食べれない

増田朋美

食べれない

その日も寒かった。というか、他の県では大雪警報が出て、大変なところもあったらしい。そう考えると静岡というところは、雪はふらないし、大風が吹くわけでもない、非常に穏やかなところでもあった。もちろん、北国に比べれば生活は楽なのかもしれないが、それでも、非常に難しい問題が勃発してしまうときだってあるのである。それは、どういうことだろうか。例えて言えばこんなふうに。

「あーあ、また食べてないよ。」

杉ちゃんは、器を見てすぐにそういった。

「食べたといえば、たくあん一切れだけかよ。」

確かに、水穂さんが食べたのは箸休めとして出されたたくあん一切れだけ。あとは、ご飯も、おかずも汁物も、全く手をつけていない。

「折角、凪子さんに、月曜日から金曜日まで来てもらったけどさ。ご飯を食べてくれた日は、一日も無いじゃないか。な、それじゃあ、無理な話だ。もう、帰っていいよ。」

「言われなくても、そうさせてもらいます。」

そう言われた凪子さんという女性は、すぐに前掛けを外した。ちなみに、彼女のフルネームは守谷凪子。何でも精神障害とか、そういう人を助けるための、NPOをやっている女性ということだった。ジョチさんが手伝い役を募集したところ、研修のためだという目的で、水穂さんの世話をしに来てくれた。水穂さんが、肉や魚などは食べられないということで、凪子さんは市販されている大豆の肉を使用するなど、工夫して料理を作ってくれたのだが、水穂さんがそれを食べたのは一度もない。

「5日間働かせてもらいましたが、こんなに癖のある人であれば、誰だって嫌がると思いますよ。だって、私が出した料理を、何にも食べてくれないんだもん。それでは、弱ってしまったって当たり前です。だって栄養を取らないというか取ろうとしないんですから。そんな人間がどうして水穂さん、水穂さんと言われて、皆さんから慕われ続けるのか、不思議でなりません!」

「まあまあ、守谷さん、そう怒らないでください。いくら食べてももっと食べたいもっと食べたいと言って来る、お年寄りよりはマシだと思いませんか?」

ジョチさんがそう言うが、凪子さんはそれでも頭に来てしまったらしくて、

「いいえ理事長さん。本当に困りました。私が作った料理を今まで一度も食べてくれないなんて。こう見ても私、料理の才能は無いわけじゃないと思うんです。だって私、一流じゃないかもしれないけど、料理の専門学校だって出たんですからね。それなのに、一度も口に入れてくれないなんて、箸休めのたくあん一切れしか食べないなんて、虫が良すぎます!もう一週間経ったからいいでしょ!帰らせてください!」

というのであった。杉ちゃんたちは困ってしまって、

「そうだけど。」

と、言うのだった。

「でもねえ、まだ5日間しか働いてないじゃないか。もう少し、料理を研究してだな。なんとかして食べてもらうように、持っていくことはできないものかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いいえ!5日間も働いたんですよ。それなのに、一度も食べてくれないなんて、もう人をバカにしているとしか言いようがありません。もう私ではなくて誰か他の人をあたってください。」

と凪子さんは、カバンを取ってきて、帰り支度を始めてしまった。

「せめて、夕食までいたらどうだ?」

と杉ちゃんは言うけれど、そんな事、耳にも入らないらしい。

「全く、最近の若いやつは、短い間で結論が出ないと、すぐにだめだとか、嫌だとか、そういう事言うんだよな。そうじゃなくて、もうちょっと辛抱強く待つってことはできないものかな。料理なんて、何十通りもあるじゃないか。他の作り方を調べてみるとか、そういうことはしないもんかな。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですね、最近の若い人は、SNSでもすぐに返事が来ないと落ち込んだり、裏切られたとか、そういう事いいますからね。販売サイトなんかでもそうじゃないですか。すぐに発送されないと、運営に通報でしょ。」

とジョチさんは、困った顔でいった。

「とにかく凪子さんが辞めるとなれば、代理の人を見つけましょう。まあ、ここに張り紙をするだけでは宣伝力が無いので、もうこうなったら、インターネットの、求人サイトでも使って、女中さんを見つけることが先決です。」

「そうだねえ。まあ、今流行りの掲示板サイトにでも乗せてみるか。」

杉ちゃんとジョチさんがそう言いあっていると、四畳半から咳き込んでいる声がした。

「もう契約はご破産とさせていただきましたから、これ以上お世話はしませんよ。それでは、もうこれで帰らせていただきますね。短い間でしたが、お世話になりました!」

凪子さんが頭を下げることもなく、玄関先に帰っていこうとすると、ガラッと玄関の引き戸が開いて、今西由紀子が、製鉄所の中に入ってきた。

「こんにちは。長らく岳南鉄道の社員旅行で、こちらに来られなくて失礼いたしました。」

「あれ、由紀子さん、日曜日に帰ってくるんじゃなかったの?」

杉ちゃんがわざとそう言うと、

「ええ。ですが、能登半島で地震がありましたので、そこへ行くのは取りやめになって、早く帰ってきました。なので、帰ってきたらすぐ、水穂さんに会いにきました。」

と由紀子は言った。それど同時に、水穂さんが激しく咳き込んでいる声が聞こえてきたので、由紀子は四畳半のふすまを無理やり開けて、

「水穂さん大丈夫?苦しい?」

と、布団で寝転がって咳き込んでいる水穂さんのそばに駆け寄った。予想した通り、朱肉のような色の内容物が出て畳を汚すという結果になった。杉ちゃんは畳代がたまんないからいい加減にやめろと言ったが、由紀子は水穂さんが中身を吐き出しやすくするように、背中を擦ってやり続けていた。ジョチさんは黙って、枕元にある水のみを差し出した。由紀子は、水穂さんの口元にそれを持っていって、飲んで!と言ったが、水穂さんの咳き込むのは治まらない。これには凪子さんもびっくりしたらしく、まさかこんな事を起こすとはという顔をしてオロオロしていた。

「あなた、新しい家政婦さん?」

急に由紀子が凪子さんに言った。凪子さんが思わずは?と聞き返すと、

「私、本当は社員旅行を断るつもりでいました。理事長さんが、代理で世話をしてくれる人をなんとか連れてくるから大丈夫だって言うから、それで行きたくもないところに行ったんです!それは、新しい家政婦さんを信頼していたからのことで、ちゃんと世話をしてくれると思っていたから、あなたに任せたのよ!それなのに、こんなひどい目に水穂さんをあわせたのね!それなら、家政婦としての義務を果たしていないことになりますよね!」

と、由紀子は激昂して言った。杉ちゃんが、由紀子にまあ怒るな怒るなとなだめたが、由紀子は怒ったままで、

「水穂さんが、悪くなることに気が付かなかったんですか!なにか、悪化するのを予見させる症状が出たとか、そういうことは気が付かなかったんですか!」

と凪子さんに詰め寄った。

「ええ。それは気が付きませんでした。ただ、私が作ったものは一切食べなかったので、私は頭にきて、」

と凪子さんがそう言うと、

「それが、予見だったのではありませんか!ここまで悪くさせてしまうなんて!」

由紀子は凪子さんに言ったのであった。凪子さんがどうしたらいいのかわからないという顔をしていると、

「ふたりとも、意味のないことを口論するのはやめてください。こういうことは、犯人探しをしても仕方ないです。それより、水穂さんの咳き込むのを止めることが先でしょう!」

ジョチさんが二人の間に入って、それを止めてくれた。その間にも、水穂さんは、えらく咳き込んでいて、畳を汚し続けるのであった。由紀子は、水穂さん大丈夫ですかと聞いても、答えることはできなかった。

「全くな、女ってのは、ちょっとしたことで感情的になるから困るもんだよ。僕、柳沢先生呼んでくるから。」

と、杉ちゃんが言うと、由紀子が、

「私にやらせてください。」

と言って、すぐにスマートフォンを出した。しかし、興奮しすぎていて番号を打つことができなかったため、結局製鉄所の固定電話で、ジョチさんが柳沢先生を呼び出すことになった。

「すぐ来てくれるそうですから、落ち着いて待っていてくれと言うことです。」

そういったジョチさんに、水穂さんは咳で返事をした。由紀子がやっと正気にもどってくれたらしく、

「ありがとうございます。」

と言った。凪子さんもこんな修羅場を見てしまっては、帰ろうと言う気になれなかったらしい。由紀子と一緒にその場に残ると言った。

「こんにちは。」

数分して、柳沢先生が入ってきた。凪子さんは、医者が来るというのだから、白い白衣を着て洋服を着た人物がやってくると思っていたようであるが、柳沢先生はそことは全く違っていた。茶色の着物を着て、白い被布と呼ばれる上着を身に着けて、イスラム教徒がするような茶色の縁無し帽子を被っているという出で立ちである。手にはカバンではなくて、重箱を持っていた。なんだか江戸時代であれば、医者として認められる風貌であるが、、、。

「先生は漢方医なんです。漢方のことであれば何でもお任せなんです。」

と杉ちゃんが言ったので、凪子さんは一応納得がいった。とりあえず、水穂さんが咳き込んでいて、自己紹介する暇もなかったので、柳沢先生は、急いで四畳半に入り、重箱を開けて、小さなすり鉢とすりこ木を出した。そして、何種類かの粉末をすり鉢の中に入れて、すりこ木でゾリゾリと擦った。その粉末は、独特な匂いがして、非常にきついものもあった。ジョチさんが、湯呑みを持ってくると、柳沢先生はすり鉢の中身を急須に入れて、水筒に入ったお湯で煎じて、その液体を湯呑みに入れて、水穂さんにそれを飲むように言った。水穂さんはそれを受け取ると、咳き込みながら飲み干した。なんだか飲んだものが気道に入らないか心配だったが、他に方法もないのだった。水穂さんが、湯呑みを杉ちゃんに返すと、不思議なことに、水穂さんは咳き込むのをやめてくれて、煎じた液体には眠気を催す成分があったのだろうか。畳を汚したまま、静かに眠ってしまったのだった。

「ありがとうございました。」

とジョチさんが柳沢先生に一万円札を渡した。漢方は保険がきくものもあるが、薬によってはそうでないものもある。多分、水穂さんに飲ませたものは、そういうものだったのだろう。

「また何かあったら、呼び出してくださいね。行けるときには行きますので。」

そういってすり鉢とすりこ木を片付けている柳沢先生とジョチさんの間には、なにか言ってはいけない取り決めがあるように、凪子さんには見えたのだった。なにか、重大な秘密があるのだろうか?それに、ここまで重大な患者さんを、救急車を呼ぶとかそういうことは全くせず、漢方医を呼び出すなんて、変だなと思ったのであった。ちなみに、以前、家政婦として雇ってもらっていたお家では、容態が悪化したら、すぐに救急病院につれていくようにという指示もあったはず、、、。凪子さんは、なんだか聞かずにはいられない心境になった。

「あの、すみません。」

思わず口を開いてしまう。

「どうして、水穂さんの事を、救急車を呼ぶとか、そうしなかったんですか?もし、可能であれば療養所みたいなそういうところに行くとか、病院に入院させてあげるとか、そうさせてあげるべきではないんですか?」

「ああ、それは無理だね。」

杉ちゃんは即答した。

「まあ、そんな事したら、病院たらい回しにされて、あの世行になっちまうのが落ちだよ。」

「よくわからないですね。」

と凪子さんは言った。

「わからないって何が?」

杉ちゃんが聞き返すと、

「たらい回しにされるって、でも、こういうときですから、病院に連れていくべきでは無いんですか?そうさせてあげるのが、水穂さんを楽にして上げる方法なのでは無いでしょうか?」

凪子さんは更に聞いた。

「いいえ、お若い方。世界にはですね。」

不意に、柳沢先生が言う。

「世界には、病院に連れていくことがためにならない民族も居るんですよね。例えば、未だに医療を信じていないで、加持祈祷のほうが上だと信じている民族もたくさん居るんです。僕もそういう民族にあったことがあります。若いときに、ビルマ、現在のミャンマーに行ったときの話ですが。」

柳沢先生は耳の痛い話を始めた。

「あの地域はまだ、民主主義が徹底しておらず、人種差別だって平気で行われています。僕は道路で倒れていた男性を見つけて、病院に連れて行こうとしました。その服装からして主流民族のビルマ族ではなく、ロヒンギャであることがわかりました。しかし、どこの病院でもロヒンギャはお断りと言われて、結局その人はなくなりました。ご遺体をご家族に返そうと思って、ロヒンギャの村を訪ねてみましたが。」

「ロヒンギャって、ミャンマーのラカイン州に住んでいる少数民族ですね。」

ジョチさんがそう説明した。

「はいそうです。そのロヒンギャの村へ行って、ご遺体を届けにいったところ、余計な事をするなと怒鳴られました。一人人がいなくなってなんてことをしてくれたんだと言われました。ロヒンギャにしてみれば、日本人や西洋人は、余計なものを押し付ける嫌な人にしか感じないんですね。だから、医療機関に引き渡そうとして、返って有害な事をしてしまうんだなと初めて知りました。考えてみれば、ロヒンギャが、西洋医学に触れられることなんて、殆ど無いですからね。それに引き合わせようとする日本人は、ただの余計な人間だったのでしょう。水穂さんもそれと一緒ですよ。そういうふうに、医療に引き合わせることが返って有害になってしまう人も、存在するんですよ。」

柳沢先生は話しを続けた。たしかに、そうだねとみんな黙ってしまったのであったが、

「でもそれはミャンマーのことであって、日本ではそのようなことは無いのではありませんか?私は、やっぱり、水穂さんは病院に連れていくべきだと思います。それに私は、一応、家政婦としてここに来たわけですから、そういうことをしないと、職務怠慢ということになってしまいます。」

凪子さんは更に主張するのだった。

「まあねえ。今の若い女性には同和問題なんて学校では教わってないだろうし、その実態もわからなんよな。まあ、誰でも平等にできているって日本は謳っているが、それは大間違いだってことに気がつく日が来るよ、いつか。」

杉ちゃんがそう言うと、凪子さんは、

「同和問題?それ、なんですか?」

と予想通りに答えるのだった。

「うーんそうだねえ。本人の前で、その同和問題のことを言ってしまうのはちょっとかわいそうな気がするな。いつも、銘仙の着物しか着用できないで、いろんなところでバカにされて、辛い思いをしてきた水穂さんのこと考えるとさ、簡単に同和問題の事を口にしちゃいけないような気がするんだよ。」

「そうですね。ある意味日本の歴史的な問題ですからね。負の遺産というべきですね。銘仙は。」

杉ちゃんとジョチさんは、そういった。

「まあ可能であれば、銘仙のことも調べてみてください。幸い、すぐに情報が入る時代ですから、答えだって見つかりやすい世の中ではあるでしょう。それをどうとらえるかは、あなたの自由ですがね。こういう柄の、銘仙の着物は、ロヒンギャの服装と似たようなものがありますね。」

柳沢先生が、水穂さんに掛ふとんをかけ直してやりながら、そういったのであった。凪子さんは、水穂さんの着ているものをみた。たしかに男性ものの着物で、凪子さんの考えから見れば、大きな三角形をくりかえして入れたような感じで、別に悪いところなどなさそうに見えるのであるが。それに着物なんて、高級な人の着るものでしょうし。と、凪子さんはそう思ったのだが、

「信じられないなら、この譜面を見てよ!水穂さんはこれを弾くことを強いられたのよ。」

と、由紀子が、一冊の楽譜を凪子さんに見せた。ゴドフスキーと書いてあるその楽譜は、凪子さんにしてみたら、音符がめちゃくちゃに書かれていて、どんな音楽なのか見当持つかないくらいの楽譜なのであった。でも、たしかに、こんな曲弾かされたら、大変だろうなくらいは、凪子さんにもわかった。

「そうなのね、でも、超絶技巧は、他の作曲家もあるのだし、、、。」

凪子さんはいいかけたのだが、楽譜の所々に血痕が付着しているのに気がついて、なんとなくだけど普通の人では無いんだなと言うことに気がついた。由紀子が指さした本箱は、そのめちゃくちゃに音符が書かれた作曲家の名前ばかりの並んでいる。そうなるともはや演奏家というより大道芸人と言うべきだろう。たしかに、大道芸人は、身分的にはあまり高くないことを、凪子さんは、本で読んだことがあった。

「私、、、なんてことしたんだろう。水穂さんになんてひどいことを、、、。」

凪子さんは、やっとそれに気がついてくれたらしい。果たして同和問題を理解してくれたのかは不明だが、水穂さんが体を壊してまで、ゴドフスキーの作品を弾かなければならなかったことを、なんとか気がついてくれたようだ。

「そうね。大道芸人は、すごいことやって、というか、馬鹿なことをやって生活していたんだもんね。」

「そうそう。同和問題の理解はそこから始まる。それを忘れないで、ずっとそういう人間が居たんだって言うことを忘れないで居てくれよ、家政婦三さん。」

杉ちゃんにそう言われて、凪子さんは家政婦という仕事を改めて、考え直したようだ。家政婦は家の中に入るけど、家計には関与しない。でも、いろんな家に入って、時にはそういう重い事情を持っている人の家に入ることもあるだろう。そして、単にそれを事実として受け止めるだけではなくて、仕事のパートナーとして、受け止めなければならないのだ。その家の事情や、辛さ悲しさも一緒に共有しなければならない。なんていいんだろう、と凪子さんは思ったのだった。

「わかりました。それでは、私、もう少し水穂さんのところで頑張ってみます。」

凪子さんはきっぱりと言った。


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食べれない 増田朋美 @masubuchi4996

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