第99話 未来
左手で自分の乱れた髪をかき上げる。
右手を桃子の頬から放して、自分と同じように乱れた桃子の髪に指を通す。思い切ってさらさらさらっとしてあげる。
それで髪を整える効果がどれぐらいあったか、わからないけど。
桃子は、両手がふさがっていて、自分で涙を
抱きつくのはなし、と思った。いま抱きついたら、恥ずかしいとかよりも、桃子が手に持った袋を落としそうだ。
だから、もういちど、右手と左手を上げて、桃子の豊かなほっぺたをきゅっきゅっと拭いてやる。
軟らかかった。それに、いまはなぜか温かい。
「遠くに行くわけじゃないから」
友加理が言う。桃子も頷く。
「そうでしたね」
で、鼻からくすんと息を漏らした。
「大学行くの、通り道なんですよね」
寮が、ということだろう。
「うん」
「じゃ、また、遊びに来てくださいね」
桃子の声はまだ涙声だった。でも、同時に、軽く笑うようなはにかみ声も入っていた。
「うん」
友加理は、先輩らしく、穏やかに笑って頷く。自分から先に言う。
「じゃ、元気で」
「はい」
桃子も答えた。
「先輩も、お元気で」
友加理が唇を閉じたまま長い息をつく。それを合図にするように、二人とも歩き出した。
すれ違う。
手は振らない。手を振ると、桃子も同じように手を振ろうとして、あの大きな袋を落としそうだったから。
あとは振り返らないで跨線橋の上に登る。
跨線橋の上に出ると、友加理と大きい青い空をへだてるものは何もない。
友加理はその青い空を受け止めるように顔を上げてふーっと大きく息をした。
ふと、桃子が後ろから自分を見ているんじゃないかと思って、振り返る。
見ていなかった。
あの赤いジャンパーの背中は、友加理が思ったより遠くまで行っていた。背筋をしっかり伸ばして、さっさっさっと歩いて行く。ちょっとお肉のついた体の後ろ姿が頼もしい。
その先に、このあたりとしては大きいビルが見える。
その向こうに、少しだけ見えている黄土色の地味な建物が、
左手には、友加理が通った高校の建物も、これから通う大学の建物も見えている。
その向こうの山は、もとからの落ち着いた緑があり、まだ枯れ木のままのところもあり、新しく芽吹いた浅い色のところもあり、さまざまな色をしている。
神社の桜はまだ咲かない。でももうつぼみはふくらんでいるだろう。畑も、もう何か作っているところもあり、まだ冬のままのところもありだ。
その景色の上からも、あの大きな空が覆っている。
ふと、友加理の喉から、むせび声が漏れた。
「あ、あれ?」
それとともに、目尻から熱い感じがあふれ出た。それは流れ下ると冷えて、頬の下のほうでは冷たくなっていく。目頭からも脈打つようにして同じ感じがあふれ出る。
顔をそむけた。
泣いているところを、桃子ちゃんに見られるわけにはいかないと思った。
二度と、会わないのに。
いや、寮の前とかでまた出会うことはあるかも知れない。もしかすると、桃子が言ったように、寮に遊びに行くこともあるかも知れない。
でも、遊びに行ったとしても、そこは他人の住む場所だ。二度と自分の住む場所には戻らない。
桃子だって、大学生になった友加理を、インスタント食品と菓子パンと甘いジュースでもてなすことはしないだろう。そんなことのできる関係の高校生女子と高校生女子として会うことは、二度とない。
これから何十年の時間があっても、二度と。
友加理は、覚悟を決めて、また寮のほうに目をやる。桃子に泣いているところを見とがめられたら、その姿をありのままにさらすつもりだ。
でも、目の中の涙をまばたきして散らして見ると、桃子は、さっきと同じしっかりした足取りで歩いている。
だいぶ遠くまで行った。振り向きもしない。
そうだ。
あの寮は、もう桃子ちゃんたちのものになったのだ。
四月になったら、つまりもう何日か後には、桃子ちゃんはあの寮で新しく入って来た一年生を迎えるのだ。いまの成績ならば寮委員長も経験するだろう。そして、二年後には……。
二年後には、今度は桃子ちゃんが、こうやって旅立って行く。
桃子ちゃんは、その日、この跨線橋をどういうふうに渡って行くだろう?
友加理は笑った。いままで涙を流していたのが嘘のように。
だって、友加理自身がまだこの跨線橋を渡り終えていないのに。
そんな先のことを考えるなんて。
友加理は、足取りを軽くして、軽い駆け足で、跨線橋を向こう側へと渡って行った。
(『エピローグ』終)
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