<第四章:ピリオロイド:モラトリアム・ゾンビ> 【15】
【15】
クラゲ女が、僕を引き寄せる。
口もないのに食うかのようだ。
頭に巻き付いてきた触手の1つが溶けだし、ジュワジュワと音を上げて頭部を包む。
真っ暗になった。
音も完璧に遮断され、方向感覚もなくなる。
他所の世界に迷い込んだ。
暗いだけの何もない異世界。不思議と心地は良い。ずっとここにいてもいい。
そう思っていた。
「前の僕ならな」
世界が裂かれる。
現実の僕は、頭に被さった触手を片手で引き千切っていた。
クラゲが叫ぶ。周辺を震わせる悲鳴。人間の、ましてや化け物の声でもない。金属の不協和音にそっくりだ。
クラゲは暴れ、僕の肩を貫いた触手がすっぽ抜けた。
床を転がりながら叫ぶ。
「爆弾を!」
即動いたコサメは、残った2つの爆弾を僕に投げた。飛距離が足りなく爆弾は転がる。
荒れ狂う触手が爆弾の1つを潰す。だが、僕は1つを手にする。
導火線に火を点けた。
最後に運が向いてきた。偶然にも、足元に用意しておいたゴミ袋がある。それをクラゲに向かって蹴り上げる。
触手がゴミ袋を裂く。
空中に、塩化ビニールで作った偽物のパイプ爆弾がばら撒かれた。
本物を、紛れ込ませて放り投げる。
触手が嵐の如く動く。
ほぼ一瞬で、本物を含め全ての爆弾を払いのけた。爆発は遠い頭上で起こり、クラゲは全くの無傷。
しかし、加速した僕の接近を許した。
クラゲの巨体でも僕の勢いは殺せず、屋上のフェンスにぶつかっても止まらず、フワッと重力から自由になる。
異常な脚力に耐えられなく、踏み締めたコンクリートと僕の左足首は砕けた。それを代償に、変異体でも止められない速度を得たのだ。
合わせて重量と高さ。
流石に死ぬ。十分に殺せる。
しかし、急に止まる。
変異体は、全ての触手をデパートの壁に突き刺し停止していた。再び、屋上に登ろうともしている。
付け焼刃の策は、狂いに狂って好転もせず――――――まあ、何とかはなった。
腹に隠した爆弾に火を点ける。
最後の最後の一手、できれば使いたくはなかった策。
「すまん、コサメ」
女をきつく抱き締めた。
ロマンチックの欠片もない状況。しかもお互い、人間とはいえない状態。
「せめて、一緒に死んでやる」
あの時できなかったことを今、
「あっ」
今更、今際になって思い出した。
他にもやらなくちゃいけないことがあった。
なんで忘れていた? 記憶の奥底にしまっていた? 決して忘れてはいけないことなのに、なかったかのように。
今まで聞こえていた声は全部。
わずかな気の緩み。瞬間、女に引き剥がされた。
触手ではなく、人の手で。
僕は落ちる。
落下する最中、爆弾を抱き締める女を見た。笑っている気がした。
わからない。
何故、僕から爆弾を奪った?
わからない。
わからない。
落ちていく。
クラゲが赤く咲く。
背中に激しい衝撃、意識がブツッと消えた。
ハッキリとした映像が浮かぶ。
黒いアパートの一室。そこで果たせなかったこと。
自分の要領の悪さに吐き気がする。時間が、ほとんど残っていないのに。コサメを優先しなくちゃいけないのに。
なんでこんなことを忘れていた。
ほら、コサメの声がする。
「ぐんそー! おきて!」
「ッ」
目覚めた。
どれだけ意識を失っていた? 数秒か? 数分か? 残骸が燃えていることから、長くないことは確か。
僕は、廃車のボンネットで寝ていた。ホント悪運だけは強い。
周辺にはクラゲの肉片が散らばっていた。しかしどれも、泡を立てながら溶けて消えようとしている。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫だ。移動しよう」
デパートは、ぐちゃぐちゃだ。爆破の影響で色んな場所に穴が開き、火と黒煙を上げている。とてもだが、もう拠点にはできない。コサメはよく、無事にここまで来れたものだ。
ボンネットから降りる。
立てない。傾く。転ぶ。
起き上がろうとするも、バランスが取れない。左足の感覚がない。
「コサメ、何か棒を探してくれ。杖にしたい」
「わかった」
コサメはダッシュでデパートに向かう。
「燃える物には近付くなよ! 煙も吸うな! 体を低くしろ!」
「わかった!」
改めて周囲を見回す。
あれだけいた敵の姿や、気配はない。祭りの終わりのような寂しさを感じる。
と、通信音が響いた。
ズボンに下げたタブレットからだ。
バキバキに割れた画面をタッチして、通信を繋ぐ。
『終わりました?』
「終わりましただ」
『賞賛すべきなのでしょうね』
「知らんよ」
ショーコだった。
てっきり男の方かと思ったが、あれはもう僕に用はないだろう。
『やるとは思っていましたけど、やれるとは思っていませんでした。今、OD社は【変異体】が死んだゴタゴタで1から会議をやり直しています。コサメさんを逃がす絶好の機会です。今から壁の近くまで来てください。………動けますよね?』
「片足以外は問題ない」
『必要な物資があるなら、即送りますよ。最後の大盤振る舞いです』
「それじゃ添え木と包帯。遅延薬も頼む。痛み止めは、いらないか」
痛みは感じない。
全体的に感覚は鈍く、脳みそは泥の中だ。
『他に必要な物は?』
「ない。ああ、待て」
『何か?』
「コサメのことを頼む」
『それはええ、もちろん。今更』
「虐待とかしたら、壁乗り越えて殴り倒しに行くからな」
『心外ですね。しませんよそんなの』
「いやでも、お前が無理して、コサメが気を遣うようなこともするな。凄く、人の顔とか空気読む子だから」
『問題ないです。疲れたら父と母に頼るので。………早く孫の顔みたいってうるさいし。結婚すらしてないのに、おかしくないですか?』
「頼れる身内がいるなら安心だな」
僕と違って。
「他に………他に何か必要なものは?」
「ないかな」
「コサメさんに伝えることも?」
「自分で伝える」
「その方がいいです。では、最後の仕事頑張ってください」
「わかってる」
通信が切れた。
「ぐんそー、棒!」
「おお、棒だ」
戻って来たコサメは、立派な鉄パイプを持ってきた。
しばらくすると、ドローンが飛んできて鞄を落とす。
中には、添え木と包帯、大量の遅延薬、何故か拳銃もある。自害用に入れてくれたのだろう。
折れてグニャグニャの左足に、添え木を当ててきつく包帯を巻く。
何とか、立つことだけはできた。
痛みこそないが、二度と走ることはできないだろう。杖を突いて歩くのが精一杯だ。
「よし、行くぞ」
「どこ? ぐんそーの家?」
「壁の向こう。街から出よう」
「………ぐんそーは?」
「途中まで一緒だ」
「そのあとは?」
「お別れだ」
コサメが停止する。
これでダダこねられて逃げられたら、どうしようもない。
鞄を背負い。杖で体を支えながら歩き始める。
コサメは動かない。
「行くぞ」
「わかったぁ」
渋々、コサメは僕の後ろに続く。
結局は、根が素直で良い子なのだ。こんな状態の僕と追いかけっこはしないだろう。
黙って歩く。
小さい足音が後ろから聞こえてくる。
小一時間くらいで、僕は沈黙に耐えられなくなった。
「街から出たら、何がしたい?」
「わかんない」
「………………」
「………………」
会話終了。
とても気まずい。
思い返せば、僕らの会話って何かの作業をセットにしていた。ただ歩くという作業では、話題がない。
景色も殺風景だ。
墓標のようなビルと、荒れた店、寂れた民家。この辺りに草木はなく。当然、動物の姿もない。
歩き歩いて、少しだけ景色に変化があった。
小さい川だ。
「昔ってほどでもないが、ある爺と釣りをしてな」
「つり」
「大きな魚を釣った。コサメ3人分はあったな」
「それでそれで?」
興味を引いたようだ。
「弁当のフライにして食べた」
「………食べたんだ」
「ちなみに、あんまり美味しくはなかった」
「おいしくないのはよくないです」
「それはそう」
また沈黙。
しばらく歩いて、コサメから話題をふってきた。
「あの、クラゲのおねえちゃん」
「お?」
「ぐんそーのトモダチ?」
「そう………かもな。いや、そうだよ」
短い付き合いだが、僕がそう思うなら友人だ。
「かなしい? つらい?」
「悲しくない。辛くもない。別れはすましてる。さっきのアレは、あいつの体を乗っ取った別のもんだ」
「わかんない」
「僕も、いずれああなる」
今日か明日には必ず。
「………………」
「だから、悲しむな」
「………わかんない」
「大人になればわかる。僕との別れは、お前の人生の中で大したことじゃないってな」
「そんなことないもん」
「そんなことあるんだよ」
「ないもん」
「あるって」
「ないもん!」
コサメは駆けだす。
簡単に僕を追い抜いて、5メートル先を歩く。
ホント、元気になった。
部屋の中を少し歩くだけで息切れしていたのに。僕じゃ追い付けない。
「コサメ、お前のモラトリアムは今から始まるんだ。今まで損していた分、こんな場所で苦労した分、外に出て楽する権利がある。一杯楽しんで好きなことしろ。そしたら、僕のことなんて――――――」
ああ、駄目だ。ちくしょう。
何も上手く言えない。最後に何を伝えるべきか、何を伝えずに去るか。何もわからない。どこまでも、僕は自分の都合しか頭の中にないのだろう。人のことは、最後までわからず終いだ。
モヤモヤと言葉を考えては捨て、ウダウダしているうちにビル街を抜け、壁が見えて来た。
思ったよりも低く、急ごしらえに見える。
あの程度じゃ、変異体に襲われたら簡単に突破されるだろう。そう思うほど頼りない。
見えるところまで来たのだ。
なんとかコサメを拘束してショーコに渡そう。急がなければ、もうすぐ陽が落ちる。
白いゾンビは消えたが、通常のゾンビはまだいるのだ。
「コサメ」
「くるま」
「何?」
壁の方から車が近付いてくる。
車は車でも装甲車だ。機銃もあるし、タイヤは新鮮な赤で濡れている。
「コサメ、危ない下がれ!」
と言うも、コサメの大分前で装甲車は止まる。
横のハッチが開き、出てきたのは色白で小柄な女。スーツ姿でヘルメットを被り、防弾チョッキを羽織っている。
僕の独断と偏見だが、ショーコって顔だ。
「コサメさん!」
ショーコが叫ぶ。
声が同じだ。間違いない。
「ショーコだー!」
コサメはショーコに駆け寄り、感動のハグをした。
何も考えず一歩進むと、装甲車の機銃が僕を向く。ほぼ同時に、装甲車から野戦服の男が3人現れた。彼らの構えたライフルも、僕に向けられていた。
杖を捨て、両手を上げる。
彼らに【コルバ】が見えるように。
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