<第四章:ピリオロイド:モラトリアム・ゾンビ> 【05】


【05】


 思考停止した。

 こういう場合、僕はどうすればいいのか知らない。わからない。

 体が硬直して完全に止まる。

「この野郎!」

 組み伏せていた男が暴れ、運悪く肘が僕の脇腹に直撃。痛みで体が強張ると、体勢が逆転して僕が男に組み伏せられる。

 槍も転がり、不利な状況だが、どうすればいいのか知っている。

 男と殴り合いになった。

 狙いも何もない子供の喧嘩みたいな暴力。しかし、体勢の不利は大きい。似たような体格なら子供相手でも勝てない。

 だから、男の拳を頭で受ける。

「ギャッ!」

 冗談みたいなウサギの着ぐるみ頭だが、実はこれ内側がワイヤーや金属で補強されている。散々雑に扱い、変異体に吹っ飛ばされ、師匠に本気にぶん殴られても形を保っていることから、頑丈さは人間が素手で壊せるレベルではない。拳が壊れるレベル。

 割れた拳を抑え、男は体を曲げる。

 もう一度マウントを取って男を組み伏せた。

「だから! 動くなって言ってるだろっっ!」

 女の叫びで再び僕は止まった。

 ただ、男の首に膝を置いて固定することは忘れない。

「落ち着け」

 女に言ったのではない。自分に言い聞かせた。

「この子を殺されてもいいの!?」

「よくねぇよ! だから落ち着け!」

 女に叫び返したのは、完全に悪手だ。

「大体、なんで子供がいるのよ! マスクもしてないし! あんたみたいな頭の逝った男が連れて! そいつを離しなさいよ!」

「だから、まず、落ち着け。物資が欲しいならくれてやる。食料と遅延薬もある。それで子供を離せ」

 師匠なら絶対しない提案だ。

 僕だってやりたくない。

「あんたの持っている物も寄越せ!」

「ここで裸になれって言うのか?」

「知らないわよ!」

 ヒスった女が、コサメの首に手を回し、包丁を顔に突き付ける。顔を刺されたくらいじゃ人間は死なないし、脅しにはならない。

 が、体感したことのない緊張感に汗が噴き出る。

 傷口が開いたのか? 

 今はそれどころじゃない。目の前に集中しろ。

「もう一度言うぞ。物資はあんたにやる。僕が男から足を離すと同時に、あんたも子供を離せ。それで僕らは消える。あんたらは得しかしない。どうだ?」

「うるさいわね!」

 女は意味不明な言葉を叫び続ける。

 僕は動こうにも動けない。コサメはいつも通り冷静で、だから僕も落ち着いていられる。

 いや、おい。

 違う。呼吸がまともにできていない。首が締まって、顔が赤くなっている。

「すぐに離せ! 殺すぞ!」

「あんたが離すのよ!」

「てめぇが先に離せ!」

 不毛な言い争いは、ボキンっという音で止まる。

 男の首が折れていた。

 そんな力を入れた覚えはない。体重をかけた程度だ。そも、人間の首は簡単に折れるもんじゃない。

「嘘だろ」

 なのに、完全に折れて死んでる。

 失禁した死体から離れると、放心した女と目が合った。

「こっ、殺し、し、し、死ね!」

 直ぐ再点火した。

 女は、包丁を振り上げる。

 僕は、何も考えず突進した。

 体当たりをして、女をコサメから離せればいい。また腹に穴が開いても構わない。他を考えるのは後。

 女が、怒りに任せて包丁を振り上げたのが良かった。

 ギリギリ間に合う距離。

 女もそれに気付いたのか、土壇場で冴えた動きを見せた。

 コサメを背後に投げたのだ。

 屋上の柵は、一部が失せていた。火災のせいか、誰かが壊したのかはわからない。コサメの小さい体は柵の隙間に吸い込まれ――――――屋上から落ちる。

 僕は、そのまま走り抜けて後に続く。

 空中でコサメを掴むことはできた。

 壁には、女が使ったであろう縄梯子が見えた。

 15メートル先には地面がある。

 流石に、いやどう考えても、この高さじゃ助からない。

 考えろ。

 考えてどうにかなる状況か?

 考え無し過ぎた。

 そんな人生でした。

 ホントまあ、師匠の『死神』って言葉が身に沁みる。

 巨大な虫の羽音が聞こえた。

 死神の声にしては不快な音。リアルで間近に――――――

「は?」

 物資運搬用のドローンが僕らと一緒に落下していた。

 迷う暇はない。

 ドローンの胴体部分を左手で掴む。落下速度と2人分の重さ。片手じゃ保持力が足りない。だから、そこを支点に横に飛ぶ。

 マンションのベランダに突っ込むつもりだった。

 現実は非情で、僕はベランダの縁に腰をぶつけバウンド。回転しながら落下。ただ悪運はあったようで、1つ下の階のベランダに足が引っ掛かる。

 しかし、引っ掛かったのは一瞬。

 また落下。

 視界が大回転。

 地面の気配を感じ取り、コサメを両手で抱き締める。

 がむしゃらに足を延ばす。

 マンションの壁を蹴った。

 何とかなれと最後に勢いを殺し、背中から着地。

 体が割れるような衝撃。コミカルなアニメなら、口から心臓が出ていた。

 意識は失わなかったが、呼吸ができない。

 無表情なコサメが目の前にいる。特に反応はない。汚れた眼帯が気になる。

「ぶ、ブハッ!」

 呼吸を再開できた。

 酸素が回り、血が巡り、痛みも巡る。

 痛っ痛い。

 背骨と脇腹、足や両肩も、骨という骨や関節が、筋肉が、いやもう全身余すことなく痛い。

 僕の体は原形を留めているのか? 上半身と下半身はついている? 体に命じても指1本動かない。神経も切れたかも、出血は? このまま一生動けず死ぬかも。

 コサメは、僕の頭をポンポン触って来た。

 驚きだ。

 自分から行動している。

 もしかして、僕を気遣ってるのか? だとしたら、死ぬほど恰好悪い。

「大丈夫だ」

 大丈夫ではないけど、僕の半分は強がりでできている。

 残り半分はこうご期待。

 深く深く呼吸をして立つ。

 腰と背中と足首から、メゴバキャと面白い音がなる。

「コサメ、お前怪我は?」

「うな」

 見たところ傷はない。顔色も問題ない。

 骨折や捻挫の心配がある。確認は後。

『飽きれた頑丈さですね。途中、“手助け”したとはいえ5階から落ちて無傷とは』

 タブレットの奴が言う“手助け”とは、ドローンのことだろう。

「無傷に見えるか?」

 喋ると口に血の味が広がる。

『どこか怪我を?』

「後だ」

 確認はしないでおこう。変に傷を見たらぶっ倒れてしまう。

 マンションの階段を上る。

『引き返しましょう。物資はまたの機会に』

「一度ついたケチは、自分の手で注がないと一生付きまとう」

『経験則ですか?』

「そうだよ」

 経験しないと僕は何も学べない。

 重い足取りで階段を上る。

 なるべく足音は消している。

 不思議と痛みは消えていた。たぶん、アドレナリンが大量に出ているだけだ。明日は、色んな意味で地獄かもしれない。

 階段を登り切った。

 コサメを降ろす。

「僕が呼ぶまでここにいろ。すぐ終わらせる。本当にすぐだ。待てるな?」

「う~」

 コサメは首を横に振る。

 待てなさそう。

 タブレットを外し、中の奴に言う。

「歌を一曲流せ」

『なんの歌をです?』

「知らん。なんか適当なのを」

『最近の曲なんて知らないんですけど』

「僕だって知らん」

『で、では、ツィゴイネルワイゼンでも』

「歌じゃないだろ」

『8分近くあるから丁度良いでしょう』

「そんなにかからねぇよ」

 コサメの頭を撫でる。

 少しだけ嬉しそうな顔をした。

「3分だ。曲の途中で必ず戻って来る。まあ、信用できないなら泣いてもいい。僕が戻って来ることには変わりない」

 コサメを置いて扉を開ける。

 背後から、小さくツィゴイネルワイゼンが流れ始めた。

 静かに急ぐ。

 女は、物資を漁っていた。男の死体は放置されている。落ちていた槍を無視して歩く。どうしてだか、必要に思えなかった。

 銃タイプの空の注射器が転がっていた。まだ中身があるのに捨てられたペットボトル、食いかけで捨てられた食い物も。女は、ピーナッツバターを貪り食っている。

 野生の動物みたいだ。

 警戒能力はそれ以下だが。

「なっ!」

 喋りかけるのも面倒になり、無言で女の髪を掴む。

 猿みたいにキーキー鳴く生き物を引きずる。

「次はお前の番だ」

 女を屋上から投げ捨てた。

 聞き耳を立てると、水っぽい何かが飛び散る音がした。

 念のため下を確認。

 よし、潰れてる。まあ、普通はそうなるよな。

 コサメの元に戻る。

「………見てたのか?」

 扉の隙間から覗く、コサメと目が合った。

 ツィゴイネルワイゼンが止む。

 怖がられるな。面倒にならなきゃいいが、今よりも。

 ため息を1つ。

 ああ、なんかもう疲れる。

 と、コサメは僕の脚抱き着いてきた。

 どういうことなんだか、こいつの考えは全くわからない。

「………変なガキだな。お前」

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