(二)―1

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 あれは、もう二年も前か。

 京都薩摩藩邸の一角で、夏の日差しが庭を照らす様を睨みつけながら、一蔵は縁側で苦虫をかみつぶす顔になっていた。

 時は慶応三年(1867)六月下旬である。


 昨年末、徳川慶喜は第十五代征夷大将軍に就任した。薩摩先代藩主島津斉彬の宿願が実に十年以上を経て果たされたということになるが、それはもはや薩摩の理想に反することとなり果てていた。

 斉彬とて、別に慶喜が好きだから高い地位につけてやりたいという理由で推していたわけではなかった。幕府独裁を突き崩し、雄藩が連合して国を動かす体制に変えたい。慶喜はその理解者だと思ったからこそ、推挙し続けていたのだ。

 結局ふたを開けてみれば、慶喜は骨の髄までの幕府中心主義者でしかなかった。それは他の幕閣も同じだが、違うのは、慶喜という男は現在過去のどの幕閣や将軍よりも、おそらくは斉彬が見越していた水準すらはるかに超えて、あまりにも才気がありすぎるということだ。鬼に金棒どころか鬼がスペンサー銃を振り回しているようなものだった。、

 先の五月、兵庫開港勅許と長州赦免の是非を問う会議で、慶喜は一蔵たちの工作も雄藩大名たちの反対もすべてねじり切り、兵庫開港勅許をもぎ取ってしまった。

 これでついに一蔵たちは覚悟を決めた。慶喜に対してもともと失っていた期待は完全に敵意と化した。それはすなわち、武力討幕を決めたということである。

 先述の会議に加え、慶喜は将軍に就任して以来猛烈な勢いで幕府の軍事近代化を進めている。それはただの国防政策ではなく、将来の薩摩討伐を見据えたものであるのは明白だった。

 それらの理由から一蔵と吉之助と帯刀で武力討幕の方針を決定したものの、むろん薩摩のみでかなうことではない。他藩の協力をあおぐことが不可欠だ。

 ああ、それにしても。

 失われた時があまりにも惜しい。

 まったく詮のないこととは知りながら、悔やまずにはおれない。斉彬が慶喜を推したりしなければ、自分たちはここまで無駄足を踏まずに済んだのだ。

 武士にとって主君は絶対だ。反発など思うだけでも許されない。しかし自分は過去すでにその罪を犯している。

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