(一)―2
(一)―2
吉之助は一蔵に手を向け、帯刀に、
「こん男は昔から変わったところがありもしての。堅物のくせに、時々突拍子もなかこつをゆいますとじゃ」
「ほう、そいはまた。おはんの祖父殿は蘭学者じゃったと聞いたこつがあるが、血筋かの」
「母方のです。のうなってもう三十年ちこうないもすが、たまがった(たまげるような)話がいくらでもあいもんで」
話しながら、一蔵はまだ幼かったころ、祖父から聞いた話を思い出していた。
日本や中国といった東洋諸国には元号の制度がある。が、西洋にそのようなものはない。耶蘇が生まれた年を元年とし、ただ千年、二千年と積み重なっていくだけだ。今の年は、西洋では一八三八年ということになる。
それを聞いた時には少なからず驚いた。子供の頭での聞きかじりでも、西洋が高い文明を持っていることはわかる。そんな連中なのに、意外なほどに単純なところがあるのだ。
だが、天保だのなんのといちいち覚えるよりも、そちらの方が簡単でわかりやすいかもしれない。いや、むしろ。
時に名をつけるなど考えもしない、そんなことにこだわらない人々だからこそ、優れた文明を生み出せるのだろうか。
孫のその言葉を聞いた祖父は目を丸くした。ややあって、ひどく優しい目で、頭をなでながら語り掛けてきた。しみいるような口調だった。
おはんはまっこて賢かのう。あるいはおはんのゆうとおいかもしれんが、じゃどん、今の話はだいにもせん方が良か。変りもんじゃち思われ厄介なことになるでのう。
祖父が身まかったのは、その後まもなくのことだった。それからすでに三十年近くがたつ。
日本は開国した。西洋の文明が大量に入り込み、攘夷の気風も薄れた。そんな今でも言わない方がいいことなのだろうか。肝胆相照らすこの優れた同志たちにも? おそらく、そうなのだろう。
「ならば、祖父殿の話はいずれゆっくり聞かせてもらうとして」
帯刀の声に一蔵は現実に引き戻された。帯刀は、書簡の包みから紙をまた取り出した。
「別添えで、こたびの改元での候補を書き記して下されたとじゃ。おはんら、何か慶応よい良かち思うものはあるかの」
紙には二文字の熟語が、「慶応」も含め十いくつか並んでいた。覗き込んでいた一蔵は、やがて目元をほころばせた。
「おいは、こいが良かち思いもす」
体型と同じく長い指が宙を舞い、紙上の一点に着地する。指先には「平成」の文字があった。
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