第98話 ほんとうの卒業
「
階段を下りきったところで相手が声をかけてくる。
袋を二つも提げている。駅の手前のドラッグストアで買ったらしい。なかみは相当に詰まっていそうだ。
どうりで、さっさと階段を下りられないわけだ。
ひときわ強い風が友加理の髪を吹き上げた。その髪が頬から目の上まで覆う。
乱暴に手で払う。髪をきちんと整えるのは駅に着いてからだ。
すぐ近くまで来た相手に、友加理は声をかけた。
「
その笑顔があどけない。
この子は、去年、一年生の四月に寮に入ってきた。
最初から赤ら顔で、やせっぽちで、ぼーっとしたところがあって、無口で、友だちを作るのが苦手なようだった。どこから見ても頼りない子だった。
中学校でも孤立していたらしいという話はきいた。
だから友加理は積極的にこの子の相手をするようにした。
その結果、桃子も友加理になついたが、それがまたほかの寮生に
女の子の関係ってほんとにややこしい。
ほかでも似たようなことがあったのだろう。桃子は、夏前ごろまでは、眉をひそめて、つらそうな顔をしていることが多かった。一年の夏休みには、夏が終わってこの子がいなくなっていたらどうしようと心配したくらいだった。
ところが、夏が終わってみると、頬が赤いのはもとどおりだけど、やせっぽちからちょっとお肉がつき、活発で、よくしゃべってよく笑う子に変わっていた。
何かちょっとおもしろいことがあればけたけたと笑い声を上げて笑った。いや、何のおもしろいことがあるのかぜんぜんわからないときでもよく笑う。
「いや、桃子ちゃん、何がそんなにおもしろいの?」
ときくと、「いや、べつに」などと言いながらまだ笑っている。この子に対しては「それなら笑うなって」とはどうにも言えなかった。
桃子は、最初のころは成績も中ぐらいだったのが、秋の中間ではトップクラスに入っていた。寮の子たちは、この子と仲よくなる子もあり、あいかわらずこの子を嫌う子もありだったけれど、二学期が終わるころにはこの子は寮の一年生の中心になっていた。
何がこの子を変えたのか?
友加理にはわからない。
「おでかけですか?」
桃子がきく。
桃子の髪も風に乱されているのだけれど、両手に荷物を持っているのでそれを直せない。それで困っているらしい。
この抜けたところは桃子ちゃんだ。去年の四月のままの頼りない桃子だ。
友加理は答える。
「何言ってるの。ぜんぶ片づけて出て来たんだよ」
「ぜんぶ片づけて、って?」
お人好しな笑顔で、首を傾げる。
うん。きゅっ、と抱いてあげたい。そうやって、この体にどれだけボリュームがついたか、ほんとのところを確かめてあげたい。ついでに髪も直してあげたいのだけど。
「だから、もう、寮には戻らない、ってこと」
「って……?」
まだ伝わらないらしい。
「寮からほんとに卒業、ってことよ」
「えっ?」
桃子は「え」と「へ」の中間の声を立てた。
「あ! あ、だって今晩、友加理さんとご飯食べようって思って、いろいろ買ってきたのに……」
悲しそうに眉を寄せて、桃子は友加理を見上げる。
いや、そう言われても。
しかも、そういうわりには、その袋のようすでは、生鮮食料品、買ってないでしょ?
何を食べさせる気だったんだ?
「だいじょうぶだよ」
友加理は言った。
手を伸ばす。
いや、ひとりでに右手が伸びて、桃子の左の頬に触れた。ひやっとした。
「うわ」
こんなに頬が赤いのに。言う。
「冷たいほっぺ!」
言われた桃子は、安心したように息をついた。
「風が強いからですよ」
目を細める。
友加理も目を細めた。桃子の顔を見つめる。
桃子の頬に当てた手を放そうとしたとき、その親指の先にくすぐったい感じが拡がった。
うん?
見ると、桃子の細めた目から、涙の粒がこぼれ落ちていた。
友加理に見られたとわかったからだろうか。最初はその一粒だけだったのが、次々に涙が流れ落ちる。友加理の親指だけでなく、人差し指も中指も、桃子の涙に濡れた。
風が吹きつける。その風が桃子の髪を乱し、そして友加理の髪も乱した。同じように。
「わあ」
友加理が言う。
「やっぱり、冷たいね、風」
桃子の頬を離れた涙が、友加理の指先で冷えていく。
「でしょう?」
桃子が言って笑う。そのあごの動きが頬に添えた手から伝わってきた。
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