6.シロ

 その女は、あまりにも『女』だった。

「お久しぶりです」

明斗あきとたちがおみのアトリエを訪ねていた頃、表参道のしゃれたカフェの個室で南美子なみこが挨拶したのは一人の女だった。

「お久しぶり。三咲みさき先生、復活なさって良かったわね」

わかりやすいリップサービスに、南美子はどうにか笑顔で頷いた。

来島くるしまニナ。人気ファッションモデルにして、『ブランシュ』シリーズののモデルだ。

白のたっぷりしたニットの袖からはしなやかな腕が伸び、ハーブティーを満たした白い磁器も、白やグリーンを基調としたクラシカルな雰囲気の内装までが自身のセットのようなニナは、文句の付けようがない笑顔をした。清楚や無垢を思わす白をイメージカラーにしているニナの笑顔は、知らぬ者が見れば清純だが、知る者には根や葉に毒が有ってなお可憐なスズランのようなものだ。

「正直、もうダメかな~って思ってたわ。三咲先生、ヘタレっぽいし」

さっそく出た、愛らしいピンクの唇からの毒吐きに、南美子は愛想笑いを浮かべるだけに留める。この見た目ばかり綺麗な無礼者にいちいち腹を立てていたら胃が溶けてしまう。

「ヌードを描くなら、仰ってくれれば良かったのに」

「いえ、そんな――うちの三咲は不器用ですから、ニナさんのようなトップモデルはとても雇えません。どんな無礼をするかわかりませんので」

「あら……三咲先生なら大歓迎よ。晃生こうせいと違って誠実そうだし」

――でも、ヘタレなんでしょ?

内に舌打ちしていると、ニナは絹糸みたいな髪を撫でつけて独り言のように言った。

「だから驚いたわ、まさか三咲先生があの女で新作を描くなんて」

「えっ」

冷静に振舞っていたつもりの南美子が思わず声を上げた。

「あの女って……ニナさん、どういう――……」

甘理あまりでしょう? 『レディ・ミント』のモデルは」

南美子は逸る気持ちをどうにか抑えて言った。

「な……なぜ、『レディ・ミント』のモデルが辻井つじい甘理あまりだとご存知なのですか?」

墓穴を掘ったかと思ったが、ニナは余裕の顔で首を振った。

「見たらわかるわよ。殺しちゃいたいと思った女の顔を、忘れると思う?」

「それは――……私は生憎、そうした心境に至ったことがないので」

「ふうん。羽鳥さん、バツイチって聞いてるけど」

涼しい顔のニナに、南美子はまたしても内に舌打ちした。全く、芸能界きってのジェラシー女はゴシップには鼻が利く。

「お互い、納得の上の離婚です。殺意なんて物騒なもの、感じたことはありません」

「インテリは男女関係までドライなのね」

南美子が有らん限りの悪罵を内に唱え始めたところで、ニナは椅子にもたれて足を組み替えた。

「私じゃないわよ」

唐突に言って、デビュー当時から何も変わらない様子の美貌を迷惑そうに歪める。

「脅迫状の話で来たんでしょ」

「……聞いていたんですね」

「そりゃそうよ。玉城さんの耳が早いのは貴方も知っての通り」

ふ、と溜息を吐いて、ニナは茶に唇を濡らした。カップを置くと、煙草でも吸いたそうな顔で頬杖ついて脇を向く。そういう顔をしても綺麗な女だ。

「私、図太い方だけど、これでもあの炎上騒ぎはトラウマなの。今さら脅迫なんかしたら、自分から悪女になるだけじゃない。三咲先生を困らせたって、私には良いことないわよ」

「では、無関係なのですね」

「そう言ってるじゃない」

「それなら……疑ってすみません」

殊勝に頭を下げた南美子に、ニナは存外、怒ることはなかった。

その整えた爪で相手の顔を引っ搔いたとか、グラスを投げ付けたと噂の女は、寛大になったのか、それとも単にわきまえただけなのか、物静かに首を振った。

「――いいわよ。あの女が嫌いなのはホントだから」

こういう場合、怒り狂うことがないのも少々始末が悪い。南美子は肩をすくめて顔色を窺うように仰ぎ見た。

「あの……ニナさんみたいに、甘理を嫌ってる人って他にも居るのでしょうか?」

「居るに決まってるじゃない。……煙草いい?」

しれっと言い、こちらの同意よりも早く、慣れた動作でニナは煙草に火を付けた。細い指先に摘まんだそれの紫煙を周囲に燻らせながら、此処はクラブの一角かと思うような気だるさで、ニナは長い足を再度組み換えた。

「晃生の女グセは美術界では有名でしょう? モデルの何人かは知っていた筈だし、ファンにはネチネチした手紙やSNSを書くような陰気な女も沢山居るんだから、独自に調べて、あの女に辿り着いた人が居ても不思議じゃないわよ」

陰気じゃなくても脅迫文は書けると思ったが、的場のファンに妄想癖の女が多く紛れ込むのは事実だ。これは的場が特異な人物のわりに多くを語らないミステリアスな面が有り、そうした女たちの想像力を搔き立てる為らしい。

稀なことだが、個展に出禁になっているファンも居るし、自宅に婚姻届を持って押し掛けた女や、着替えを隠し撮りしようとして捕まった女まで居る。

女性人気が高いところは志方しかたおみも同じだが、彼はその言動がそうさせるのか、王子と付き合うなど滅相もないと考える平民のようなファンが主流だ。勿論、どちらの芸術家も、大多数のファンは彼らが生み出す芸術の方を愛するまともな人間たちなのだが。

「でも、南美子さんが甘理の方が恨まれたと考える理由は何なの? 勝手な著作権を主張する人とか、商売敵ということもあるでしょ?」

「それは――……脅迫文の意味が不透明だからです。『レデイ・ミントを殺す』という文言が、モデルの甘理を指すのか、描かれた絵画のことを指すのかわかりません。単に明斗に描かせるのをやめさせたいのなら、彼本人をターゲットに『作者を殺す』と言う方が自然です。金銭を要求するものでもないし……そもそも、こちらが描くのをやめたのかどうか、何をもって判断する気なのかがわかりません。描くイコール、発表のことかもしれませんけれど」

ニナは大人しく「なるほどね」などという顔で脇に煙草を吹いた。

南美子はいっそ咳込んでやろうかと思いつつ、冷静に続けた。

「明斗の風景作品のファンという可能性も有りますが、だとしたらもっと効果的な言い方が有ると思うんです。曖昧な表現からして、脅迫の対象は甘理の方ではと思いました」

「ふーん、あの女は気にしなさそうだけど」

「ええ、まあ……」

事実、狙われている可能性を示唆したが、本当に気にしていない風だった。

――モテたこともないのにストーカーされたら嫌だなあ、などと言うだけで、気味悪がることもなかった。

「……もちろん、明斗が私的に狙われている可能性も無くは無いので、一概には言えませんけど……」

「せっかく復活したのに、三咲先生もお気の毒ねぇ」

苦笑いも嫌味っぽく、ニナは煙草を揉み消し、二本目に火を点けた。南美子は女の少々痩せぎすの傾向が見られる鎖骨の辺りを見つめてから、自身の名刺を机に滑らせた。

「何かお気付きの点がありましたら、ご連絡頂ければと思います」

改めて頭を下げた南美子に、ニナは煙草をふうわりと吹いて頷いた。

「いいわよ。親切ついでに……ひとつ忠告してあげるわ」

「……忠告?」

「あの女、甘理を信用し過ぎない方がいいわよ。三咲先生が何処で会ったのか知らないけど、あの女が晃生に会ったのも、声を掛けられたのも偶然じゃあないかもしれないんだから」

「ど……どういうことです?」

「仕組んだかもしれないってこと。人づてに晃生の展示の手伝いを頼まれたって話、嘘っぱちだもの」

「嘘と仰いますと……意図的に的場先生に近付いたと?」

「そーよ。私はこの時のことは知らないけど、当時からアシスタントしてる志帆しほが言うんだもの。確かに学生の募集はしたけど、晃生の性格上、男に限定した筈だって。人手が足りないのは本当だから、来ちゃったものは仕方ないって追っ払わずにやらせたら案の定。これはね、玉城さんも同じ意見で首傾げてたのよ。どうしてよりによって、あんな目立つ子が紛れ込んだのかなって」

素直に美人と言わない辺りにプライドを感じたが、この件は南美子も気になっていたことだ。晃生を知り尽くした玉城に限って、彼が目を付けそうな素人を迂闊に呼び込むとは思えなかったのだが。

つまり、甘理が嘘をついていなかったとしても、彼らの出会いをお膳立てした何者かが居る。

だが、何のために……?

「的場さんが声を掛けたのは偶然じゃないということでしたが……」

「ええ。あの女は如何にも晃生が声を掛けそうなタイプだし」

「本当に? 信じられません。来島さんに比べたら、甘理はだいぶ普通ですよ。プロポーションだって、本職のモデルには及ばないと思いますが」

見え透いたおべっかだと思ったが、ニナは素直に気を良くしたらしい。顎をくいと引いて肩をすぼめるような仕草をすると、商用スマイルと思しき微笑みを浮かべた。

「そうよ。あの女は普通。それが晃生の本当の趣向だもの」

「えっ」

さすがの南美子も声を上げた。的場作品の女性は、タイプは違えど一貫して美しい。

『普通』などというタイプの女性は一人とて含まれない。

「……まさか……」

「そ。晃生が完璧に近い女ばかりモデルに描くのは、晃生の作品を売るためにやっていることよ」

「確かに……『和製クリムト』は、玉城さんの宣伝文句ですが……」

「玉城さんは嘘はついてないわよ。女グセの件は本当だし、触らないと描けないって話も本当だから。ただ、晃生にとって、女は必ずしも性的な対象じゃないの。触るだけ触っといて、セックスに至らなかった女は沢山居るわよ。あの子達は女として見られなかったのが悔しいから、晃生と関係したって言いふらす。そういう下んない嘘が積み重なって、晃生を天才肌の女好きにしてるの。本人はどうでもいいって思ってるし、玉城さんも絵の価値に影響しないから放置してるだけ。マスコミはこういうの好きだから、勝手にしてくれるものね」

南美子は口元に手をやって俯いた。

――では……的場晃生は、本当に描きたいものを描いていないことになる。

それなのに、あのように官能的で麗しい絵を描くのは可能なのだろうか?

現在、彼が長期休業しているのも、ただのスランプでは無いのか……?

「……仮にその話が本当なら、甘理は的場さんに近付いた後、何か行動を起こしましたか?」

「さあ? あの女……晃生と相当ヤったんだから、それ目的なんじゃないの?」

ずばり言い放ち、ニナは紫煙をくゆらせる。

「あのう……それ、本人に聞いたんですか?」

「まさか。帰ってきてから未使用のゴム数えて、ゴミ箱ひっくり返しただけよ」

どちらかといえば、ニナのセンセーショナルな行動に南美子はぎょっとした。使用済みのコンドームまで引っ掻き回したのか? ストーカーも真っ青の執着に、敏腕マネージャーも狼狽えた。

「で、でも……相手が甘理とは限りませんよね?」

「じゃあ、あの絵はどう説明するのよ? 晃生が『夜の階段』を手放さないのが証拠じゃないの?」

確かに、『夜の階段』が描かれた経緯は情事の後と言われた方が納得がいくが。

本当に、的場と関係する為に近付いたのか……?

それにしては、遠回しな感じがする。

「南美子さん、注意した方がいいわよ。ああいう女は、トラブルを招きやすいんだから。三咲先生はお人好しっぽいし、貴方がしっかり手綱を握らなくちゃね」

――余計なお世話だけど、参考になったわ。

内に呟き、漂う煙を払いのけたいのを堪え、南美子は愛想笑いを浮かべた。

「お気遣い頂いてありがとうございます。『ブランシュ』の次作も楽しみにしています」

南美子の精一杯の嫌味に、ニナは二本目の煙草に火を点け、天使のように微笑んだ。

「こちらこそ。三咲先生が性悪女に食べられないのを祈るわ」




 「性悪女ねえ……」

「へ?」

憂鬱そうに出た南美子の言葉に、明斗あきとはきょとんとした。

「な、何かまずかったですか?」

そう言いながら彼が見下ろすのは、たにが南美子にと持たせてくれた和菓子だ。出先からアトリエに戻って来たマネージャーに甲斐甲斐しく茶を淹れる芸術家に、南美子は苦笑した。

「ごめん、違う。ありがと」

「ひょっとして……来島くるしまさんと何か有りました?」

なかなか察しの良い明斗に、南美子は難しい顔で唇を尖らせたが、首を振った。

「多分、ニナはシロよ。あの女にシロって言うの、なんか癪だけど」

「はは、イメージカラーですしね」

明斗は向かいに座って自分も茶を啜ると、頷いた。

「でも、俺も来島さんは違うと思っていました」

「フーン……それは勘?」

「証拠を求められても困りますけど、メリットが無い事をする人には見えないので」

「メリットは有るわよ。あんたは今、的場の商売敵だもの」

「うーん……それはそうですが、磯崎さんも言っていた通り、やっぱり俺の裸婦と晃生さんの裸婦はジャンルが違うと思うんです」

「ミント先生も落ち着いた大人になりましたこと」

変な感心をしながら、南美子は茶を啜り、甘い練り切りで作られた白梅を黒文字で割った。中に黒い餡を秘めたそれを退治でもする気で大胆に頬張る。

「ねえ、ミント。甘理と会った日のこと、もう一度聞いても良い?」

「え? あ、ハイ……」

明斗は思案顔で、茶を啜り、ぽつぽつと振り返った。

年末の夜、今年も終わると思ったら落ち着かなくなってきて、意味のないヤケクソで近所のコンビニエンスストアに行った際、偶然会った。

アイスケースの前で、チョコミントアイスと自分を重ねてぼーっとしていた明斗の手前、甘理が当のチョコミントアイスを手に取った。

バニラやチョコ、季節限定のアイスがひしめく中、ナンバーワンと告げて。

「あの子、他に何か買った?」

「え……どうだったかな? 持っていた袋は小さかったですよ。アイスだけだったんじゃないかな……?」

「お酒とか、煙草もナシ?」

「ええ、多分。甘理さんはお酒は得意じゃないと言っていましたし、煙草は吸わない

はず」

「コンドームは?」

ぶっと明斗がわかりやすく吹いて、目を白黒させた。その目を恨みがましく眺め、南美子は和菓子を口に放り込んで、生贄を食う鬼のように咀嚼した。

「悪いけど、私だって好きで聞いてんじゃないのよ」

「ど……どうでしょう……? 無いと思いますけど……どうしてですか?」

「年末の夜中に、女が一人でコンビニに行く必要性を思案してるの」

「??」

「生憎、私にはわからないから。ミントが追い詰められて家を飛び出して、駆け込んだ先がコンビニなのは理解できるのよ。あんたは生い立ちの所為で、24時間明かりが点いてて、誰かが居るあそこが好きなのを知ってるから」

何故か恥ずかしそうに頭を掻く明斗は素直に頷いた。

母が亡くなる前から、それこそ小学生の頃から、明斗はコンビニエンスストアが好きだった。どの系列店とは言わない、24時間、どんな時間でも開いていて、気を遣わない感じが好きなのだ。友達も家族も居ない代表者のようで淋しく思われるのだが、あの明るい光の――相手を選ばないところは何とも好きだ。常に色々なものを揃えてあって、夏は冷たいもの、冬は温かいもの、食べ物以外にも本や日用品が売られ、『いつでも誰でもどうぞ』と胸襟を開いてくれていると感じる。

「甘理さんも、コンビニが好き……なんてことはありませんよね……?」

「可能性を否定はしないけど、普通は夜中に行く場合、その日の内に絶対的に必要な何かの為だと思う。彼女は夜の仕事をしていたわけじゃないし、夏ならともかく、真冬の寒い夜、しかも年末にアイスを目当てに行く客は、やっぱり珍しいと思うの」

「だから、他の買物のついでかと?」

南美子は頷いた。

よほど緊急性が高くない限り、女一人で夜のコンビニを訪れるのは違和感がある。

ポジティブに捉えれば、何かのキャンペーンがその日までだったとか、買いたい限定商品を探していたとか、年内に支払う何かが有ったとか、何かのチケット販売がその日からだったとかいう話は無くもない。ただ、コンビニというオールマイティな現場では様々有るかもしれないが、仮にそうした日程は、切りよく年内までにするとか、翌年に持ち越す筈。あとは、生理ナプキンや、ティッシュ、トイレットペーパーを切らしたなどが考えられるが、明斗の記憶では、そうしたかさばるものを持っていた様子はない。

「南美子さん、甘理さんに何か気になることがあるんですか?」

南美子がニナとの話をかいつまんで話すと、明斗は瞬きしながら首を捻った。

「うーん……変な話ではありますけど……甘理さんがわざわざ夜のコンビニに張ってまで、俺に近付くメリットも特に無いと思うんですが……」

「そう……そうなのよ」

茶碗に溜息を吐いて、南美子は頷いた。

「ミントが裸婦で売れた後なら、実は的場と関係があった彼女が妨害に来た……ってことも有りそうだけど、あんたが売れる前だからそれは無い。彼女がニナみたいなモデルなら、売名の為に近付いたと想像できるけど、『レディ・ミント』が売れて尚、名前は伏せた状態なんだからそれもナシ。仮にあんたが恨まれる側なら、未だにアクションを起こさないのはヘンよね」

「じゃあ、やっぱり只の偶然なんじゃありませんか?」

「甘理がとんでもなく変わり者で……ふらっと夜のコンビニに行きました、と?」

呟いた南美子が甘い白梅のひとかけらを口に入れると、明斗が言った。

「この辺りでチョコミントアイスを置いているのは、ルミーマートだけですから、本当にそれ目当てだったのかも」

「え?」

「はい?」

「ルミーマートよ。……この辺り、二カ所あるわよね?」

「そういえば、そうですね」

南美子は急に顔色を変えると、自分の端末画面に地図を表示して目を皿にした。

郊外の小さな街だというのにコンビニの数はそれなりに多い。大手三社が住宅街の空いた隙間に差し込むように点在する中、明斗の自宅兼アトリエと、甘理の自宅は、二人が出会ったルミーマートを中心に左右に別れている。

明斗の家を考慮して眺めると、彼女の家から一番近いコンビニは確かにくだんのルミーマートだが、反対方向にずれると同系列店がもう一店存在する。距離だけ見れば、こちらの方がわずかに近い。

「駅の方向からすると、どこかの帰りなら二人が会ったA店が自然だけど、年末なんだからその可能性は低いわよね。どうしてB店に行かなかったのかしら」

「直営店と加盟店違いとか」

「さすがコンビニ通。商品が違うってこともあるか……」

「チョコミントアイスは微妙な立ち位置ですね。選んで入れている商品にしては少しマイナーですし、かといって自社で入れている商品というと、そんなに需要あるのかなって思います。俺はこの店に有るって知っていましたし、甘理さんのチョコミントへの好意が嘘じゃないのなら、確実に有る店舗を目指すのは自然な行動に感じますが」

あの年末、極限状態の明斗が、チョコミントアイスを求めて真冬の深夜にうろうろしたかと思うと、事故に遭いそうで寿命が縮むが、好きなものを買いに行っただけといえばそれだけだ。

――本当に、チョコミントアイスが引き寄せた出会いなの?

何やら探偵にでもなった気分で地図を見つめ、南美子はふと思った。

そういえば、何故、甘理はこの郊外の市内に住んでいるのだろう?

明斗は簡単。昔からの地元だ。

デビューが決まった際、何かと便利な都会に移ろうか悩んだ挙げ句、彼は小さな実家の一部をアトリエにリフォームして住み続けている。

一方の甘理は、此処が地元ではない。

見えている地図の範囲内に、One・shotは入らない。……当たり前だ、あの店は隣町で、彼女はそちらの出身。

慌ててキーを叩いて彼女の経歴を確認すると、南美子は口に指を当てて唸った。

「……ねえ、ミント。的場さんがこの辺りに住んでたことがあるの知ってる?」

「あ、ハイ。ちょうど隣町との境目ぐらいですよね。俺の家からは少し距離が有りますけど」

「そう。坂を下り切った川の近くね。彼の家じゃなくて……確か、祖父母の家」

別に妙な話ではない。的場はもともと、おじいちゃんおばあちゃん子で、子供の頃からしょっちゅう訪れていたという話は、彼のイメージを良好にする一面として有名だ。売れ出して都心にアトリエを構えるまでの期間、彼らの元で静養していた話も知られている。この時、彼が何気なく描いた野の花のスケッチは、高値で買い求めたいと問い合わせが殺到した中、譲ることなく祖父母の家に在るという話もある。

「それがどうかしました?」

「彼女が引っ越してきた時期と、的場さんが住んでいた時期が被るの」

「……と、言うと……?」

「もし、あの二人が、展示で会うより前に会っていたら?」

「?」

「彼女を展示の手伝いに呼んだのは、的場さんかもしれないってこと」

「な……何の為に?」

「わからないわ。彼女を描くためなのか、単に会いたかっただけなのか……」

二人は、茶を挟んで押し黙った。

壁掛け時計の針が十分にひと回りし、冷蔵庫の低い音が響くのを聴いた後、明斗は顔を上げた。

「その件と脅迫の件は、何か関係があるんでしょうか?」

明斗の問いに、南美子は昼のニナのように煙草を吹くような溜息を吐いた。

「それこそ、勘なのよねえ……聞く?」

「聞かせて下さい」

「……例えば、甘理と的場さんがこの町で会って関係を持ったけど、その時は何か理由が有って別れた。的場さんの経歴からすると、周囲の反対が有りそうね。改めて再会して、『夜の階段』を描くほど愛し合い、今度はこの絵を巡る騒動で別れた。だけど、的場さんはこの絵を手放さずに手元に置いている。それは、彼女を今でも好きってことでいいと思う……そんな的場さんが、甘理が別の作家のモデルになったと知ったら? しかも相手は男で、題材はヌード。あまり良い気分にはならないかなって」

聞くほどに、明斗は血の気が引く気がした。

的場は、誰かを恨むようなタイプには思えない。だが、自分が大切にしているものを、強い拘りを持って愛するタイプではある――……

「脅迫状を書いたのは……的場さんということですか?」

「憶測の話よ。一番、自然な仮説ってだけ。証拠も何も無いもの」

「で、でも……恨んでいたなら、玉城さんが俺のお祝いになんて来ませんよね?」

「それは逆よ、ミント。仮に、玉城さんが的場さんの行動を知っているなら、こんなスキャンダルになりそうな事実は、知られない方が良いでしょ? パフォーマンスなり、様子見なり、絶対に顔を出す。私が玉城さんでもそうする。或いは玉城さんは何も知らなくて、展示内容を聞いた的場さんが勝手に送ったのかも」

「た、確かにそうですが……」

『おかえり、ミント先生』と言ってくれた玉城の笑顔を疑うようで気が滅入る。

首を振りつつ、明斗は喘いだ。

「じゃあ、甘理さんはどうなんです? 的場さんの気持ちが甘理さんに有るのなら、俺と接触しようとした可能性は消えるんじゃ……」

「そこもグレーゾーンね。意地悪を言うようだけど、彼女が的場さんに近付く為とか、反対に当てつけの為にミントに接触した可能性はあるわよ」

「俺から声を掛けたのに……ですか?」

「そうよ。自分から声を掛けるよりは自然な入り方じゃない。あんたがチョコミントが好きなのは絵はもちろん、いつかのインタビューで答えてるし、コンビニの件も業界人は知ってるわよ。彼女が絵の世界に造詣があるのなら、業界誌だって見たことがある筈。後は、ミントが出入りするコンビニを調べて、来店する時間帯を把握したら、チョコミントをきっかけに話し掛けるタイミングを狙えばいい」

「理屈はわかりますが……そんなに上手くいくでしょうか……?」

「私の直感だけど、あの年末のミントは『チョコミントアイスが好き』って言えば、相手が髭面のオッサンでもモデルにしたんじゃないの?」

鋭い一言に、明斗は先ほどの南美子のように唸った。

「ま、まあ……どん底ではありましたが……」

オッサンなぞモデルにしないと断言できないところが、あの日のトーンを物語る。

「ヌードを希望されたのは想定外だと思うけれど、都合が良いと考えたかも」

「仮に南美子さんの推理通りだとして……どうするんです? 俺は甘理さんを仕事のパートナーとは思っていますが、恋愛感情なんて……」

ただ真面目に絵を描いて、ドラマのような修羅場になるなど御免だ。

狼狽える画家に、敏腕マネージャーは首を振った。

「ミント、話しておいて悪いけれど、まだ私の不穏な想像に過ぎない。ミントは気にせず、描きなさい。ただ、油断しないで。来客や取材依頼、郵便物は必ず私を通すこと。いいわね?」

「……はい。この件……甘理さんに、聞いてみますか?」

「聞いてもいいけど、たぶん、無駄よ。以前、的場さんとの関係を聞いた際の彼女の回答はこっちの憶測と違うから、ややこしいことになりかねない。こっちは警察じゃないんだし、本当のことを言う保障がないでしょ」

いちいち尤もなので明斗は頷いた。

過去のことを聞いた時、甘理は『晃生のことを好きでいるのが辛かった』と、最初に言った。二番目に、炎上騒ぎの責任を挙げ、次にニナと揉めるのが面倒だと続けた。

あの答えは嘘か実か。……わからない。

嘘のような気もするし、真実である気もするが……二番、三番の言葉が取ってつけた感じがする中、一番最初の言葉は真実の気配が有った様に思う。

彼女が今も気に掛けるような男が、ぼんやりと優し気な雰囲気の的場が、何らかの殺意を示した脅迫状なんか書くだろうか?

まだ、彼らには……こちらが知らない顔がある気がするが。

「あの、南美子さん、これからどうするんですか」

不安げな画家に、マネージャーは椅子にもたれて片手を振った。

「何も。私だって探偵じゃないしね……警察に任せるわよ」

「え……じゃあ、なんでニナさんにまで会いに……?」

「ミントが教えてくれたんじゃない……甘理が言ってたんでしょ? ニナは甘理を切り刻んでサメの餌にしかねないほど的場さんが好きだって。そんな女が脅迫状の犯人だったら、さすがにぼんやりはできないわよ。証拠や根拠が無いと、警察は動かないんだから……あれこれ考えるのは、いざって時に慌てない様にするため。人を疑う為じゃないわ」

「なるほど……さすが南美子さん。感服しました」

「宜しい」

ようやく息を吐いて微笑み、南美子は両手をテーブルについて重たげに立ち上がった。

「それじゃあ、今日は帰って仕事するわ」

「ちゃんと夕食、食べて下さいよ?」

苦笑混じりに決して軽くないビジネスバッグを手渡すと、南美子も苦笑した。

「わかってるわよ、ミント先生。休む時は戸締りちゃんとして下さいね」

肩を揉みながら手を振る南美子を見送り、明斗は茶器を片付けてから、自分の夕食はどうしようかなと思いながらアトリエに行った。

先程の話の途中からコンビニに行きたい気もしていたが、今、甘理と鉢合わせたりしたら変な態度をとってしまいそうだ。

まだ夕刻は冷える。室内の電気を点けると、描きかけのレディ・ミントがこちらを見つめていた。ミントカラーの皮膚は何となく寒そうに見える。

甘理でありながら、甘理ではない女性を、明斗はしばし見つめた。

力強く、凛とした瞳。

「恋をしている人には見えないな……」

反省するように苦笑して、明斗はアトリエを後にした。

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