7.ステレオタイプ

 「ミントくん、何か有った?」

甘理あまりの問い掛けに、がしゃん!と倒れた筆立てから二十本近い筆がぶちまけられた。

身動ぎもできずに筆が机を転がり、果ては床に落ちるのを眺めてしまった明斗あきとは、手に筆とパレットを携えたまま甘理を見、落下した筆を見、首を振った。

「説得力なさすぎ」

苦笑した彼女に引きつった笑いを返し、明斗は仕事道具を置いた。

「……き、休憩しましょうか」

亀のような動きで屈んで筆を拾う明斗に対し、甘理は座っていたソファーからひらりと降り、素早くガウンを羽織ってくると、しゃがみこんで一緒に拾ってくれた。

「大丈夫?」

「はい、すみません、大丈夫です……ちょっと考え事してて」

「わかる。そういうことあるよね」

「甘理さんも有りますか?」

――例えば、的場まとば晃生こうせいの事とか。

顔色を窺う様に目を上げた明斗に、甘理は筆を手に取りながら頷いた。

「あるよ。メイク落とすつもりだったのに、先に洗顔料手に取っちゃったり」

「はあ……なるほど」

そっちか。はぐらかされたような気もするが、彼女らしいといえばらしい返事だ。

「いつものことをミスると、ヤバいなって思うよ」

笑って筆を両手に乗せて差し出す彼女から受け取り、明斗も笑った。

「考え事って、悩み事?」

座ったまま膝を抱えて尋ねるのに、明斗は首を振った。

「いえ、大したことじゃないです」

「そう。それならいいけど」

すっと立ち上がると、甘理はいつものように隣室に出て行った。

油彩を描く空間で飲食をするのが好ましくないのを彼女はあらかじめ知っている。

溜息を吐いてのそのそと筆を戻し、ミントグリーンに染まった筆は洗浄液に浸した。ミント色に濁るそこから引き揚げてはしごき、浸してはしごく。すっかり落ちたと思っても、布で拭くと淡い色がついた。

手を洗う最中には、どういうわけか、犯罪の汚れを落とすような気がした。

制作そのものは順調だ。脅迫状のことも気にしていない。

それでも、何かが引っ掛かる。

ふと、個展に来てくれた玉城の言葉を思い出した。


――お前と同じ、スランプなんだ。描きたくないって、引きこもってる。


的場はまだ、描けないのだろうか。

描けない苦しみは痛い程わかるが、的場のそれは……自分と同じ痛みなのだろうか?

もし、甘理が去ったことが原因だとしたら……

あのぼんやりと風に吹かれて消えてしまいそうな姿を思い出しながら、明斗もアトリエを出た。

「ミントくんも要る?」

先日、南美子と話したばかりの事務所兼リビング&ダイニングにて、甘理はケトルの前でハーブティーのティーバッグを掲げて言った。大抵は此処で南美子がパソコンを置いて仕事をしているが、今日は磯崎いそざきとの打ち合わせで留守だ。

「はい、頂きます」

「どうぞどうぞ。くるしゅうない」

「ありがたく頂戴します」

変な調子でカップにケトルの湯を注いでくれる彼女に、変な調子で合わせると、自然に笑えた。毎度ながら、アトリエではない場所で素肌にガウン一枚の女性と向かい合っていると不倫の一幕のように感じるが、それは単なるイメージだ。現実は情事の後にハーブティーなんか飲まないだろう……それもイメージなのかもしれないが。

「これ頂くと、王子様と親指姫がどうなったか気になるんだー」

「あ、ああ……おみ小町こまちさんですか」

レモンやカモミールをブレンドしたそれは、あの日のお土産に臣のマネージャーのたにが寄越したものだ。甘理は楽しそうに頷いた。

あの二人に、花の国の王子と、チューリップから生まれた小さな少女を当てはめるなんて、やはり彼女はどこか芸術家や子供っぽい匂いがする。

「どうですかね。あれから特に連絡は受けていませんが……」

志方しかた先生、何も言わなさそうだもんね」

「仰る通り」

「谷さんかコマちゃんに聞いた方が早そう」

初対面の日から「コマちゃん」「アマちゃん」のあだ名で呼ぶ仲になった小町と甘理は連絡先も交換していた。

「聞いてみよっか」

「え……お節介じゃないですかね……?」

「あんな風にけしかけた人が言う~?」

ニヤニヤ笑う甘理に、あの日の爆弾発言を思い出して明斗は赤面した。

「あ、あれはその場の勢いですから……!」

「勢いでもいいじゃない。ああいうじれったい二人は、お節介ぐらいの方が良いと思うな。焚き付けた人の所為にするぐらいの方が、二人も気楽だよ」

甘理はさらりと言ったが、明斗は何故かぎくりとした。

子が持てないかもしれないという一点で、惹かれつつも距離を置いた二人。小町の両親や祖父母は、子供を持てるパートナーこそ彼女を幸せにする男だと思っている。

正統派の幸福。普通の家族。父、母、子が揃うことこそ幸せ。

親には親の、祖父母には祖父母の望みも有り、彼らがそう望む気持ちも、意地悪や非難ではなく、子供を思いやってのことだ。

有るべき家庭として”揃っていない”ことは……――沈んだ目に追われる。

安定したステレオタイプの、ステキな家庭。

誰かが欲しがっていて、手に入らなかった家庭。

「……俺も、二人が幸せなのが何よりですけど、そっとしておきませんか?」

自分で言ってみて、何故か冷たい一言に感じた。甘理は深いコーヒーのような色の目でじいっとこちらを見た。

「いいけどさ、ミントくん……何を怖がってるの?」

「え……?」

「脅迫状のこと?」

ぐさりと刺すような言葉に、明斗はカップを倒しそうになりながら首を振った。

「い、いえ……それは別に――……」

「じゃあ、何かな。今日は描いてる間、しょっちゅう気が散ってるの。こっちは見られてるからわかるよ」

――う……そういえばそうか。

無論、甘理と的場の関係が気になっているのだが、南美子との話を思い出すと、にわかには言い出せない。

「そ、それは……そのう……――」

「うん」

「い……今、進めてるコラボレーションがちょっと特殊な仕事っていうか……こういうことやると、儲かるけど……変なインタビュー頼まれるし、世間に思ってもみないイメージ抱かれるっていうか……」

甘理はしばし精査するようにこちらの目を見ていたが、「ふーん」と呟いて背もたれに身を引いた。

「インタビューって、業界誌で記事になる系の?」

業界誌の言葉が引っ掛かりつつ、明斗は急いで頷いた。

「い、いえ……業界誌は良いんです。俺が苦手なのはその……若い女性向けの雑誌とか、情報誌に特集組まれたりする方のやつで……」

「ああ、そっか。スイーツとのコラボじゃ、女の子向けのファッション誌やグルメ雑誌とかも来るだろうね」

乗ってくれた甘理に感謝しつつ、明斗は大真面目な顔をした。

「……そ、そうです。あの手のやつって、盛られるでしょう……関係ないプライベート情報とかも」

嘘ではない。臣は開き直って『王子様』をやっているが、こっちは彼ほど器用でもないし、要らんパフォーマンスを断る大御所の気概もない。

母のことなど、あまり突っ込んだ話は南美子が上手く避けてくれているが、子供の頃の夢とか、最近ハマっているものとか、答えを考える度に自分の恥ずかしい部分を晒すか、嘘を塗って自分らしさのない記事に赤面するのが常である。

「女性誌が相手じゃ、恋愛事情なんかも聞かれそう」

「はあ……ですね。絵には関係ないのに」

「ヌードを描いたら仕方ないね。ミントくんは人気出ると思うよ?」

「……適当に言っていませんか?」

恨めしそうに問い掛けたアーティストに、甘理は小鼻に皺を寄せて笑った。彼女はゆったりと首を捻り、明斗の内側を眺めるように見つめた。白い首に細く滑らかな髪がさらりと垂れた。

「私の感性で言えば、出るんじゃないかな。背は低くないし、顔は欠点らしい欠点も無いし。ちょっと不健康っぽいけど、それはアーティストあるあるだから大丈夫。自信もちなよ」

喜ぶには珍妙な励ましに、そこそこのアーティストが唸っていると、甘理はからりと笑った。

「ミントくんのファンや取材陣は、こっちには回さないでね」

「あ、ハイ……脅迫の件も有りますし、甘理さんは誰が訊ねても答えないでいいですから」

うん、と頷いた甘理の周囲に、無礼な取材はもちろん、危険なことは起きていない。

こちらは甘理のことを公表していないが、此処に出入りしている以上、鼻の利くマスコミはとっくに掴んでいるだろうし、彼女を見たことが有る業界人も気付いているに違いない。それでも周囲が静かということは、手痛い炎上騒ぎで多少なりとも凝りていると見て良いのだろうか。

それとも、的場晃生に比べたら色気のないつまらん画家ということか……?

「ミントくん、本当に脅迫状の件は心当たり無いの?」

「あ、有るならとっくに警察に言ってますよ?」

「そっか……そうだよね」

甘理はのんびり頷いてカップを傾けた。つい、その仕草を注視してしまうが、隠し事をしているような怪しい様子は無い。むしろこっちの方が、いちいち狼狽えて怪しいことこの上ない。

「画家に……絵を描くのをやめろって、ひどいセリフだね」

独り言みたいに呟いた甘理の顔を見ると、彼女は何もないテーブルを物憂げに見つめていたが、どこか遠くを見ているようだった。

昔、取り上げられた何かを見るように。

「ひどい……か。まあ、そうですね。自然なことだから。呼吸をやめろって言うようなものかもしれない」

「ミントくんは、あまり無理して描いてないものね」

「無理、ですか」

「そう。自分の作品に悩んだり、上手くいかなくて憤慨してない」

「えっ、いや、しますよ? ほんの少し前は散々でしたし……今は、レディ・ミントのお陰で落ち着きましたが」

「レディ・ミントのお陰」

気になることを復唱する甘理の声に、明斗はハッとして首を振った。

「あ、いえ、違います! 甘理さんが居たから――」

「そんなつもりないけど、お気遣いドーモ」

くすくす笑い、彼女はテーブルに頬杖ついて明斗の目を覗き込む。

「描きたいモチーフがあれば、落ち着いていられる?」

微笑んで首を傾げた彼女に、何故かどきりとして目を逸らし、頷いた。

”また”だ。

臣の家で、甘理にピストル型にした指で指された時に感じた火が、胸に燻る。

描きたいモチーフ。描きたい女。

「そ……そりゃ……そうですよ。描きたいモチーフがあるのは、落ち着きます。皆そうだと思います……」

「……そうだね」

どこか”いわく”有り気に彼女は答えたが、穏やかに微笑んだ。

明斗はもそもそと髪を搔き、酒の様にハーブティーを呷ってから言った。

「そろそろ、戻りましょうか……」

「はーい、先生」

伸びをして、彼女は笑った。モチーフ。この人はモチーフで、俺は画家。

同じモチーフを描いたのに、違う絵。違う女。

此処に居るのは『レディ・ミント』。

では、『夜の階段』の女は何処に?




 「ああ、失礼。そろそろ次の打ち合わせが」

今日も今日とてラフなスーツもヘアスタイルも完璧に整えたつもりであろう磯崎は、実業家の必需品かと思われる高級腕時計を確認して言った。

打ち合わせの頭から、磯崎とその秘書の女やスタッフが漂わせる香水や整髪料の匂いに頭がガンガンしていた南美子はやれやれと思いながら頷いた。

ガラス張りで仕切られ、各所に観葉植物を置いたおしゃれなオフィスは、明斗と同世代の磯崎を始め、大学生のサークル活動かと思うような若者ばかりだ。

絵なんか到底わかりそうもない連中が、さも使い慣れた様子でスクリーンにイメージ映像を表示させたり、広告や宣伝文句をプレゼンし、仕舞いに「おしゃれー」とか「カワイイー!」とか言いながらコラボ・スイーツの試作品を試食し始めた辺りで、南美子はクラクラしたものの、確かに、スイーツは可愛かった。

事前に口を酸っぱくして『安っぽくならないように』と伝えた通り、ミントグリーンとココアの生地が綺麗な層になったケーキや、女性の横顔のシルエットを模したチョコレートが乗ったチョコミントアイスクリーム、チョコのリボンが掛けられた水玉模様のカップケーキ等々……どれもホテルで提供できるレベルのスイーツだ。

チョコミントの愛好家は若年層に多いが、このフレーバーのアイスクリームが初めて販売されたのは1974年――当初の不評から徐々に人気を伸ばしたのだから年配のファンも居る。明斗の絵を愛するファンの顰蹙ひんしゅくは買わずに済みそうだ。

――『楽しい』が主体なのは悪い事ではないけれど、芸術をお遊び感覚で舐められるのは困るのよね。

内に呟きながら南美子は立ち上がり、ルージュを引いた唇をもたげてから、にこやかに頭を下げた。

「ありがとうございました。お伝えした件、宜しくお願い致します」

「はい。ご要望は検討させて頂きます」

目ばかりギラギラさせて磯崎は愛想笑いを浮かべた。

こいつの本心がどうかは別として、このコラボレーションが、『若い層が芸術に触れる機会』とやらになると言った以上、成ってもらわねば。

「では、どうも」

お辞儀はド素人の磯崎が部屋を後にし、南美子もエレベーターまで案内され、ビルを出たところでようやっと一息吐いた。

明るく洗練されたオフィス内は高価な空気清浄機があちこちに設置されていたが、やはり外に出てうっすらと冷えた空気と自然光に触れるとほっとする。各所に並木道を抱く丸の内のオフィス街は、まだ樹木に葉が無いだけに少し侘しかったが、洒落た石畳の上を昼休憩に出て来た社会人が多く闊歩していた。

「はー……疲れた……」

正直な溜息をこぼすと、いきなりポンと肩を叩かれて南美子は仰天した。悲鳴を上げて飛び退いた女に通行人の視線が集まり、肩を叩いた人物は潔白を示すように両手を挙げて目を瞬かせた。

「おいおい、そんなに驚くことないだろ?」

「た、玉城たまきさん……! もう! 急に出たら驚きますよ……!」

「ええ? 人を幽霊みたいに言わないでくれよ」

けんもほろろの南美子に苦笑した玉城に、周囲の人々も事件性は無いかと目を逸らしていく。

「玉城さんも……こちらに御用ですか?」

画商もしている玉城は、磯崎とも取引している。ビルを振り返る南美子に、玉城は首を振った。

「いや、俺は別の会社と打ち合わせしてきたとこ。平謝りして、肩凝ったーって思ってたらお前が見えて」

肩を揉みながら苦笑いする玉城に、察した南美子は気の毒そうに眉を寄せた。

「的場さん、まだ具合が宜しくないんですね?」

「体は異常ないんだけどな……仕方ないさ。それより南美子、昼行かないか」

「いいですよ。奢りなら」

「こいつ~、いつまでも後輩のつもりでいやがって」

業界に顔の広い玉城は、人付き合いも多く、各地の店も詳しい。ランチ難民にならずに済んだ南美子が丸投げして付き従うと、玉城が迷わず入ったビルの中、和風の木製看板が掛かった店に着いた。女性客よりも圧倒的に男性客が多い店内に入ると、店名からして揚げ物の店とわかるそれに対し、こざっぱりと綺麗なカウンターや脂ぎっていない厨房が見えた。もう美味い店だ、間違いない。行列に並んで、小娘が写真なぞ撮っているカフェに入らずに済んで良かった。

同じランチの定食を頼むと、程なくして油がカラリと切れたきつね色のトンカツが、たっぷりのキャベツや熱い味噌汁、ぴかぴかに輝きながら湯気を立てる米と共にやって来た。確実に腹を満たすだろうどっしりした定食のわりに、盆も器も載せ方ひとつとっても雑な感じがしないのが好感が持てる。

「ミントはどうだ?」

箸を入れて間もなく、向かいから玉城は訊ねた。無論、植物ではなく明斗のことである。

「調子は良いですよ。例の手紙もさほど気にしていないですし」

「そうか……ま、ミントは平気だろ。恨まれるようなタイプじゃないから」

「だから怖い面も有りますけどね。わけわかんない難癖付けられるのが特に」

確かになあ、と同意しながら玉城はサクサクのカツを摘まんだ。

「コラボは上手くいきそうか」

「そこはミントの力量ではないので。私がしっかりすればいいだけです」

「すっかりプロだな、南美子」

「まだまだですけど、形になってきたのは『魔王』のおかげです」

マネージャーとして師である玉城を名前の『真央まお』にちなんで、『魔王』と呼ぶ南美子はニヤッと笑った。実際の玉城は魔王とは真逆の人物だが、自分では何もできないに等しい的場晃生を一流アーティストに押し上げ、何年も作品を発表させてきた以外にも、数名の芸術家を支援する辣腕化の顔は、十分に畏怖を抱ける。

「作家有ってのマネージャーですから、私が”出来る”のはミントも原因ですね」

「ハハ、ミントに目を付けたのはお前なんだから、ちゃんと世話してやれよ。いや、でも良かった。あのまま辞めちまうかなあって心配してたから」

「……私だって、転職しようかと思ってましたよ。結婚したままだったら……続けなかったと思います」

「南美子が離婚して、ミントはラッキーだったな」

「言ってくれますねえ……」

所謂、売り言葉に買い言葉で別れた為、苦笑いする他ない。

勿論、好きになって結婚したが、人間だれしも、相手の前に『自分』が存在する。

明斗がスランプだった頃、夫が「俺とあの腐った芸術家のどっちが大事なんだ」と言ったのが南美子の逆鱗に触れた。その時、気付いてしまったのだ。自分が最も重要視していたのは、夫でもなければ、マネージャーとして大成することでもなかった。

芸術だ。明斗が描く絵。『ミント色の街』に並ぶ、更なる美。

それを、愚かな夫は明斗本人やマネージャー業に執着していると勘違いしていた。

まあ、無理もないと言えば無理もない。それが凡夫、『普通』というものだ。

こんな裁量の狭い男、我慢ならない! 今でも思い出すとイライラする口論の末、悩むこともないまま別れた。

「お前、もう結婚しないの?」

「玉城さんこそ」

「俺ァ、ジジイだもん。お前はまだ若いだろ」

「玉城さんは男ですし、仕事出来るんだからダンディズムでカバーできますよ。問題なのは、鈍感ってことですね」

一度は気になっていた男は、案の定、きょとんとしている。

「鈍感かなあ」

「間違いないです。それに、女は三十五過ぎると市場価値が下がるんですよ」

「それ、流行ってんのか? ウチの社員で婚活してる二十代の子も言ってたけど」

南美子は鼻で笑った。その笑みは市場価値など気にする顔ではない。

「流行ってるんでしょうねえ。何処の性悪が流行らせたんだか知りませんが……」

歯切れのいいキャベツを楽しんでから、南美子はどこか苛立たしげに言った。

「ミントが甘理とそういう話したって聞いて。はっきり言って、下らないデータですよ。子供無くしての結婚に対する意識は多少なり共感できますが、結婚は勿論、子供が出来ないイコール不幸では断じてありません。……にも関わらず、子供が居ないことや夫が居ないことに過剰反応過ぎるんです、日本は」

「だな。ジジイの俺でもわかるよ。老後に二千万必要って話も、データで示すのはいいけどさ、今は倍になるとか言い出してるだろ。そんな一般人には対策しようのない注意喚起したって不安煽るだけなのにさ。災害だの、不況だの、何が有るかわからんのに、いつまでウン十年前の『普通』を引き摺ってんだか……」

「先進的なおじさんで感心致します」

「だろ」

笑い合ってから、南美子は嘆かわしそうに言った。

「私が離婚した理由は経済的な話じゃありませんが、『普通』の結婚とやらが出来ない社会作ったのは、バブルを謳歌して負の遺産バカスカ建てた挙げ句に経済破綻させた人達じゃないですか。ゆくゆくは私達の稼ぎで養われるくせに、借金まみれにしちゃって、自分たちは退職金もらって悠々自適とか孫の顔が見たいとか介護サービスがどうのとか言っちゃって、『日本支えてきた』なんて言うんですから呆れますね。おかげさまでこっちは年金生活なんかほぼ無理なんだし、せめて介護されないように運動でもしたら?って思います」

「世代的に耳が痛いね。南美子はいちいち尤もだから、ミントは大変だろうなあ」

「あら、どういう意味でしょう?」

中高年も逃げ出したくなるだろう睨みに、玉城はまあまあと手を振った。

「思想はともかく、南美子はしっかりしてて良い嫁さんになるだろうに勿体ないよ。良い奴居たら紹介させてくれ」

「私は良いお嫁さんより、仕事バカで結構です。前の男もそれが原因で別れましたからそのつもりで」

気のない返事を返す女に、玉城は苦笑した。

「でも、家に独りは寂しくならないか?」

南美子は最後のカツを堪能して、箸をそっと置いて湯呑を手に取った。

「全然、とは言いませんが……私、ミントが頼ってくれる内は続けたいんです。玉城さんはご理解頂けるでしょう? 私は彼も大切ですが、何よりその作品に惚れています。『誰か』と作る幸せ“かも”しれない家庭より、後世に残る名作を生む手伝いがしたいんです」

結婚の概念に『家庭第一』なんてものがある『普通』の相手は無理。

ジェンダーレスが謳われる世の中でも、仮に子供をもうけたら母として育てたくなるものだし、そうではなかったとしても、優先的に考えざるを得ない。

「ミントはアーティストとしてはまだ若いですが、その分、もっと成長する筈です。今回の『レディ・ミント』だけでは終わらないと思います」

「そうか……お前は立派なマネージャーだな。ミントにとって良いパートナーだと思う」

率直な誉め言葉に、南美子は恥ずかしそうに茶を啜り、照れ隠しのように言った。

「……ミントに、お嫁さんが出来たら、色々変わりそうですけどね」

「敏腕マネージャーは嫁さんまで、チェックしそうだなあ」

「しませんよ。犯罪歴が無いかぐらいは調べるかもしれませんが」

苦笑した男に、女は澄まし顔で味噌汁を啜った。

「玉城さんだって、的場さんの作品に惚れているでしょう?」

何気ない言葉に、玉城の表情にちらりと言い得ぬものが揺らいだ。それはほんの一瞬、違和感のように浮かんだが、吹き消すように消えて微笑んだ。

「……ああ。俺は……晃生に生涯を捧げたも同然だからな」

的場の真の伴侶と言われることもある玉城は、やや疲れた顔で答えると、コップの水を飲み干した。

「……実際、的場さんはどうしてるんですか?」

「何も。ボーッとしてる」

憚らぬ様子で答えた玉城に、南美子はちらりと辺りを見回して声を潜めた。

「……一切、描いていないのですか」

「昔描いてたみたいな……落書きみたいなの描いてるよ」

的場が子供の頃、動物や昆虫、植物を描いていたのは南美子も知っている。思えば、産毛や葉脈などの細部にまでこだわった絵が、彼の才能を世に発信するきっかけだ。

しかし、ヌードを始めてからはこうした自然物の絵は描いていない。

「以前の趣向に戻られたということでしょうか……?」

溜息混じりに笑って首を振った。

「発表できるようなレベルじゃないし、集中して描いていないんだ。家に籠るのは良くないと思って、あいつが好きな雑木林だの沢だの連れて行ったが、反応が薄い。相変わらず、美術館や映画館とか、人が多い場所は嫌がるし……」

まるで、デートの行先に悩むようだ。南美子は膝にきちんと両手を揃えて問うた。

「甘理のことを、引き摺ってはいないのでしょうか」

「ミントにも言ったが、晃生の真意は俺にもわからんよ。傍目には無さそうに見える……名前を出したり、あの絵を見たりしてないから」

あの絵とは『夜の階段』のことだろう。

確かに、あの絵は的場の手元にある筈だが、自宅兼アトリエに飾られてはいない。

さすがにベッドルームは見たことがないが、あの絵をそんな場所に飾っていたらニナや出入りした女たちが怒り狂うに決まっている。

「彼女……晃生のこと、何か言ってた?」

「ミントが聞いた上では、好意は抱いていた様です。でも、炎上騒ぎやニナに怒る様子はなく、的場さんに未練がある様子も無かったと。玉城さんには『守って貰えて有難かった』と発言したそうです。私も同じ印象を受けました」

「こっちが有り難くて泣けちまう。……元気なら、俺はそれでいいや」

玉城らしい感想と共に溜息を吐くと、彼は米一粒残っていない器を前に手を合わせ、ひょいとレシートを摘まんだ。

「あ、ちょっと! さっきのはジョークですよ」

急いで財布を取り出そうとする女に、玉城は笑った。

「誘った方が払うもんだって教えたのは俺だ」

颯爽とレジに向かう男を眺めやり、南美子はそそくさとバッグを持ち上げた。

店を出ると、数人の列ができていた。ビルを出ると、南美子は丁寧に腰を折った。

「美味しかったです。ありがとうございました」

「ランチ程度で律儀だなあ」

「……あの、玉城さん――……私にできることが有ったら仰って下さいね?」

「ありがとう。ミントもそう言ってくれた」

日差しに眩しそうに目を細め、玉城は首を振った。

「けどな……お前が支えんのはミント先生だよ。お前が言う通り、あいつはまだまだ良い作品が描ける。晃生ほどじゃないが、自分のことはからきしなタイプだし、お前の助けが要るよ、きっと」

「はい。頑張ります」

「体に気をつけてな」

それじゃ、と軽く片手を上げて立ち去る背に、南美子は改めて深々と頭を下げた。

まだ葉のないケヤキを見上げ、わけもなく息を吐き出し、時計を確認した。

志方先生のところへのお返しを用意して、ミントたちに何かお土産を買って帰るか……そう思いながら顔を上げて足を向けたのは、磯崎が運営するホテルだ。

ロビーには一番最初の『ミント色の街』が掛かっている。

人生を変えたと言える作品は、近くに来る度に観に来ている為、フロントのスタッフも顔見知りだった。彼らに軽く会釈しながら絵画に歩み寄ると、今日は先客が居た。

白髪をふんわりと短くしている婦人が一人、絵を見上げていた。

薄く柔らかそうなニットのカーディガンを羽織り、渋い色味のパンツスタイルは素朴だが、上品な感じの女性だ。しげしげと眺めているというよりは、ただ佇んでいるように鑑賞している。邪魔をしないように離れた位置から見上げていると、彼女はこちらに振り向き、皺を刻んだ顔を微笑ませた。

南美子も何とはなしに微笑むと、婦人はおっとりと言った。

「素敵な絵ですねえ」

「ええ……そうですね」

そうでしょう、と言いたくなるのを抑えて南美子は微笑んだ。

先程の一言だけで、婦人が数年の知己のような気がしてくる。穏やかな顔で絵を見る姿は、理解者の証だ。同じように佇みながら、南美子は内心、首を傾げた。

このホテルに、一般人と思しき高齢者は珍しい。小さなハンドバッグ以外の荷を持っていないが、宿泊客だろうか。客の殆どは磯崎のように若くして成功したタイプの起業家や、海外からの旅行客、接待で招かれたと思しきビジネスマン風の外国人などが多い。連れが居るにしても……高齢の婦人が都心のモダンな宿に泊まるというのは違和感がある気がした。

――それこそ『普通』に憑りつかれた感覚ね。

いいじゃない、高齢の女性がこういう所に泊まったって。私も何十年か後にはそうなのかもしれないし。或いは、成功した子供や孫と東京見物にでも来たのかも、と、自身の固定観念を反省しながら想像していると、物静かな声がした。

「ユキエ、そろそろ行こう」

振り返った先には、こちらも品の有る白髪混じりの高齢男性が立っていた。日本人の高齢者にしてはやや背が高く、地味なジャケット姿だが、靴は綺麗に磨いてある。

こちらも小さなショルダーバッグのみの軽装だった。長旅の様子は見られない。

呼び掛けに、婦人は名残惜しそうに絵を振り返ってから、会釈して背を向けた。

同じように会釈して、なんとなくホテルを出るまで夫婦と思しき二人を見送った南美子は、改めて絵を見上げた。

穏やかに広がる、ミント色の街並み。

この絵から、一人の芸術家の歴史が始まった。

『ミント色の街』を見るなり、身震いするような衝撃を受け、その日のうちに明斗を訪ねたのが昨日のことのようだ。

まだ母親の死を整理できず、「結果的に良い絵になっただけ」と萎縮する青年に、

「この絵に惚れたの」と詰め寄ったのはあまり良い出会い方ではないだろうが、苦節の日々も含めて後悔はしていない。

まだ始まったばかりだ。得体の知れない脅迫状なんかに負けてたまるか。

ミント色に染まった何気ない街並みごと、あの青年を飛び立たせると決めたのだ。

1974年に異質とインパクトと共に現れたチョコレートミントアイスクリームが、今では当たり前のレギュラーに躍り出たように。

絵に向かって、むん、と気合を入れて、南美子は身を翻した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チョコミント・シンドローム sou @so40

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ