第5章:澄野 愛

第31話 愛にとっての重大事件

 しばらくはゆうを見送ったときの気分が残っていた。

 寮に戻るために跨線こせんきょうを渡る。

 ちょうど電車が駅を出て行くところだった。

 その電車が下を通り抜けて行くのを見送る。優はこの電車に乗っているはずだが、最初から優を見分けられるとは思っていなかったし、実際にも見分けられなかった。

 電車が通り過ぎて、向こうの幹線道路の下をくぐって姿が見えなくなるのを見届けてから、あいは跨線橋を下りて行った。

 跨線橋の上も、学校からここまでの道も、きれいに雪かきしてあった。まだ濡れてはいるけれど、雪で靴がぐちゃぐちゃになることはない。

 さっきまで明るかった夕空もいまは薄暗い。いくつか浮いている冬の積雲が、半分は灰色に、半分は鈍い赤い色に染まっている。空の色もあいまいな灰色になってきている。

 寮までの道の街灯が明るく見える。

 そのゆるい坂道を上りながら愛は息をついた。

 考えもしなかった現実を突きつけられた。

 優が落ちる?

 あるはずのないことだった。

 いっそのこと落ちてくれれば、と、愛は思っていた。けれども、それは、優ならば難なく明珠めいしゅじょに合格するという前提があったからだ。

 優を迎えたときのことを思い出す。

 校門から出てきて、駅への道を、靴をべたべたさせながら歩いていく優の姿がなかなか見分けられなかった。

 ふだんはそんな元気のないところは見せない。

 優だっていろんなことを経験しながら生きているのだから、元気のないときもあるけれど、今日の元気のなさは人が変わったようとしか言いようがなかった。

 それに、優は姉が近くにいないかいつも警戒している。姉には弱みを見せたくないからだ。

 ところが、今日は、姉が寮の前に立っていても、気づかず通り過ぎようとした。その寮に姉が住んでいるのは知っているのに。

 しかも、いきなり声をかけられても反発しなかった。

 ほかの人から見ればたいしたことではないかも知れない。親から見ても、だ。

 でも、愛にとっては重大事件だった。

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