(二)―2

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 十五年以上昔の高崎くずれの時、当時一蔵の父は斉彬派に与したかどで島流しとなり、一蔵も連座して謹慎処分を受けた。その後幕府の介入もあって斉彬が藩主に就任したが、その後も父は長い間赦免をされず、家に戻れなかった。

 敵対した相手に虐げられるのは耐えられるが、味方をした相手に冷たくされるのには心が深くえぐられる。あの時胸に差し込まれた氷が、自分の中には相当長く居座っていた。非情だの横暴だのと言われる行いをなしえたのには、その氷片が力を発揮していたからであることは否めない。

 だがそれはあくまで私怨の範疇だ。今あるこの思いは、公憤だった。

 漏れ聞くところによると、斉彬は安政の大獄の前年に参勤交代で江戸を離れる前に一度、一橋邸を訪問し慶喜と短い面談をした。結局直に会ったのはそれが最初で最後、他に書簡のやり取りをしたこともなかったらしい。

 あまりにも当たり前のことすぎて当時は吉之助に訊く気も起らなかったし、今となっては確かめるのが怖いくらいのものだが、まさか一度も会ったことがなく意見を交わしたこともない相手を、英邁だという噂だけで自分の協力者と勘違いし、推挙していたのだろうか。

 その斉彬の意志が薩摩を危機に陥れ、意志が遺志となった後も薩摩を縛り、振り回し、ひどい回り道をさせたのだ。

 日ごろめったにないことではあるのだが、一度過去に思いをはせると止めどがなくなってしまう。

 慶応、慶喜を応援。言霊というものがあるのなら、今のこの現状は自分が馬鹿なことを口走ったせいもあるのだろうか。

 慶応の前の年号は「元治」だった。松平春嶽に聞いたところによると、当時の朝廷からは元治に加え「令徳」という語が候補として提出されていたという。

 幕府側、特に慶喜が、これは徳川に命令するという意が込められていると難癖をつけ結局元治に収まったらしい。

 発案者に尋ねたところで警戒して決して本音を口にはすまいが、おそらくそれは真実だろう。まるで平安時代に戻ったような話だが、やはり時代の名前というものは馬鹿にできない。だがやり方があからさますぎた。同じ呪うなら、徳川の頭文字の徳などではなく、尻文字をとって……

「なんをしちょるか、こがなとこで!」

 声とともに背中に生まれた重くて痛い衝撃に、一蔵は縁側から転げ落ちそうになった。

 苦々しい思いで顔をあげると、吉之助がこちらの背中を叩いた手を下ろしもしないまま笑みを浮かべて見下ろしてきている。一人ではなかった。

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