2.レディ・ミント

 とんでもなく変わった女は、とんでもなく変わった名前の持ち主だった。

辻井つじい 甘理あまりさん、ですか」

連絡先を聞いた時は苗字だけだったので、改めて顔を合わせた時は驚いた。

「親は、『飴理』って書いて『アメリ』にしたかったらしいんだけど、色んなとこから反対されて無理だったみたい」

「アメリって……ひょっとして、映画の?」

「そう。ヒロインのアメリがクレーム・ブリュレの表面を割るのが好きでしょ。あの軽い飴状のカラメル層に合わせてね。飴がダメなら甘にしようっていう発想がもう珍妙だけど」

「なんというか、モダンなご両親ですね」

「気を遣わなくていいよ。ただ単に『変わってる』だけ」

苦笑した甘理に、明斗も苦笑を返した。

実は自分の名前も明斗と書いて「あきと」ではなく、危うく「みんと」と読むことになる予定だったので人の事をどうと言えた口ではない。ただ、甘理の場合、四十ということはキラキラネームの世代ではないので、うちの母以上に変わった親かもしれない。この名前に困ったことはさほど無いそうだが、四十代に乗っかって尚、未婚の彼氏ナシである為「余り物」といじられるのが忌々しい――さばさばした口調で喋った彼女は、明るい場所で見直して尚、年齢詐称ではと疑う程度には若かった。

話しぶりに世代感が出るものの、目許やすっきりした口元にはシワひとつなく、コーヒーが大好きで寝付きが悪い人間さながらのクマこそあれど、化粧をしたら二十代後半に匹敵する。何より、同じく未婚で彼女もいない明斗の前で、ましてやプロでもないのに、下まで脱ぐことに頓着しなかったのも、脱いだ姿を見て理解した。

何となくそう思っていたが、綺麗だった。

誤解があると申し訳ないが、生身だと思っていた女が脱いだらマネキンだった程度には素っ気ない綺麗さだ。触ったら、体温を感じないのではと思うような。

理想的だと思った。

初日に想像通りだと告げたら、彼女は少しだけ呆れ顔をした。

「その言い方だと、相手の裸を想像してることにならない?」

「なりますね」

「うーむ、いさぎよい」

「……まあ、嘘ではないので。性的な意味ではないと弁解しても、信じない人は信じないですし」

甘理はガウンを椅子に掛け、ニヤリと笑って頷いた。

長時間立っているのは辛いと訴える彼女の為、半分以上はソファーに寝たり座ったりしてもらった。裸婦像には多く存在するポーズだが、明斗にとって興味が有るのは女性のふくよかな肉感や丸みのあるボディラインよりも、彼女の肉体に現れる内面だ。

精神的な面を描くために胸や尻が要るのかと問われると答えに窮するが、服を着てしまうと見えないのだ。装い、着飾ってしまうことで、文字通り隠れてしまうものを描きたい。そう伝えても、単純にヌードをいやらしいもの、卑猥なものだと判断する人間を説得することはできないので、この辺りは堂々巡りだ。

「本当に裸が好きで、描いたり撮ったりする人もいるものね」

小休止を挟む度、彼女は軽快に話した。やはり、美術に造詣が深い。その手の話題がすらすら出てきた。

「俺は性的な嗜好で肯定されても困るんですが、性的な美しさを否定すると、著名な画家や彫刻家を只の変態扱いする羽目になるので難しいですね」

「確かに。ルノワールやミケランジェロを只のスケベ扱いはしたくない」

その通り。彼らも人間であり、”そういう逸話”は当然有ったが、腐ってもこっちは芸術家だ。ヌードモデルを頼んでおいて、いちいち下半身がどうにかなるような奴は辞めるべきだ。モデルの方も同様だ。脱いだからといってムラムラされては困る。

悪いが、こっちはそんな目で見ていない。宝石や花を見て興奮しないのと同じだ。

電撃デビュー直後、風景画で売れた自分に、あろうことかモデルを願い出た女が数名居たのだが、イメージは悪くないのに”結果的に”断らざるを得なかった。

「ミントくんは、女の人が嫌いなの?」

数日後という早い段階で、甘理は明斗を親しい人と同じあだ名で呼び始めた。

正直、このあだ名はあまり好きではないのだが、チョコミントアイスの件でスカウトした手前、彼女には資格があると思った。

「嫌いじゃありませんよ」

「男は?」

「まさか」

「では、性的欲求が無いということ?」

「そうです。興味が無いんです」

「興味がない、か。具体的には?」

今日は背中を向けているが為か、甘理は呑気に問い掛けた。彼女の背のなだらかな曲線をキャンバスに描きながら、明斗は首を捻った。

「さあ……言葉のままですかね」

「誰かと一緒に居るのは苦手?」

「そうでもないです。得意とは言いませんけど」

学生時代から、集団行動について苦言を頂いた覚えはない。芸術家なんぞに傾倒していると、自分勝手でマイペースな人間と思われがちだが、大抵の人はきちんとしていて協調性もある普通の大人だ。マネージャーや支援者と打ち合わせをし、パトロンに頭を下げ、愛想笑いをし、美術館や記者、業者とやり取りをする。

……心底、面倒臭い作業だが。

作業と思うから良くないのだろうが、可能ならば引きこもっていたいインドア派なので、風呂と髭剃り、散髪さえやっていれば、衣服や靴も適当に済ませていたい方だ。

マネージャーの、やれヘアサロンに行けだの、靴や上着は良いものを買えだの、アイロンや靴磨きは怠るなだの、こちらのビジュアルまで売ろうとする指摘には辟易している。……いや、そんなことまで世話を焼いてくれるマネージャーが居るのは幸福だ。……反省しよう。

「じゃあ、誰かを好きになったことはないの?」

「正確な話をすれば、無いです」

「正確な話」

甘理は気になることは復唱する。最近、それに慣れた明斗は詳しく説明した。

「えーと……つまり、俺は普通に同世代の女性と付き合ったことはあるんです。いつも相手からでしたが、彼女達のことはそれなりに好きでした」

「それなりに」

復唱した甘理はにやっと笑ったようだった。

「フリーの原因はそれ?」

「どうかな。好意を%表記したら、彼女達のそれよりは劣っていたかも。でも、毎回その場限りなんて思っていませんよ。……この際だから言いますけど、童貞じゃないですし、そういう行為が苦手というわけではありません。只、生活の中で必須じゃないんです。キスより話す方が好きだし、ベッドに入ったらセックスするよりゆっくり寝たい。一人で集中したいことが多いので、四六時中受け付けろって相手が居るのは煩わしい……だから、徐々に上手くいかなくなる。そんなとこですよ」

「わかる」

「わかるんですか」

「わかるよ。私と似てる」

「甘理さんも?」

「そう。男女関係イコール肉体関係って構図がもう古い気がする。ドラマとか、恋愛をテーマにした作品のセオリーがめちゃくちゃ鬱陶しいことがあるもの。コレが恋愛ですよ~みたいに、くっつく要素しかない二人が抵抗やら反発する状況も、カップルはこうやって過ごすのが決まり、みたいな展開はそこそこイラっとする。だって、実際の恋愛はそんなことないじゃない? 女の方が連絡にドライで、男の方がしつこいこともあるし、現実の男は手編みのマフラーなんて大抵要らないわよ」

手編みのマフラーは要らない、か。ちょっと笑ってしまった。

「一理ありますね。フィクションがリアルのお手本みたいな顔をしてるのは俺も釈然としない。だから若い子までホストなんかに騙されるんじゃないかな」

ふっと吹き出す音がした。

「ミントくん、それを言ったら世知辛いよ。夢見がちな子達に優しいのは空想の恋人と金利主義者と詐欺師だけになっちゃう。リアルな一般男性は世の女性の”キュン”をしっかり学んで実践すればモテるんだから、諦めずに頑張るべき」

「無茶言わないで下さい。学んでも、甘理さんみたいな人には通用しないじゃないですか。イケメンでもない一般人が、あんな恥ずかしいセリフ吐いてゲラゲラ笑わないなら言ってもいいですよ」

甘理の双肩が愉快そうに揺れた。

我々が思うより、恋愛事情には現実と理想と、更には妄想がごちゃごちゃしていてアンバランスだ。昨今、まともな恋愛をしている人間は、本当にたまたま、とてつもない偶然、隣に座った人、喋った人、知り合った人と馬が合った――若しくは、どちらかがどちらかの壁を突き破るほどのアプローチが出来たかだと思う。

個人的な尺度なので勘弁してほしいのだが、昔から少女向けコミックスにありがちなロマンチックなストーリーが苦手だ。特に学生がテーマの作品は、九割は無いだろう話を有りそうに描くところが理解に苦しむ。現実の学校では、品行方正だの不純だの早いだの、恋愛に否定的だ。締め上げる程ではなくても、当然、学業優先、ひどい所はバレンタインさえ取り締まる。ところが、周囲の大人は彼氏や彼女は居ないのかと聞いて来るし、好きな人が居ると言えば冷やかす。

学校でイチャイチャしていればあれこれ言う、自宅に呼ぶのは良くも悪くも一大事扱い、ただ並んで歩いていただけで噂される……とにかく、面倒臭いと思う程度にはやかましい。そしていざ社会人になってから遊ぼうにも、今度は責任が付いて回って忙しいし、予定が合わなければ付き合おうにも付き合えない。

憧れの芸能人や架空のキャラクターを推して追っ掛け、夢が覚めるころに慌てて合コン、友人の紹介、婚活サイトにアプリに相談所を覗いて、まだ花盛りの若い内から途方に暮れる。ネットの普及で、出会う手段に溢れて見えるのに、昨今の結婚率は右肩下がりが止まらない。この理由を、いい加減トップクラスの連中は気付いた方が良い。こき使いたい末端の人間が増えなくなったら困るんだろうから。

「君に恋をした子はちょっとかわいそう」

「そっくりお返ししますよ」

フッフッフと甘理はフィクションみたいな含み笑いをした。

「生憎、見た目以外で好かれたことは無いの。これでも、夢見る乙女たちは羨ましいんだよ。そういうことを一度でも経験した人もね」

「ああ、それは少しわかります。絵に描いたみたいなカップルをやってる人たちのバイタリティも凄いですけど、子供を持ちたいって人は偉いですよね。育ててる人は、もっと凄いと思う」

「うん、尊敬する。偉いよねえ……子供と歩いてる人見るだけでそう思う。カップルが幸せそうなのは羨んじゃうけど、家族が幸せそうなのはほっこりする」

呑気に喋れは喋るほど、明斗も甘理も不毛な生き物と化していく。

仮にも人間に生まれ、ジェンダーに悩まされているわけでもないのに、生物的な意欲に欠けているからだ。結婚や子育てに一生懸命な人々に「人類存続の為に貢献しよう」などという考えはそう有るまいが、誰かと一緒に過ごそうとする彼らはとても人間らしい、まともな価値観の持ち主だ。一方、不毛な二人は人生の川をとろとろと流れ、岸辺に漕ぎ着けようともしなければ、岸から呼び掛ける誰かを乗せようとも思わず、誰かが通り掛からないかと望むよりは、一人の静寂にとっぷり浸かっていたい。

「ミントくんはまだ若いじゃない。ちょっと変わってるぐらいなら、かえって良い出会いが有ると思うよ」

「俺だって三十五ですよ。”そろそろ”なんて考えてたら終わる世代です」

「なんて恐ろしいセリフ。知ってる? 妊娠率って三十五過ぎると半分近くになるの。四十過ぎると半分以下。統計的な話だけど、子供を前提に結婚を考えると、三十五以上の女はそれだけでリスキーに思われるんだよね」

「確かに恐ろしいですね。不妊は男性が原因のパターンも多いんでしょう?」

「その通り。詳しい」

「……友人に居るんです。不妊症を気にして、付き合いを避けているのが」

甘理は微かに振り向いた。血も涙も無さそうなクールな瞳が瞬いた。

「そう……お気の毒。産まれる前から喪失感があるみたい……」

先程までの好き勝手な恋愛観から一転、寂し気な声がアトリエに響いた。

明斗もしんみりと頷いた。

「……まあ、彼はハンサムだし、気にしている女性にとって凄くタイプの人間さえ現れなければ、うまくいくんじゃないかなと思います」

「うまくいくといいな」

知りもしない相手の幸福を、甘理は歌う様に言った。

理想的だと、改めて明斗は思った。

触れたら飛び退くほど冷たそうだが、滲み出る温かい内面。

デッサンの段階から、タイトルは浮かんでいた。



「本気なの?」

甘理と出会って二ヶ月ほど経った頃、マネージャーの羽鳥はとり 南美子なみこは、彼女を雇うと言った時と同じ顔で問いかけた。

「本気です」

はっきり言った明斗の顔を見て、彼女は脇に大きな溜息を吐いた。

「ミント先生が何を言い出しても、今さら驚きませんけど」

南美子の口から敬語が出るのは、おどけているか、怒っているか、相当呆れている時だ。甘理より二つ下の彼女だが、苦労故か不機嫌な顔をすると二つ上に見えてしまう。ノーメイクでも綺麗な部類に入るだろうに、ばっちり化粧をしてスーツかワンピースを着た姿しか見たことがない南美子は、ピンと上向いたマスカラ付きのまつげをぱちぱちさせた。

「貴方の処女作は風景画じゃない。それを待ってるファンもいるのに、発表作を全部、彼女の裸婦にするって……だいぶ、乱暴よ」

「スポンサーがごねるなら、俺が説得します」

「やめてよ。私が無能だと思われるじゃない」

舌打ちしそうな顔になって、南美子は机に頬杖ついていた手を額にやった。

「これで失敗したら次は無理かもしれないのよ?」

「わかっています」

「ホントに? 私、これでも貴方の作品に惚れてマネージャーやってんのよ?」

「わかっています。有難いと思ってます」

チッと南美子は舌打ちした。お嬢様然たる見た目だが、南美子の気性は荒い。

「その惚れた絵を全とっかえするって言われてるんだけど?」

「わかっています」

三回も唱えると、こっちもうんざりしてくるが、致し方ない。

私生活にも口を出すのを鬱陶しく感じることもあるが、彼女は恩人の一人だ。

三年前、デビュー作の『ミント色の街』で明斗がヒットした後、彼女は率直に作品に惚れたと言ってマネージャーを願い出た。

その後、あっさり鳴かず飛ばずになってフラフラしていた間、一人、また一人とパトロンやスポンサーが姿を消す中、南美子は明斗を信じ、方々に頭を下げ、創作活動を続けられるようにやりくりして支え続けてくれたのだ。

女性ならではの視点の気遣いや助言は的確で、明斗と関係を持ちたがるだけの女をうまく退けてくれたのも彼女だ。

その恩人は、甘理を雇う際も反対した。

彼女の気持ちはわかる。ヒット作が風景画だった男が、三年の低迷期を経て描こうとしたのが妙齢の一般女性のヌードだとすれば、騒ぎになるか、話題になるか、総スカンに遭うか、あまり良い未来は想像できない。

だが、明斗の意志は固かった。

「南美子さん、俺が三年前に『ミント色の街』を描けたのは、母が死んだからです」

「……知ってるわ。貴方はお母様のことを公表せずに発表したのに、あの絵を見て涙が出た人が多かったのは、そういうことだと私も思う。彼女が居なくなっても変わらない街を、彼女が好きだったミント色で描いた……貴方の内面が表れた最高傑作よ」

そう。

『ミント色の街』は、母の急逝に戸惑い、得体の知れない喪失感に襲われて描かずにはいられなかった作品なのだ。あの時も、コンクールへの出品のために別の作品を一年近くかけて準備していたのに、明斗はひと月も掛からずに描いた『ミント色の街』に切り替えた。結果的に、グリーンともブルーともつかないミントカラーで、100号サイズのキャンバスに描かれたありふれた街の風景は最優秀作品を受賞し、只の青年を芸術家アーティストに押し上げた。

「貴方が徐々に描けなくなったのは、あの時の悲しみが消えていったからなのよね?」

「そうです。薄情な言い方ですが、俺はあの絵を完成させた時から、描いていた時ほど悲しくはないんです。最初の一枚は、二度と描けません」

「……それは貴方の気持ちの問題だから、私がとやかく言う事じゃない。でも、今度は何に動かされたって言うつもり?」

きっかけは、チョコミントアイスだが、さすがにそれで説得ができるとは思えない。

「……直感なんて、通じませんよね?」

南美子が大げさに天井を仰いだ。

「それ、私の返事要る?」

「すみません……」

「ミントがひじょ~~……に、女を見る目が有るっていうなら話は別だけど」

天井から戻って来たジト目に返す言葉もない。

甘理にはああ言ったが、初めての女性はたかが高校生、お互いよくわからぬまま卒業と共に終わり、次は大学時代だが、こっちは自分が美術にどっぷりハマった所為で、テーマパークや流行りの店に行きたがる女の子たちとは合わず、ひとたびデッサンを始めたら、同じ空間に居ても生返事を返すのが精一杯の為、淡白な関係に終わった。そして鮮烈なデビュー後、初めてのモテ期が訪れたが、こちらは母が死んだ直後の呆然自失状態、おまけにあれよあれよと芸術家に転身し、急に作品を求められる過渡期。はっきり言って女の相手などしていられなかった。

「まあ、ある意味、見る目は有るわよ」

「でも、南美子さんは反対したじゃないですか。素人じゃトラブルになるって」

「そうよ。そう言うしかないもの」

フウ、と溜息を吐いて、敏腕マネージャーは脇を向いた。

「理由はちゃんと有ったの。だけど、そういう言い方は嫌な感じだと思って、言わなかった」

「理由……?」

まさか、彼女は犯罪者か何かなのか?

そう思った明斗の手前、南美子は自分の端末を操作して一枚の絵を映した。

有名な裸婦像だ。

しかし、いわく付き。――且つ、この絵はある理由で市場に出なかった幻の名画。

明斗が訝し気に顔を上げると、南美子は溜息混じりに口を開いた。

「彼女の身辺調査をしたら……的場まとば 晃生こうせいのモデルだったことがあるのがわかったの」

「ま、的場さんの……」

絵を見て何となくわかったが、意外な素性に明斗は驚いた。

……どうりで、脱ぐことに抵抗が無いわけだ。

的場 晃生は、二十年ほど前『アート界の麒麟児』と云われ、未だに人気を博している画家だ。現在、四十代後半の彼の絵は、デビューからほぼ全て女性に統一されている。作品の半分以上を裸婦が占める彼の最大の特徴は、モデルになった女性すべてと関係を持っていること。確かに、彼はすらっとした体格とどこか憂いのある目元をしたなかなかいい男なのだ。

女好きにも浮気男にも見えない彼曰く、「触らなければ、本物は描けない」。

このスキャンダラスな事実は厳しい非難も浴びるが、不思議なことに彼には女性ファンも多く、その絵画は『和製クリムト』とも呼ばれている。

油彩のタッチは穏やかで滑らかで、キャンバスの皮膚は触れられそうな存在感がある。……にも関わらず、明日見たら儚く消えていそうな危うさを秘め、何気ない仕草、或いは着飾った華やかさ、一糸纏わぬ姿、いつも彼の絵の中の女性は静かに呼吸をしているようだった。女性というものを、性的な意味さえ超えて『美しい』と思っている気持ちが溢れていて、エロチシズムを狙ったものとは全く異なる。彼の絵を見た人々は、裸婦が何たるかなど道徳的な話よりも、真っ先に思うそうだ。

――人間の女性とは、なんて綺麗なものなのだろう、と。

あの的場が甘理を選んでいても何の不思議もないが、明斗は首を捻った。

「的場さんの発表作に……甘理さんは居なかったと思いますけど」

「それはそうよ」

指先で机をトンと叩いて、南美子は言った。

「辻井甘理は、この絵のモデルだもの」

「うっ……?」

さすがに鈍い明斗も胸を撃たれたような顔をした。

「ほ、本当ですか?」

「そうよ。例の炎上騒ぎになったこの絵のモデルは彼女」

明斗は画面の中の絵をまじまじと見た。

タイトル『夜の階段』。

的場晃生が十年前に発表し、その際どさから『R指定の裸婦』などと揶揄された作品でもある。夜明け前と思しき青い静寂の中、野外の階段の上で裸身の女が仰向けに寝そべっている絵だ。悩まし気に持ち上がった片腕や髪が顔に半分ほど掛かっている為、微かにこちらを見ているらしき目元と、わずかに開いた口元しか見えないので、個人の特定は難しい。深いブルーが占める画面の中央、背に羽織っていたらしい絹織物の上、彼女の肉体だけが淡く白く輝き、現実には見える筈のない薄桃色に上気した頬や胸元、太腿の張りがふっくらと熱に浮かされたような色に染まっている。

美しいが、とてつもなく扇情的な絵だ。冷たげな背景に比べ、彼女の体温を感じるそれは情事の直後のようで、的場作品の中でも極めて生々しい。

脇に折り畳んだ両脚さえ、先程まで開いていたように見えるし、耳元や肩に垂れ落ちる柔らかそうな髪はほつれ、吐息が聴こえそうな唇にどきりとした男性は多く居たに違いない。

しかし、この絵は保守的な日本には苛烈過ぎた。

公然猥褻罪を訴えられた他、モデルを務めた女性を徹底的に隠した為に有名人との浮気や不倫を疑う声が燃え上がり、美術界は美術界で『芸術を笠に着た不埒で恥ずべき作品』と強くけなした。蓋を開けてみればモデルの女性は有名人ではなく一般人だったそうで、不倫でさえ無く、この件を苦慮して姿を消したと聞いた。

「『夜の階段』は、的場晃生の絵で唯一、非難だけを浴びたヌードね。もちろん、それは表向きの話だけれど」

「買い取りたいって人は多かったと聞きましたが……」

「そうよ。エロジジイどもは表ではグダグダ文句を垂れといて、この裸婦に夢中だった。玉城さんに聞いたらけっこうな値が付いたそうだけど、的場さんが頑として売らなかったそうよ。多分、今も手元にあるんじゃないかしら」

玉城というのは的場の従兄に当たるマネージャーであり、やり手の画商だ。美術業界に置いての南美子の師匠にも当たる。

「売らなかったのは……業界に反発して、ですか?」

「あの的場さんが、そんなタイプに見える?」

「うーん……見えないです。単に『気に入ったから売らない』とか言いそうだ」

的場晃生という男は天才肌故に、女を美しく描く以外はからきしだ。当然のように未婚であり、自分も似たようなものだが、玉城が世話しなければ、寝間着とスリッパで外に出て行きそうなぐらいには頓着しない。業界が何を言っても、わかっているのかいないのか不明のゆるい笑顔と、あの穏やかな低い声でスルーするだろう。

「私も同感。きっとそうだと思う。……だとしたら、おかしいと思わない?」

机をコツコツと指先で叩き、南美子はルージュを引いた唇を尖らせた。

「非難を浴びた作品を的場さんは気に入って手元に置いてるのに、なぜ甘理はこの作品でしかモデルをやっていないのか。炎上騒ぎの発端はこの作品が屋外を描いていて、公然猥褻を疑われたのにあるけれど、それは彼のアトリエがあるだだっ広い私有地内でセーフ。もちろん、彼女はそのとき彼氏も居ないんだから不倫の話もナシ。でも、彼女はこの件でモデルを辞めてる。玉城さんは炎上事件の所為だと言うけど、的場さん絡みの女は面倒な気配がしたから止めたの」

「はあ……なるほどー……」

「ほらあ……やっぱりそういう反応。だから強く反対しなかったのよ。あんたは描くって言ったら聞かないんだろうし。――ミント先生、ご理解頂けましたか?」

「できました。ありがとうございます」

「わあー、ありがたい。――で、どう我を通す気?」

頬杖ついて尋ねてくる南美子に、明斗は悪びれるでもなく答えた。

「今の話で、かえって俺は甘理さんに箔が付きました。一度でも的場さんが認めたモデルなら申し分ない。だけど、この話は内密にしましょう。何処かがつついて来るなら仕方ありませんが」

「いいでしょう。それで?」

「まず、南美子さん――俺の下手くそな抗弁より、作品を見て下さい。南美子さんの不安はデッサン段階の話ですよね? 現段階で、完成品は五点有ります」

「よろしい。見せてもらいましょう」

よっぽど、作家先生の威風を吹かせるマネージャーは、勝手知ったるや、アトリエと呼んでいるだけの天井だけ高い部屋へ先に立って行った。

扉を開けた先に広がるのは、油彩独特の画溶液の香りと、仄かに混じる木やキャンバスの匂いだ。常に換気しているが為に冷えている室内に、それはイーゼルに二点、床に三点立てかけられて置かれていた。全てF30号。一メートル内に納まる程度。

トッカのハンカチで口元を覆った南美子が、じっと絵を見つめる。

どの絵も、描かれているのはミントグリーンに染まった女だ。正しくはベースはミントと呼べる色だが、画面の中でブルーとグリーンにグラデーションが広がっている。

人物を青で描く作品はそこそこあるが、緑にも振れる色は珍しい。

かつての『ミント色の街』同様、このミントグリーンは明斗が自分のものとして辿り着いたアイデンティティに等しい。ある者は風に髪を流しながら何処か彼方を見つめ、ある者は髪を搔き上げた仕草で俯き、ある者は優雅に椅子にもたれてこちらを見つめる。的場晃生の艶やかな女と同一人物とは思えない――人間らしい暖色を一切持たない女。しかし、冷たい印象ではない。

凛と佇み、隙が無いのに、静かな森や小川を眺める様に穏やかだ。

南美子は黙って絵を見続けた。

十分が過ぎ、二十分ほど経つ頃、明斗は女の背に問い掛けた。

「どうでしょうか」

南美子は返事はおろか、振り向きもしなかった。もう何分かが過ぎ去り、芸術家が抗弁を考える必要があるかと思い始めたとき、ようやくマネージャーは振り向いた。

「結論から言うわね」

「あ、ハイ」

「売れるわ」

「う……?」

「売れるわよ。間違いなく」

「えー……つまり?」

「この作品のみの発表を認めるって言ってるの」

やった、とか、おっしゃ!という心境だったが、何故か言葉は出ずにぐっと飲み込んで頷いた。

「あ、ありがとうございます!」

直角に頭を下げると、南美子は苦笑したようだった。

「言っとくけど、スポンサーの説得は別よ。あの人たちは絵の価値なんか、値札見ないとわからないんだから。どうやったってそれらしい理由が要るわ」

「……ですよね」

「もう一度聞くけど、ミントには言葉としてのプロモーションは本当に無いのね?」

「すみません。最初の直感が全てなんです。チョコミントアイスを手に取った彼女を見て、ビビっと来た。それだけなんです」

「まるで、恋ね」

ふっと笑い飛ばした南美子は腕組みすると、真面目な顔をした。

「わかった。その辺りは私が考えておく。タイトルぐらいはあるんでしょ?」

はい、と頷いて、明斗は一字一句を大切に答えた。

「『レディ・ミント』」

南美子は大きく頷いた。

「いいわね。それでいきましょう。的場さんとの件はどうする?」

「えっと……さっきも言った通り、別に、モデルを公表することはないと思います。ただ、的場さんとの関係は玉城さんに確認を取った方がいいかもしれません」

『夜の階段』同様、この絵もなびいた髪や手のひらで顔立ちは曖昧だが、仮に契約云々が生きているとトラブルに成り兼ねない。甘理の様子からして、関係は切れているようだが。南美子は納得したように頷いて、改めて絵を振り返った。

「正直、意外よ」

「意外……俺が裸婦を描いたからですか?」

「正確には、裸婦“も”ミント先生の絵になると思っていなかったから、ね」

ハンカチで唇を覆ったまま、南美子はどこか面白そうに答えた。

「『ミント色の街』が評価されたのは、画力以前に、無機質な町並みをこの色で塗り、身内の死に直面した悲しみ、切なさ、人ひとり亡くなったのに少しも変わらないように見える街の切ない営みを表現したことよ。それは死んだ人を囲んで嘆く人たちの絵や、お葬式を描いたものとはわけが違う。あのスケールから、一人の女に移行するのはどうかと思ったけど……控えめに言っても、この五点は素敵だわ。女性は彼女を通して自分を見つめるでしょうし、男性でもそうなるかも」

「ありがとうございます。あと何点か、できるだけ足したいんですが」

「いいと思う。クオリティを落とさなければ、多いに越したことはない。サイズはあまり落とさない方がいいけれど、好きになさい」

明斗はようやくホッとした。

南美子さえ味方になれば、百人力だ。恐らく、彼女はもう頭をフル回転させてこの絵の宣伝文句を考えているだろうし、展示方法まで忙しく思案しているだろう。

「可能なら、甘理にバイトを減らしてもらいなさいよ」

「はあ、どうかな……聞いてみますけど、少人数体制のカフェらしいので厳しいかもしれません」

「良いお店だったけど、けっこう暇そうだったわよ」

絵を眺めながらの返事に、明斗はぎょっとした。

「行ったんですか?」

「もちろん。素行調査するなら当然。場所はともかく、マスターがイケおじなのは高ポイントね。素人の写真ばっかり並んでるけど、あのマスターの写真はなかなか良い。コーヒーもバナナブレッドも美味しかった。……その様子じゃ、行ってないのね? ミントらしいけど」

ぐうの音も出ず、絵画バカの芸術家は頭を掻いた。

「……なんて店でしたっけ?」

有能なマネージャーは振り返り、呆れ顔で答えた。

One shotワン ショット

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