5.発破
人生初の脅迫状を貰った後、表面上は静かな日々が続いた。
突如、家の塀に赤いペンキで『死ね』と書かれるとか、無言電話があるとか、何か危険なものが送られてくるとか……漫画やドラマみたいな展開は起きていない。
南美子はすぐに警察に相談し、警備会社と契約、アトリエには防犯カメラを設置した。ごく当たり前の対処を行った後は、普段通りの生活に戻った。
『レディ・ミント』を描くのはやめていないし、誰かが殺されることもなかった。
絵も含めて。
明斗と甘理はなるべく一人で出歩かないことを申し付けられ、特に夜間は南美子の送迎やタクシーを使うよう言い含められたものの、脅迫状が届いて一週間、目立った異変はなかった。
「才能が幅を利かせる業界ですから、色々有るのでしょう」
内情通の顔で他人事のように言ったのは、磯崎という実業家だ。『レディ・ミント』を買った一人であり、一番最初の『ミント色の街』を所持している男だ。
明斗と同世代でありながら、ホテルやレストラン、クラブなどを経営しているやり手で、『ミント色の街』を買ったのも、「同世代の若い芸術家を応援したかったから」という余裕のある理由であり、自分で楽しむ為ではなく、自社のホテルのロビーに飾って公開している。
久しぶりに拝んだ自分のヒット作に見下ろされての会合は、一見、穏やかに見えることだろうが、隣の南美子は訪れる前からピリピリしていた。
「脅迫されるということは、『レディ・ミント』がそれだけ優れた作品ということではないですか」
「ええ……そう仰って頂けると有難いです」
いつもより倍はきつめにメイクをしている南美子は微笑んだが、磯崎が嫌いだった。
芸術家の身としては有難いスポンサーなのだが、鼻持ちならない奴と南美子が言うのは理解できる。彼に関しては、臣や人の良い玉城さえ、あまり良い顔をしない。
理由は簡単、彼は芸術そのものを愛しているのではなく、商品や付加価値として見ているからだ。
実際、いま明斗が対面する羽目になったのも、自社のレストランで扱うスイーツと、『レディ・ミント』のコラボレーションしたいと申し出てきたが為である。
実は、二度目のアプローチだ。
『ミント色の街』の時も言われたが、こちらは丁重にお断りした。
あの絵はどんなに穏やかな様子でも死を抱えている。若者が写真に撮って気軽にSNSに上げるようなスイーツと、あの絵の本質は合わない――説得に当たった南美子は、殆ど怒り心頭の様子だったが、しつこく申し入れて残念そうに引いた磯崎に通じたかは怪しい。
「今度は重いテーマではありませんし、若い層が芸術に触れる機会にもなる筈です」
肯定しか認めんばかりの磯崎の様子に、既に笑顔が崩れ始めている南美子にハラハラしつつ、明斗は曖昧に微笑んだ。
仰る通り、『レディ・ミント』は直感で生まれている作品だし、女性を描いた作品はデザインとして落としやすい。
おまけに、磯崎は熱心だ。経済効果まで説明して、安易に諦める様子はない。
脅迫状の件で、御社にご迷惑が掛かるのでは――そう言ったところで、先程の言い分である。反社会的行為を恐れぬほど強引な調子はある意味、頼もしくもあるのだが。
「磯崎さんのイメージだと……僕の粗削りな作品より、的場さんの優雅な感じの方が合っている気がしますけど」
手元のレジュメに載った担当シェフの過去の作品――食べるのが勿体ないようなお菓子を眺めながら、明斗は呑気な様子でぼやいた。白いクリーム、真っ赤なイチゴ、何層にも重なるスポンジとムース、品性溢れる艶やかなグラサージュ。
此処にチョコミントが入るのはおしゃれかもしれないが、的場晃生の『ブランシュ』の方が想像しやすいし、モデルのニナなら、彼女自身を広告塔にすることも可能だ。
磯崎は営業上がりらしい力強いスマイルで頷いた。
「確かに、的場先生のエレガントな雰囲気は女性人気を集めるでしょう。ですが、やはり話題性は重要です。我が社としてはステディなモチーフよりも、ホットなものが欲しいんです」
「はあ、ホットですか」
クールな印象のミントカラーを扱う人間としては妙なアプローチに聞こえたが、的場作品へのステディよりはマシかもしれない。傍らの南美子の失笑が音になって聴こえそうな気がしつつ、明斗はなるべくボンクラ顔で首を捻った。
「検討させて下さい。モデルの女性のことや、商標の問題も有りますので」
のんびり持ち帰ろうとした明斗に、磯崎は目だけが爛々とした表情を微笑ませた。
「どうぞどうぞ、よく、ご検討なさって下さい。色よい返事をお待ちしています」
にこやかな言葉とは裏腹に――いや、それはとてつもなく素直な肉食獣の唸り声に聞こえた。
「それで、引き受けるつもりか」
椅子にどっしりと座って呆れ顔の友人に、明斗は臣下のように頷いた。
「南美子さんは嫌そうなんだけど、断る理由は特にないし……甘理さんも名前を出さなければ良いって言うから」
絵を描いて売るのが絵描きだが、ノータッチで済む収入があるのは良い事だ。苦労を掛けてきた南美子にボーナスを奮発できるぐらいには利益がある話だし、時間と金無くして絵は続けられない。臣は渋い顔をしていたが、大様に頷いた。
「あの男はいけ好かないが、お前が良いならやらせてみろ。せいぜい、ふっかけてやればいい」
ここぞとばかりに図太さを露わにする臣に苦笑していると、彼は庭の方を振り返ってぼそりと言った。
「それにしても――予想はしていたが、変な女だな」
歯に衣など着せた試しのない臣の言葉に、明斗も庭の方を見た。広々したウッドデッキから眺めるのは、彼のアトリエの外に広がる庭だ。一度会わせろと言うので挨拶に来て以降、家主の絵を嬉々として堪能した甘理は、今はガーデナーの
外に居るのが苦ではなくなってきた季節柄、すぐ傍の小ぶりの桜はもう開く寸前だ。
「どこら辺が変?」
「あの小町と一時間以上、土を触ってニヤニヤ笑っている女は変態だ」
「植物好きは普通だと思うけど、彼女、虫も平気なんだよねー……」
「同類だな。ミミズを素手で掴むタイプだろう」
想像した明斗の方が嫌そうな顔をしてしまった。
「そろそろ呼んで、手を洗わせろ。
谷というのは、臣のマネージャーをしている男だ。一見、郵便局の窓口にでも座っていそうな温和な眼鏡のおじさんだが、スケジュール調整や売り込みなど、今時、手帳やノートにびっしり書き込んだものを所持し、ビジネス書も熟読しながら隙が無いマネージメントを行っている。今日は明斗と甘理が来るからと、馴染みの和菓子屋に定時に合わせて注文し、自ら取りに出ていた。
立ち上がる気のない家主に対し、客の明斗がひょいと立ち上がって庭に下りると、急に春を控えた土の香りがする気がした。
「小町さん、甘理さん……そろそろお茶にしようって」
「もうそんな時間?」
甘理が土だらけの手を万歳するみたいに伸ばし、袖の中に引っ込んでいた時計を確認する。
「はあー……、庭いじってるとあっという間~……」
こちらもガーデニング用の手袋を泥だらけにして、よっこいしょ、と立ち上がるのは
「ねえ、ミントせんせ、私はいいよ。臣くんのお客さんは二人だけでしょ」
気まずそうに言う彼女に、明斗はすぐに首を振った。
「え、困るよ、臣が怒る。あいつは機嫌を損ねると面倒臭いから」
「まー……面倒臭いけどさあ……」
遠くで椅子に腰かけ、帝王の様に頬杖ついている家主に眉を潜め、小町は溜息を吐いた。
「……最近、面と向かって喋ってないのよね。ミントせんせ、フォローしてくれる?」
「ええ……そんなに? 頑張ってみるけど……期待しないでほしいなあ……」
きょとんとしている甘理をよそに、明斗は髪を搔きながら溜息混じりに頷いた。
よもや、顔を合わせるのも気を遣う仲になっていたとは。手を洗いに行った女二人を見送りつつ、明斗が三年の引きこもりを反省しながら戻って行くと、臣はさっそく不機嫌そうに庭を眺めていた。
「来たくないとごねただろ」
「ご明察。……お前なー、そういうとこだけ察しがいいのは良くないぞ?」
「三咲先生、もっと仰ってやって下さい」
振り返った先には、盆を捧げ持った谷が立っていた。
人数分の小皿の上には、うっすらと紅を差した白梅を模した上生菓子と、桜の葉が和やかに香る桜餅が乗っている。臣がわかりやすく舌打ちして脇を向く姿に呆れ顔を向けた谷は、一流レストランの支配人のような物腰でテーブルへと皿を移す。
元は美術系の記事を書くライターだった谷は、元は執事ですかと聞きたくなるぐらい、所作が綺麗だ。五十を越える筈だが、きびきびした動きはこっちの方が年配者ではと感じるほどキレがある。
「ここ一年ほどは七瀬さんの事になると、この様子です。小学生じゃあるまいし、さっさと物にしてしまえばいいと申し上げているのですが」
口が悪い芸術家に対し、谷も全く引けを取らない毒舌家だ。明斗は有難くもその毒牙に掛かった試しはないが、彼は評論家としての顔は鬼か悪魔かと言われた過激派である。その鬼は、臣の絵にすっかり魅せられ、独自に取材する内にマネージャーとして居付いてしまった。
「うるさいぞ、谷。嫁に逃げられた仕事の鬼に言われたくない」
王子は王子で、優雅な顔でドスのような一言を放つ。
「共同生活からの価値観の不一致はよくあることです。始めなくてはわからないことは多いですよね、三咲先生?」
涼しい顔で言ってのける谷に、明斗は愛想笑いをするしかない。
これでも、この二人はベストパートナーとも言える仲だ。谷は臣が望む通りの展示会場を整えるし、交渉も駆け引きも上手く、業界に顔が広い。何でも言い合える関係は仕事上でストレスを感じない善き戦友だ。
「俺も……二人が上手くいけばいいなと思っているんですけど……」
じろりとこちらを睨む目から必死に逃れ、鮮やかな緑色の茶を淹れる谷の手元を眺めていると、女性陣が楽しそうに戻って来た。
「わあ、綺麗。美味しそう」
和菓子を前に、素直な歓声を上げる甘理に、谷が誇らしげに胸を張る。
「そうでしょう、そうでしょう。ゲテモノも悪くありませんが、美しいものは旨いと相場が決まっております。こちらの白梅は今季の新作ですよ」
店の関係者のように説明する谷に、家主が鬱陶しそうな視線を投げかけ、いいから食えと促す。
「全く、
南美子もそうだが、谷も相手を詰る時に丁寧語になる節がある。普段は画伯なんぞと呼ばれない男はこちらも鼻を鳴らし、お前も座れと椅子を示す。尚もぶつぶつ言いながら着席した谷に明斗や甘理は笑ったが、小町は気まずそうに身を小さくしながら菓子を頬張った。
「とっても美味しい。こんな良い香りの和菓子はじめて」
甘理がにこにこしながら食べると、「わかりますか」と鬼の谷も親戚のおじさんみたいに表情を和らげた。「美味しいね」と甘理が隣の小町に話しかけると、彼女もようやくにこりと微笑んだ。……連れて来て良かったかもしれない。
「こんな素敵なお嬢さんを見つけてくるとは、三咲先生も隅に置けませんね」
ずばり言い放つ谷に茶を吹きそうになる明斗だが、先に笑ったのは甘理だ。
「私、お嬢さんなんて歳じゃないですよ」
「おや、謙遜なさることはありません。私のようなジジイから見れば、辻井さんも七瀬さんもかわいいお嬢さんです。あと十は若ければトライしたんですがね」
「十年前に会わなくて良かったな」
「ええ、危うく『レディ・ミント』の誕生を阻むところでした」
差し挟めるところに嫌味を挟まねば気が済まないらしい男たちに、明斗は愛想笑いも面倒になって茶を啜った。
「辻井さん、うちの偏屈画伯の絵はもうご覧になられましたか」
「はい。さっき、アトリエを案内して頂きました」
「どうせ、発表間近の物だけでしょう。フフフ、洋ものの花も良いですが、桜のシリーズは見ものですよ。学生時代の三咲先生の写真も有ります」
今度こそ茶を吹きかけた明斗が慌てて顔を上げた。
「な、なんで俺の写真まであるんですか……!?」
「さて、何故でしょうね」
「おい、俺のも見せる気か」
「不遜な王子様は写っていましたかなあ」
「見たい見たい」
「承知いたしました」
子供のアルバムでも持ってこようとする調子の男は、臣や明斗の制止も聞かずにささっと空いた皿をまとめて部屋に戻って行った。
「さ、て、と……ごちそうさま。私、作業に戻るわ……」
『ええっ!』
明斗と甘理が大げさな悲鳴をハモらせ、臣と小町がびくりと身を震わせる。
「なんだ、お前たち……でかい声を出しやがって……」
「だ、だって臣……小町さん行っちゃうって言うから……」
「座ったばかりなのに」
腰を浮かせて焦る明斗と、単純につまらなそうにする甘理に、じれったい男女はほんの少し顔を見合わせたが、磁石が反発するようにふいと離れた。
「と、とにかく――……まだ途中だから……じゃあね、ごゆっくり!」
何やら振り切る様にずんずんと庭に出て行く小町を見ていると、脇にずむと指が刺さった。仰天した先で、甘理が犯行に使った人差し指を小町の方へ向けている。
「お、俺もちょっと庭……見て行こっかなー……」
渋面の友人の顔に下手な言い訳をぼやきながら、明斗は逃げる様に庭に下りた。
久方ぶりに訪れた庭は、綺麗に整備されていた。
友人の受け売りでしか知らないが、庭仕事は様々な手間がある。ひと口にバラと言っても、花の時期や樹形も異なり、各種に合わせた剪定は無論のこと、病害虫の防除、冬には寒さ対策、夏はどんどん生えてくる雑草取りと、やることは沢山ある。そんなバラが何種も有るだけでも大変な庭だが、更に何十種有るかもわからない植物がそれぞれに都合のいい場所に繁茂し、今は見えないハーブ類やチューリップにヒヤシンス、初夏に台頭するギガンチウムに、斑入りの綺麗な葉を楽しむホスタにヒューケラ、立派なミモザの木や雪柳の低木などなど、休みないショーが行われている様だ。
更に地植えだけに留まらず、鉢植えも山とある。その一つ――木の枝としか判別できない植物を植え替えていた小町の背を眺めつつ、明斗は困り顔で斜め後ろにしゃがんだ。
「甘理さんと楽しそうにしてたけど、何話してたの?」
「バラ界のドラキュラについて」
変な顔をしてしまった明斗に、小町は振り向いて鼻で笑った。
「バラの害虫にクロケシツブチョッキリってファニーな名前のゾウムシが居るの。新芽や蕾に卵を産んだり、そういう柔らかい部分に口吻っていう長い口で傷をつけてエキスを吸うのよ。当然、その部分はダメになっちゃうから、にっくきドラキュラって呼ばれちゃうわけ」
「へえー……」
「そんな話を楽しそうに聞くから、私もつい喋っちゃった。あの人、素直な子供みたい。ガーデニング仲間以外で、あんなに土とか虫をベタベタ触る人はじめて」
「子供みたいか……そうだね」
「ミントせんせ、ああいう人がタイプなの?」
「えっ⁉」
後ろに転げそうになった明斗は慌てて体勢を立て直し、地についた手の土をあたふたと叩いた。
「そーんな慌てなくてもいいのに~~」
にまにまする小町に、”違います”と明斗はしどろもどろに答えた。
「あの、甘理さんはそういうんじゃなくて……仕事のパートナーというか~……」
「ま、そうよね。裸見ても関係ないんなら、周りも納得の証明かもねぇ……」
「小町さんと臣もそうだって言いたいの? でも……君たち二人は違うんじゃないか?」
明斗の指摘に、小町はフンと鼻を鳴らした。
「私と臣くんは利害の一致って奴よ。すごく建設的な関係だと思う」
「……それで良いって、君たちが本当に思ってるなら俺は良いんだけどさ」
小町は黙って、今度は別の何もない場所の土を掘り返し始めた。めげずにその手元を見つめて、明斗は口を開いた。
「……小町さんさ……やっぱり、農家さんとかと結婚した方が幸せなの?」
つい、友人を思って皮肉な調子で言ったのを、小町は肩越しにじろりと睨んだ。
「ミントせんせまでそんなこと言うんだ……ムッかつくー……」
ストレートな文句にむしろたじろいだ男に、小町は突如として畳み掛けた。
「どうせ、私は泥んこですよーだ。あのね、既に農家さんはITもドローンもAIだって使うハイテクなんだからね? 私からしたら、貴方たち画家の方が、絵の具まみれの古代人なんだから!」
「こ、古代人……?」
だいぶ
「あの……古代人が失礼なこと言ったみたいで、すみません」
丸めた背に声を掛けると、小町は頬を膨らませたまま、ちらりと振り向いた。帽子の下の表情は恨みがましいものだったが、いじけた子供みたいにも見えた。
「ごめんね……いいよ。ミントせんせ。当たってるもん……」
「当たってる?」
「農家。……私、農家の需要はそこそこだった。でも、庭いじりの話になると、農家にも面倒くさーって顔されるの。フツーの会社員はもっと迷惑な深読みする……『庭付き戸建てに住みたいです!』って言われてる気がするんだってさ。そんなこと一言も言ってないのに」
「あ、あぁ……なるほど……」
確かに、このイングリッシュガーデンを見せられたら、臆しても仕方がない。
一般家庭で庭に重きを置いて楽しんでいる人は数多く居るが、現状、賃貸に住む人は夢のまた夢だと思ってしまうだろう。戸建てでも、雑草が生えたり、雨で土が流れるのを嫌ってコンクリートで固めてしまう家や、木の葉が散るから木を植えない家も多い。男だから虫が好きなんてことはまず無いし、女だから花が好きとも限らない。土や植物が無い家屋が多い辺り、家のメンテナンスは少ない方が良い、庭には憧れるが、そんなことをしている暇もお金もないという人の方が圧倒的多数なのだ。
農家は農家で、敷地が広いから良いかと思えば、畑の脇に花を植えるぐらいはともかく、多忙な仕事柄、イングリッシュガーデンのような本格的なものを作るのには閉口するようだ。
「別に、自宅でそんなことしなくたっていいのよ。私には此処があるんだし……でも、結婚するってなったら、臣くんは私を解雇する気なの。浮気騒動に巻き込まれるのは御免だって」
「うーん……わからないでもない……それは、旦那さんがどんな人かによるけど……臣のあの見た目じゃ、不安に思われそうだなあ……」
ハンサムな臣とキュートな小町は最初からお似合いだ。そこそこの付き合いだし、仕事だから家に通うと言われて一般男性がそうですかと言えるかは怪しい。逆も然りだ。小町が出入りすることを快く思わない女性の方が圧倒的に多い気がする。
ではいっそ、園芸家や庭師はどうかというと、プロ同士、趣向で揉めたらしい。
「最初は花の話題で盛り上がるけど、だんだん……好みが割れてくるのよ。そりゃお互い、嫌いな花なんか無いけど、庭の好みが違うと、合わん~~って思っちゃう」
「歩み寄れるとこは無いの?」
「それがね、ミントせんせ……人間と同じでね、植物には相性があるのよ。一緒に植えると病害虫を避けたりできる組み合わせもあれば、片方ばっかり繁茂しちゃう組み合わせもある……例えば、ミントは頑丈で物凄く繁茂するタイプ。タイムなんかが隣に居たらいつの間にか消えちゃう」
何やら図々しいと言われている気がしたが、母や甘理などミント好き女子を思うとあながち間違いではない。……いや、それはミントに失礼か。
「単純に、雰囲気が合わないのもあるでしょ。イングリッシュガーデンが好きな人と、日本庭園が好きな人は、なるべくなら別の庭で作業した方がいいと思わない?」
否定したらスコップで刺されそうなので明斗は素直に頷いた。
「……そういう我慢ならない相手でも、子供が出来る方がいい?」
再び、小町はぷいと手元に戻った。
「やっぱり……小町さんも、臣が好きなんだろ?」
小町は答えない。もぐらかウサギのようにざくざくと掘る。
「あいつ、あんな偉そうだけど、気遣い屋なんだ。長男気質っていうのかな……譲ることとか、遠慮することに抵抗が無い。悪く言えば、犠牲になるのをあっさり受け入れちゃうんだよ。好きな人が『こうしたい』って言ったら、嫌でも『いいよ』って言うんだ」
「……知ってるよ。臣くん、私の婚活にまるっきり反対しなかったから。あっちはハンサムだもん、子供要らない人なんてすぐ見つかるんじゃない? 売れっ子芸術家の妻なんて、体裁良さそうだし」
「そんなこと……」
顔が良いのは認めるが、臣とて十年、二十年も経てば只のオッサンだ。若さと美貌で多少なりと許されているあの悪口雑言も、やがて単なる頑固ジジイの鬱陶しいそれになるだろう。第一、あのストレートパンチを食らい続けて、めげずに暮らせる女性はそうそう居ないと思うが。
「おかげで、私ばっかり言い訳してるみたいに『子供欲しいからゴメン』って流れになった。正直、ぜんっぜん要らないけど」
これには明斗も唖然とした。
「『ぜんっぜん』なの?」
「全然、全く。他所で言わないでね……それ言っちゃうと、家族がしょんぼりするんだもん……そりゃ、孫見たいって気持ちはわからなくはないんだけど……」
「つまり、まだ見ぬ子供と臣を天秤にかけたら?」
またしても、小町はぷうと頬を膨らませた。今度は頬っぺたが赤い。
「臣くんに決まってるじゃない。あの時、私が何の力もないのに、この庭を壊すのも売っちゃうのもヤダって駄々こねてた時……彼はこの庭ごと買ってくれた。偉そうだけどお坊ちゃんってワケじゃないし、まだ売り出し中でお金もそんなに無いのに、借金してさ。お爺ちゃんのオールドローズや、お婆ちゃんのミモザが今も無事なのは、彼のおかげ。手入れに文句は言うけど、ちゃんと見た上で言ってるし、此処の植物のことはちゃんと考えてくれてる」
「それなら……、それなら小町さん……貴方が声を上げるのは今だよ!」
がばりと立ち上がった明斗に、小町がぎょっとした。座っていた時は感じなかった風が、ざん、と髪を吹き流す。眼下にある子ウサギみたいな目に向けて、明斗はらしくもない声を張り上げた。
「僕らの上の世代は、さも結婚当然、子供当然の社会で上手くやって来た顔するけどさ、あの人たち皆が皆、親の為とか社会の為とか、出生率を上げる為の結婚なんかしてないだろ! なんで人を好きになることまで斡旋業者に頼らなくちゃいけないんだ! 今の人の方が、よっぽど周りに遠慮してるよ!」
小町がスコップを浮かせたまま、ぱちぱちと目を瞬く。明斗も彼女の前でこんな熱弁を披露したことはないが、ええい、ままよ――親友の為だ!
「大体さ、孫が可愛い可愛い言ったって、結局、子育てはたまに手伝うくらいだろ? 自分たちは自分たちでやって来たんだから母親がやって当然、サポート体制も補助も充実してるからいいじゃないとか言ってさ。オムツも替えてくれないのに無駄にお菓子食べさせようとしたり、泣いたり熱出すと可哀想ばっかり言って、病院行けしか言わないし……!」
経験者が乗り移ったように明斗は喋った。
こんなことをすらすら言えるのは、母の持論で、口癖だっただからだ。
父が事故死してシングルになってから、彼女は子育てに奮闘した。結局のところ、頼りになったのはお金を出して頼む先で、身内は急な予定変更などしてくれなかった。仕事や用事がある、風邪を引いて具合が悪いから、云々。勿論、彼らが悪いわけではないが、母の場合は期待と結果が割に合わなかった。そして赤ん坊や幼子は、大人の緊急性などわからない。SOSは緊急だから出すのであって、必要だからSOSなのである。現に、誕生を泣いて喜ばれた孫は、祖父母と疎遠のまま、死別する羽目になった。
「えーと……だからさ、つまり……遠慮なんかしないで今の話をちゃんと……」
「一体、人の家で何を大騒ぎしてるんだ?」
声に振り向くと、家主が渋面で立っていた。明斗の大熱弁のせいで、小町も気付かなかったらしい。
「ミント、どうしても騒ぐなら中でやれ――」
「お前もお前だ!」
興奮状態に火が点いたままの明斗の怒鳴り声に、さすがの暴君も瞠目した。
「後悔丸出しでかっこつけやがって! 小町さんとちゃんと話せよ! お互いに好きな人と一緒に居て何が悪いんだ! お前らみたいなのがそういうことするから世の中おかしくなんだよ! お前が幸せにすりゃいいだろうが! 子供がどうとか日和ってんじゃねーよ!」
何十年かぶりの大声に、明斗の喉はそこで唐突にリタイアした。
情けなくもぜいぜいと肩で息をし始めた上、げほげほとむせた男に、友人は黙っていた。アドレナリンを使い果たした脳が、冷静になってきて背を冷や汗が滑った気がした。時が時なら、打ち首か縛り首だろう激論家が顔も上げられずに審判を待っていると、暴君は何も言わずに踵を返した。
「お、臣……あの……」
「……お前が言いたいことはわかった。小町とは日を改めてきちんと話す。それでいいか」
「う、うん……」
どっと汗が噴き出るのを感じながら小町を振り返ると、彼女はやっぱり気まずそうに身じろいで、くるりと背を向けて作業に戻った。家主もさっさと家に戻って行く。
これで良かったのだろうか。何も起きなかったようにも感じるが……
どこか宙ぶらりんになったような心地で見た先――いつの間にそこに居たのか、数メートルもない距離に甘理が立っていた。
彼女は目が合うとにやっと笑い、ピストルの形にした人差し指を明斗に向けた。
音を発しない唇が、「ナイス!」と言った。
ざわめいている体の内側で、火が燻っている気がした。
この火の正体は何だろう。
怒りでも、情熱でもない、火の名は。
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