8.スタート・ライン
4月になった。
遅い桜が散り始めた頃、
「理想の女性像は?」
「現在、お付き合いなさっている方は?」
「モデルは実は男性という噂もありますが」
こんな絵画バカのプライベート事情なんぞ聞いて面白い読者が居るのだろうか?
使用予定の写真を見せられた際には、思わず「誰だ」と思って吹いた。
創作でやつれ気味である筈の目元は健康そのもの、室内に籠もりがちのなまっちろい肌は見事に血色よろしく加工され、しょっちゅう寝癖と間違われるうねった髪は「無造作」とやらに整い、どこぞの芸能人みたいだ。
「素敵ですよね」と愛想よく微笑んだ相手に引きつった笑いを返した。
これが結婚相談所なら、詐欺だと思った。
結果、何年かぶりに「癒されたい」と思った明斗は翌日、臨時休業した。
腐っていた頃は、ひどくしんどい状態でもそんな風に思わなかったのに不思議だ。
『癒し』とは、忙しく働いている人間のものなのかもしれない。……いや、本当に落ち込んでいる時は、落ち込んだ原因を解消する以外には、何をしても癒されることがないと、頭ではわかっているのだろうか。
久しぶりに訪れたカフェ・One shotで、マスターの
――落ち込んでいる時、彼に会っていたら癒されたかもしれない。
「展示会では、ありがとうございました」
たった一度しか会っていない仲にも関わらず、花を持って来てくれた紳士に頭を下げると、彼はカウンターの向こうで同じように丁寧に腰を折った。
「こちらこそ。とても良い展示でした」
笑い皺が何とも温かい人柄の円は、どうぞどうぞと空いたカウンター席を勧めてくれた。以前は他に客は居なかったが、今日は数名が好みの席でコーヒーやケーキを楽しみ、写真が目当てと思しきカメラを持った初老の男性も居た。
「
例の熱いおしぼりと冷たい水を出しつつ尋ねられて、明斗はきょとんとした。
「え、と……? いえ、癒されたくて……」
「ああ、そうでしたか。てっきり、
あ、そういう事か。
今日の甘理は元々、モデルは休みだ。当初はモデルが無いとカフェの仕事をみっちり入れていた様だが、南美子に給与は出すから休みはちゃんと取る様に、と叱られた為、きちんと休むようになった。
「そういうわけじゃないんです。今日は俺が午前中の仕事で……」
質問責めという名のボディーブローを食った話をすると、円は声を立てて笑った。
「それはお気の毒に。何が宜しいですか?」
「ブレンドと、キャロットケーキを下さい」
「はい、しばしお待ちを」
One shotのコーヒーはハンドドリップ式だ。手動のコーヒー・ミルで一人分の豆を挽いてフィルターに入れ、ゆっくりと細く湯を注いで抽出する。豆が新鮮だと、湯を浴びるやふっくらと膨らむ。良い香りが漂い、ごちゃごちゃしていた頭の中をゆっくりと整理される感じがした。一緒に出て来たクリームチーズのフロスティングがぽってりと乗ったキャロットケーキは、シナモンやナツメグの甘くスパイシーな香りが何ともコーヒーに合っている。ほろほろっと
「美味しいですねえ……」
しみじみと言うと、円はにっこり笑った。
「先生がうちの店に来るなんて、有難いご縁ですよ」
「そ、そうですか?」
取材とは異なる恥ずかしさに頭を掻くと、円はカップを拭きながら頷いた。
「先生に会えて、甘理ちゃんも元気になったように思います」
「元気に……ですか。やっぱりお父さんのことで……?」
円はちょっと考える顔をした。
「そうですね、無いと言っていますが、それも何処かに有ると思います。あまり辛い事だと、自分で自分の心を守るために、向き合わないようにする人も居ますから」
「円さんは、甘理さんのお父さんとはご友人だったと伺いましたが……」
「はい。親友って言うと大げさな気もしますが、子供の頃からの付き合いです。随分、バカなことも、楽しいことも色々しましたねえ。妻が臥せっている時も、逝った後も励ましてくれました」
甘理の母も急逝と聞いている。きっと、円も励ましてきたのだろう、甘理に対する様子を見ていると、血が繋がっているような思いやりを感じる。
「先生、甘理ちゃんが絵を描いていたのは御存じですか?」
「え、あ、ハイ……見せてくれないんですが」
「やはり、そうなんですね」
思案顔になった円はすぐに表情を改め、他の客の会計をにこやかに済ませてから戻って来た。彼は何か思い詰めたような顔で明斗に言った。
「……先生、宜しければ夕食をご一緒できませんか。お話ししたいことが有るんです」
「はい、構いませんが」
どうやら周囲を
「ありがとうございます。何をご用意しましょう?」
「えっ、いや、それなら俺が……」
「とんでもない。お誘いしたのは私です。これでもやもめ暮らしが長いですからね、何でも作りますよ」
「つ、作ってくれるんですか」
まさかそう来るとは思わなかったが、このキャロットケーキを作る男の料理を断る理由は無い。
「何がお好きで?」
「何だろう……何でも食べます。野菜も、肉も魚も、和でも洋でも大歓迎です」
「かしこまりました。腕を振るいましょう」
「嬉しいな。手作りしてもらえるなんて久しぶりです」
素直に嬉しくて言ったのだが、円は何かを察したように切ない笑みを浮かべた。
「先生も、ご両親を亡くされていますしね」
「あ、えっと……それは……そんなつもりじゃない、というのは変か……あの、気にしないで下さい。人が言う程、俺は感傷的ではないので……」
父親に関しては申し訳ない程にうろ覚え、母親は苦しむ様子をあまり見せずにあっさり逝った為か、以前の大変そうにしていた時期の印象や、ハキハキ動いていたイメージが強い。
「そうですか、息子さんに心苦しい思いをさせない、素敵なご両親だ。故人を想って悲しむのは大事なことですが、辛いことでもありますから」
どちらかといえば、円の言葉が優しくて泣いてしまいそうな気がして、慌てて明斗はコーヒーを飲み込んでから顔を上げた。
「あ、あの……マスターは何がお好きですか。何かお土産を持っていきます」
すると、彼はちょっとニヒルに笑って、口元で片手をくいっと動かした。
どうぞどうぞ、と店と同じ調子で入れてくれた家は、カフェの二階の部屋だった。
男やもめ、なんて言葉が信じられない程度には綺麗にしてある。
土産に持参した地元のビールと日本酒を彼は手放しで喜んだ。出て来たグラスや食器が揃いで、彼の妻が使っていたのかと思うと微かに胸が詰まった。
多国籍ですが、と振舞ってくれた料理は文句の言いようがなかった。
マッシュルームやほうれん草のキッシュ、サラミとトマトの薄焼きピザ、蕪と生ハムとモッツァレラのカプレーゼ、たたきキュウリ、タコの唐揚げ……一体いつから準備してくれたのかと驚く程だ。
美味い美味いと言って食べる明斗に、円も嬉しそうにどんどん出す。
カロリーオーバーも甚だしいが、そんなことを気にしていては人生は楽しめない。
――あの雑誌の写真は、詐欺確定だが。
最後に日本酒をちびちびやっている中、円は幾らも酔っていない顔で言った。
「先生、昼間申し上げた件ですが」
「そうでした。何でしょう?」
「甘理ちゃんの絵を、見て頂けませんか」
「えっ! 有るんですか!」
グラスを取り落としそうになりながら飛び上がると、円はにっこり頷いた。
「はい。彼女が捨てようとしたものを、世間に発表しないことを条件に僕ら夫婦が譲り受けました」
「ぜひ、見たいです」
こちらへ、と、促されるまま従うと、その絵はひとつの部屋に飾ってあった。
「狭くてすみません。趣味に使っている部屋で」
そう言いながら円が電気を点けた瞬間、明斗はひと目で好きな空間だと思った。
窓のない大人の秘密基地といった
その絵は、入って真正面の壁に堂々と掛けてあった。
「これが……甘理さんの絵……」
タイトル・『スタート・ライン』。
それは、大きなキャンバスに描かれた、
大勢の色々な格好の子供が、徒競走をするスタート・ラインに並んでいる絵だ。
ところが、画面を真一文字に通ったライン上の整列はまばらだった。きちんと並んでいる子供が多数居る中、ラインよりも遥か後方に立つ子供、反対にラインよりも前に出てフライングしているような子供、ラインの方を見向きもせずに後ろに向かって蝶を追いかけていく子供。人種も、日本人、アジア人、西洋人、アフリカ系にヒスパニック系……とにかく、まばらだ。何なら、衣服も異なる。強いて言えば、フライングしている子供の衣服は立派そうで、後方に行くごとに簡素になり、人によっては穴やほつれ、継ぎ接ぎがある。
「如何でしょうか」
「凄い絵です」
絵を見たまま、明斗は答えた。
「表現が細かいし、色もクリアで引き込まれる。とても厳しいテーマの絵ですが」
振り返って答えると、円はやや悲し気に微笑んだ。
「僕もそう思います」
「なぜ、発表しなかったんですか」
「いいえ、発表しました。でも、日の目を見なかったんです」
評価されなかったということか。何故だろう?
技術は確かだし、絵は丁寧だ。テーマは厳しいが、残酷な表現は無いし、特定の場所から文句を言われるタイプでもなく、風刺画ほどあからさまな批判はしていない。賞を逃したとしても、このレベルの絵を描く画家を業界は放ってはおかないと思うが。
「この絵を描いたとき、彼女は非常に悩んでいました」
隣で絵を見上げて、円は言った。
「甘理ちゃんのお母さんは、良い意味で、非常に真面目で働き者の人だったんです」
「良い意味……と、いうことは……」
「嫌な言い方をしてしまうと、融通が利かないスパルタ・ママだったかもねえ。どうしても、比較してしまう……自分の子と、他所の優秀な子を」
「優秀な……?」
「不安定な芸術家は学生で終わりにして、大手企業に勤め、安定収入のある良い人を見つけて結婚するのが、お母さんが思う”優秀な子”だった」
不安定丸出しの芸術家が息を呑んでいると、円は苦笑して首を振った。
「でもね、甘理ちゃんの名前でもわかると思うけど、お母さんは元は空想好きで、ファンタジー作品が好きな可愛い人だったそうです。就職するまでにかなり貧乏したらしくて、苦労した経験から、非現実的なものが好きだったって聞きました。その時の自分に娘さんが似てきて、なんだかすごく焦ったみたい」
「……じゃあ、その理想は甘理さんを思ってのことだったんですね」
「そう。自分の子には苦労させたくないと思う余り、極端な考えを押し付けてしまった。甘理ちゃんは、ああいう子でしょ。奔放で、鋭い感性を持つ生まれながらの芸術家です。学年に一人か二人居る、格別に美術が得意な子でした。彼女の指導者たちは、相応しい未来がわかっていたはず。しかし、今の教師は教え子の将来について、親に意見したり、ましてや戦うことなんかしません。昔の人みたいに、責任を取るなんて言えませんから」
結果、甘理は実の母と一人で揉めるしかなかった。父は娘の良い様にと言ったが、母は頑として譲らず、条件を出した。
「それが、画家として認められる賞を取ること」
「それは……かなりハードルが高いですね……」
「ええ。先生のように業界の人にはすぐにわかることですが、彼女のお母さんはわかりませんでした。良い人なんですけどねえ……自分の常識で考えてしまう人で」
明斗は頷いた。
そうだ。正確には、画家になる為に賞は要らない。
強いて言えば、学歴も、資格も、師事した経験も不要だ。
数多く有るアートの賞には、確かに「名実共に」と言えるようなものが有るが、それは既に芸術家として活動している者も参加するし、学生同然の若者が金賞や大賞を取ることは稀である。
明斗とて、とんでもない賞を取ってから評価されたのではなく、展示会で南美子が見つけ、有難くも頼み込まれるような形でプロデュースしてもらい、画家としてやっていけるようになっただけだ。
兎角、インスピレーションが物を言う業界だけに、世相、タイミング、運もある。
絵なんか勉強したこともない芸能上がりのド素人も出てくるし、SNSで人気が出てデビューする者や、技術的には低レベルの小学生の絵がとんでもない額で取引されたこともある。
まさに、スタート・ラインは異なるのだ。
「見ての通り、この絵は『人それぞれ』というのがテーマの絵でしょう。誰もが、同じラインから出発するわけじゃないということを示してる。僕も教師をしていたから……この絵は身につまされるものが有って。日本の学校はどうしても横並びに、前へ倣えの姿勢が外せない。集団行動できる子を優先して、はみ出す子に頭を悩ませるところがある」
色んな子たちが居ると、教師もわかっているし、一人一人を大切にしたいと思っている。だが、決められた時間の中、決められた予定、決められたカリキュラムをこなさなければならず、一人にかける時間の確保は難しい。何かが滞れば、すかさず熱心な保護者から苦情が飛んでくる。或いは、はみ出てしまう子の方の親から、授業の早さや行動計画に苦言を呈されることもある。
この、人の好いマスターも、苦い思い出があるのだろう、小さく溜息を吐いた。
「甘理ちゃんは、この絵で学校や教師を責めているのではないと言いました。では、彼女が物を言いたい相手は誰だかわかります?」
「……社会、でしょうか?」
「その通り」
一見、今の子供たちの現状を見せるような絵だが、このスタート・ラインはこれまで何本も引かれ、何本もスタートしてきたものだ。
今、社会を築き、動かし、ラインを引いている大人たちに彼女は問う。
――貴方はどのラインに並んでいた?
――文房具は全部揃っていた?
――綺麗な服を着せてもらった?
――給食しか食べられない日はあった?
――勉強は理解できた?
――教室に静かに座っているのは何でもなかった?
――後ろに居た貴方、今はどうしてる?
見なさい。スタート・ラインは、一律じゃないということを。
「芸術に対する考えは一通りではないと思います。綺麗な絵、メッセージ性が強い絵、抽象画も色々有りますよね。だからこそ、この絵が『美しい絵』と比較されて落選したのは非常に残念でした」
明斗もようやく気付いた。
彼女の世代を考えたら、この絵と……同期なのは。
「的場さんが……評価を得た時に発表したんですね?『アート界の麒麟児』と呼ばれた時の……」
円は静かに頷いた。
「的場晃生さんが素晴らしいのは、甘理ちゃんもわかっていた。でも、もし……その時に評価されていたら、彼女は両親に胸を張って芸術家になれたかも。それも、比べている意見で、贔屓目に見ての話ですが……そんな人、他にも沢山居たかもしれないし」
そして、娘の成功を見ずして、彼女の母は逝ってしまう。
――此処だ。
明斗は大勢の子供たちが立つスタート・ラインを見つめた。
此処で、彼女の時は止まってしまった。
空っぽになってしまって、後悔し続けているのに、走り出す機会が無い。
「彼女……的場さんを恨んでいたでしょうか……?」
「どうだろうね……僕が知る甘理ちゃんは、人を恨むよりは自分を責める性格だと思うけれど、色々調べていたことはお父さんから聞いたよ」
色々……つまり、ニナが言ったという、甘理が的場晃生に意図的に近付いた話は事実かもしれないが、好きで近付いたというわけではなさそうだ。
しかし、現在に至るまでに復讐劇らしきことは起きていない。
的場晃生はその奔放な女性関係や作風から、モデルの女同士の騒動や、妙な女に付き纏われたケースは多い。甘理の場合、恨んで近付いた結果が炎上騒ぎという可能性もあるが……この件でダメージを受けて美術界を去ったのは甘理の方で、的場はその後も活動を続けている。的場について話した彼女の顔に嘘は無いように思えたが、「ときめいちゃったの」という言葉には違和感が浮上する。
それに――自分が彼女だったら、そんな風には思えない。
必死で挑んだ賞を奪われ、母とは死に別れ、今度は父を失うほどの炎上騒ぎとなった裸婦を求めた画家という……成功者に対して。
自分も、恨むには至らなくても、羨んだことは沢山ある。
作品を生み出す人間である以上、自分より技術的に劣るのに注目された人間や、反対に自分よりとんでもなく優れた人間に嫉妬することはある。
裸婦と画家に振り回された甘理は、今度は自分の為にモデルをと頼んだ画家を、どう思ったのだろう。
背に寒気を感じつつ、明斗は絵を見上げた。
「……こんな技術が有るのに、勿体ないです」
自分のことのように、ぽつりと呟いた。
「そう思われますか」
「はい。だって、良い絵です」
素直に、明斗は言った。円は同じように絵を見上げた。
「三咲先生がそう仰ってくれて、僕は嬉しい。甘理ちゃんにも聞かせてあげたい」
実父のように微笑んだ円に、明斗は真剣な目を向けた。
「円さん、この絵はもっと大勢に見てもらうべき絵です。共感を得ると思う……共感を得られる絵は強いんです。今の時代、見た人が作家を押し上げることは多い」
「僕もそう思いますが、仮に今、評価を得ても、甘理ちゃんは描かないと言いました。本当に見せたい人が居ないからなのか、自分自身の問題なのか……僕には話してくれなかった。でも、三咲先生になら、本心を話すかもしれない」
「ど、どうしてですか?」
「先生が、絵に真剣だからですよ。しかも、貴方は家族を失う悲しみとやるせなさを知っていて、挫折から立ち直った経験者だ。彼女が今、貴方に何を感じているかはわからないが、貴方の成功に良い印象を受けているように見える」
「良い……印象ですか? ……彼女の人生を見ると、僕は、恨まれる側ではないでしょうか……?」
周りに助けてもらうばかりのにわか成功者だと恥じ入る芸術家に、円は可笑しそうに笑った。
「先生は、”にわか”なんかじゃありませんし、恨まれるタイプじゃありませんよ。恨む人が居るとしたら、少々頭がおかしいか、逆恨みするような人ですね」
会って間もない人には過分な評価だと思っていると、円はやや照れ臭そうに言った。
「実は、僕は先生の『ミント色の街』で、泣いたことがあるんです」
「えっ……」
「絵を見て泣いたのは、今のところあの絵だけです。妻が居なくなって、寂しいなあ……って思ってる僕に、『わかります』って言ってくれてるみたいで。ああいう優しい絵が描ける人はどんな人だろうと思っていたら、思った以上に穏やかで純朴な人で、僕はとても嬉しかった。良い絵は人の心を動かすと実感しました。先生が周囲に助けてもらえるのは、そういう絵が描ける人だからですよ」
こっちが泣いてしまいそうな言葉に胸がいっぱいになり、何も言えなかった。
――こちらこそ、だ。
こういう事を感じてくれる人が居るから、自分は描き続けることができる。
「もし良かったら、甘理ちゃんに聞いてみて下さい。本当はどうしたいのか」
本当は、どうしたいのか。
難しい問いだ。描けずにいた頃の自分に問い掛けたら、答えに窮するだろう。
「……わかりました。話して下さって、ありがとうございます」
「こちらこそ。……さ、戻りましょう。先生が好きなチョコミントアイスも買ってあるんです」
至れり尽くせりの円に従って部屋を出ながら、明斗はもう一度、絵を振り返った。
――スタート・ラインか。
自分は、甘理は、あのラインの何処に居ただろう。
スタートした位置は、その後の全てを決めるだろうか?
そうではないと誰かに言って欲しいと思いながら、明斗はぱちりと電気を消した。
甘理がバスルームから戻ると、ソファーの上で電話が震えていた。
バスローブを引っ掛け、水滴を垂らす髪もぼさぼさのまま、二人で座ったら満員電車みたいになる碧地に様々な花が描かれたソファーに腰掛けた。
『アメリ』に登場する素敵な赤い椅子ではないが、発狂しそうなほどつまらないモノクロと茶色だらけのソファー売り場で、なんとか選んでカバーを掛けたものだった。
カバーを洗うために引っぺがす
といって、急に柄物を作らせると、どうしたわけかヴィクトリア王朝期みたいな花柄や薄っぺらい葉っぱや果物、星やハート、犬猫を山ほど描いたものを作るのだから謎だ。
「はーい」
〈あ、やっと出た。おはよ〉
電話越しの軽い挨拶に、甘理はニヤッと笑った。
「おはようって時間じゃないよ。こんばんは」
〈知ってるわよ。職業病なの〉
相手も笑っているようだった。合間に、深呼吸みたいな間が有る。また煙草を吸っているのだろう。
「何か用? 電話してくるなんて、珍しいね」
〈用というか……あんた、大丈夫かと思って〉
「大丈夫って?」
〈だって、脅迫状届いたんでしょ?〉
「私宛じゃないと思うんだけど」
〈本当にそうなの?〉
「対象が、レディ・ミントだからってこと?」
〈……わかんない。でも、嫌な予感がしてる。ねえ、三咲先生はどうしてる?〉
「ミントくんはいつも通りじゃないかな」
〈……そう。あの先生、穏やかそうだもんね〉
溜息混じりの紫煙が吐き出される気配がした。甘理も電話を置いて、髪を拭いた。
「そっちこそ、大丈夫なの?」
〈私は平気。いつだって、大変なのは玉城さんだけよ〉
「……私のこと、何か言ってる?」
〈何も。知ってるでしょ、玉城さんはそういうの言わないって――〉
「そうじゃなくて」
やや凄むような口調に、相手は押し黙った。甘理はふっと息を吐き、頭にタオルをかぶったまま言った。
「ごめん、やっぱいい」
〈……言ってないわよ。少なくとも、私は聞いていない〉
「……そう。ありがと」
〈らしくないわね〉
相手がおどけた調子で言うので、甘理も少し笑った。
〈もう一件、あるんだけど〉
「どうぞどうぞ」
ふざけないで、と注意を挟んでから、相手はそっと言った。
〈コラボの話。絵なんかピカソぐらいしかわかんないモデル連中もけっこう噂してる。読モ程度も知ってたから、だいぶオーバーに宣伝してるみたいね〉
「ふーん……そうなの。お菓子の写真は見たけど、私は関係ないよ」
〈本当に、それで済ませられるの?〉
「何が言いたいの?」
〈私の嫌な予感は、あんたが何かする気だと言ってる〉
「ふーん」
無意味にソファーの柄を撫でながら答えると、相手は鼻を鳴らしたようだった。
〈あんな男、放っておきなさいよ。何企んだって、南美子さんなら上手く対処するわ。余計な事して、三咲先生に迷惑掛けんのはイヤでしょ?〉
「余計な事はしないし、二人に迷惑は掛けないよ」
〈やっぱり何かする気ね〉
「しないよって言ったら安心する?」
〈言葉の上だけってこと? あのね、甘理……他の人のことなんていいじゃない。あんたはいい加減、自分のこと考えなさいよ〉
「私は自分のことばっかだよ。我儘でしょ」
〈それは頑固って言うのよ〉
ずっと年かさの人間であるような言葉の後、溜息混じりに紫煙を吹く気配がした。
〈……
「ミントくんが、ヘタレだなんて思ってないよ」
〈あらそう。じゃあ、三咲先生とはどうなの?〉
「え? 私と? それは何もないよ」
電話から、心底、がっかりした溜息が漏れた。
〈なあんだ。やっぱりヘタレなのかしら……〉
「ヘタレ」
〈ヘタレでしょ〉
「それはどうかな? 彼、そういう感じじゃないよ。本当に、
〈紳士的に見ればステキだけれど……世も末ねえ〉
「そう? いいんじゃないの。自由と平等が約束されてて」
〈何が良いのよ。この美術おバカちゃん〉
互いに、少しだけ笑い声が漏れた。
〈ねえ、甘理。存外ね……ゴールってのは近くにあるかもしれないんじゃない?〉
「ゴール」
〈あんたの絵のこと〉
「『スタート・ライン』のこと?」
〈そ。あれ、ご尤もな社会批判で好きだけどさ、一つだけ納得いかないのよね〉
ずばり言うと、あからさまなフッと煙を吹く音を立てた。
〈あんたが走り出さないと、あの絵は呪いになると思うの〉
「呪い……」
〈スタートが違うなら、ゴールも違うんじゃないの。あんたは遠くに有ると思ってるみたいだけど、たった一歩進んだ先がゴールかもしれないでしょ――あ、ごめん、マネージャーだ。切るね。いい? 変な事しちゃダメよ!〉
捨て台詞のような調子で通話は切れた。
甘理は電話を置いて、目の前の部屋を見つめた。
こじんまりとしたワンルームには、所々に家主の個性が見える。キッチンに置いてあるトースターは鮮やかなミントグリーンだし、隣のレンジはスポーツ・カーめいたイエローである。一枚では足りなくて、色も柄も違うカーテンが四連ぶら下がった窓。カーテンレールの上に据えた棚の上にひしめく動物のぬいぐるみや木彫りの動物。大きな鉢からあふれ出すように育ち過ぎたモンステラ。何を入れるでもなく気に入って買い集めた、安っぽい様々な色と形のガラス花瓶。好きな本だけ詰め込んだヴィンテージの棚。友人がくれた恐竜型のキャンドル台。キャンディが詰まった大きな瓶。おもちゃ箱のように、自分が好きなものだけ置いたインテリア。
この部屋は、夢を見ている。
それは未来に向かう夢ではなく、幼い頃に見たままの夢だ。覚めることを望まない大人を閉じ込めるように、カラフルで、楽しい――けれど、ぴくりとも身動きしない、とても静かな夢。
ぽた、と、髪の水滴が手に垂れて甘理は目を瞬かせた。
思い出したように髪を拭きつつ、立ち上がった。
洗面台に備えられた白い光に現実を見つつ、取り出したドライヤーに重みを感じつつ、甘理は独り、ぽつりと言った。
「一歩先、か」
誰かが引いたスタート・ライン。
では、ゴールを引くのは。
チョコミント・シンドローム sou @so40
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