チョコミント・シンドローム

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1.真冬のチョコミント

 チョコミントは、ナンバーワンにはなれない。

不動の王たるバニラには敵わず、純なるチョコレートとは異物である。

その人は、色とりどりのアイスが並んだショーケースの中から、チョコミントアイスを選んだ。一通り眺めやり、爽やかなブルーグリーンにチョコをちりばめたパッケージを、細い指先でひょいと持ち上げた。

真冬に。

「え?」

明斗あきとの疑問は声に出ていた。

「え?」

チョコミントアイスを掴んだ女は、疑問を聞き返した。

――何か不味いことでも?

そう訊ねてくる視線は、チョコミントというよりはクールミントだった。本当に彼女が不味いことをしていても、文句を言うより謝ってしまいそうな強い瞳だ。

実際、「何でもないです、すみません」と言えばそれで済んだ。

しかし、今夜の明斗はどうかしていた。

今思えば、動転していたのだ。

『現代絵画を揺るがす天才』だの、『美術史に残るインフルエンサー』などと、デビュー直後にヘタクソな好評をバシバシ打たれた芸術家が、翌年には何の評価も受けないほど興味を持たれず、更に一年後は鳴かず飛ばずで酷評を受け、更に一年後の今年……もはや一週間しか残っていない今年に、ひとつとして作品を描けずにいたら!

同情など求めはしないが、動転していても仕方がないとは思って欲しい。

それが目の前のチョコミントアイスを持った女性に、一切関与が無いとしても。

「それ、食べるんですか」

くして、どん詰まりの若手芸術家はとんでもない質問を吐いた。

あろうことか、食べ物を買おうとしている相手に。

女は自分が持っているものを再確認し、頷いた。

「もちろん」

ややハスキーな声の回答は、日本語なのに外国語のように軽やかだった。

「こんな寒い日に?」

アホのような追随に、女はぱっちりした目を瞬かせてから頷いた。

「外で食べるわけじゃないし」

仰る通り、当たり前だ。

大体、コンビニエンス・ストアというものは売れる商品をピックアップして置くものだ。たとえ一位ではなくとも、真冬でもそれを求める人間が居ると見込んでいるからこそ、チョコミントアイスもそこに居るのである。期限のないアイスとて、限られた売り場に半年以上寝かせておくわけがない。

ああ、そんなことになったら自分みたいだ……

明斗という名前の所為で、芸術家仲間や関係者に「ミント」と呼ばれている自分が、ショーケースの中で、バニラや限定フレーバーが出て行く中、選ばれぬ恐怖に怯えているようだ。今すぐにでも芸術家の看板を下ろせと言われている自分みたいに、こいつがショーケースを出る時は、廃棄されるなんて想像したくも無い。

「なぜ、チョコミントなんです?」

いよいよおぞましさを帯びてきた問い掛けに、女は軽く眉を潜めたが、まことに有難いことに動じなかった。

「一番、好きだから」

啓示のような一言に、限界の男が胸打たれたのは言うまでもない。

「一番、好きだから……」

追い詰められた人間は自動人形のように繰り返した。女は少しだけ小首を捻った。

「迷っても、結局いつものを選ぶことってない?」

「あります」

まさかの問いで返した女に明斗は大真面目に答えた。以後、チョコミントアイスを見つめて沈黙した阿呆を女はちらと覗き見る。

「大丈夫?」

クールな響きは変わらないが、気遣う調子は優しかった。

明斗はこくりと頷いた。幸い、自分が行った恥ずかしい行動の如何について、まだ頭は回らなかった。見下ろしたショーケースの中には、何処でも見掛ける人気のバニラがある。シュガーコーンにソフトクリームみたいに巻かれたミルクもある。チョコクッキーが入ったチョコレート、果肉がごろごろ入ったストロベリー、期間限定のキャラメルやラムレーズン、人気が出てきたピスタチオ、葡萄や蜜柑が色鮮やかで滑らかなシャーベット。

その中に、どうしてか異物が紛れたように見えてしまう、青か緑か、爽やかなのか甘いのか、どっちつかずのチョコミント。

「俺も……チョコミントがいいな」

ぽつりと呟いた。

女は言った。

「美味しいよね」

小さく微笑んだ目と唇を見たと思ったときには、女はショーケースからチョコミントアイスを拾い上げ、レジへと向かっていた。

明斗は紺のダウンに包まれて尚、ほっそりした背を見つめたまま立ち尽くした。

数分もせぬ内に、会計の音と自動ドアを抜ける音が、別世界での出来事みたいにこだました。

ようやく冷や汗が吹き出たのは、静かに佇むチョコミントアイスに改めて向かい合った時だった。

バカか、俺は。

慌ててチョコミントアイスを掴み、会計を済ませた明斗はコンビニを飛び出した。

なんにもない田舎町の見晴らしの良さに感謝したのは初めてだ。彼女はまだ、見える距離を歩いていた。

「あの……! すみません!」

半身ほど振り向いた女を中心に、分岐点が見えた気がした。

ほんの数メートルの疾走で息も絶え絶えのアーティストは白い息と共に吐いた。

「俺の……モデルになってくれませんか?」

「モデル?」

さすがに女は驚いた顔をした。

鈍くは見えない彼女は街灯にきらめく眼を再び瞬かせた。

「なんの?」

「な、何の?」

モデルという役割について多様な意味があると理解するまで数秒を要した鈍い男は、勢いを失ってぼそぼそと絞り出した。

「え、ええと……絵の……」

「絵」

一文字なのに、彼女の言葉は妙に強い。

「絵って、何で描くやつ?」

「え?」

「色々有るでしょ。素描そびょうだったり、油彩や水彩、日本画、それともデジタル?」

女がすらすらと上げることに明斗は狼狽えた。

この女、デッサンを素描と言い、油絵を油彩と呼び、水彩と日本画をジャンル分けした。美術に造詣があるのか、それとも経験者か?

自分の事を知っていたらどうしよう。いや、造詣がある人物に知られていない方が恥ずかしいだろうか?

片手をダウンのポケットに突っ込んで回答を待つ女に、経験者どころではない一応のプロはしどろもどろに答えた。

「ゆ、油彩ですけど……デッサンだけでもいいです……」

「へえ、油彩。学生さん……じゃないよね。プロ?」

「はあ、一応……」

――彗星の如く現れて、消える寸前ですが。

自虐を飲み込んで頷くと、女は感心した顔をした。

「バイト無い日なら別にいいよ」

明斗は飛び上がりそうになって、どもりながら一歩詰め寄った。

「ほ、本当に?」

「本当。ウソついてもしょうがない」

「え、で、でも……脱ぐとしたら?」

喘ぐような怪しさ爆発の問い掛けに、女は初めて不審そうな顔をした。

当然だ。

いきなりヌードモデルをなどと言われて平気な顔をする女なんて居るわけがない。

「いいけど」

居た。

あっさりした回答に反し、不審者を見る眼で彼女は言った。

「いいんだけどさ、こんなおばさんでホントにいいの?」

おばさん?

明斗は初対面ではなくても失礼なほど、女をまじまじと見つめた。

真冬の暗がりとはいえ、眩い街灯に照らされた彼女の顔ははっきり見えた。

最初に惹かれた、きりりとクールな瞳。ナチュラルなメイクで十分引き立つ、はっきりした目鼻立ち。肌は綺麗だし、皺やほうれい線も見えない。

紺のダウンジャケットに包まれたボディラインは定かではないが、痩せて見える。

裾から伸びたジーンズはすらりとしていて、”おばさん”という言語から浮かぶイメージとはだぶらない。

「……どこが“おばさん”なんです?」

女は言葉が通じない相手にするように小首を傾げた。

「私、四十なんだけど」

ぽそりと出た言葉に、年末の今「今年度最も驚いた賞」を授与したくなりながら、明斗は目を白黒させた。変わった女は、レディースものにしては厳つい時計を確認し、スマートフォンを差し出した。

「とりあえず、連絡先だけでいい? 寒いけど、アイス溶けちゃう」

溶けそうにもない寒気の中、同じアイスを手元に明斗はかくかくと頷いた。

これが、チョコミントアイスが導いた女との出会いだ。

後悔はしていない。

有名芸術家が、芸術を爆発と表現したことが正解なら、どうしようもない騒ぎの発端になったこの出会いも、正しいものである筈だ。

女と別れ、しばし立ち尽くした明斗は慌てて家に走った。

きっと、絵筆もキャンバスも何もかもカラカラのボロボロだ。筆洗液まで蒸発しているかもしれない――今、大急ぎで走ることもないのだが、心が急いた。

家に帰ったら、準備を始めよう。

一番好きな、チョコミントアイスにありつく前に。

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