第29話 一階の女子生徒
この店は、ケーキ屋さんのほうも喫茶店のほうもお客が何度も出入りしていたから、いままでもこのベルの音は何度も鳴っていた。でもこれまでは気にならなかった。
シフォンケーキをぱくついている
優は振り返った。
どきっ、と、心臓が鳴ったのがわかる。
あの女子生徒だった。
引き締まった眉と、ぱっちりとした
その唇がきれいなピンクなのは、ここの照明のせいだろうか。少なくとも、さっきの斜め後ろの子のようにお化粧しているのではない。
着ているのは愛と同じ制服らしい。
コートの色がグレーで、愛とは違っている。それに、愛はふだんと同じ靴を履いているが、この女子生徒は膝の下まであるロングブーツを履いていた。
隙がない。
その女子生徒は、喫茶店のほうには目を向けず、ショーケースの前に立って、店員さんに声をかけていた。
そこで言っていることばの一部分が、優の耳に届いた。ちょっときんきんした、高めの声だ。
「……の、チョコレートって……」
あのひと、ここでバレンタインのプレゼントを買う気だ!
相手はだれだろう?
いや、もちろんその相手を優が知っているはずはないけれど。
「うん?」
愛が振り向いたとき、愛にはその「一階の女子生徒」の姿を見せないほうがいい、と、優はとっさに思った。
その女子生徒も愛がいることには気づいていないらしい。
「何か気になる?」
「あ、いや、さ」
優は正面の駅前広場に目をやった。
姉と自分の試験の出来について話している短いあいだに、雪に埋もれた広場はさっきより暗くなって、街灯が灯り始めている。
「ここっていい街だな、って思って」
そう言って、愛のほうを振り向く。
自分の唇は、いま斜め後ろでチョコレートを買っているあのひとみたいにきれいなピンクじゃないな、と思いながら。
「ここっていい街だな」とはしらじらしいごまかしだという気もちが、優にはなぜかしなかった。
愛もその広場のほうに目を向けて言う。
「あんたのことだから、思ったより地味だな、とか言うのかと思った」
優しく、潤んだ声だった。
このひとは今日はやっぱり変だ。いつもはそんなことは言わない。
そう思ってるだろうな、と推測がつくことはあるけれど、それを口に出さないのが、優の「あのひと」、姉の愛だ。
なぜ今日はこうなのか、というと、妹の自分がいつもの自分らしくないから。
戻さないといけない。
いや、いけないかどうかはわからないけれど、いまは戻しておきたい。
「地味だとは思ったけどさ。でも、いい街だよ。愛の通う学校のある街としては最高なんじゃないかな?」
愛は、どう答えるだろう?
愛は、ふふっと笑うと、目を閉じて、優のほうを振り向いた。
そして短く言った。
「ありがと」
そのときまた入り口のベルが鳴った。見てみると、グレーのコートの女子生徒が出て行くところだった。
その姿が愛に見咎められなかったことで、優はなぜかほっと息をついた。
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