第五話 レコーディングスタジオ
マイルスは自宅に音楽を一人で作るスタジオを作った。今で言うDTMなのだがそんな時代ではない。その頃出始めたシンセサイザーや64ビットコンピューターを駆使して音楽を作った。CPUが64Gではなく、64Mでもない64ビットだ。考えられる…?
まだHDDやフロッピーディスクすら無かった時代だ。記録にはデータをカセットに音声記録するが、再現性は見事に低い。モニターすら手に入れにくかった。
そんな中、4チャンネルのレコーダーを駆使してシンセや生音、ボーカルを録音記録した。マイルスのその活動は「走り」だったので、プロのレコーディングスタジオに招待された。プリプロをやらないかという誘いだった。
こんなことをやり始めたのは、やっとのことで作ったバンドが上手く続かなかったからだ。実際バンド活動は練習場の確保や、メンバーのスケジュール調整、楽曲の仕込み、メンバー間のコミュニケーション等、手間も、時間も、金もかかる。しかし率先して活動するメンバーは少なかった。最初の頃はバンドも上手く行っていた。新しい形式のバンドで斬新なアイディアを取り入れていた。アップタウンのおしゃれな店でのバンドの演奏はステージに魚の影が泳いでいた。女優のライザ・ミネリも聴きに来た。
実際マイルスは運も味方して、演奏する店や練習場所、自前のロフトまで確保したが、バンドはトラブル続きで解散した。誰かと演奏するだけならキャバレーカードを手にすれば良かったが、これはイタリアマフィアの稼ぎの一つで、日本での仕事に戻るみたいでやりたくなかった。
そうこうしてプリプロをやっている内に、スタジオをチェックに来ていたTashanと出会った。彼はアフリカ・バンバータのメンバーでデフ・ジャムのアーティストだった。マイルスがプリプロでやっている曲が気に入ってアルバムで使いたいと言ってきた。「オレの曲がレコードになる?!」
トラックダウンの日にスタジオに出向いたが、エンジニアも誰も来ていなかった。マイルスは見様見真似でレコーディングしたが、こんなに大きなおもちゃは初めてだった。
ヨダレの出るNeveのボードとStuder24チャンネルレコーダーは大きいだけだと自分に言い聞かせて、レコーディングした。神様がついていてくれてかなり上手く行ったが、これはマイルスにとって大きな自信となった。レコーディングして曲を作る、そんな音楽をやる方法があるんだと思った。
バンドは「せーの」で音楽をやる。途中で上手くいかなくても曲が終われば上手くいかなかった事は忘れる。レコーディングはそこにこだわる。失敗がこれからのプレイを良くする。
何故ならリプレイすれば失敗を何度も何度も聞かなくてはならないからだ。そうやって次は良いプレイを目指す。これはかなり大きな違いで、レコーディングであれライブであれ、そういうアーティストを目指したいとマイルスは思った。
レコードはコロンビアから程なくリリースされマイルスの最初の1枚となった。
夜中に電話がなった。マイルスの兄からだった。聞くと父親が癌で長くないと言った。マイルスは帰国することにした。といってもマイルスはその時結婚していた。最初の妻の智子にしばらく日本にいる、と告げた。
智子は歌手だった。日本で結構有名なビッグバンドの専属歌手だった。しかしニューヨークではたまの音楽活動以外はバイトに明け暮れていた。お互いを縛らない生活はニューヨークらしかった。
久々の家族との再会はやはり嬉しかった。しかしマイルスは送り出してくれた父にニューヨークで何も残せていない後ろめたい気持ちでいた。
マイルスの父は痩せてしまっていた。動くことは出来るが時折苦しそうだった。この父に怒られたことは殆どなかった。一度はチャンバラで友達を傷つけた時、もう一度は兄とトランプで喧嘩した時だった。父はトランプを掴むと何も言わず火鉢に焚べた。
戦時中、駆逐艦乗りだった父は潜水艦に魚雷を受け海を意識のないまま漂った。気がつくと米軍に救助され敗戦まで収容所にいた。そんなせいか海軍を思い出すカレーが嫌いだった。ただ寄港先のインドネシアの話は楽しそうに話してくれた。
「テレマカシー」ありがとうは、インドネシア語で「愛を受け取る」という意味だと父が教えてくれた。素敵な言葉だ。
この時「父も国外にいたのだ」とマイルスは気づいた。
数ヶ月実家にいたが、自分の今の生活はニューヨークなのだと思って再び海を渡った。その時の父との別れに、自分は何て冷たいやつだと思った。別れの父の目を見るのがたまらなく辛かった。
「ごめんなさい、お父さん…」
ニューヨークの自宅に戻ると智子は驚いていた。きっと戻ってこないと思っていたかのようだった。半月ほど経っていつもの日常が戻ったと思った頃、智子は突然いなくなった。何が起こったのか分からなかった。智子の身の回りのものやピアノは消えていたが、愛猫は残されていた。
しかし落ち込む間もなくスタジオでの新しいプロジェクトが始まった。
新しい仕事はディレクターだった。商用の音楽を大量に制作していく。その流れを作り、品質を定め、期日を守る。
猫たちとミッドタウンのスタジオの近くに引っ越したマイルスだったが、引っ越したのはスタジオにだった。アパートには猫に餌をやるのに戻る、そんな感じで働いた。スタジオなので外は何時で、昼か夜か、晴れか雨か分からない生活だった。
スタジオはニューヨークのミュージシャンに有名になった。スタジオに行けばその場で仕事が貰え、帰りにはチェックが貰える。何でお前がというような有名なやつも来た。いわば駆け込み寺だった。イタリアン・マフィアも来てミュージシャンのピンハネをしようとしたが、追い払った。何故なのかしつこくは来なかった。
プロジェクトのスタジオの予算は潤沢だった。必要だといえば億を超えるコンソールが半月も待たずに入った。Neveの最新式でフライングフェーダー付きだった。SONYのデジタル24チャンネルのレコーダーPCM3324も7台ある。当時のおもちゃがこのスタジオに集まって来た。しかしマイルスの仕事はおもちゃが集まれば集まるほど忙しくなった。
時にはミックスをしながら寝た。寝てしまった。オートフェーダーが顔をゴリゴリやって目覚めた。チーフエンジニアのジェフも「クタクタだ」と言った。
「帰って寝ていいよ」と言うのは、クビと言う意味だった。大男のジェフとは一度それで揉めた。今で言えばハラスメントで大問題だ。
エンジニアはレベルとノイズに強い。これをエンジニアなしでやると大変なことになる。またトラックに問題があった時にも対処が早い。アシスタントはその補佐で大体専門学校を出てくる。テープ出しからマイキングの補佐、前処理後処理をやる。ニューヨークのミュージシャンは感がいい。言ったことをすぐに理解できる。経験が豊富なのだ。スタジオにはこの他に数名のテクニカルエンジニアがいた。テックと呼ばれる彼らは毎日コンソールの不具合を直していた。
他の連中は良いとしても、マイルスとジェフは制作の中心で二人が働かなければ、仕事自体が無くなってしまう。それは可能性ではなく、確実だった。「泣き言言うなよ」とマイルスは思った。
ある日、ジェフのあまりの泣き言に「もう来なくていい」と言ってスタジオを飛び出した。ジェフは追っかけて来てしつこいので空手の構えをした。ジェフは2mを超える大男だ。その半分ぐらいにしか見えない東洋人が、大男をびびらしている。通りはあっという間に人で埋まり、二人を取り巻いた。
その日からジェフの泣き言は止んだ。
スタジオはマンハッタンも真っ青な24時間営業で回っていた。ミュージシャンもエンジニアもアシスタントもいつもいた。テープレコーダーは常に回っていて、フェーダーは飛び交っていた。3つあるスタジオはフル回転で、ブースや空き部屋も録音に使われた。ニューヨークでもこんな場所は見当たらなかった。トイレに行こうとしてもMarshallのギターアンプが唸りを立てていて、誰も入れない。おトイレならぬ音入れだった。
このシステムを構築したマイルスは一番忙しかった。1曲終えても次の曲が控えていた。無限ループではない、無限のような螺旋階段だった。
このプロジェクトは数年続いたが取引先との揉め事であっけなく終わった。しかしマイルスには大きな経験と知識が残った。何より仕事をやり遂げる力がついた。
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