3.One shot.

「最近、調子が良いみたいだね」

初老の男でありながらまどかの名を持つオーナーは、カップを拭いていた手を止めて声を掛けた。視線の先では、髪をぴっと後ろでまとめた黒のエプロン姿でテーブルを拭いていた女が、きょとんとした顔を上げている。

「調子が良い」

疑問点を復唱する女に、福島 円は皺が多く垂れ目がちの優しい容貌をにこりと微笑ませた。きちんと整えた白髪混じりの髪や口髭、細いフレームの眼鏡が何とも紳士的な雰囲気の男は、別のカップを手に取りながら答えた。

「甘理ちゃんがうちに来て以来、一番元気そうだよ」

甘理は肩をすくめて苦笑した。

「それ、出足が一番サイアクな時だからじゃないかな」

「そうかい? 最悪というなら、僕はそれより前の方が心配だった」

円が言うのは、甘理が的場まとば晃生こうせいのモデルを辞めた直後のことだ。

甘理からすれば、前職を辞めた直後の方がサイアクだった。それは世間的な意味の話で、この頃、次の就活もせずにフラフラしていた時間そのものは悪くなかった。

晴れの日も雨の日も数時間の散歩をし、意味も無く近所の河川敷から川を眺めたり、真っ黄色のイチョウやケヤキの下でバードウォッチングをしてみるなど、何十歳か老けたような生活だったが、巨大モールのアパレルショップで燦燦たる光や大音量の音楽でイカれそうになっていた頭には良いリハビリになった。光や音が購買意欲に結び付くのは理解できるが、そうでもしないと売れない物をがちゃがちゃ置いているのかと思うと、勧めるのも阿呆らしくなってくる。半分以上がセール品と化して尚売れ残る店で、棚やラックをびっしり埋めないと売れないとのたまったマネージャーに、ならば店を半分にするか、色もまともに操れないくせに細くて小さい服ばかり出すデザイナーを代えろと叫ばずに済んだのは奇跡である。

「甘理ちゃんは、生まれながらのアーティストだから仕方ないさ」

四の五の言う小娘に、父の昔からの友人である円はそう言ってよく笑った。

確かに、子供の頃から絵は上手い方だった。狭い世間にもてはやされるまま、美術学校に通ったものの、すぐにトップとの差に気付いた。溢れ出る程の創作意欲、描くこと、作り出すことに全てをかける人たちには及ばない。強いて言えば、感性だけは磨かれたが、それを生かす場は非常に少ない。アーティストもデザイナーも、そんなに要らないからだ。デッサンが上手くても仕事にはならないし、色彩やセンスが有る一般人より、芸能人や人気スタイリストやコーディネーターのネームバリューが勝つ。

この事実に入学当時は有った筈の目標を見失い、就職氷河期に引っ掛かり、最後の覚悟で取り組んだ作品も評価されぬまま宙ぶらりんとなった甘理に声を掛けたのが、あの頃――人気急上昇中の『アート界の麒麟児』だったのは皮肉な話だ。

「的場先生の所に行っていた時より、ずっと良い顔してると思うよ」

「そうかなあ……」

気乗りしない顔でぼやいた小娘に、円は微笑んだ。

「きっと、三咲みさき先生は良い人なんだろうね」

「良い人……か。確かに気取った感じもしないし……馬が合うと思う」

三咲 明斗こと、ミントのことは知っていた。

声を掛けられたときはあまりの変わり様に気付かなかったのだが、彼が的場のアトリエに挨拶に来ていたのは知っているし、『ミント色の街』は甘理も見に行った。

良い絵だった。どこかの坂を上がった高台から、街を見下ろすような構図には、よく見る郊外の街が素朴に描かれていた。大きなキャンバスの中、四角い家々、三階程度のマンション、古びたアパート、雑居ビル、細い道路、合間に生えるのは名前もわからない鬱蒼とした街路樹と、幾重にも電線を伸ばす電信柱。潜むように歩く線のような人物。全てがミント色を中心に描かれ、直接的な死は何も描かれていないにも関わらず、深い情感が漂う。

故人を思って嘆くよりも、慈しむような、懐かしむような、寂しくも穏やかな絵だ。

「正直、あの絵……僕もちょっと泣いちゃったんだよね」

「え、知らなかった」

「知ってるわけないよ。こんなオッサンが……恥ずかしくって誰にも言えやしない」

円の妻は他界して久しい。

実はこの店、カフェ『One shotワン ショット』を開くと決めたのは彼の妻、詩織しおりだった。互いに教師をしていた円と詩織は、円の定年退職を機にこの店をオープンし、お互いの趣味だった写真と一緒に楽しんでいた。

それは、詩織が急な病で他界した後も続き、写真愛好家が多く訪れる店になった。

詩織が撮っていたのは道端の草花が中心で、近付いてみて初めて細かな美しさに気付くハコベやネジバナ、パッと開いた黄色いタンポポなど、とても素朴で明るい写真だ。一方の円は名前に因んでか『窓』の写真を撮るスタイルを持っていて、鉄道や動物、風景や植物を撮る人達とは好みが違う――にも関わらず、店内に飾られた窓の写真は一つの完成されたアートで、多くの人を惹き付ける。海外で撮られた派手なブルーの枠をした窓、沢山の赤いゼラニウムで飾られた白い窓、ガラスの向こうで猫が日なたぼっこしている窓。待ち合わせをする女性や、降って来た雪にはしゃぐ子供の背景になったショーウィンドウも素敵だ。

そして一枚だけ、この店の大きな木製のガラス窓の前で妻を撮った写真が、隅にひっそりと飾ってある。

「なんていうのかなあ……あの絵、全然知らない風景なのにね、眺めてたら、どこかの陰や絵の端から、妻が歩いてきそうな感じがするんだ。だけど、歩いて来るわけなくて……ああ、もう居ないんだなあ……って思って、泣けちゃった。不思議な作品だよ」

甘理は頷いた。円らしい表現だ。居そうで、居ない。本当に悲しい人に一時の気を持たせるとしたら何だか意地悪な絵だが、そうではない。

『ミント色の街』について、描いた直後の明斗は取材に対し、こう言っている。

「ミント色は、母が好きな色でした。最初は本当にそれだけの理由で塗った色なんです。でも、彼女が好きな色で、彼女が居ない現実を描いたら、そこに『居たこと』と『居ないこと』の両方が画面に溢れたっていうのかな……自分には何の意図もなくて、結果的に良い絵になっただけなんです。本当は、生前に本人を綺麗に描いてあげるほうが、親孝行だと思いますけどね……」

頭を掻きながら出た苦笑いは、切ないものだった。

愛した人が居ないというさみしさ。もっとこうしてあげれば良かったという後悔。

『ミント色の街』は作者の悲しみを起点に、絵の前に立った人に優しく呼び掛ける。


――貴方もそうでしたか、と。


「私は、泣かなかったんだけど……円さんが言いたいことは、わかる」

「君のご両親は、もっと賑やかな街を歩いていそうだからね」

円の言葉に、二人で笑い合った時だった。

店のドアが開き、カララン、とドアベルの音が鳴った。

「おや、噂をすれば。ようこそ、いらっしゃいませ」

意外そうな円の声に甘理も振り向く。

幽霊屋敷にでも踏み入らんとするような挙動不審の面持ちで、明斗が立っていた。

「ど、どうも……」

「どうしたの、ミントくん。急なインスピレーションでも湧いたの?」

此処では脱げないよと茶化した女に、明斗は大慌てで首を振った。

「休憩しに来ただけです。南美子さんに、マスターも、コーヒーも、バナナブレッドも、写真も良いって勧められて……」

ぶつぶつと並べて、いいですか、と遠慮がちに尋ねたアーティストに、円はにこにこ微笑んだ。

「勿論です。どうぞどうぞ、お好きな席に」

甘理はちょっと呆れ顔で微笑み、今しがた拭いていた席に明斗を手招いた。

「良い店ですね」

借りてきた猫のように席に座った青年を、甘理はニヤニヤと見下ろした。

「そんな型にはまったお世辞言うことないのに」

「い、いえ、ホントに良いお店だと思います」

「まだ早いよ。せめて、マスターのコーヒーを飲んでから言わなくっちゃ」

全くその通り。ひと目で店に入るのが苦手な人間だと見抜かれてしまったようだ。

他に客が居なくて幸いだった。一人でも居ると、なんだか気を遣ってしまってのんびりできない性分なのだ。こういった静かな店の方が好きなのに、もっとガヤガヤと騒々しいチェーン系のカフェや、ファーストフード店の方が落ち着いてしまう。

恥じ入りながら、明斗は頭を回らした。

飾ってある写真は、南美子が言う通り、一般人のアルバムを覗いているようなものだった。その中で、マスターの写真とやらはすぐにわかった。

一つの壁面を覆う、窓の写真。大小様々、色も形も、あらゆる窓。

思わず、のろのろと立ち上がって写真を見つめていると、甘理が水を満たしたコップと、今時珍しいおしぼり片手にやって来た。

「良いでしょ」

自分の物のように言う彼女に、明斗は頷いた。

「かなり好きです。売らないんですか」

「円さん、買ってくれるって」

カウンターの向こうでマスターは朗らかに笑った。

「お望みなら、差し上げますよ」

「え、勿体ない。売れますよ、これ。窓のポートレートって感じでかっこいいです」

「プロにお褒め戴き光栄ですが、アマチュアのかっこつけたポーズみたいなものです……でも、嬉しいから聞いちゃおうかな。どれがお好きです?」

「選べないな、どれもいい……この黄色い壁に白い窓も良いし……この、なんて言うんですか、外に扉みたいなのが付いてるモスグリーンの窓も素敵ですね」

「ああ、ルーバーとかウッドシャッターとか言いますね。日本風に言えば換気窓でお馴染みのガラリ」

楽しそうに話した円の手元から、良い香りが立ち上り、瞬く間に店を覆った。

「先生、何か召し上がりますか?」

「あの、先生じゃなくていいですよ。そんな大層な芸術家じゃないです」

「え、大層で居て下さいよ。店に箔が付きますから」

これには明斗も苦笑するしかない。

「じゃあ……噂のバナナブレッドを下さい」

「南美子さんのお墨付きね」

甘理がケーキを準備し、すぐに湯気を立てる黒く滑らかなコーヒーと、仄かに温められてバナナが香るケーキがやって来た。ケーキの傍らにはホイップクリームがぽんと落とされ、ミントが飾られている。本場は速成パンとしてバナナブレッドと言うそうだが、日本ではケーキのイメージが強い。こういうものが、濃いブルーの釉薬が掛かった皿に乗せられて、カフェの良い雰囲気の木製テーブルに置かれる様は、どうしてか絵になる。SNSに興味はないが、皆が写真に撮りたくなるのも頷ける華麗な色彩。コーヒーは飲む前から美味しいのがわかるぐらい良い香りだったし、外側がサクサクしていて、内側はしっとりとバナナが甘いケーキは文句なしに旨かった。

添えてあるミントに、何か妙な符合を感じながら、一番最後にケーキと生クリームに乗せて頬張った男に、立って眺めていた甘理がクスクス笑った。

「やっぱり、ミントの葉っぱ食べるんだ」

「何となく食べちゃいますね」

「変って言われるでしょう」

「言われますね。引く人も居る」

「ネットじゃ、変な論争起きてたなあ。食べるのはマナー違反かなって気にする人が居て、私はそっちに驚いた。お皿に乗ってくるんだから、どっちだっていいじゃない、そんなの」

「実際、作った人はどうなんですか?」

カウンターの向こうでにこにこしている円に問うと、彼は頷いた。

「どちらでもいいですよ。香りや清涼感が強いから、三咲先生みたいに最後に食べるのがオススメですが。此処に来る前にニンニク料理でも食べて来たんなら、最初がいいかな?」

至極当たり前のことだが、このマスターが言うとおしゃれな感じがした。

「次はキャロットケーキにトライしてね」

甘理が指差す先、丸いガラスドームの中には白いクリームチーズフロスティングを雪の様にかぶった茶色いケーキが有った。見えている断面には、人参と思しきオレンジとナッツやレーズンがたっぷり詰まっている。

「あっちも美味しそう」

「でしょ」

「良いお店ですね」

「でしょ」

「俺はマスターに言ってるんですけど」

甘理が笑ってマスターを振り返ると、彼も同じように「でしょ」と答えて笑った。

「そういえば、此処のOne shotワンショットって店名は写真からきてるんですか?」

「ええ、そうです。もう一つ、『一度きり』って意味もあるね」

「一度きり……ですか?」

リピートしてほしい筈の店についた意外な名に首を傾げると、マスターは頷いた。

「一度でも来てくれたら嬉しいな、って気持ちがあるんだけどね、一期一会って言葉みたいに『これで最後かも』って思う出会いを促すのは、少し重いなあって。だからカラッとワンショット。一度きりでもいいぐらいの、かるーい店で居たいんだ。あんまり特別なものになっちゃうとさ、無くなった時にすごく寂しいでしょう?」

「なるほど……押し付けない感じがマスターのお人柄に合っていると思います」

「あ、わかってくれます? 嬉しいなあ」

照れ臭そうに微笑んだ円を、甘理がのんびり眺めやる。

良かったね、と、小さな子供に言うような優しい顔を明斗はちらりと見て、何とはなしにぎくりとして慌てて目を逸らした。

誰かに、似ている気がした。

「あの……実は、来月ぐらいに個展をやるのが決まったので、良かったらマスターさんも来てくださいませんか」

良い話を言い訳の様にしょぼしょぼと言う明斗に、円は初めて聞いた様子の甘理と顔を見合わせた。

「円でいいですよ。――僕なんかが行って宜しいんですか」

「えっ、ハイ。もちろんです……よ、宜しければ……」

「個展ってことは、復帰できるってことでしょ? 良かったじゃない、ミントくん。どうしてそんな遠慮がちに言うの?」

「だ、だってさ……マスター……円さんは、甘理さんを子供の頃から知ってるって南美子さんが言うから……」

「それとこれと何の関係があるわけ?」

「うう、それは……ホラ、子供みたいな人のさあ、裸を描いてるわけだから……そのう……」

脇を向いてもそもそと言う芸術家に、ポカンとした二人は殆ど同時に頬をぶっと言わせて吹き出した。親子かと思うほどそっくりな仕草でゲラゲラ笑い出す。

「わ、笑わないで下さいよお!」

他に客が居ないのがせめてもの幸いだった。情けない悲鳴に、円が眼鏡を外して涙を拭き拭き、首を振ったり頷いたり、体を前後に揺らしたりした。

「ハハハ……すみません、……いやあ、先生は何と言うか純朴な方なんですねえ……僕は気にしていませんよ。目の前で脱がれたら困りますが」

「私、二度目だもの。前の方が赤裸々だったし」

「……的場さんの件ですよね」

明斗の神妙な言葉に、和やかだった甘理の目が微かに冷えた。

「知ってたのね。南美子さん情報?」

「……そうです。俺はそういうの無頓着で……本当につい最近聞くまで知りませんでしたし、気付きもしなかったです。彼女も、俺に話すのを躊躇っていました」

「そう……なんかゴメンね、気を遣わせて」

「いえ。南美子さんは的場さんとのことは気掛かりだった様ですが、俺はどうせ気にしないからと黙っていたそうです」

「そうだったの。彼女、しっかりした良い人ね」

甘理は片手で耳元の髪に触れ、どこか恥ずかしそうに言った。

「気付かないのは当然よ。アレ、顔は殆ど見えないし。ボディの方を見て『貴方でしたか』なんて言ったら、私だってドン引きする」

苦笑して、彼女はコーヒーのおかわりを注いで、ケーキの皿を静かに下げた。

「どうして、彼のモデルを辞めたのか、聞いても?」

「ん~……仕事中なんだけどな~……」

唇を尖らせた甘理に、円がにこにこと頷いた。

「いいよ、暇だから。彼には聞く権利があるんじゃないかな?」

背を押してくれた男の手前、仕方なさそうな溜息を吐いて、甘理は対岸に座った。

しばらく机の上を見つめ、そこにゆったりと考えを並べるような間を置いて、彼女は話し始めた。

「辞めた一番の理由は、晃生のことを好きでいるのが辛かったから。二番目に、炎上騒ぎの責任を感じたから。三番は一番に通じるけど、この件で『ブランシュ』のモデルの来島くるしまニナと揉めるのが面倒だったから」

物凄くわかりやすい構図に、明斗は物分かり顔で頷くしかなかった。

先にも述べた通り、『アート界の麒麟児』にして『和製クリムト』たる的場晃生は、女性関係に事欠かない。『ブランシュ』というのは、彼を麒麟児と言わしめ、有名にした連作だ。当然、『夜の階段』が描かれるよりも前からの作品である。

来島ニナは、当時デザイナーを志していたようだが、白人系の血が混じったクォーターという容姿の良さからファッションモデルに転身し、ある日本人デザイナーのコレクションでランウェイを歩いた際、モデルを探していた的場の目に留まった。

彼女の欧米人寄りのいわゆる乳白色の肌と、白バラやスズランなどの白い花が一緒に描かれた作品は『ブランシュ・シリーズ』として、未だに高い人気を博している。

可憐で愛らしい雰囲気の彼女は、さぞかし、晃生と親しいと思っていたのだが。

「晃生はニナをモデルとしか見ていないけど、ニナは私がこんなこと言ってると知ったら、切り刻んでサメの餌にするぐらい晃生のことが好きだった。今はどうなのか知らないけど」

南美子が言う通り、面倒臭い男女の問題のようだ。

「でも、これは晃生にも責任がある。『ブランシュ』を本気で愛して描いているのに、モデルのニナを愛してないって言うのは何だかひどいじゃない。一方で、ニナはそこのところが他のモデルよりパワフルだったの。愛される為に、自分が最も優れたモデルで居続ける為に、ものすごく努力してた。本職がファッションモデルなんだからそりゃそうなんだけど、食事制限やトレーニング、栄養学や漢方なんかも勉強してたよ。私は嫌われてたけど、彼女の努力家なところは尊敬できるし、羨ましかったし、けっこう好きだった。だから晃生も彼女を描き続けたんだと思う。画家は望ましい完璧なモチーフが目の前に居たら、描きたくなるものでしょ?」

「ええ、理解できます。完璧なモチーフを愛するかはわかりませんが」

「ミント先生も、仕事にはクールね」

面白そうに笑って、甘理は机の上に小さな溜息を吐いた。

「彼の場合、モデルにする=肉体関係を結ぶ、という構図だから、ニナが心中穏やかじゃないのは当然よ。大抵は居付きそうになると、ニナが追っ払う。だからモデルは沢山居ても、『ブランシュ』以外に連作は無い。晃生が私を描きたいって言ったのは、ニナが仕事でヨーロッパのコレクションに行ってるときで、完成した絵を見た時は、浮気よ不倫よって大騒ぎ。マネージャーの玉城さんもあんなに発狂したのは初めてだったみたいで、止めるのに必死だった。当の晃生は、ニナと付き合ってるつもりじゃないから、終始あっけらかんとしてたけどね……」

「的場さんとは……何処でお知り合いに?」

「私……若い頃、美術やってたから。才能無いなって思いながら辞める踏ん切りつかなくて、ぼーっとしてたら氷河期に引っ掛かって、あっという間に卒業間近、手伝いを探してるって言われて駆り出された展示会が、的場晃生の個展だったの」

個展の手伝いということは、他にも学生などが大勢いただろう。その中で甘理に目を付けるとは、さすがの審美眼だ。

「引き受けるのに、抵抗は無かったんですか」

「どちらかというと……ときめいちゃったの」

「んん?」

「想像してみて。時は就職氷河期、片や夢を捨てきれないのに、自分の作品も見失ってる女なんか、どこも雇っちゃくれない。慰めてくれる恋人なんて居ないし、教師や学校のサポートはたかが知れてる。職安行ったら、親切そうな人が長ったらしい適性検査して、『今これだけしか無いんですよね~』ってわかりやすいブラック企業と、飲食チェーン店や介護職を提示するわけ。そういうお仕事してる人には失礼だけど、安易に、私あんまり要らない人間なんだな~って思っちゃってた。そんな女に、すらっとしてハンサムな人気アーティストがいきなり『モデルになってくれませんか』って言う。さて、どんな気持ち?」

「ときめきますね」

「でしょ」

一笑に伏したが、甘理の目はちっともときめいてはいなかった。

むしろ、その頃の自分を見下すような目だった。

「結局ね……あの頃の私は、楽な方に行きたかっただけなの。リクルートスーツ着て百社も受けて勝ち残る勇気も無い、臆病者だった。そういう私を、晃生は蔑んだり非難しなかった。私を見つめて、描いて、にこにこしながら楽しくお喋りする。だから安易な私は安易に彼を好きになった。『夜の階段』が完成したときは、あのインパクトに身震いしたけど……この人の作品の一部になるのは、悪くないかもって思ってた」

そこに、ニナの怒りが落雷のように落ち、燃え上がった。

明斗にもわかる。甘理は魅力的なのだ。好きになるかはともかく、どこか奔放で、風変りで、洗い立てのシーツみたいにさらっとしている。

文句なしの美人で努力家のニナが、焦りを感じて、汚い手段に出る程に。

「炎上騒ぎの発端は、ニナが週刊誌に公然猥褻じゃないかってリークしたんだって。私が晃生をそそのかしたっていうオマケ付きで。でも、彼女自身、あんなに騒ぎが大きくなると思ってなかったのね……収拾が付く頃には、リークの件を白状して謝られた。まあ、それで済むことはなかったけど……」

報道には至らなかったが、甘理の正体そのものはすぐに割れた。自宅には連日、実家も含めてあらゆるテレビ局や新聞に雑誌の記者がウロウロした。マネージャーの玉城たまきは甘理を全面的に擁護し、誤った情報や違法スレスレの取材には毅然と対処してきたが、ネットはいつしか甘理を魔女か毒婦のように扱い始め、火消しは思うように進まず、こうなったらもう世間が落ち着くまで放置しておくしかなくなった。

甘理は灯台下暗しとして例の別荘に引きこもり、静かに時を待つことにした。

……が、収拾のきっかけは、非常に後味の悪いことになってしまった。

「その頃なのよね……父が死んだのは」

聞けば、彼女は学生時代に母を亡くし、父一人、子一人だったという。

円の親友でもあった父は明るい人物だったそうだが、超が付くほどの真面目な男で、愛娘のスキャンダルに人知れず苦悩していたらしい。あまり強くなかった心臓がどんどん弱っていたらしく、無礼な記者を怒鳴りつけた際に卒倒し、救急車で運ばれ、寝たきりとなった後にふうっと吹き消す様に亡くなった。

彼が倒れた後、マスコミの攻撃はぴたりとやみ、別の事件へと矛先を変えた。

彼女の名前や素性が業界に公表されることがなかったのはこの為だ。彼らは自分たちが正義を気取る時は意気揚々と騒ぐが、ばつの悪い事が起きれば瞬く間に踵を返し、さも自分たちが居たからいち早く救急車が呼べたような言い方をした。

この言い分には、明斗も思わず怒りに震えた。

犯罪者でさえない善良なる市民を相手に、なんて、勝手な奴だろう。

当時の甘理も、玉城と共に父と揉めた記者を探したが、結局見つからず、やがてネット上も静かになり、『夜の階段』の話題は作品ともども消えた。

「玉城さんには土下座して謝られたよ。慰謝料も貰った。でもね……私は玉城さんのことは悪いと思ってないし、むしろ守ってもらって有難かった。晃生は子供みたいにもう一度描きたいって言ってたけど、それも玉城さんが止めたの。私が続けたいのなら止めないが、そうじゃないならこれで終わりにした方が良いって」

「もう一度、炎上すると思ったからでしょうか?」

「いいえ。玉城さんが止めた理由は炎上が怖かったからじゃない。晃生が、私に恋をしていたからだって……」

甘理はテーブルに頬杖ついて、窓の外を見つめた。

「あの的場さんが……恋を……」

「本人が言ったわけじゃあないけどね……私も確かめなかった。あの時は、なんだかもう、いっぱいいっぱいで。私があの場に居ることで、上手くいっていた筈の色んなことが、滅茶苦茶になったみたいで、一秒でも早く逃げ出したかった」

「恋をしたから、あの絵が描けたってことですよね……?」

「……多分ね。あの絵は今も、晃生が持ってるはず。玉城さんは売って厄払いしたかったみたいだけど、なんか……晃生が”らしくない”ぐらい抵抗したらしいよ。それを見て、玉城さんは私は使えないって思ったそうだから」

それはそうだ。プロの絵描きである以上、売れなければ終わりだ。

的場晃生が描きたいだけ甘理を描くのは自由かもしれないが、それを片っ端から手元に収められては困る――……スポンサーも黙ってはいないだろう。

「それきり、晃生には会ってない。連絡もずっと取っていないよ」

溜息を吐くと、彼女は明斗に向き直った。

「これで全部かな。他に何か知りたいことは?」

「甘理さんは……今も晃生さんのことがお好きですか?」

野暮な問いだったかもしれない。一瞬、彼女の強い瞳が、すっと冷える気がした。

それはじっとこちらを見つめ、首を振った。

「……ごめん。わからない。二度と会わない方が良いって、そう思っているだけ」

「そうですか……わかりました」

「ミント先生も、これっきりにする?」

嘲笑うような問い掛けに、明斗ははっきり首を振った。

「いいえ、続けさせてください。『レディ・ミント』は貴方しか居ない」

「レディ・ミント。私にはお上品な名前ね」

悪戯っぽく笑ったが、先程までの沈痛な様子は見られず、明斗は少しほっとした。

「ひとつ……心配なのは的場さんです。レディ・ミントを発表する際、俺はモデルを公表するつもりはないんですが、彼は気付くかもしれません」

「気付くかもしれないね」

「それでも、発表しても……良いでしょうか」

「いいよ。またアプローチされたら断るだけだし、もう死んじゃう人はいないだろうから」

居たたまれないことをさらりと言って、甘理は首を振った。

「私は貴方が描くことを了承して、描いたのは貴方なんだから、自由に発表して良いと思う」

「ありがとうございます」

「これで売れなかったら、笑っちゃうね」

縁起でもないことを軽やかに言う甘理に、明斗は自信に満ちた顔で笑った。

「いいえ、売れます。『ミント色の街』を描いた時は、そんな気はしなかったんですが、『レディ・ミント』は売れる気しかしない」

自分でも、初めて味わう感覚だ。

これが、自信作を生み出した人間の気持ちか。

「良い顔」

甘理が頬杖ついて眩しそうに笑ったとき、ドアベルがカララン、と鳴った。

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