4.再び、染まる。

 個展とは、お辞儀する会といっても過言ではないと思う。

現に、明斗は朝っぱらから、『レディ・ミント』の数枚の絵画を前に、水飲み鳥の玩具みたいにペコペコやっていた。南美子にどやされながら支度したジャケット姿は、ネクタイだけは勘弁してもらったものの、いい加減、曲げ伸ばし続けた腰と、無理にやっている笑顔で表情筋がおかしくなりそうだ。

南美子が取り仕切った展示のキャッチ、『再び、染まる。』の通り、白いギャラリーは三咲明斗のミントカラーに染まっている。

『ミント色の街』がひっそりと穏やかに存在したのに比べ、『レディ・ミント』は同じ色を纏って尚、クールで強い存在感を放つ。

――本当にこれ、俺が描いたのかな?

スペースをたっぷり使い、スタイリッシュに展示された絵は、アトリエで眺めていた時よりも何倍も良い状態に見える。照明ひとつとっても、南美子のセンスは素晴らしい。売れたら、彼女にボーナスを払わなければ。甘理にも……

「よお、ミント」

ぼんやりしていた頭に響いて来た威圧的な声に、明斗はようやく本心からの笑みを浮かべてお辞儀をした。

「どーもお……お久しぶりです、志方しかた先生」

「なーにが先生だよ、バカ。帰ってくるのが遅すぎだ」

表面的な祝辞ばかり聞いていたところを面と向かって堂々となじった男は、顔だけ不機嫌そうに吐き捨てた。明斗はへらへら笑って頭を掻く。

「お待たせして、スミマセンでした」

「待ってねえよ。俺は夏にはイギリスで個展だ。羨ましいだろ」

「うっわ、凄くて嫌味にもなんない。おめでとう」

「素直に褒めんな、気持ち悪い」

そこまで言って、彼はラフなジャケット姿が実に似合うハンサムな容貌を微笑ませた。取り付く島もないほど口の悪い男だが、明斗にとっては美術界で――否、日常的にも唯一の親友である。同級生として美術を学び、切磋琢磨してきた戦友でもあり、ライバルだ。明斗が腐りきっていた間、誰も訪ねてこない中で何度も復帰しろとケツを叩きに来てくれた、たった一人の友達だ。

同級生で背格好がよく似ている上、デビュー時期が近いことから、よく比べられたものだが、顔の偏差値では裸足で逃げ出すほかない。

彼、志方 おみは、顔の良さから『美術界の王子』扱いされているが、正確には『美術界の華道家』が正しい。できれば、華道の前に『偏屈』を付けると尚わかりやすい。こんなに良い顔に生まれておきながら、『花より団子』ならぬ『女より花』という一風変わった男で、植物を描かせたら右に出る者は居ない。

正確で緻密な花の絵画は主に油彩。所謂ボタニカルアートや日本画ではなく、花ごとに色彩感もタッチも変える。切り花、植木、路傍の一輪、花束、或いは枯れた花と、ひと口に花といっても様々な題材を手掛け、最も輝けると感じた一瞬を額縁に収める。彼のスタイルは海外にもファンが多く、その支持層は若年から高齢まで幅広い。

明斗からすれば、コンディションを保つのも難しい花とよくまあ長い事対峙していられると思うが、臣は全くの真逆であり、人間相手が心底煩わしいという。

面と向かって言うと照れて怒るのだが、臣が描く花は、みんな綺麗だ。

いつだったか、どこかのフローリストとやらとコラボレーションした、バラをテーマにした個展では、花の良さなどわからない明斗さえ嬉しくなってしまうほど綺麗な展示だった。色も形も様々なバラの、幾重にも重なったふくよかな花弁、本物にも負けない鮮やかな色、決して一つ一つは大きくないサイズの絵が、本物と一緒に並んで幾つも掲げられた部屋は素晴らしく、大衆を大いに魅了した。あまりにも幸福そうで歌い出しそうなピンクのバラ、愛らしく並んで微笑む黄色いバラ、自分こそバラの代表と言わんばかりの深紅のバラは、見事な大輪が美しさを越えて勇壮にさえ見えた。

「花は、それ自体が完成されている」と彼は言う。

それなら写真に撮れば良いと思いがちだが、その花が最も引き立つ角度、背景の色、成長過程の色付きの度合いまで、彼は計算し尽くして描く。

それはありのままを写す写真とは別のリアリズム――絵画の価値を高める一つの手法だ。理想的だが非現実ではない、触れられないが、匂いさえ呼び覚ますリアル。

この表現力を支えているのが、彼のアトリエを取り囲む広い庭だ。庭の主人との取引によって手に入れた、おとぎ話に出てきそうなイングリッシュガーデンだ。

「小町さんは元気?」

「……ああ」

いつも鋭い切口上の男の煮え切らない返事に、明斗はそっと辺りを見渡した。

小町とは、彼の庭を管理する、若いガーデナーの名だ。

「何か有った?」

「何も」

「何も?」

「何も無い」

「何も無いの?」

「くどい!」

ぴしゃりと言い放ち、臣はそっぽを向く。明斗は叱られた子供のように身を縮めたものの、後に引く顔ではない。尚も覗き込むように親友を見た。

「臣、俺が言うのもナンだけどさ、小町さんは……早いとこ唾つけといた方がいいと思うよ」

「お前、いつの話をしてるんだ」

「え?」

「小町はもう何度か見合いもしているし、婚活アプリも使っている。まだ誰も来ていないが、庭に呼んでもいいかと聞かれたから許可した」

「げ…………ウソだろ?」

「……俺がそんな嘘をお前について、何の意味があるんだ?」

その通りだが、明斗は何やら自分が打ちのめされた気になった。ショックだ。

自分が自分の事しか考えていない内に、彼は好きな人を見ず知らずの相性が良い何者かに取られようとしている。記憶に残る小町のおてんばだが優しい顔が、急に無慈悲なものに見えた。

「だって……俺はてっきり、二人はお付き合いするものだと……」

「女は現実主義ということだ。期限切れが来るからと急いている」

甘理と話した妊娠年齢の話が過る。

そう、不妊を苦慮していた友人は彼だ。皮肉だが、彼が女を遠ざけて花の絵を完成させたきっかけでもある。彼が現在、自宅兼アトリエにしている家は、趣味でガーデニングを楽しんでいた老夫婦が住んでいた所だ。彼らが高齢を理由に庭仕事を続けられなくなり、土地ごと売って息子夫婦と暮らそうとしたところ、二つ手が挙がった。

一つは、学生の頃から此処の植物を描かせてもらっていた臣で、もう一つは彼らの孫娘の小町こと――七瀬ななせ小町こまちだった。小町としては家はともかく、庭を壊すのに反対であり、仕事としているガーデニングに役立てたいと思っていた為、二人は相談の末、家と庭をそのままの状態で分けた。分けた……といっても、結果的に購入したのは臣の方である。彼は家はリフォームしたが、庭はそのままにして、小町を雇って管理を任せ、絵になる植物を育てることを条件に好きに庭作りをさせている。小町はちょっぴり夢見がちな、ずっと少女みたいな女だが、植物に関してはプロフェッショナルで、臣に負けず劣らずの『男より花』――だった筈だ。

「あの小町さんが婚活なんて信じられない。男なんかよりギガ……なんだっけ、あのでっかい紫色の花」

「ギガンチウムか」

「そう! そのギガンなんとかの方がカッコイイとか、わけわかんないこと言ってたのに」

あの花を巨大なネギ坊主とのたまい、小町の説教を食ったことがある明斗に対し、臣は素っ気なく首を振った。

「……お前に言うのは酷だが、結婚は本人以外の働きかけもあるんだ。うちは弟たちが結婚したからとやかく言われないが、一人娘がいつまでもフリーでいるのを良しとしない親は沢山いる」

彼の気遣いを含めて、明斗は真綿で首を絞められたような顔になる。

確かにそうだ。長男である臣には、下に堅実な弟が二人居て、どちらも普通の商社に勤めて結婚し、子供も居る。彼の両親も、不妊症について知っている為、無理な結婚は勧めず、好きにさせている次第だ。かたやこっちは、父は早くに他界し、母も祖父母も既に死んでいる。あれこれ言ってくれる身内が居ないのは切なくもあるが、

気楽でもある。小町はそうはいかない。それはわかる。わかるが……明斗は振り払うように首を振った。

「そうかもしれないけど……臣はそれでいいのか?」

「……どうしようもない。俺は彼女が欲しがっているものを与えられない。彼女は欲しいから相手を探す。別に悪いことじゃない。それだけのことだ」

この世の縁結びの神を全員解雇したい気持ちにかられつつ、明斗は溜息を吐いた。

「小町さんが正気に戻るのを祈るよ」

「バカめ。正気だから相手を探すんだ」

くそ。縁結び神社とか言ってハートのお守りなんぞ売ってるところを全部焼きたくなってきた。

「お前はどうなんだ? モデルと相性が良さそうだと南美子さんから聞いたが」

「……相性は悪くない。でも、それはお互い、仕事の話だよ」

「やっぱりか。明斗、俺に遠慮して行き遅れるのだけはやめろ。本気で殴るからな」

「本気で殴られたくないけど……今のところ、遠慮ナシに結婚は考えてない。折角、描けるようになったのに、他の事に気をとられたくない」

「お前も昔からそういう奴だな……」

今度は臣が呆れ顔で呟き、傍らの『レディ・ミント』を仰いだ。

「ごめん。不器用なんだ。ひとつの事しか集中できない」

「そんなことはない筈だが、面倒臭がりなのは知っている。やたらと集中力が高いのも考え物だな」

ずばり真実を言う男に、頭を掻くしかない。仰る通り、一度乗ったら筆を置けない。

カノジョとデートする予定など、平気ですっぽかす程度には。

「……で、その集中した絵はどう?」

「売れるだろ。南美子さんが忙しそうなら、確定だ」

視線を移す先では、別の絵の前で南美子が三、四人のスーツの男女を前に談笑している。先程、挨拶していたのとは、また別のグループだ。

「そうじゃなくて。臣の感想を教えてほしい」

「良い。お前の色がよく映える。俺は買わないし、飾りたくないが」

一言多いので苦笑が出たが、最初の言葉で十分満たされた。

「ありがとう」

「良かったな」

面映ゆくて目を伏せて髪を搔いていると、臣がトンと肩を叩いた。

顔を上げると、彼が明斗の背後に向けて丁寧に頭を下げている。

振り向いた先に居た人物に、明斗も慌てて背筋を伸ばした。

「おかえり、ミント先生」

にこりと笑った背の高い男は、明斗の記憶より少しだけ歳を取ったようだった。

玉城たまきさん――……この度は、ありがとうございます」

的場晃生の実の従兄であり、画商にしてマネージャー、南美子の師でもある玉城真央まおだ。

穏やかで優しい人物だが、芸術を軽んじる人間には非常に厳しく、何かと気を抜いたりスキャンダルまみれとなる的場の手綱を握れる唯一の男だ。その名前から、的場や南美子などの近しい人物には『魔王』と揶揄されることもあるが、彼はその多くが神対応の辣腕化である。三年もとっぷり沈んでいた明斗が、銀座のギャラリーなぞに浮かんで来られたのも、彼の口利き有ってのものだ。

「南美子から聞いた時は俺も驚いたよ。あのミントがヌードかよ?って」

「俺が脱ぐみたいに言わないでくださいよ」

「バカ、やめろ。お前のヌードなどゾッとしない」

臣の一言で三人は同時に笑ってしまった。

「晃生に手強いライバルが出来ちまったな」

「うっ……? えっと、そんなことは――……」

「冗談だよ、ミントの絵は晃生のとは違う。単純な肖像画や美人画じゃないし、ポップアートにも近いけど、あんなに強くないな。お前らしい穏やかな雰囲気の良い絵だよ」

「どうも……ありがとうございます」

どぎまぎと頷く。

今さら、的場と同じフィールドに来てしまったことに気付いて狼狽えた。

そりゃそうだ……玉城はこう言ってくれたが、油彩の裸婦という点では共通のジャンルではないか。……考えナシにも程がある。

「最初、南美子さんには、反対されたんですよね……」

「ハハ……あいつは計算高いからな。その南美子が俺の相手をできないぐらい引っ張りだこだ。もうヒットしたも同然だな」

「……だと良いんですけど……南美子さんにも申し訳ないし……」

笑顔を見せた明斗を玉城は眩しそうに見つめ、辺りを見渡して声を潜めた。

「……南美子に聞いたが、辻井さんは元気にしてるか?」

聞かれると思っていた一言に、明斗は神妙な面持ちで頷いた。玉城は絵を見上げてそっと頷いた。

「そうか、良かった。知らぬとはいえ……感謝するよ、ミント先生」

「俺は何も……描きたいと思った人を描いただけです」

「いや。彼女を描いたのがミントで良かったと思う。売れるさ。俺も扱いたい」

玉城の一言は、何故か寂しそうに聞こえて明斗は首を傾げた。疑問を口にする前に、気遣う調子の声を上げたのは臣だった。

「的場さんの調子は、まだ良くないんですか……?」

臣の問い掛けに、明斗が怪訝な顔をする。

「的場さん……何かあったの?」

「お前、知らないのか? 業界誌ぐらいはチェックしろ」

容赦ない肘にどつかれて肩をすぼめると、玉城は苦笑いで首を振った。

「いいよ、ミントはテレビも殆ど見ないもんな。この件は誌面に上がったのも一度きりだ。一円の得にもならない噂なんか誰もしないさ」

敏腕マネージャーは、ふう、と煙草を吹くみたいに溜息を吐いた。

「最近までのお前と同じ、スランプなんだ。描きたくないって、引きこもってる」

「描きたくない……あの的場さんが……」

的場の作品発表は、決してスローペースではない。それこそ若い頃の彼は、気が乗れば三日は殆ど飲まず食わずで描き続けるぐらい絵に狂っていたと聞く。年齢と共に落ち着いてきて、『ブランシュ』がシリーズ化した後は非常に大人しいという。

まあ、例の『夜の階段』騒ぎは、最初の『ブランシュ』発表から少しも経たぬ内なので、大人しいというのは語弊があるかもしれないが。

玉城曰く、天才肌ゆえのムラっけがある彼は、気が乗らない時の方が恐ろしい。描いている途中で画材を絵めがけて放り投げたり、急に素っ裸のモデルを置いてアトリエを飛び出し、一時間以上もどこぞをぶらぶらしてきたりするらしい。

「こんなことは何度もやってるが、おかげでニナがヘソ曲げて若い男のとこから帰ってこない。この調子じゃ、『ブランシュ』も次が有るかどうか……」

「今回は長い。玉城さんも心配でしょう」

眉をひそめた臣の声に、玉城は緩やかに首を振った。

「……まあねえ……だが、晃生は昔からああいう奴だから。今さら変えようもない。待つしかないよ」

「待つって……それってつまり……」

「あいつが抱きたい女が現れるのを待つ、ってとこかな」

慣れている玉城はジョーク混じりの苦笑いだが、明斗と臣は気の毒そうな顔になってしまう。

「おいおい、若手が揃ってそんな顔しなくていいよ。おめでたい場で、俺が悪いみたいだろ」

「何か……お手伝いできることがあったら仰ってください」

「ありがとう。……いいんだよ、ミント。描けなくなったらそれまでなんだ。潔くするしかないさ」

両腰に手をやって床に向かって溜息を吐き出し、玉城はふっと顔を上げた。

「そうだ。辻井さんの件は、あいつには言わなくていいからな。俺も話していない」

「は、はい。……あの、的場さんは……今も彼女を描きたいと思っていらっしゃるんでしょうか……?」

「さあ……どうだろうな。傍目には興味を失ってるように見えるが……あいつのことだ、会わせる顔が無いってのに、会えば気まぐれに彼女への興味を復活させるかもしれない。だから、言わなくていい。突っかかって来るなら何とかするから、すぐに言ってくれ」

人の良い玉城に、明斗は感謝を込めて頭を下げた。

想い病むほど描きたかった甘理に会えば、的場はスランプを脱せるかもしれないが、それを頼まない玉城は、業界に多い金利主義者ではない、誠実な男だと思った。

「それにしても、彼女は凄いな。全然変わってないんじゃないか? 不老不死?」

「全然なんですか」

「ミントが誇張していないなら、全然だよ」

「俺は最初、同世代か年下だと思ったんです」

「だよなあ……若い。年齢不詳とは違うんだよな……『若い』が正しい。晃生もそういうとこあるけど……」

玉城のそれは殆ど無意識に出た言葉のようだったが、明斗は自分の絵を見上げた。

肖像画は、その人物の生涯の一瞬を描いたもの。

或いは、過ごしてきた長い時間を感じさせるものでもある。

俺が描いたのは、彼女の一生の、どの瞬間なのだろう?

女らしさのカーブで構成された肉体は、言うまでも無く幼子のような子供ではない。

玉城が言うように若いけれど――少女ではなくて、けれどもどこか、大人ではない。

時が、止まっている気がした。

それは、いつから……?

不思議と、思い出したのは的場の言葉だった。

あれは、いつだったか……『ミント色の街』が売れて、まだ母の死のショックから立ち直れず、ぼんやりと同じような風景を描いていたときだ。

南美子に「一度は行きなさい」と背を叩かれ、気分転換と挨拶を兼ねて、的場のアトリエを訪ねた。

暖かい春の日だった。散り際の桜の花びらが、青い葉の間からこぼれて風に舞う。

彼の都内のアトリエは港区の高台に在る高層マンション内で、リビングを取り囲む大きな窓からは街が見下ろせる。道すがら、眺めた街は賑やかだった。坂が多い所は自分が描いた風景に似ているが、オフィス街である都市の往来は激しく、集団行動のように同じ方向に人が流れ、騒々しいのに、声は混ざり合った雑音ノイズのようで、同じ国の言葉でありながら聞き取れない。

的場は絵は描いていなかった。玉城に伴われて見に行くと、彼はアトリエから出られるベランダから外を見ていた。柔らかそうな髪を風になびかせ、少年のようなグレーのパーカーを着て、ごく普通のジーンズから覗く足は裸足だった。

晃生、と玉城が呼びかける。

彼は振り向くと、こちらの事などお構いなしに言った。


――ねえ、真央。みんな、何処に行くのかなあ……


「ミント、ちょっといい?」

南美子の声に、現実に戻ってきた明斗は振り向いた。手招く彼女と一緒に居るのは、この絵を欲しがってくれる人たちだろう。

なるべく、愛想よくしなくては。

臣や玉城に挨拶して踵を返しながら、何故か、的場の言葉が胸に響く。


――みんな、何処に行くのかな。



 『レディ・ミント』は売れた。

売れに、売れた。売れ過ぎだった。

どこぞの女性評論家が、「やらしい感じがしないんですよね」と言っていた。

当然だ。こっちはやらしい気持ちでなんぞ描いていない。

ところが、ヌードを描く画家のイメージにはどうも女性関係が付いて回るらしく、当然、モデルの話はあちこちで火を付けられた。

明斗は約束通り、モデルについて明言しなかったが、代わりに実はあの人ではとか、私かもなどと言う自意識過剰なモデルや女優まで出てきたのには参った。

確かにクールな印象の女性たちは甘理よりもよっぽど美人でグラマラスだし、それこそ絵に描いたような八頭身とスレンダーなボディをしていたが、不思議と、女性としてもモデルとしても魅力は感じなかった。

たぶん、ステレオタイプだからだろう。

変り者の芸術家にとっては、既に多くの大衆が美しいと評価し、美しいと思われるように仕上がっているものなぞ、面白くも何ともない。誰が見ても綺麗な花より、綺麗な花である筈なのに、誰も傍に置こうとしなかった花の方が面白い。

……というのは、親友の受け売りだが。

甘理はその点、いっそ奇妙過ぎる。何故、彼女の周囲に居た男たちが、彼女の魅力に気付かなかったのかと思ったが、強過ぎる光に尻込みしたのかもしれない。

何せ、交際の申込みや求婚さえされたことがないというのだから、日本の人口が減るのはもはや致し方無いかもしれない。

現に、『レディ・ミント』の人気ぶりに、甘理は溜息混じりだ。

「私は売れないのに、この子は人気者」

自分をモデルにした絵を眺めての自虐的な感想に唇を歪め、彼女はにこりと笑った。

「やっぱり、ミントくんの力量ってことなんだろうね」

「嬉しいけど……甘理さんが居ないとこの絵は描けなかったです。モデルは芸術にとって最高の立役者だと思いますし」

甘理は苦笑した。どこか、自嘲気味な笑み。

彼女は褒められるとき、いつもそういう顔をする。

――私は、褒められるような者じゃないのよ、と言うように。

「本当ですよ。あの日、コンビニで会わなかったら、たぶん絵はやめてた」

「そうかな。私はそうは思わない。一番辛い時期も描いてたような人は、そう簡単にやめないはず」

鋭い。

そうなのだ。あの当時、辞めたいと思うから苦しかったのではない。

辞めたくないのに、描けなくて苦しかったのだ。

自分の作品に百パーセント納得がいく芸術家はそう多くはないと思うが、世に認められた人達は、全力を出し切ったと感じる作品は作れた筈だ。

そういう作品は、技術やテーマ、メッセージ以前に、良くも悪くも圧倒的なパワーがある。時代にそぐわず否定された作品も、パワーが有るものは、たとえ遠い未来でもいつか注目を集め、評価される日が必ず来る。絶望や空虚と戦って自害したゴッホが、今や世界的な評価を受ける様に。

代わりに、名声や人気に便乗しただけのものは一時的に流行っても、早いものでは一年と持たずに消えてしまう。その軽々しい存在通り、記憶にさえ残ることなく。

現代アートに置ける美の形は、伝統工芸のような厳しく正確な基準も、受け継いできた洗練された美しさや形は無い。新しくて、それだけに裏付けもない。

認められ続けるには、どうすればいいのか――日々迷い、自分の内側を削り、引っかき、かき乱し、抉っては答えを探す。

一時の人気に安穏としていたら、すぐに足元を掬われる。既に一度、経験した。

最初の成功は、何気なく買った宝くじが当たったみたいなものだった。

今度は、ちゃんと考えよう。

今後のこと。芸術家として生きていく自覚を持って。

「そういえば、甘理さん……美術をやっていたと聞きましたが、もう、創作活動はしていないんですか?」

甘理が休憩する間、明斗はキャンバスに向かいながら訊ねた。創作とは無関係の話ができる辺り、自分は余裕が出てきたようだ。

ガウンを羽織った甘理は、ポットのお茶を軽く含んで首を振った。

「……もう何も描いてないよ」

「そうですか……どんな絵を描いていたんです?」

「忘れちゃった」

そんなバカなという顔をした明斗に、彼女は猫のように細い髪を弄いながらにんまり笑った。

「ミントくんは自分の昔の作品って、恥ずかしくない?」

「確かに……恥ずかしいのも有りますけど……」

「でしょ。そういうこと。見たくない物は捨てるか封印しておきたいじゃない」

気持ちはわからないでもないが、甘理のそれは恥ずかしいのではなく、隠しておきたい誤魔化しのように聞こえた。

「捨てちゃったんですか?」

「殆どね」

「全部じゃないんですね? じゃあ、気が向いたら見せて下さい」

「冗談。プロに見せられるものじゃないでーす」

すげなく断られてしまい、ミント味がしそうな絵具を混ぜながらしょんぼりしていると、彼女は呆れたように笑った。

「……どうして、私の絵なんか見たいの?」

「絵を見ると……少し、その人がわかるので。オリジナルを描いていた人に限定しますけど」

既存のキャラクターの絵や、誰かの絵を模したものではよくわからないが、絵画には描いた人間が覗く。似ているとかそういうことではない。人柄が出るのだ。恐ろしい絵を描いたから恐ろしい人とは限らないが、精神的な不安定さはすぐに筆に現れる。

臣の絵画が端から端まで文句なしに美しいのは、完璧主義で自分に厳しい彼の内面と、描いた対象を美しいと感じている素直な賛辞が窺える。

「つまり……ミントくんは私を知りたいということ?」

「あ、そういえばそうですね……うーん、そうなのかな……?」

「だめだめ、見たいならもっと真剣に頼まないと。あの夜みたいに」

「あの夜?」

なんだかどきりとする表現だが、甘理とそんな時間を過ごしたことは一瞬も無い。

「私をモデルにしたいって言った日だよ」

「あっ……うーん……あの夜か――俺、だいぶ怪しかったですよね?」

「それはもう。怪しさ大爆発」

「うう……ですよね。甘理さん、よく引き受けてくれましたね……?」

「今言ったでしょ。あの夜のミントくん、真剣だったの。とても」

何故か、甘理は遠くを見るような目で言った。

「内容は怪しかったけど、真剣だった。やましい考えが無いのがわかるぐらいにはね。この人、断られたらものすごくガッカリするだろうな、死んじゃうかもな、というのもわかった」

「そうですか……それも、甘理さんが美術をやっていたからなんでしょうね……」

「――美術をやっていたから?」

やけに鋭く聴こえた復唱に、明斗はわずかに臆した。

「え、だって……裸体を芸術と結び付けられるのは、そういう知識や見解をその世界で鍛えていたからじゃないですか? プロじゃなくても、芸術を見る目が有るってことになると思いますけど」

「……ま、そうかもね」

どこか釈然としない顔で小さく笑い、甘理は首を振った。

「でも、引き受けたのは同志だったからというのも有るのよ」

「同志、ですか?」

「チョコミント好きの同志」

「ああ、そっちか……なるほど……」

つくづく、チョコミントアイスと、あのコンビニには感謝せねばならない。

そう思いながら、清涼感のある味や匂いがしてきそうなミントグリーンの絵具を練っていると、コンコンとアトリエの扉がノックされた。

返事をすると、南美子が入って来た。

片手に一通の茶封筒を持っている。

「製作中にごめんね」

遠慮がちな呼び掛けに振り向くと、彼女の表情は妙に硬かった。

「いいですよ。……どうかしましたか?」

「これ、見て」

差し出されたのは、持っていた茶封筒だ。

「いい? ミント……落ち着いて見るのよ」

「?……ハイ」

何だろう? 開いた手紙は、たった一枚、ごく普通の飾りのないシンプルな便箋だ。

明斗は紙面を見て、すぐに顔を上げた。

「これって……」

見てと言う通り、読むほどではない簡素な印刷文字が並んでいた。

厳しい顔つきの南美子が頷く。

「脅迫状とかいうやつね」

「脅迫状?」

甘理も眉をひそめた。

それは、何の変哲もないゴシック体で一言だけ。


〈描くのをやめなければ、レディ・ミントを殺す〉


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