握り直したハラネスは全身を押し潰すようなGに耐えて歯を食いしばる。

 振り子のように左右に大きくブレながらも致死の接触を回避し、イサナトリは徐々に飛行の安定を取り戻した。


「気絶しかけていたのか?クソ……少し乗っていない間に鈍ったな」


 それでもハラネスの胸中にあるのは自身の力不足に対する反省、そして高揚。

 自在に空を飛び、命を賭ける状況に戻った事への喜びに獰猛な笑みを浮かべて操縦桿を握り直し……そこから繋がるイサナトリ、その前腕……銛筒からワイヤー……深々と突き刺さる銛を通してクジラの命の動きを感じ入る。


「ここだ。この場所が俺の生きる場所、そしてここで死ぬ……お前も、そうなる」


 銛は肺に刺さったのだ。

 いかに強靭なクジラといえどもそんな状態で飛び続ければ消耗もする。

 苦痛を振り切ろうと懸命に身を捩り、ワイヤーの先のイサナトリを浮島に叩きつけようとするクジラの動きも徐々に弱まってきていた。


「死に瀕した時にこそ命は輝きを増す……お前もまだ死に際に燃やす力を残しているはずだ。さぁ、それで俺を──!」


 不意に掛かったGでハラネスはシートに押し付けられ、覗き窓の外の景色はどんどんと加速する。

 まさにハラネスが望んだように、クジラは最後の力を振り絞って最期の飛翔を始めたのだ。

 イサナトリの加速では追い付けないような高速飛行。

 ワイヤーは張り詰め、金属が軋む音がコクピット中を駆け巡る。

 死を振り切ろうとするクジラは大きく鳴き声を上げ、大気を震わせ血の煙を吐き出す。


「痛いんだろう、苦しいだろう。だが──」


 大きく軌道を曲げて、クジラは浮島へとイサナトリを叩きつけるようと最後の抵抗を試みる。

 軋んでいるのはイサナトリだけではない。

 当然ハラネスも歯を食いしばり、かかる負荷を耐えて反撃の機を待ち……そして今。


「ッッ!!」


 操縦桿を倒し、ペダルを目一杯に踏み込む。

 イサナトリの全てのパーツが唸りを上げて空中に踏み止まり、全力でクジラを引き寄せる。

 イサリビの白炎が輝きクジラの血潮が舞う。

 引き合う力は完全に釣り合い……クジラが回る。

 クジラ自身の力を利用して豪快に巨体を振り回し、意趣返しのように浮島へと振り下ろす。

 轟音と共に土煙が舞い上がり、横たわる巨体は完全に煙の向こうへ隠れてしまう。


 だがワイヤーは未だ繋がっている。

 銛筒がワイヤーを巻取り、キリキリと甲高い音を立てながらイサナトリは煙の中へと飛び込む。

 劣悪な視界の向こうにいるクジラを睨み、ハラネスは左腕の武装を展開する。

 イサナトリは元は作業機械。

 その前腕にはかつてクジラの亡骸を解体する為に使われていた巨大なブレードが格納されている。

 これを使って戦闘をするなどもってのほかだが、しかしこの武装はこのように──


「──これで終わりだ」


 とどめを刺す時に用いられる。


 クジラが大きく鳴き声を上げ、次第に弱まる響きが狙い違わず心臓へとブレードが届いた事を示していた。

 イサナトリの全身を押し込むように突き立てられた刃は深々と突き刺さり、破損していた左腕はこれにより完全に破壊されていた。

 フレームは歪み、肩部を押し返すように損傷が拡大、イサリビ機関は完全に焼き付いて飛行は困難という酷い有様だ。

 しかしハラネスはこれを見て満足げに息をひとつ吐いてシートは深々と座り直す。


「悪くない」


 あとは救助を待つだけと、脚を組もうとすると何かが足先に触れた。

 カツリと固いものがぶつかった音を頼りに手を伸ばすと、それは平たい箱……シガレットケースだ。


「命を救ってやったんだ。代金代わりに貰っておくよ」


 無茶苦茶な機動の最中にコクピットの何処かに仕舞い込んだものが落ちたのだろう。

 ハラネスはそこから一本取り出し、勝利の一服を楽しんだ──


◆◆◆


 居住地である浮島を出て、遠方へと出向いての資源採集は長く過酷な道のりとなる。

 資源を得る為に外へ出たというのに、そこで失うものの方が多くては本末転倒。

 それ故に遠征にはそれ自体が拠点として機能する大型船を中心とした船団によって緻密な計画に基づいて行われる。


 ただそれでも予想外とは起きるもの。

 そして幸運というのも思いがけず訪れるものだ。

 汚染領域に侵入して鉱物資源を得る採掘船団は今回、クジラに対する防御が不足していたのだ。その為に往路に他の船団からその為の人員と機材を借りていた。

 そしてそれは復路で入れ違う際に返却する手筈だったのだ。


 そしてそれが行われる座標こそハラネス達が仕事をしていた場所にほど近い位置。

 突如として現れたクジラによる被害を受けた護衛達は、打ち上げられた救難信号を発見して急行した部隊により素早く優れた医療設備のあるクジラ狩りの船団の本船『ゲイホウ』へと運ばれた。


 船団の中心、最も大きな船であるこれはまるでクジラのようなシルエットをした大型飛行船。

 長く伸びた曲線を描く胴体、側方に伸びるヒレのような翼。

 後方には尾ビレのような尾翼に加えて巨大な推進機関を備える。

 クジラのような形状は、その実まさに元がクジラであるからこの形なのだ。

 この船には超大型のクジラの骨格が基礎として用いられていた。

 人の生活に充分な施設、設備を腹の中に備えて乗組員達の家となるこの船は今、家族の死を悼んでいる。


 いくら治療の為の準備をしようと、それで助けられるのは生き残った者達だけ。

 空の底へと落とされた数名が帰る事は無く、遺体を回収する事も出来ずに分厚く先を見通せない霧の向こうを眺めて死について思いを馳せる程度の事しか出来ない。


 ハラネスもその内の一人だった。

 デッキの端の柵にもたれ掛かり、ただ黙って下方を見つめている。

 ひとりでクジラを仕留めた事に驚かれ、酷い有様のイサナトリを見て体を心配されたハラネスは怪我人の収容で生じた慌ただしさに紛れて歩き慣れない船の中を散策し、少しばかり気に入ったこの場所へと流れ着いたのだった。

 ともかく彼はひとりになりたかったのだ……が。


「死者2名、負傷者4名……これが今回の人的被害だ」


 野太い声と共にデッキを踏む硬い音が近寄ってくる。

 選択的な孤独を邪魔された気怠さに苛まれながらハラネスは声の主を横目でチラリと見た。

 多少は睨むようなニュアンスを含んだ視線の先に居るのは声の印象に違わない骨太の男。


「何の用だ」

「くくく、多少は敬意ってモンを払った方がいい。なにせオレはお前さんが乗ってるこの船の船長だからねェ」


 無精髭を撫でながら爪先で床を叩く男は他の船員と変わらない作業着を見に纏い、しかしその内側から帽子──彼の身分を示す装飾が施されているものの、胸元で平らに潰されてシワだらけ──を取り出して頭に乗せる。


「船長……それが、俺に何の用がある」

「何言ってやがんだか。お前さんが乗ったイサナトリはウチの物なんだぜ?」

「壊した事は謝ろう」

「オウ、構わねェ構わねェ。なんせお前さんが乗らなきゃさっきの人数はもっと増えてたさ。それをお前さんはひとりで仕留めて見せた……感謝してんのよ」


 大きな口を、これもまた大きく歪めて歯茎まで見せつけるように笑う船長はハラネスの隣で空の底を見る。

 両手でガッチリと手すりを掴み、瞳には悔恨……そして安堵の色が去来した。


「と、ここまでは船長としての礼。そしてこっからはオレ個人としての礼なんだがなァ……ありがとうよ」

「2度も礼を言われる程じゃない」

「だから言ってんだろ?これはオレのごく個人的な礼だ。お前さんがイサナトリから引っ張り出して助けたのはオレの弟だ。腕は立つがまだまだ未熟で可愛い弟……それが死んだなんて事があっちゃあ耐えられねぇ」


 ハラネスは横目で見る船長の安堵の表情に懐かしいものを見た。

 記憶の中に、このような顔をして自らの無事を安堵して喜んでいた唯一の家族の姿が残っている。


「俺はクジラを仕留めただけだ」

「それでもまぁいいさ。やる気があるなら大歓迎だぜ……お前さん、この船の銛撃ちになりな」


 呆れ顔で笑いながら提案されたそれはハラネスにとって実に魅力的だった。

 渡りに船、まさにそんな状況に心が震えている事を船長は目ざとく察して確信する。

 あと少しで喰らい付くと。

 

「そんな腕の良い銛撃ちを腐らせておくなんて勿体ねェ。欠員も出た訳だし、今はそんなに余裕がある状態でもないしなァ」


 ハラネスは俯き、ただ景色を眺めているようで……その実、衝動を抑え込む事に必死なのだと船長は読み取った。

 魅力的な提案だと思いつつ、飛び付かないのは何故か?抑制しているモノの正体は何なのか。


 だがそんな事は構わない。

 この遠征はまだ続く予定だったのだ。

 仲間を失った事は確かに悲しく、歩みを重くするものだ。

 それでも船長として、船団として利を上げる必要がある事を理解しその責任も自覚しているからこそ代わりの手段を求めなくてはならない。

 欠員の補充が出来れば船にたんまりと物資を詰め込んで帰る事が出来る。

 まだこの程度では船団を出した分のコストを回収し、満足出来る分のプラスには至っていないという打算もあった。


「ひとつ、条件が」

「言ってみな」

「俺の仕留めたクジラからは骨を一欠片欲しい。こいつに加えたい」


 ハラネスは胸元から首飾りを引き出し、ジャラジャラと連なるハンティングトロフィーを見せ付ける。

 自らの価値を見せ付けるように。


「ハハッ!こりゃ凄えなァ!こだわりのある男は好きだぜ。なんせオレ自身がそうだからな」

「俺はイサナトリと、狙う獲物と、その骨さえあれば満足だ。あとはどうでもいい」

「そうかい。だがオレの船に乗ったからにはお前さんも家族だ!だからよ、改めてありがとうな。家族の仇を討ってくれて」


 歓迎の言葉を受けながら、それでもハラネスは空の底を見たままポツリと呟く。


「家族……結局は事が起こった後の敵討ちしか出来ないような俺だ。それでよければ幾らでもクジラを取ってきてやる」

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